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分業

ソクラテス・プラトン・アリストテレスという分業
ソクラテスが唱え、
プラトンが書き広げ、
アリストテレスがまとめたたむ。
異端・主唱・系統
おもしろい・名誉を感じる・責任を果たす
子ども・青年・大人
この3つのプロセスや感情の掛け合わせこそが、
価値を生む仕事なのかもしれない。

規範無き時代の見立て

社会的規範や標準型の家庭や生活というものは、
バランスを獲得するのに効率の良いやり方だと思う。
しかし、バランスの前提となる条件が変化しやすい場合に、
意味のないバランスの取り方を設定しても、その嘘が暴かれるだけだ。
規範や標準化のない時に、一体いかなるものを拠り所にバランスを獲得することができるのだろう。
常に考え、常に行動し、常に検証し続けるためにも、
安定した資本(お金・時間・体力・土地・社会関係…)が必要なのだ。
そうなってくると、持つものはさらに持つことができ、
持たざるものはさらに持たざるものとなる。
持つとは別に物質的なものに限らず、精神的なものや考え方も、
持てるものと持てないものに分かれてくる。

この時、ルールチェンジになるのは、
ものの見方を変えることだ。自らのものの見方を変えて、それを周囲と共有することができれば、
そこに市場が生まれ、今までは持っていなかったと思っていたものを我々は持つことができる。

お金の本来的な自己言及的な性質(
みんながそれに価値を認めるからこそ、それは流通しうるし、
流通しうるがゆえにそれに価値が認められる)は、まさに見立ての力を示しているのだ。

見立ては、不定形のよく分からないものを資本にする。

このような資本化されていない資本がなるべく身の回りからなくならないように、
不定形のよくわからないものを畏れ敬い愛しながら、付き合う必要がある。
不定形のよくわからないものとは、自然だけではない。
自然と対置される都市の中にも不定形は潜んでいる。
我々人間が自然の産物であるのだから、人間の産物の都市にも自然が潜んでいる。

