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起業、人事、アジア、などなど

攻めと守り

昨日は、私より10個ほど年上の、タイで活躍する製造業の先輩経営者としっぽりと語り合う@アマタナコン。昨日は大渋滞だったようですが、しっぽり語ったおかげで結果的に渋滞に巻き込まれなくてよかったww

彼は20年ほどタイでビジネスされ、タイで巨大なオペレーションを築き、今はインドやシンガポールなどにもビジネスを拡大。アグレッシブな姿勢からは学ぶことがとても多い。

自分も今週はシンガポール・タイ・日本・インドのアジアの多国籍リーダーシップPJTとか、仕掛けているインド案件が順調に舞い込んできたりと、会社5年目にして、こういう仕事をしたいなーと思っていたアジアのクロスボーダーのプロジェクトができつつある。

メンバーも増えて、国籍を超えたチーム運営は相変わらずいろいろ大変ながらも(涙)、皆いっさい手を抜かず一生懸命に仕事をしてくれているし、誰一人欠けても今のチームはうまくいかない、そう信じられる組織。

その社長と共感したのは、経営者は「攻めと守りを同時に行う」べきということ。想定外のリスクで足元が崩れる恐怖から、守りに入りたくなる気持ちは、常にある。でもそれで攻めを忘れたら、誰かに後れを取って、将来の成長の果実はなくなる。

プライベートも、子供もまだ小さいし、しばらく家を空けて戻ってきて子供に抱き着かれたりすると、できれば家族のそばでゆったりしたいという思いもします。一方で社長がガンガン動き回らないと会社は成長しないので、ゆったりしてる暇なんて無い、という思いの間でも正直揺れまくる。

でも結局、僕らみたいな零細企業の武器は、「勇気」と「リスクテーク」しかない。そのためには、後を守ってくれるチームと家族を信じて、やっぱり攻めをおろそかにしてはいけない。

結局「守るか、攻めるか」の2社択一ではないという事だなと思います。「守りながら、攻める」プランをしっかり描いていかなくては、という大したことない結論なのですが汗、改めての気づきと決意として。

やる気を引き出し、人を動かす 「リーダーの現場力」

ずっと読みたいと思っていながらなかなか手に取れてなかった、ミスターミニット迫社長の本を読みました。やっぱり良い本でした。

やる気を引き出し、人を動かす リーダーの現場力

やる気を引き出し、人を動かす リーダーの現場力

若くして社長に名乗りを上げ、現場との距離を地道な努力で埋めながら、経営変革を成し遂げる様子が鮮明に描かれています。難しいリーダーシップの理論は一切なく、現場のやる気を第一に考え、当たり前のことをやり続ける様子が、印象的です。

迫さんは実はシンガポールのEconomist読書会で一度だけお会いしたことがあるのですが、若くしてここまでのチャレンジと変革を成し遂げる姿勢は本当にリスペクトです。

色々な挫折や苦労、失敗もたくさんあったのだと思いますが、おそらく見えないところでの大変な努力と、そしてまじめな人間性で乗り越えてきたのだろうなぁと思いました。自分に足りない部分は何だろう、と引き寄せながらじっくり読みました。

任せること、人を信じること、自らの一挙手一投足を省みること、結果にこだわること・・大切なことにたくさん気づける一冊でした。

「私淑する」ということ

休暇を利用して、約10年前に読んだ「私塾のすすめ」をもう一度読み返してみました。やっぱりいい本でした。

私塾のすすめ ─ここから創造が生まれる (ちくま新書)

私塾のすすめ ─ここから創造が生まれる (ちくま新書)


この本では「私淑する」という事を勧めている。私淑とは、「直接会ったことは無いけど、尊敬し、共感し、ロールモデルとして個人的にあこがれ続け、学ぶ対象とする」という事だ。

私にとって、この梅田氏と斎藤氏の両名はまさにこの10年ほどの間、意識し、私淑する存在であった。梅田氏はインターネット時代を広く見通し、自ら海外で挑戦し続けるビジネスパーソンとして。斎藤氏は知性と身体性の両者に精通し、いつまでも少年のような素直さをパッションをもって自らのミッションに立ち向かう教育者として、私は一方的に尊敬をしてきた。

10年ぶりに読んでみると、彼らが本書で述べた通りにネットがまさに私淑空間としての役割を果たし、多くの学びの場が生まれていくことがもはや当たり前のこととなった。一方で、述べられている原理原則は普遍性が高く、いまだみずみずしい。改めて自分にとって、学びなおし・気づきなおしの機会となった。いくつか好きなコンセプトやエピソードを提示しておく。

