HONMEMO

読書備忘録です。

中国農村の現在/田原史起

農村社会学研究者によるフィールドワークによる現代中国農村についての考察。

中国は非常に古くから封建制、身分制を脱し、中央集権制の下にあったことに一つの特徴があり、自己責任意識と社会的上昇意欲が顕著。血の流れを継ぐとともに栄達を希求する「家族主義者」である。また、都市住民との格差より農村コミュニティ内部の格差に敏感。

政府は、農村の公共サービスを全て面倒をみることはなく、村(基層)レベルの幹部、農民自らが農村ビジネスの形で公共的な問題に対応している。

中央集権制が早くから敷かれた中国では、競争的な選挙と代議制が受け入れられる素地を欠いており、中共一党独裁が馴染む。そんな中で、90年代以降、村民委員会でのみ、競争選挙が行われているが、これは末端の農民に対する猜疑心から、このレベルでのリーダーの交代を促し、ボス化を防止するためではないかと。

外国の価値観の浸透を恐れる習近平指導部の統治体制は、末端の基層幹部にも影響し、農村調査は事実上不可能になっているという。

習近平の政策は、「大・中都市」対「県域社会」という2元構造による統治を意図しているのではないか。即ち、特権的だが激しい競争の支配する前者の競争社会と、まったりとした人情社会である多くの小都市県城を中心とする県域社会を区別してダブルスタンダードで統治することを構想しているのではないか。農民を都市的公共サービスが享受できる県城に集中させ(大都市への集中を防ぎ)、 14億人のうちの10億人が現状肯定のぬるま湯に浸かり、安定感に身を委ねさせることで、政権の支持基盤を固めることになると。

 

 



 

 

 

資本主義の次に来る世界/ジェイソン・ヒッケル

資本主義は、自然を、外部(グローバルサウス)を収奪し、成長を続けることを本質とする。そのため、必然的に生態系・地球環境を破壊し、既に危機的状況。解決には、成長を止めるしかないが(グリーン成長は根本解決にならない)、北の高所得国は人々の生活を向上させるために更なる成長を必要とせず、経済を組み立て直すことによって豊かな社会を築ける。

脱成長経済は、大量消費の是正、労働時間の削減、所得・資産格差の是正、公共財の脱商品化・コモンズの拡大により実現され、資本主義の希少性圧力から解放し、豊かな社会を作る。

その世界は、人が自然を収奪するのではなく、人と自然が共生し、贈与と交換の支配するアニミズムの世界だと。

このような脱成長論は、馴染みのあるものだが、その実現の道筋は、政府による規制や財政の所得再配分によらざるを得ないところが多く、その実現は簡単ではない。広井良典のように若者を巻き込んで商店街のコミュニティ化といった地に足のついた取組を進めていくことが重要かもしれないなどとも考えるが、そんなことをしていても地球の破滅には間に合わないか。

特に若い人はこのような脱成長の思想に共感する人も多いように思うが、このよな方向でグランドデザインを描く政治勢力はない。今の時期、政府は来年度の予算の大枠を決める作業をしているはずだが、野党の政策の大枠は全く見えず、政治資金の議論ばかり。

まあ、アメリカが政策転換しないと結局何も変わらず、地球は破滅に向かうしかないということかもしれないが。

 

 

劇的再建/山野千枝

家族経営の中小企業の後継者難が課題となる中で、いわばベンチャー型事業承継という形で会社を発展させていく経営者(アトツギ)がいる。このような事業承継においては、親などの旧経営陣との確執や資産というより負債を継承して出発しなければならない場合、承継する事業が時代から取り残され、アトツギがやりたいと思う事業では必ずしもない場合があるなど、スタートアップとは異なる困難を抱える場合が往々にしてある。そのような中でアントレプレナーシップを発揮して経営を成功させる成功物語(失敗例もある)の紹介なのだが、このような経営は、上場を目指したり、M&Aを手がけたりする場合ももちろんあるのだが、それでもどこか家族経営的で従業員を大切にするようなところがあって好ましく思える。

(家族経営的)中小企業が極めて多いことが日本の経済不振の元凶のようにも言われることもあるのだが、このような経営を指すものではあるまい。

著者本人が言うとおり、中身もさることながら、語り口の「熱量」の多い本で、そういう語り口はあまり好みではないのだが、まあプロジェクトX的な仕立てになっているので馴染む文体ではあるのだろう。

 

 



 

商店街の復権/広井良典

レーガン政権登場後、新自由主義的経済政策がグローバリズムとして世界を席巻する中で、日米構造協議などにより日本は大店法改正や農業の自由化などを推し進め、結果として、シャッター商店街耕作放棄地を生むことになった。 日本の地方都市の現状は政策の失敗の帰結なのではなく、むしろ成功の帰結である(まち、ムラを捨てる政策だった)。