デザインドリヴンイノベーションが”イノベーション”たり得るのは、
このような人間社会が持つよく分からないものを価値化することは、
意味を与えられた時なのである。

高度に情報化された時代の不定形と意味化=資本化は一体どのような分野に眠っているのだろう。
それを発掘する現代の山師こそが、イノベータたりうるのだ。

若さと老い

若さとは
シンプルなビジョンと複雑な行動

老いとは
複雑なビジョンとシンプルな行動


若いときには配慮を、老いたときには、明快さを

3つのゴール - 「残念なもの」のアネクドート1

日常のしごとでは、多くの企画が生まれ、製品(大きいものはWEBサービスとして、 小さなものは新機能や改善として)が世に出ている。 そのなかで「残念なもの」が生まれてくることを、あまりにも多く目にしてしまう。 「残念なもの」とは、だれが、いつどこで使うのかよくわからず、使い勝手の悪い、デザインの愛されない忌み子である。 なにやら他人事のような書き方をしているが、そういう「残念なもの」をつくる経験は、他人のものだけではない。一番悲しいのは、自分がそういうものを作り出してしまったり、片棒を担いでしまう、ということだ。そう、まさに後ろの棒を持たされて、前も見えぬままに崖から落ちていくような感じである。そういうときには、私にはまるで主体性がなく、二人三脚になっていないのが最大の失敗要因である。 なぜ「残念なもの」が生まれてきてしまうのか。主体性のなさ、こそは最大の要因であるが、実は、当人に思いがあっても「残念なもの」ができてくることがある。今自分が考えられる要因について、3つの段階にわけて考えてみる。 1. 3つの重なり合う目的 企画には目的(Goal)がある。目的とは、使う人がなにをしたいのか、だ。 ゴールはシンプルだ、と主張する言説や書籍は多い。 だが、ゴールは本来、重層的なものだ。 家を買いたい。シンプルなゴールだ。 「じゃあ、不動産屋を始めるから、きてください。」 私は、彼のゴールを実現できると思ってそういってみた。 「でも」。そう、実際の人生はシンプルじゃない。 「毎日、忙しくて家を見に行く暇がないんです」。 なんと。じゃあ、不動産屋はじめても見に来てくれないじゃないか。 「じゃあ、スマホ用のサイトをつくって情報を載せておくんで、ひまなときにみて、 気になったら連絡してください。」 「わかりました。これなら通勤でもみれますね。ありがとうございます」。彼がそういってから、1ヶ月。 音沙汰がない。彼に何が起きているんだろう。事故にでもあっているのだろうか。 そっと、彼の通勤の後を追ってみた。 電車にのる。お、車内に不動産の広告が。あ、そうだ。家探さないとなー、と思ってたんだ。スマホスマホ。彼は、私が作った不動産サイトを見ようと、スマホを手に取る。 「(あ、限定キャラでてんじゃん)」 スマホのホーム画面に、某ソーシャルゲームアプリからの通知。あと1時間で敵を倒せないとせっかくのレアキャラ入手のチャンスがなくなってしまう! あれ?!不動産探すんじゃなかったの?あなたのゴールはいったいなんなの? 説教したい気分だ。でも、ストーカーの身。分を超えて説教を始めてしまっては不審者である。 彼は、そのまま、会社につくまで、ゲームにいそしんだのだった。 後日、彼に、あったとき「不動産どうでもいいの?」ってきいたら、 「いやー、忙しくて、なかなかね、探す暇ないんですよね」と。 ぜんぜん、ゲームのこと意識してないじゃん。きっと、本人も家探しとゲームだったら、家探しが大事だってわかってるから、「へー、ゲームする暇あるのに?」って思ったけれど、それをいうのは、商売人としては無粋です。 じゃあ、私も不動産アプリつくるよ。で、プッシュ通知する。 そしたら、スマホ開いたときに、ぴったりの限定物件を届けて、きっと、限定キャラよりも、 こっちに思いをむけることができる。 この小話の「彼」には、3つのゴールがある。 「家を買いたい」。どんな生き方がしたいのか。人生の目的に関わる大事なゴールだ(Life Goal)。 でも、そのゴールを妨げるさまざまなものがある。それが、日々の行動習慣やちょっとした感情だ。 「通勤時間に見たい」。日々の行動で実現したいゴール(Behavior Goal)。 「スマホを開いた瞬間から集中して見たい」。本人にしちゃ、このゴールは意識することはないだろう。無意識のゴールだ(Emotional Goal)。 マーケッターは市場調査をよくするから、Life Goalについては精通しているけれど、かれらが意気込んで作ったサービスとか素人ぽくつくったワイヤーフレームは、とても説教臭いものができる。 「本当に家がほしいんだよね?!じゃあ、いまからする100の質問、全部答えてよ!」 そんな感じ。そんなの気持ちがしぼんでしまうし、そもそも、やる時間ないよ。仕事あるんだよ。 会社内で考えていると、Behavior Goalも忘れがちだ。 「不動産は大事な買い物だからねー。パソコンでしか見ないっしょ」。 パソコンなんて、暇なソリティアおじさんが勤務中にみるもんでしょう。 俺たち営業職の人間は、出ずっぱりで見る暇ないよ、って「彼」はいうだろう。会社でパソコンみてるときに家さがすんだったら、さっさと帰るわ。 「家では、つけるのに時間かかるパソコンなんかより、ソファーに寝転がりながら、スマホでみたいわ」 会社内で、ずっとパソコン操作しながら考えている企画者は、自分も通勤のときはスマホを触っているはずなのに、大事なことをついつい軽く考えてしまうものだ。 最後のEmotional Goalは、ヒヤリングしても言葉ででてこないたぐいのものだ。 ちょっとでも、大事な情報の並びが悪かったり、通信が悪くて表示が遅かったりするだけで、いやんなったりする。でも、本人だってそんなに意識してるわけじゃないから、「なにがだめなの?」って、聞いても教えてくれないだろう。意識してたらよっぽどひどい。 このように「Life」「Behavior」「Emotional」の重層的な3つのゴールを満たさないと「彼」がやりたいことは満たせない。「へびとはしご」のボードゲームじゃないけれど、本当のゴールに到達するためには、たくさんの落とし穴をがんばってくぐり抜けて、ようやくたどり着ける。 こうして、企画として「守」るべきもの、ができる。実現したいゴールは、だれがなんといおうと、変わるべきではないもの(ただし、より、正しくことばにできるとかそういう変更はもちろんあるだろう)だ。 この3つのゴールの出典は、About Face 4より。 続きはまた次回。

習慣を変える

考える習慣をどのように行っているのか、によって、その人の思考方法が決定されている。
散歩もまた思考の習慣である。逍遥学派や哲学の道、のように、哲学と散歩は親しんだことばとなっている。カントの散歩の時刻があまりにも正確で人々はカントがあらわれる時間に応じて時計の針を合わせたエピソードのように、人物や思想を習慣から思い起こすことができる。

パソコンのテキスト編集ソフト(私の場合は、macのテキストエディット)によって考えるときは、箇条書きで順当で論理的な思考が導かれる。
B5のスケッチブックで思考すると、図像的な思考となり、グラフや自由な概念の結びつきが現れるが、人に伝えようとするとき、溢れる多次元の概念が到底、ひとには伝わらないものになってしまう。
エクセルでの思考が2次元での表現を助ける。表はもちろん、グリッドにもなるので、2軸で切る作業もエクセルが「アフォード」してくれるのだ。散歩が五感での思考である一方で、机上(デスクトップ!)・パソコンの思考は手の仕事になる。
考える習慣は、環境と、環境と接続される身体の部位とそれに伴う感覚、頻度によって構成されるだろう。私が考える習慣を重要に思うのは、この習慣を変える、ということを、自らが求め、他者からも求められる、という機会が減っていくことである。
中国の故事で、やくざの親玉になろうとおもった個性のない男が、やくざの親玉の鞄持ちとして一挙手一投足を真似、はじめは気持ち悪がられていたが、いつのまにか、やくざの親玉になっていた、というものである。考え方、とは、その人のパーソナリティのようであるが、日々の習慣によって変わるものだ。
企業における新人の成長とは、企業に一日のほとんどを拘束され、企業の人々が持つ習慣を体得するプロセスのことだ。どのようにメモをとるのか、さえ、指示するのが新人の教育というものである。
「犬は糞を食うのをやめられない」という言葉がある(なんども引用してしまう)。
犬は、ということばのうらに、我々は人をどのように捉えているのだろう?
犬は変われないが、人は変わることができるのだろうか。
犬は変われないし、自分やあなたも犬のように変われないのだろうか。