・「あこがれにあこがれる」。斎藤氏は、教育とは「あこがれにあこがれる」構造であると言う。何かに強烈にあこがれ、そこに向けて猛烈に勉強している先生がいれば、そこに感化されて生徒たちは学び続けるものだ。これは企業のリーダーも同じだと思う。例えば「情熱大陸」に出るような人に共感が集まるのは、本人が何かに強烈にあこがれているからだと思う。

・梅田氏が30代後半に差し掛かったころで、自身の独立起業を決断したのは、村上春樹の影響が大きいという。村上は、30代最後の3年間をイタリアとギリシャで過ごし、「ノルウェイの森」と「ダンス・ダンス・ダンス」を書きあげた。村上は、著書「遠い太鼓」の中で以下のように書いている。「40歳というのはひとつの大きな転換点であって、それは何かを取り、何かを後に置いていくことなのだ、と。そして、その精神的な組み換えが終わってしまったあとでは、好むと好まざるとにかかわらず、もうあともどりはできない。」 29歳の時に最初にこの本を読んだ自分も、もう39歳。何を取り、何を後に置いていくのだろうか。

・「自己内対話」の重要さ。自己内対話とは、自分と対話するのではなく、自分の中の他人と対話するという事。読書を通じて自分の中に「私淑する人」を住まわせ、そしてその他人と大量の対話をする。学ぶというのは改めてこういう事なんだと思う。

・梅田氏は42歳の時に「自分より年上の人には会わない」と決めた。その方が学びが多いと思ったからだそうだ。この判断は実は僕は結構影響を受けていて、もちろん自分の場合は年上の人ともたくさん会うけれど、自分より年少の人から学ぶことがきっと多いはずだと思い、かならず敬意を持って接するようにしている。


最後に、自分はこの本のあとがきがとても好きだ。少し長いのだけど引用してみたい。梅田氏が、斎藤氏と梅田氏のある種の共通体験を紹介している下り。

斎藤さんが自らの三十代前半を振り返り、ある著書の中でこんなことが書かれていて、私がそこに深く共感したからでした。「ある日、私はある経営者と雑談をしていて、『いずれは文科大臣をやろうと思ってるんです』と言ったことがあった。すると『ははは、バカを言ってはいけない』と一笑に付されたのである。(中略)その時は平静を装っていたが、心の中では『よくも言ったな!絶対に目にもの見せてやる』と、瞬時に自分のパッションに火をつけていた」

(略)次に、私の具体例を出してみます。私は、三十六歳の時にシリコンバレーで経営コンサルティング会社を創業しました。創業間もないころ、あるメーカーの経営者からこんな言葉を投げつけられました。「梅田くん、虚業もいいけれど、そろそろ実業の世界で活躍してみる気はないかい」

虚業、虚(うつろ)な業(なりわい)ですか・・・。
私は絶句しました。私は斎藤さんのように「平静を装」うことができず、「虚業」と口にした経営者に対して、あなたは、誇りをもって仕事をしている私に対して、とんでもなく失礼なことを言ったのだからこの場で謝罪してください、と強く言いました。新しい職業ではあるけれど、虚ろだとさげすまれる理由などどこにもない。しかしその経営者は、私が何に怒っているのかわからずに、しばらくぽかんとしていました。

(略)斎藤さんに「ははは、バカを言ってはいけない」と、私に「虚業もいいけれど」と、無意識のうちに人々に言わしめるもの。それが、斎藤さんと私が戦っている「まったく同じもの」の正体です。

(略)そこに存在するのは、「時代の変化」への鈍感さ、これまでの慣習や価値観を信じる「迷いのなさ」、社会構造が大きく変化することへの想像力の欠如、「未来は想像し得る」という希望の対極にある現実前提の安定志向、昨日と今日と明日は同じだと決めつける知的怠惰と無気力と諦め、若者に対する「出る杭は打つ」的な接し方・・・といったものだけ。これらの組み合わせがじつに強固な行動倫理となって多くの人々に定着し、現在の日本社会でまかり通る価値観を作り出している。