一方この間、日本とは逆に欧州(独)は、規制強化と直接支払いの方向に向かった。

シャッター商店街耕作放棄地の問題は、家族主義や土地所有権の絶対性など根深いところに原因があり、解決は簡単ではない。

資本主義が必要とする外部が消失していく中で、ローカルな地域(商店街など)内部での循環というビジネスモデルへの転換が必要になっており(グローバル市場依存型からローカリゼーションへ)、商店街は新たな消費の場として再浮上する。また、商店街は、コミュニケーションの場としての役割に対する期待が強くなっており、「コモンズとしての商店街」としての再生 (中心市街地の活性化)が期待される。

そのための提案として、歩いて楽しめるまちの実現、エリアリノベーション、ワーカーズコープ、若者支援政策とのリンク、空き家税など空き店舗への公的関与の強化、コミュニティ商店街の展開、農業・農村とのリンクなどが掲げられる。

本書は、著者の以上のような基調となる文章の後に各論が続くが、この問題の解決となる具体的な取り組みとして何より重要なのは「人」であること、そして所有権の絶対性の中で、利用権の活用など公的関与を強化すること、コミュニケーションの重要性、若者への期待などが指摘される。

 

 

 

漱石文明論集/三好行雄編

日本は維新後、文明開化として西欧近代文明を受容していくが、漱石は、日本の開化(近代化)の進展は内発的でなく、外発的で皮相的(取ってつけたように西洋のものまねをしようとしているだけ)だと批判する。

また、漱石は、英国留学中、英文学研究の意義を突き詰める中で、西洋の威を借りる他人本位ではなく、自己本位を確立することが重要との考えに至る。さらにこの考え方をより広く個人の倫理として展開し、自己本位と自由(他人の尊重、義務を伴う自由)についても説く。

西欧の自然主義、浪漫主義ともに批判、独自の文学路線(余裕派などとも言われるようだが、主義(イズム)自体を批判している)を歩んだ漱石の思想は一貫している。

権威を遠ざけ(天皇だけは別のようだが)、在野を貫いた漱石の思想も爽やか。

則天去私って、本書に収録されているかと思ったのに、漱石は言ってなかったのか。

 



若者のためのまちづくり/服部圭郎

高校生をターゲットとして、まちづくり、まちの楽しみ方や改善の視点などを説く。10年以上前のものだが、今も古びず、おじさんも楽しく読める。歩いて楽しめる、自転車で自由自在に移動できる、ライトレールなど公共交通の復権、空地などのレジャー空間、サードプレイス、暗渠を川に戻す、妖怪との共生、予見困難な事象についての自由度をもった都市計画、商店街・市場の魅力、ストリートパフォーマンスやフリーマーケットなど、楽しいまちの要素がてんこ盛り。

まちづくりは、利害調整が大変だけれど、若い人(だけではないが)が自分たちのために積極的に声を上げるのが大事だろう。 日本の都市計画の元になる思想はコンクリ、ハコモノ、車偏重みたいなところから脱却できないので、身近なところから一つ一つかもしれない。

カバーは何でこんな3歳児向けみたいな幼稚なマンガなの?

 

 



犬と鬼/アレックス・カー

「美しき日本の残像」「ニッポン景観論」「観光亡国論」は、主として日本の国土や文化の美が失われてきたことについて述べるが、本書はより広く、金融や教育なども含め、その要因についても詳しく指摘している(先の3冊はもう詳しくは覚えていないが)。初出は2002年で英語で外国人をターゲットとして書かれたという。

過剰な公共事業(いい加減な都市計画、ハコモノ、コンクリートだらけ)、醜い電線や看板などの景観の破壊、環境に対する鈍感さ、土建・製造業偏重で観光や情報化への対応の遅れ、硬直的で腐敗する官僚制、金融政策の国際化の遅れ、画一的な教育、閉鎖的で外国人活用の遅れなどなど、いずれの指摘も極めて辛辣だが、概ね正鵠を射ている。

著者はこうすべきという主張は慎重に避けているが、第17章は、「革命は可能かーゆでガエル」と、諦めの境地である。

結論で著者はいう。日本がなぜこうなったのかを考える時、現代日本の全てに「実」がなくなっていると。やや分かりにくいのだが、「実」とは日本独自の精神、素朴で繊細な美意識といったもので、産業化、近代化、国力拡大のために、その代償としてこれらを失った。今その(醜い)現実を直視する必要があると。 20年前の提言である。その後修正されてきた部分もあるが、事態は大きくは変わっていない。

戦後の産業化、国際化の過程で、農林水産業という生業を維持できず、過疎化する地方の産業としては建設業しかない、あるいは災害が多発する中で治山治水は(官僚が過剰に進めた面はあれども)地元の強い要望(建設業者だけではない)があり、人命というコスト評価を持ち込むことすら躊躇われるような事業であったろうとして、行き過ぎを認め、引き返し、修正するというパラレルワールドへの道はどこかにあったのか(民主党政権、脱ダム宣言?)。修正すべきとの声は大きくなっているが、今でも基本的なモメンタムは変わっておらず、ゆでガエルへの道を進んでいるようだ。