テクノロジーの進歩は我々の生活を変える。我々の習慣を変える。
新天地で新しいコミュニティにはいることで我々は習慣を変える。
新しい大切な人との出会いが、自分の習慣を変えることを要求する。

普及理論が明らかにするように、イノベーションとは、いままでとは違うやり方を、いままでのやり方と地続きに受け入れることだ。
批評の世界でいう「永遠に続く日常」、例えば、映画『うる星やつら2』で文化祭の前日が永遠にループするような状態、あるいは、日本経済の低成長、東京生まれ人口が増え上京というライフイベントのイニシエーションを受けた人口が減る、海外に留学しない日本人学生、先進国で著しく少ないアメリカへの移民、ソニーの停滞、自分はイノベーティブな仕事をしていないとOECD中最下位の日本人、内にこもる日本人、挑戦しない日本人、日常を受け入れ鍛錬することでいつしか非日常の存在になれた「職人」への憧憬。様々な言説がいままでのやり方がいままで通り続いていること、それに倦怠していること、一方で受け入れていること(と思っていること)を示している。とはいえ、マダム・ボヴァリーのロマン主義が自殺に追い込むように、絵に描いたようなあこがれはとうの昔から破滅の予兆なのである。これは現代特有の形式なのではなく、変化への渇望が形式を変えて現れている。江島生島事件にしても、華厳の滝の自殺にしても、変化への渇望の奇妙な現れ(sign)、今で言えば表象(representation)なのではないだろうか。

他人を生きるために、まずは、日々の生活の習慣を変える。
ドラスティックに変える(住まいを変える、付き合う人を変える、仕事を変える)のでもよいし、
ちょっとずつ変える(青汁を毎日飲む、筋トレをする)のでも。
現代を象徴する、アメリカ人の圧倒的な変わることへの渇望(テレビ宗教・通販は起業家精神と同じ精神構造の根源を持つだろう)。習慣をモノとして買うことを彼らは生み出したのだ。

優れた作家や宗教家は時流に応じて、ないし、時流をつくりながら、変化への渇望やそれ周辺の心の動きを表現するだろう。優れたビジネスマンや活動家は、習慣を作り出す製品を生み出すだろう。
極言すれば、階級やコミュニティとは、似たような習慣を持つひとの集まりなのだ。
「お金を持つ人の習慣」という、低俗ベストセラーの決まり文句と同じ内容になってしまった。
ポイントは、本を読むだけでは、その習慣を獲得するのは難しい、ということがある。
「系」は意識だけでも変わらず、とはいえ、環境は意識せねば変わらない。継続的に意思と資源(時間・体力…)、それに機会だ。この意思を生むのが、夢である。夢とは、環境に基づかない意思のことなのだ。

話はひろがりに広がりきり、夢という茫漠としたものの定義もできたような気がするので、はじめに戻ると、技術の革新は、滅多に変わらない環境と意思や夢を実現するものになりうる。
本人の意思が技術に向いていなければ、他人が技術に触れる機会を提供することができる。多くの商売は、価値を生むところと価値に触れる機会を提供する、そんな仕組みになっているだろう。
夢・仕事・価値・機会・習慣・技術。飽きずに価値を生み出し続けていくために、なにができるのか。よいバランスとリズム、流れを追い求めて、少しずつ、時には大胆に習慣を変えていく。常に、常に、常に。