僕も、僭越ながら、この「まったく同じもの」と戦っていることに改めて気づかされた。この本が書かれてから、10年。自分の戦いもまだまだ続いています。

変な夢

久々に実家のフトンで寝たら変な夢を見たので、一本ブログにしておきます。


気が付くと自分はホテルのボールルームのような所にいます。どうやらある会社の経営幹部向けのイベントです。

僕はファシリテーターとかスピーカーという立場ではなく、その会社の経営陣の一人としてひとつのテーブルの席に座っています。
周りには様々な国籍の人たちがいて、20人ほどの幹部が集まっています。割と自分と同じくらいの年恰好で、30~40歳くらいの人が多い比較的若い経営チームです。日本人も少しいるようです。

やがて前方にCEOが出てきました。アメリカ人のようです。風貌は黒髪でややアジア系の顔つきにも見えます。女性で、非情にパワフルな語り口。ユーモアもありながら、とても力強い印象です。私たちは、今日から始まる新しいチームだ、一緒に最高のチーム、最高の会社を作りましょう、という事を語り掛けます。魅力的な語り口です。

ひとりひとり、自分の自己紹介をする順番が回ってきました。様々な国から選ばれたリーダーが順々に、自分が何者なのか、これまでの仕事の実績、などをプレゼンしていきます。

自分の番がやってきました。僕は言います。「正直、自分がなぜここに選ばれたのかわからない。自分はこれまで東南アジアで経営をしてきて、しばらく大企業の経験からも遠ざかっている。選ばれた以上は貢献したいが、どこまで役に立てるかは自信がないけど、頑張ります。」

すると、CEOは私に言います。「あなたの経歴や実績は全部把握したうえで、あなたが必要だと思い、私はあなたをこのポジションに招きました。あなたのアジアでの経験は他にないものであり、そしてあなには周りを明るくしたり良いチームワークを作る能力がある。だから、あなたはあなたのままでよいです。あなたの力をそのまま発揮してくれれば、私はそれでハッピーです。」と。

・・・それを聞いて自分はとても救われた気持ちになりました。そのCEOの深い愛をたたえたコミュニケーションに感激し、自分はとても信頼されているんだ、ならばここで頑張ろう、という安心感とモチベーションを感じました。(どうも自分のポジションはHR的なもののようですが、詳細まではわかりませんでした)

気づくと別のテーブルにいた日本人が声を上げました。どうやら技術者のようです。「悪いが、我々もなんで自分がここにいるのかわからない。実際のところ、あなたの英語も半分くらいしかわかっていない。」

するとそのCEOは、その彼のテーブルに近づいて、なんと流ちょうな日本語で話しかけました。「私は以前、日本に少しいたことがあります。あなたの気持ちはよくわかります。すべての日本人が英語がわかるわけではないですね、ごめんなさい。でもあなたはあなたの技術で、会社に貢献してください。他のところは私がサポートします」と。

そうやってそのCEOは、会場にいるそれぞれの人たちの心をつかんでいきました。そうこうしているうちに目が覚めました。


・・・なんでこんな夢を見たのかはわかりませんが、ずいぶんはっきりした夢でした。ただ目覚めた後に不思議とすっきりした気持ちになっていたのが印象的でした。

上司というものがいない日々をもう何年も近く過ごしているのですが、こういう上司なら仕えてもいいな、と思わせられる魅力的なリーダーでした。もしかしたら、自分がこうありたいというリーダー像が投影されたのかもしれません。また、自分のリーダーシップに対する迷いのようなものがこうした夢を自分に見させたのかもしれません。

一つだけ、もしかしたら関係あるかな、という伏線があります。

最近、某アジア企業が日系企業を買収した後のPMI(買収後の組織統合)の相談をもらいました。これまでPMIといえば、日系企業が現地企業を買収した後、いかにその企業の(日本的な)やりかたを浸透するかという話がお決まりでしたが、今回は逆の話です。逆パターンも、日本マーケットでは結構あったと思いますが、アジアのマーケットでは結構珍しい話です。

アジアの外国企業のやり方を日本人が学んでいく気持ちはどんなだろうか。またそのアジア企業から雇われた日本人コンサルタントと対峙する日本人幹部はどんな気持ちだろうか?と想像をめぐらしていたところでした。(最近見たハゲタカ続編の影響もあったかも)