アイデンティティ

今日は祖母の墓参りに世田谷の豪徳寺へ。 3代住んだら江戸っ子、というが、相島の家は明治から東京に在住し、自分で4代目だから、 江戸っ子ではないが、東京人であると言えるだろう。曾祖父の時代に埼玉と長野から出てきて、 それ以降は芝や世田谷に居住している。 自分のプロファイルは、おおよそ属性をとってみてもそこまでユニークなものではないだろう。 自分では他者との違いを明確に裏付ける出自の違いについて、あまり意識することはなかったし、 なのにどこか周囲と違う、ということが、あまり理由が見つからなくて、それゆえか、自分のことをあまり知らないし、ことばにすることがあまりにも不十分だった、とこの歳(28歳)の冬に思うに至った。 前の日の夜は渋谷のクラブでウェールズのDJをみにいっていて、昔よりも外国人が多い印象をうけた。観光客が増えている、ということなのだろうか。クラブにとっては、昔よりも追い風なのではないか。ばか騒ぎする白人、日本人の2人の女性をつれた(なんぱした?)2名のヒスパニック。いちゃつく日本人ヤッピー。その翌日には、静かな寺の墓地を歩いている。 monocleのtokyo評( http://monocle.com/film/affairs/the-monocle-quality-of-life-survey-2015/ )のごとく、静と動が織り込まれている街だと思う。 native tokyoite(生まれながらの東京人)だと感じるのは、墓が近くにある、ということだ。東京の昔ながらの墓地に入る、というのは、タワーマンションにはいるより難しい。墓は郊外だったり、地元にある、という友人が多い。東京にきたから、という意気込みもなく、かといって、地主のように農業をしたり、不労収入を得るような地盤もない。うちは4代前から雇われだ。家族行事がとても強い訳ではないが、上京してきた核家族ほど、地理的に分断されている訳でもない。ドライであまり干渉しないけれど、家族の生き様をみていると、似ているところを感じたり、誇らしさを感じたりする。 それぞれが職業人として、街のなかで役割を発揮するからこそ、あまり干渉しないのだ。 自分の、変に世に出ようとするような「とっぽさ」にあまり関心のないところ(一時期はそういうものが必要なのだと意識的にしてみたが、マインドコントロールの魔法は消えてしまった)、趣味の良さを調和がとれていることに捉えているところ、マジョリティのなかの隠れたマイノリティへの共感、居心地のよさに対する要求と行動。 振り切れたものとしてのクラブでの熱狂と、厳粛なものとしての墓参りがあるのではなく、どちらも同じ心持ちで一本のものとして自分を形成している。常にさめていて、常に機会を伺っている。 恋愛観や住宅観にもそれが影響しているのだろう。みんなが当たり前のように通過していく、一人暮らしだったり、出会いだったり、が、とても異質なもののように思えてしまう。ともすると、同じような境遇のひととあまり出会ったことがない。どこか、いつも、ひとと違うように感じてしまい、続かないな、とすぐに思ってしまう。その反動からか、一度、身内だと思うと、とてもかけがえのないもののように思える(ややこしい)。鶏舎のような賃貸物件にはどうも住む気になれない。これは東京の代名詞のようだが、昔から住む土地だけはあるので、近年の東京らしいもの、については、受け入れられないものもある。庭付き戸建が減っていくことで、山の手の西側もまた、東側のようなコンクリートシティになってしまうのは、嫌なものだ。ウディ・アレンが自分がこどものころのニューヨークを映像しているのも好きだ。ニューヨーク的なものは、憧れるというよりも、勝手に共感している、といった方がいいだろう。都市生まれはある意味、保守的だ。常に最新のものを取り込む、ということを保守的に守り続けている。ウディ・アレンの服装がかわらないように、私はなかなか世田谷を離れることができない。 東京圏の人口は増え続けている。東京生まれの人口もまた増え続けている。上京モデルからネイティブモデルへの転換がどこかで起きるとき、人々の結婚観・住宅観・街へのまなざしはどのようになっていくのだろう。私の場合は、明治のころから住んでいる、というところが大きい。昭和から4代住んでいる家族は、また違う東京を見るだろう。それでも、それぞれが本来的な意味で異なることを前提に価値観を作ることができる、tokyoiteが僕はとても好きだ。

街をしること

要約
街を知ることが価値があるのは、
・自己実現したいライフスタイルを大きく決定するのは街であり、
・街は多様で自分にあった街を選ぶことが人生の豊かさを左右する
・限られた経験の中で知ることができる街の数は限界があり、街の情報を十分に知ることができているとはいえないからである。


なぜひとびとは街についてもっと知った方がよいのだろうか?
なにを食べ、だれと会い、なにを着て、どんなことを考えるのか?
それを左右しているのが街である。
どんなひとになりたいのか、どんなライフスタイルをおくりたいのか。
子供の健康のために、子供の学力のために、
自分の趣味のために、家族の健康のために、
老後や介護のために、しごとのために、愛のために。

それらは家の中に閉じては実現できない。
近くにあの店があるから、近くに家族がすんでいるから。
介護の不安を近くの喫茶で共有できる友人がいるから。
会社の前にひと泳ぎできる海があるから。

みんな、家の近くの街でおきていることだ。

みんながよい、という街が、自分にぴったりな街であるとは限らない。
すべてを持ち合わせている街など、どこにもない。のびのびと体を動かす子どもを育てたいひとと、
共働きをしながらいまは精一杯働きたいひとでは自ずと暮らす街が異なる。
周囲も同じような境遇のひとが多い方がいいのか、ぜんぜん違う境遇や年代の人がいた方が安心するのか。それも人それぞれだ。

このように、自分のおくりたいライフスタイルにあった街を選べることは、大切なことだ。

だが、我々は自分に最適な街を十分に知ることができているのだろうか?
たとえば、たまたま大学時代に住んでいた街や生まれ育った街から出ていないのではないだろうか。
街を知ることは難しい。言葉やデータにできる情報だけでは不完全だ。
いってみなければわからないことは多いし、すんでみなければわからないことも多い。
でも、街を知ることは絶対に価値のあることだ。文字通り、人生が変わるのが、街を変えることだ。
街が自分のアイデンティティをつくっている。
だから、街を変えると、アイデンティティが変わっていく。
そういうきっかけをつくるのに、ウェブがもう少し助けてくれたっていいじゃないか、と思っている。

自然哲学的

サイ・トゥオンブリーを原美術館に見に行った。
本論で主張したいのは、トゥオンブリーの作品群は自然哲学的である、ということである。

ライプニッツのいうところの自然と人工のクンストカマーたる現代の美術館において、芸術作品に触れるとき、それは人工の産物に我々は触れている。
自然と人工の区別は明白だ。
自然は神がつくりだしたものであり、人工とは人間がつくりだしたものだ。
だが、自然と人工の境界はいくつかの議論で審判されやすいものだ。
人間は神による被造物なのであるから、人間によって作りだされたものもまた、
間接的には神の被造物なのではないだろうか。
神は人間の創造の産物であるなら、自然はいったいだれによってつくられたものなのであろうか。
自然の象徴たる森の多くは、すでに人の手を介して成立する、原生林ではなく里山である。
様々な議論が自然と人工という境界を犯している。

絵画において、自然を描く写実の絵画がある。
自然がまずあり、そこに人間の作為があり、人工の絵画がある。
きれいな図式である。
多くの絵画は既存の道具に従い、自然を見、そこに人間や神の介入があり、人工物が生まれる。
これが創造行為であるとする。
決められた方法論で行われることで我々は最も素朴な人工の定義を再確認し、安心することができるだろう。

トゥオンブリーの作品を前にすると、他のドローイングではみたこともない素材の紙が用いられている。絵の具が物質的である。紙に紙が貼られている。
絵の具と紙が、概念を表す道具として透明であることを拒否し、まず物質である。
この時点で、人工の作為のなかに、透明であるべき道具そのものの素材としての自然が混入している。
ある絵は花のようにみえる。それは、花を見、花について描いたものなのだろうか。
花は筆をつかわずに指で描かれたような痕跡で描かれている。
どうも、自然を見、人工の絵画として花を表現した、それだけのものではない。
どうやら、人工の絵画それ自体が、自然なのだ。
絵の具と絵の具が混ざり合うことによって生まれる色の混濁。それは画家の意図したものなのか、意図したものではないのか。そんなことはどうでもよい。
絵の具の混交によって、自然の性質によって生まれたものは、人工のものでもあり、自然のものでもある。自然の性質が、自然の産物である画家によって用いられ、自然の一部としての絵画として受肉している。
トゥオンブリーの作品は、庭園のように、それがそれたらしめている性質を、きっぱりと、自然と人工のいずれにも帰すことが難しい。

ブライアン・アーサーによれば、技術とは自然の性質を人間の特定のための目的に用いるためのものである。であれば、技術とは、人工そのものである。
しかし、科学哲学は、なぜその技術が生まれたのか、という理由を十分に人工だけで説明することはできない。有り体に言えば、人間は人工の産物ではなく、自然の産物だからである。
人工は人工のみから作り上げることはできない。自然をもとに、人工を積み重ね、新たな人工(それはイノベーションと呼ばれている)が生まれるのである。

トゥオンブリーの作品には、ギリシアの神話のキャラクターを示す文字が記されることがある。
ギリシアの時代においては、科学は哲学と曖昧な存在であった。
科学は哲学の中にやどっていた。自然は哲学によって導かれる知によって説明されるのだ。
それが自然哲学といおうとしていることだ。
知は人工なのだろうか。であれば、自然は人工によって存在しているのか。
そんなことはない。人間が存在していなくても自然は存在しうる。(知覚し得ないものは存在しない、という議論への反証)
自然哲学は、一方向的な論理展開では成立できない。
自然の観察があり、一方で哲学がある。哲学だけでは自然は存在しないし、自然だけでは人間はいなくなる。

つまるところ、表現と介入なのである。

引き続きブレーデカンプのライプニッツに関する著作を読んでいる。
ライプニッツが造園にも深く関与していた、という内容である。

そんな中、今日は、庭の木の剪定をした。
1年近く剪定をしていなかった柿ともみじの木が乱雑にのびている。
乱雑なことはわかるが、どの枝や葉を落とすべきなのか全くわからない。
いったい何のために葉を落としてよいか、わからない。

枝には、様々な種類があり、忌避すべき枝があるという。
「立ち枝」とは、幹と平行に、まっすぐ上にのびてしまった枝でこれは落とさねばならない、という。「逆さ枝」とは、幹の方向にのびた枝という。
枝は幹から遠く平行に、他の枝と絡むことなく、同心円上に広がるべき、
という原則がここにある。
その背景には、自身の成長によって自身の成長が妨げられてはならない、
という成長戦略がある。
あるいは、葉の養分を制限し、実をつけることも大事だ。
もちろん、隣家へのびていく枝など、生育している場所によって異なる禁忌もあるだろう。

企業や個人が成長を続けるためには、内在的な養分だけでなく、
どちらに伸びていくか、という戦略が大事だ。
すでにある企業は、すでにそこで成長できるだけの、養分のある土地、日光を受けられる空間などの条件を持っている。ほっといていても成長したい。
ただ、自然にまかせ成長していると、自身を滅ぼしかねない。
実益(=実)を得ずに、自身の成長にばかり投資してしまうかもしれない。

このように、木一本の剪定を持ってしても、
いかにあるべきか、と考えるきっかけを我々は得るチャンスを持っている。
何気ない生活の知恵であり、思いままならぬ、自然原理との付き合いである。