・・・とりとめないのですが、印象的な夢でした。

二人の禅僧の話 ~こだわりを捨てる~

最近教わった、禅に関するお話。原坦山という禅僧の話だそうです。こちらのブログから内容を拝借しました。

【原坦山】 読後に、思わず「なるほどねぇ」と唸る禅僧の逸話 - 禅の視点 - life -

曹洞宗の学僧として知られた明治の禅僧に、原坦山(はらたんざん)がいる。その坦山がまだ若かった頃、修行仲間と二人で各地を行脚していた頃の話。

ある時、二人は橋のない小川にやってきた。普段であればじゃぶじゃぶと歩いて渡れそうな川幅の小川であるが、あいにく雨が降った後で水かさが増している。
渡れないことはないが、躊躇なしには渡りがたい水量である。さて、どうしたものか。
辺りを見渡すと、少し離れたところに小川の流れを困った顔で見つめている若い女性が立っていた。

見るとなしに女性を気にしていると、やがてその女性は着物の裾をたくし上げはじめた。どうやら小川を歩いて渡る決心をしたらしい。真っ白な美しい脛をあらわにして、小川に足をふみいれる。

すると、それを見た坦山が女性の傍に駆け寄った。
「ちょっと待ちなさい。私が背中におぶってあげますから」
そういって坦山は女性をおんぶした。
「しっかりと掴まっていてくださいよ」
女性を背負った坦山は小川へと足を踏み入れ、女性を向こう岸まで渡してあげることに無事成功。そして岸に上がると、礼を言う女性を残してさっさと先へ行ってしまった。

心中穏やかでないのは、これを見ていたもう一人の修行仲間。
「修行中の禅僧たる者が女性を背負うとは何事か」
との思いが頭から離れず、坦山の行為に対する怒りの念がいつまでもくすぶっていた。それは二人でまた歩き出してからしばらく経っても消えず、悶々とした心が続いた。
そしてやがて心の中に留めておくことが我慢ならなくなってしまい、坦山に向かって咎めるように口を開いた。
「さっきのは何だ。お前は修行中の身だろう。若い女性をおんぶするとは何事だ」

すると坦山は驚いた顔を見せて、すぐに笑い出した。
「俺はあの女をとっくに下ろしているのに、お前はまだ背負っているのか。あっはっは」

女性に執着していたのは、はたしてどちらだろうか。

この話は、我々の日々我々が陥りがちな状況をよく教えてくれていると感じます。

何でもない事実が、頭の中でさらに大きくなり、時に解釈を加えてねじ曲がり、我々の中に妄想として残り続ける。そしてその妄想が私たちを苦しめる。そんなことはないでしょうか。

結果を出すのがリーダーの仕事

最近あらためて思うことですが、リーダーの仕事を一つ上げろと言われればやはり「結果を出す」ことだなぁと思います。今回のサッカー日本代表が良い例で、結果が出れば周りの評価は一変する。業績が上がれば、スタッフのモチベーションも、細かな問題も、知らない間に解決していたりすることもある。

もちろん、結果が出ればあとは何でもよいかというとそうではない。でも結果が出ないと、様々な投資に回すお金も出せず、やりたいことができなくなる。そういう意味ではリーダーは誰よりも結果を出さないといけないし、また結果が出せそうな道筋を常に示さないといけない。

結果というのはなんとなく出るものではなくて、死に物狂いで出しに行かないと出ない。結果とは、コミットメントの先にあるものだと思います。日本代表でいうと全盛期の中田や、今回でいうと長友がチームメンバーに厳しい要求をしていましたが、コミットメントというのは、時に仲間に厳しい要求をするという形で表出します。こういう姿勢もまたリーダーシップだと思います。

その時にリーダーを襲うのは、厳しいことを言うとチームのモチベーションが下がるのではという恐怖です。チームの雰囲気が悪くなって嬉しい人は誰もいない。それはどんなリーダーでも同じでしょう。でも勝つために必要であれば、心を鬼にして言うべきことは言わないといけないこともあります。

コミットメントと対極にあるのは、批判や文句です。人間誰しも、苦しくなると不満が出るのは当たり前でしょう。それが結果を出すという目的からきているなら良いですが、ストレスを吐き出すだけなのであれば、むしろチームを勝ちから遠ざけるものです。

よく「野党になるな」といいます。与党(=当事者)の意識をがあれば、批判だけではなく提案ができるはず。批判のための批判をする野党意識はチームを勝利から遠ざけるし、何より自らのレピュテーションやモチベーションをも下げてしまう。ただ残念ながら野党意識の人を完全に変えるのは難しい。一定の割合で存在するのは仕方ないくらいに思っておくのが現実的で、それにより自らのメッセージングが影響されてはいけないでしょう。

岡田武史さんから学ぶリーダーシップ

いろんな人がこれまで触れているし、今まで何度も読み返しているこの文章なんですが、ワールドカップを前にもう一度読み返しました。
もちろん、今の自分に勉強になることもたくさん。僕が解説できることは何もないので、印象的なところをコピペしておきます。引用しないところを探すのが難しいくらいの名分です。

bizmakoto.jp


↓やるか?やらないか?について

僕は「また同じことをやるのはもういい。この秘密の鍵が見つかるまで、俺は絶対現場に戻らない」と思っていて、事実Jリーグのチームからいくつかお話をいただいていたのを全部お断りしていました。そんな時(2007年11月16日)、前日本代表監督のイビチャ・オシムさんが倒れられたんです。僕がJリーグのオファーを断って、「さあもっと勉強しなきゃ」と思っている時に倒れた。

 そして日本サッカー協会の人が来て、「本当に大変な仕事だということは分かっています。でも、ぜひやってください」と言われました。僕は実を言うと、そのオファーをもらった瞬間に「やる」と決めていたんです。これ、理由は本当に分からないです。自分の腹の底から、「これを絶対俺はやらないといけない。逃げちゃダメだ。これにチャレンジしないといけない」とふつふつと沸いてきたんですね。

↓「決断」について

本当にのた打ち回るほど苦しんだのですが、「よく考えたら自分自身の腹のくくりがなかったから当たり前だ。W杯予選が大変だと知っているのに、何て俺は甘いんだ。しょうがない。俺はもう自分のやり方でやるしかない。秘密の鍵もくそもない。誰がどう言おうが今の俺にできること以外できねえんだから、俺のやり方でやるしかねえんだ」とその時に開き直った。

 「開き直り」という表現は悪いかもしれないですが、これはある意味どんな仕事でもトップやリーダーになったら、一番大事な要素かもしれないですね。「監督の仕事って何だ?」といったら1つだけなんです。「決断する」ということなんです。「この戦術とこの戦術、どっち使う?」「この選手とこの選手、どっち使う?」ということです。

 ただ、「この戦術を使ったら勝率40%、この戦術だったら勝率60%」「この選手だったら勝率50%、こっちの選手だったら勝率55%」、そんなもの何も出てこないんです。答えが分からないんですね、それをたった1人で全責任を負って決断しないといけない。

 例えばコーチを集めて「お前どっちだと思う?」と多数決をとって、「3対2だから、はいこっち」と絶対いかない。全員が反対しても、たった1人で全責任を負って決断しないといけない。これがW杯出場が決まるかどうか、優勝が決まるかどうかという試合だったらとても怖いです。「この決断1つですべてが変わる」と思うと滅茶苦茶ビビります。考えに考えます。論理的に考えても答えは出ないのですが、必死に考えます。「相手がこうしたらこうだ。こうなったらこうだ」と考えても答えは出ません。

 じゃあ「どうやって決断するか」といったら“勘”なんですよ。「相手のディフェンスは背が高いから、ここは背が高いフォワードの方がいいかな」とか理屈で決めていたらダメなんです。勘なんです、「こいつ(を使うん)だ」と。

↓素の自分、について。

じゃあ全部勘が当たるかというと、そう当たりはしないですね。でも、当たる確率を高くする方法があるんです。それは何かというと、「決断をする時に、完全に素の自分になれるかどうか」ということです。「こんなことをやったら、あいつふてくされるかな」「こんなことやったら、また叩かれるかな」「こんなこと言ったらどうなるかな」、そんな余計なことを考えていたら大体勘は当たりません。本当に開き直って素の自分になって決断できるかどうか、これがポイントなんです。

↓選手との関係について

僕も人間ですからみんなから「いい人だ」と言われたいし、好かれたいですよ。でも、この仕事はそれができないんです。なぜなら、選手にとっての“いい人”“いい監督”というのは「自分を使ってくれる監督」ですから。僕は11人しか使えないので、あきらめないとしょうがないんです。

 選手でも日本代表選手にもなるとみんなしっかりしていますから、「監督、僕はこう考えていて、こういう風にしたい」とか「私生活でももっと自由にこういうことをしたい」とかいろんなことを言ってきます。