家事においても、同様に、仕事の基本的な原理をシミュレーションできる。

まさに家宰である。家における宰相とは、家族での公平な(それは、必ずしも等分を意味しない。
父が最大の分配を得る家庭もあれば、子どもが最大の分配を得る家庭もある。そこにはその家族の正義があるのだ)配分を行う。

ところで、木の剪定を企業経営に例えると、元来の主事業であったものから枝分かれした事業から
第二の主要産業が生まれるような(ありふれた例だと3Mのような)事例は、
枝が幹になったようなことなのだろうか。
ここから木のアナロジーから根茎へのアナロジーを持ち出すでも良いし、
木の外に常に人間の介在を想定して、
生育のよい枝のところに新たに木を植えるシーンを想定しても良いだろう。
自然哲学のアナロジーは、長大な時間がかかる厳密な正しさよりも蓋然性を求める判断のうちでいまだに有効なのだから(それは「信念 belief」と呼ぶと良いと思う)、それを用いれば良いのである。

ライプニッツは、デカルト的科学のあり方に対して、アリストテレスの目的因(テロス)を引き合いにだした。自然に目的因を見いだすことは今日の価値観では奇妙に思える。われわれは十分にデカルト的なものの見方を自然に対して向けている。しかし、そこに目的因をみいだすからこそ、解釈し、いかに生きるべきかを問い、生活に根ざした知恵を我々は獲得することができるのだ。そうでなければ、自然との対話は、なにもメッセージを発しないか、すべてが同じ目的因(例えば、科学的探求の実践や個人の嗜好)に帰せられてしまうだろう。

啓蒙について

いまの自分がいいと思うことと本当によいことが分かれているとき、どうするのがよいのだろうか?
たとえば、字を知らないひとが、働く時間を優先し、字を学ぼうと思わないとき、字を学ぶきっかけを説いて回ることは必要なことなのだろうか?
この問いは、さらに進めると以下のようになるだろう。
そのときの当人の意思に反しているものが、その当人の価値である、というのはどのようなことなのだろうか?
ひとつは、その当人が実現したい他の価値が、当人の意思に反する行いによって達成されることである。ひとつは、当人が将来獲得するだろう価値観に対して、当人の意思に反する行いによって価値が達成されることである。
これを啓蒙(enlightment)と呼んでみる。
啓蒙は決して、発展途上の社会だけのものでも明治維新のときのものでもない。。王から与えられるものでもない。
エベレット・ロジャースの普及学とは、啓蒙の方法についての書籍である。イノベーションとは、現代の姿を変えた啓蒙の姿だ。
啓蒙というと、あるべき社会や理想像から演繹されることのように思われる。
だが、日常的な感覚や流行のなかで、価値観が形成される中、
高圧的な態度で押し付けられるものよりも、
周りがみんなそうしているから、あるいは、なんか自然とそうした方がいいような気がした、そういった、日常的な動機で受け入れられる啓蒙の方が、はるかに効果的なものだろう。
社会問題と啓蒙について、考えてみる。
社会問題は、人々の多くが受け入れている価値観の過剰さによって生じる歪みである。
婚前性交を認めない価値観がゆえに急増する孤児やストリートチルドレン、
大量生産大量消費の価値観が生む環境の破壊、
簡便で性能がよく、スペックで選ぶがゆえに新築住宅が好まれ、広がり続ける都市と破壊される田園や自然の環境、ひいては社会秩序を裏付けてきた自然や旧産業がもつリズムの変調。
主要な価値観が生み出す歪みである。
避妊・環境への投資・リノベーションといった、イノベーションを選択できるようにすることで、将来予期される社会崩壊とそれにともなう悲しみを回避できるだろう。
であるのに、崩壊は予期されづらいものだ。それを感覚的に認識するのは非常に難しい。価値観は変わらず、崩壊に向かってつき走る。ネズミの群れが崖に向かって、より速度を上げながら疾走するように。
根本的には、価値観の変更なくしては、なにも変わらないだろう。
だが、価値観は環境によって作られる。ソドムとゴモラが都市であるように、
人が人の環境によって形成されるところは、価値観は基底となる自然環境や旧産業からは切り離される。
自然や田園、水産といった価値観で営まれていた社会の美徳はここでは通用しない。
であるから、帰る、戻る、といった選択肢は有用ではない。
ここで啓蒙の定義に立ち返ってみる。
ひとつは、その当人が実現したい他の価値が、当人の意思に反する行いによって達成されることである。ひとつは、当人が将来獲得するだろう価値観に対して、当人の意思に反する行いによって価値が達成されることである。
前者で啓蒙を実現するためには下記のアプローチが有効だろう。
いまもつ価値観の大部分を保全しつつ、生じている社会問題を解決すること。将来の問題を認識することより、いまの価値から将来の問題への想像の動線をうまくつくりあげること。テクノロジーへの信仰や挑戦する心、開かれたマインドセットは、価値観を大きく変えることなく、啓蒙を受け入れることができる。彼らはイノベーターである。
後者を実現するには、現状の生活から切り離された新たな価値観を獲得する必要がある。書物、映画、新聞、弁士、そういったメディアが後者を牽引してきた。
価値観を覆すような大きな衝撃ーそれが悲劇であれ、奇跡であれー、例えば戦争や天災、恋愛や若いころの強烈な体験。結婚や離婚、死別といった家庭の改変。家庭以外の生活習慣としての、職場・学校・宗教的な共同体へ属すことをきっかけに価値観は大きく変わる。
だが、後者の力を強く恃みすぎるのに、わたしは違和感がある。だれもが変わることを強く望んでいるわけではないのだ。日常の生活がそのままであれば、仮に強い衝撃をうけたところで、2日3日すれば、もとの生活に裏付けられた価値観が戻ってくる。家庭から切り離されて、新しい価値観を身につけた子供達が大人たちを含めて幸福な社会をつくることができるのだろうか。民主カンプチアのような狂った社会と、後者が描く世界は、どれくらいの差があるというのであろうか。
我々は、いまもつ価値観をきちんと向き合うべきだ。価値観を整理し、折り合いをつけ、時には、抽象化を行う。過去を振り返り、未来を想像しつつ、いまと対話する。単に昔からそうしているから、とか、わたしはこうならねばならないだろう、といったことにとらわれてはならないだろう。過去の価値観から変わったところを見つめ、未来の想像を修正することが、いまと向き合うことにある。
商いの本質は、価値観のすり合わせにある。相手の価値観にあわせ、自らの価値観でうみだすことのできる価値を提供することだ。自らの価値観が商いによって周囲と調和し、より高まることだ。渋沢栄一のいう士魂商才はそういうことなのかもしれない。誰かが決めた価値観に従うのではなく、おのおのの価値観がなるべく満たされるように、ものごとを決めていくやり方だ。
はじめの問いに話を戻そう。
いまの自分がいいと思うことと本当によいことが分かれているとき、どうするのがよいのだろうか?
そのためには、いまの自分の価値観を整理して見つめ直すことだ。変化に敏感に、ことばは丁寧に、シンプルで嘘なく、ひとに話したり、文章にしたり、手続きを省略することなく、機会や脅威、課題や状況を知ることだ。自らその機会を作り、他者が機会がつくれるよう、手伝うことだ。
それこそが良い選択を与えるのだ。