 僕は聞きます。正しいと思ったらもちろん受け入れますが、そうではなかったら「俺は監督として全責任を負ってこう考えている。お前は能力があると思うからここに呼んでいる。お前がやってくれたら非常にうれしい。でも、どうしてもやってられない、冗談じゃねえというのなら、これはしょうがない。俺は非常に残念だけどあきらめるから出て行ってくれ。怒りも何もしない、お前が選ぶんだ」と言います。みなさんはご存じないと思いますが、つい最近もそういう事件がいろいろあって、その時もそういうスタンスを常に僕はとっていました。


↓「勝つために」決断すること、について。

そりゃあ正直、(選手を落とすことは)やりたくないですよ。ジーコが日本代表監督の時、2006年ドイツW杯直前に久保(竜彦)をメンバーから落としたんです。その時、僕は久保が所属している横浜F・マリノスの監督だったんですね。久保が落とされた後、マリノスの練習場から帰ろうとしたら、たまたま駐車場に久保の家族がいて、久保には小さなかわいい女の子がいるんですけど、その子が「ジーコだいっきらい」と叫んでいたんですね。「ああ、また俺もそうなるんだなあ」と思い出しました。

 ほかにも、スタジアムに試合を見に行ったら、じーっとにらんでいる女の人がいるんですね。「身に覚えがないなあ」と思って聞いてみたら、僕がメンバーから外した選手の奥さんだった。それは当たり前なんです、そうなるんですよ。それが嫌だったら日本代表監督なんてできないのですが、そういう意味でいかにいろんな雑念を払って、チームが勝つために決断できるかが大事です。

 その時に例えば、私心で「俺がこう思われたいから」「俺がこうなりたいから」と思って、選手を外したとしますよね。これは一生うらみをかいますよ。ところが自分自身のためではなく、「チームが勝つために」という純粋にそれだけでした決断というのは、いつかは伝わるんです。そりゃね、みんな落とされた時は頭にきますよ。会いたくもないでしょう。

↓「遺伝子のスイッチ」について。

本当にありとあらゆることがあって、テレビで僕のことがボロカスに言われているのを子どもが見て泣いていたりとか、家族も本当に大変な経験をしました。自分自身もそんな強い人間ではないですから、のたうちまわっていましたね。自分の部屋でものを投げたりすることもありました。

 そんな中、最後にマレーシアのジョホールバルというところで、イランとの最終決戦がありました。そこで負けてもオーストラリアとのプレーオフがあったのですが、オーストラリアは大変だということで、僕はジョホールバルから家内に電話して、「もしイランに勝てなかったら、俺たちは日本に住めないと思う」と言いました。冗談じゃなく、その時本気で考えていたんです。「2年くらい海外で住むことになると思うから覚悟していてくれ」と本気で話していました。

 ところが、その電話をしてちょっとすると、何かポーンと吹っ切れたんです。「ちょっと待てよ。日本のサッカーの将来が俺の肩にかかっているって、俺1人でそんなもの背負えるかい。俺は今の俺にできるベストを死ぬ気でやる、すべてを出す。でも、それ以外はできない。それでダメなら俺のせいちゃうなこれは。絶対俺のせいちゃう。あいつあいつ、俺を選んだ(日本サッカー協会)会長、あいつのせいや(笑)」と完全に開き直ってしまった。

 そうしたら、怖いものは何もなくなった。何か言われても「悪いなあ、俺一生懸命やってんだけどそれ以上できないんでな。もう後はあの人(会長)に言って」という感じに完全に開き直った。本当にスイッチが入るという感じだった。要するにそうやって人間が本当に苦しい時に、簡単に逃げたりあきらめたりしなかったら、遺伝子にスイッチが入ってくるということです。

↓「目標の大切さ」について。

明確な目標はもちろん「W杯本大会でベスト4入ることに本気でチャレンジしねえか」ということ。みなさんはいろんな成功の書とか読んで「目標設定って大事だ」と思っているでしょうが、今みなさんが思っている10倍、目標は大事です。目標はすべてを変えます。

 W杯で世界を驚かすために、パススピードを上げたり、フィジカルを強くしたりと、1つずつ変えていくと、かなりの時間がかかります。

 ところが、一番上の目標をポンと変えると、オセロのように全部が変わります。「お前、そのパスフィードでベスト4行けるの?」「お前、そんなことでベスト4行けるのか?」と何人かの選手にはっきりと言いました。「お前、その腹でベスト4行けると思うか?」「夜、酒かっくらっていて、お前ベスト4行ける?」「しょっちゅう痛い痛いと言ってグラウンドに寝転んでいて、お前ベスト4行けると思うか?」、もうこれだけでいいんです。

 本気でチャレンジすることは、生半可なことではありません。犠牲が必要です。「はい、ベスト4行きます」と言うだけで行けるわけがない。やることをやらないといけない。それは大変なことです。でも、「本気でチャレンジしてみないか」という問いかけを始めて、最初は3~4人だったのが、どんどん増えてきた。これは見ていれば分かります。本気で目指すということは半端じゃないことです。それを今、やり始めてくれているんです。

↓Enjoy(楽しむこと)について

本当にEnjoyするためには何をしないといけないかというと、「頭で考えながらプレーするな」ということです。どういうことかというと、脳は(大脳)新皮質と(大脳)旧皮質からできていて、脊髄からつながっているところが旧皮質で、簡単に言うとどんな動物でも持っている本能のようなところです。そして、人間と一部の動物が発達しているのがその周りの新皮質で、ここは物事を論理的に考えたり、言葉を喋ったりするところです。

 ところが、コンピュータの演算速度で例えると、新皮質は演算速度が非常に遅い。例えば、新皮質で考えながら自転車には乗れない。右足のひざをこの辺まで曲げて、このくらいまでいったら体重を左にかけて……なんて考えながら乗れないですよね。キャッチボールもできない。ひじを伸ばして、ボールが来たから指を開いて、次に閉じて……と考えていたら間に合わない。旧皮質で感覚的にやっていかないといけない。スポーツというのは旧皮質でやらないといけないんです。

 ところが日本人はどうも教えられ慣れているので、ボールが来たから胸でトラップして……と新皮質で考えながらやってしまう。だから、向こうでは全然大したことないようなブラジル人がバンバン点を取る。あいつら何も考えていない。来たボールをボンと蹴るだけ。ある意味そういうことも大切。練習では考えてやらないといけない。でも、「試合ではそれを頭を使ってやるな。自分が感じたことを信じて、勇気を持ってプレーしなさい」、それがEnjoyです。

Our Team (自分のチームと思う)ことについて。

コンサドーレ札幌で監督をしていた時に忘れもしないことがありました。残り時間10分くらいで0対1で負けている時、ベンチの前を通ったサイドバックの奴が、ベンチの僕の顔を見て走っているんです。「何でこいつ見てんのかな?」と思ったのですが、分かったんです。「今、チームは負けていますけど、僕は監督に言われた役割はしっかりやってまっせ」とアピールしているんです。「アホかつうねん。お前がどんだけ役割やっても、チームが負けたら一緒やないか」と怒りが沸いてきました。

 例えば、会社の商品が売れないで倒産しそうな時に、「僕は経理ですから」とか言っていたらダメ、どんなにすばらしい計算をしても会社が倒産したら一緒です。残り時間10分で0対1というのは、「みんな外に出て商品を売ってこい」という時です。でも、僕はそれをやらせてしまっていたわけなんですけどね。自分のチームを「キャプテンが何とかしてくれる」「監督が何とかしてくれる」と思わせてしまっている。「違う。お前が何とかするんだ、このチームを」ということなんです。

↓「自分で育つ」ということについて。

「何でもやってもらえるもんだ」と思っている人が多いんです。例えば、スランプになった選手というのは大体、ものほしげにこっちを見るんですよ。「何か教えてほしい、助けてほしい」という顔でね。言ってやれることはいっぱいあるんですよ。ボール蹴る時の動きとか走り方が悪いとかいろいろあるんですけど、たいてい言ってもダメなんですよ。コーチは何やかんやアドバイスしようとするのですが、「ほっとけ、ほっとけ」と言うんです。

 スランプの泥沼にあえいでいる奴らが10人いるとするじゃないですか。泥沼であえいでいる時に早く手を出してバッと引き上げても、手を離したら大体もう1回落ちるんですよ。そして2回目に落ちた時というのは、中々上がってこない。これ放っておくと、10人いたら5人はそのまま沈みます。でも、5人は必死になってもがき苦しんで、自分の力で淵まではい上がってくる。その時に手を貸した奴は残ります。

 その代わり5人はそのまま沈んでいきますよ。そいつらからは「あの人は何もしてくれない。ものすごく冷たい人だ」と言われますよ。だから僕はコーチに、「お前な、今お前が手を貸したら、『あの人はいい人だった』と言ってくれるけど、みんなまた落ちてしまうぞ。放っておいたら5人には『ひどい人だ』と言われるけど、5人は残るぞ。お前どっちをとる?」と言うんです。これはコーチにはちょっと酷で、人事権を持った監督でないと中々できないんですけど、それくらい誰かに頼るんじゃなくて、自分でやるという人がものすごく少ないんですよね。