断章

この文章は、いまのわたしが書いている。
いまのわたしは、20代後半の男性で、会社員で独身である。東京に生まれ、東京に在住している。日本語をはなし、書く。英語とフランス語と中国語を学習する機会があったが、さほど上達していない。修士号をもち、男性である。所得水準は日本人の平均より高いだろう。資産はあまりない。沖縄に旅行し、昨日東京に戻った。そして、失恋したばかりである(とは、わたしは認めたくない。いまの状況を、恋愛のひとつのプロセスとして捉えたい、と思っているからである)。ドイツの哲学者・ライプニッツの思考に共感している。
おそらく、わたしが男性でなかったらこのような考えを書いていなかったような気がしている。石母田正は、母にアジア的生産様式を見た。アジア的生産様式とは、共産主義歴史観において、もっとも始原の経済の段階である。市場経済に至る前の、非合理な意思決定がある。母の無償の愛が、交換経済では説明のつかないものを感じさせている。合理的に価値観を分解し、統合し、抽象化するのとは別の、不合理ゆえの力強さ。頑迷なようにも感じられるが、そのような力がなければ、我々は生そのものを受けることができない。
この原理は、不思議なリズムを持っている。いまのわたしには到底説明できないし、先述の文章は、この観点が抜けているがゆえに根本的な欠陥を持っている。
価値観の言語化や対話以外にも、大切な直感やひたむきな努力、想い、共感というものがある。それを断ち切って、最善を選択することばかりでは罷り通らないのが、この世であろう。
文章は、書いているその途端に、想念を刺激し、次の段階にひとの思考をつれさってしまうから、自らの思考そのものを全て文章にこめようと思えば、文章をかきつづけねばならない。いまは、ここで満足し、語り得なかったものについて匂わせた状態で筆をおこう。明晰な論文でさえ、future
workという章を設けるのだから。

「わかる」とは

本稿は、イアン・ハッキング『表現と介入』を読みながら、ブレーデカンプ『モナドの窓』を読了したことで生まれた。


「わかる」とは何だろうか。
昔、私はこう考えていた。「わかる」とは、「わける」ことと分けたものが「つながる」、ことだ、と。
それは、「解」という字義から導かれたもの、あるいは、科学の分析的な思考のことを「わける」といい、一方でわけるだけではなく、「似ていること」によって同じようなものを分類することを「つなげる」と解釈したのだ。

どうもそれは間違いであったようだ。いや、間違いというよりも、足りていないのだ。
「わける」ことと「つなげる」こと(先ほどは「つながる」と書いたが、これは「つなげる」とは異なる、ここに重要なレトリックが存在する)だけでは、概念操作だけで完結する営みのように思えるが、実際のところ、そこには、感覚的なものが存在している。

ライプニッツが「小知覚」と呼称したもの、それは、概念化されていない、小さな構成要素の存在が意識にのぼるまえのものとして我々に働きかける。
我々は概念操作だけでは、新たなものをわかりえている営みすべてを説明しきれていない。
わかることには、概念操作で「わけたり」「つなげたり」してわかることもあるが、
実際に営みとして行っているのは、わかるための行為だけではないのだ。
別の行為を行っていてわかること、わかるために、「わけたり」「つなげたり」以外のことを行っているのだと。
ライプニッツがクンストカマー(博物館の未成熟だった頃の呼び名と捉えている)から、
図像から得ようとしていたインスピレーションこそは、まさにわかるための概念操作以外の行為によって得たかったものだ。

オライリーの書籍を「読もう」(つまり、理解している状態になろう)と思うとき、
黙読=目読だけでは頭に入ってこない。
IDEなりテキストエディタなりで実際にソースコードを写し、コンパイルし、結果を得て、
また、コードを読み、意図していることがようやくわかる。そこは概念的な生理が伴うだけではなく、手を動かし、はじめて得られる感覚がある。その感覚の助けを得て、概念は理解される。

別な例を挙げよう。
私は英語の書籍を読むとき、黙読=目読だけでは頭に入ってこない。
声に出して、読む。声に出して読むと、その一文の理解が高まる。視覚だけでなく聴覚が注がれる。
ただ、音読に集中してしまうだけだと、理解がおろそかになる。
目読・音読・理解のサイクルが程よく回転するときが最適な読解になる。
余談だが、これは、古代〜中世のはじめまでは、読書は音読だった、という話を受けてでのものだ。修道院ではみなが声を出して本を読み、かつ、字を写していた。そうして得られる理解があった。

この感覚的なものは何だろう。
中世人であれば、神の介入として表現しても良いかもしれない。
チクセントミハイであれば、フローとよんだかもしれない。
オッカムの剃刀によって、黙読される書物からは、神の存在が消えたが、
おそらく、多くの書き手が概念創造をする際に、ある種の恍惚感を感じているだろう。
それは、もはや書物からは読み取ることは難しいかもしれない。
だが、ひとたび感じてみれば、私には著者と同じ感覚を感じているような気分になる。
わかることがもたらしてくれることの快楽だ。
わたしにとってわかることとは、この感覚を得ることだ。
わかることの定義として、それが思い起こすことが可能である、という定義をおくことが
(素朴心理学的には)ある。
だが、この感覚を得たときに、結果として、思い起こしやすい、ということだからだ。原因と結果が転倒しているのである。代替指標なのだ。
これも脱線になるが、モデルを失った数値というものが、実務家においては一人歩きしやすい。先日、カタルーニャ人の交通工学者が日本の実務家(行政/企業人)の取り組みについて警句を投げかけていた。インターネット広告において、コンバージョンレートがどうだとか、そういう観点で語りがちであるが、本質的にはユーザのメンタルモデルがあり、そのモデルの代替指標としての指標なのである。これをスタートアップ界隈だと「虚栄の指標」という。数字で握ることは、個々人がもつモデル同士を顕在化させず、一見、調和をもたらしているようにみえる。だが、その実、各々は異なるモデルを持ち続けているものをすりあわせていない。指標というのは、異なるモデルで一つの指標を共有することができてしまう。このため、ことに際しては、不和が生まれてしまう。偽の調和なのである。本当はモデル同士を対話によって、より優れたモデルへと育て上げなければいけないのだ。あることに際しては、単一のモデルを持つことが必要なのだ(ゴールダイレクテッドデザイン)。
(広告事業においては、ペルソナが十分に機能しない、ということがその証左になる。
広告事業は、その本来の価値よりも儲けすぎている。ペルソナ以上の効果が、偽の指標によって、見えてしまうからだ。ユーザモデルと指標が対応していないのである)

モデルとは、「わかる感覚」を言語化したものだ。
モデルを作る営みこそががわかる、ということであり、モデルはある種の感覚がもたらされることによって初めて息吹きを得る。「わかる」ことは、わけるという自動詞ではなく他動詞なのだ。(だからこそ、概念が「つなげる」、のではなく、概念が「つながる」のである)誰かの介入によってわかることができるが、誰か、とは環境のことであり、我々はわかることが促進される環境こそを自分の周囲に構築する必要がある。
読書や散歩といった習慣こそがその環境構築にあたる。
ユーザにあうことがあの感覚を共有することができる。
同じプロダクトのソースコードを書く、同じ釜の飯を食う。(開発手法:スクラムを参照)
感覚を共有することが、わかることを共有し、同じモデルを形成する。
そして、異なるモデルと対峙したとき、モデルをすりあわせることが求められるのである。

こうして、考えをめぐらしてみると、実は「わける」という自動詞自体は、わかることそのものではなく、わかるための営み、ということになる。言語によって、ひとはわかるのではなく、言語を介してひとはわかるが、それは必ずしも言語を介す必要はない。介すことができるものは表現(representing)とハッキングに呼ばれるが、表現は言語を含み、より多くのものを指しているのだ。

私は、言語以外の表現のオルタナティブとして、数式とは独立した「概念の幾何」というものを想定している。「概念の幾何」についてはまた今度。