↓「集中する」ことについて。

勝負の鉄則に「無駄な考えや無駄な行動を省く」ということがあります。考えてもしょうがないことを考えてもしょうがない。負けたらどうしよう。負けてから考えろ。ミスしたらどうしよう。ミスしてから考えたらいい。「余計なことを考えて今できない、なんて冗談じゃない」と言います。できることは足元にある。今できること以外にない。それをやらないと、目標なんか達成できないんです。

 それでは選手が今できることは何かというと、日ごろのコンディション管理、集中したすばらしい練習をすること、試合でベストを尽くすこと。「この3つをきっちりやらないで、優勝しますとか、ベスト4行きますとか冗談じゃねえ」と言います。小さいことにもうるさいですよ。「100%使え」と言ったら98%じゃダメ、100%なんだと。

 選手にも話すのですが、何でそういうことを言うのかというと、運というのは誰にでもどこにでも流れているんです。それをつかむか、つかみ損ねるかなんですよ。俺はつかみ損ねたくない。だから常につかむ準備をしている。自分でつかみ損ねていて、「運がない」と言っている人をいっぱい見てきました。「俺はそれをつかみたい。お前がたった1回ここで力を抜いたおかげでW杯に行けないかもしれない。運を逃してしまうかもしれない。お前がたった1回まあ大丈夫だろうと手を抜いたおかげで運をつかみ損ねて、優勝できないかもしれない。俺はそれが嫌なんだ。パーフェクトはないけど、そういうことをきっちりやれ」と言います。

↓「コミュニケーション」について。

勝負の鉄則に「無駄な考えや無駄な行動を省く」ということがあります。考えてもしょうがないことを考えてもしょうがない。負けたらどうしよう。負けてから考えろ。ミスしたらどうしよう。ミスしてから考えたらいい。「余計なことを考えて今できない、なんて冗談じゃない」と言います。できることは足元にある。今できること以外にない。それをやらないと、目標なんか達成できないんです。

 それでは選手が今できることは何かというと、日ごろのコンディション管理、集中したすばらしい練習をすること、試合でベストを尽くすこと。「この3つをきっちりやらないで、優勝しますとか、ベスト4行きますとか冗談じゃねえ」と言います。小さいことにもうるさいですよ。「100%使え」と言ったら98%じゃダメ、100%なんだと。

 選手にも話すのですが、何でそういうことを言うのかというと、運というのは誰にでもどこにでも流れているんです。それをつかむか、つかみ損ねるかなんですよ。俺はつかみ損ねたくない。だから常につかむ準備をしている。自分でつかみ損ねていて、「運がない」と言っている人をいっぱい見てきました。「俺はそれをつかみたい。お前がたった1回ここで力を抜いたおかげでW杯に行けないかもしれない。運を逃してしまうかもしれない。お前がたった1回まあ大丈夫だろうと手を抜いたおかげで運をつかみ損ねて、優勝できないかもしれない。俺はそれが嫌なんだ。パーフェクトはないけど、そういうことをきっちりやれ」と言います。


↓「塞翁が馬」について。

僕は「バーレーンに負けなかったら、どうなっていたんだろう」「ウルグアイに負けなかったら、どうなっていたんだろう」といろいろなことを今思います。そういうことが続いてくると、何か問題やピンチが起こった時に「これはひょっとしたら何かまたいいことが来るんじゃないか」と勝手に思うようになるんです。もうすぐ発表になりますが、今回もスケジュールで大変になることがまたあるんです。それは確かに大変かもしれない。でも、「ひょっとしたらこれでまた何か良いことが生まれるんじゃないか。強くなるんじゃないか」とだんだん考えるようになってくるんです。

 ずっと振り返ってみると常にそういう連続でした。「バーレーンに負けたおかげで今がある」と思います。そして、ふと自分の手元を見てみたら、僕がずっと探し求めていた秘密の鍵があったんです。これは秘密の鍵ですからお話しできませんけどね。秘密ですから(笑)。恐らく僕があの後、どれだけ机の上で勉強してもつかめなかっただろう秘密の鍵が、のた打ち回りながらでもトライしていたら、手の上に自然と乗っていたんです。