体中が冷たい何かに包まれている。ただ前を向いているだけの彼にはそれが何かを確認する術を持ってはいないが、それはとても柔らかくて、優しく彼の体を包み込んでくれていた。
手を動かしてみれば、それは彼の手を拘束することなく自由に動かせながらも、彼の手からは離れていかない。口を開いて息を吐いてみれば、息が白い泡となって口から離れていってしまった。
それを掴もうと手を伸ばそうとした時、急に息苦しさが彼を襲い。そこで彼はここが水の中だという事を認知した。
「ぐぼっ!」
余りの息苦しさから一気に吐き出された肺の空気。それが向かう先、そこが水上。体は焦りながらもまだギリギリでこういう冷静な判断ができた彼は、口から出た泡が向かった方向へと全力で泳いでいく。
良く見てみれば、泳いでいる先では太陽の光のような物が差し込んでいて、揺らめく水面が微かに見えている。そこへと向かって手を伸ばし、勢い良く海面から顔を出した。
「がはっ! ごほっ! けほっ! はぁ、はぁ、はぁ」
一気に空気を吸い込み、肺へと入っていった水を吐き出す。
荒い呼吸を繰り返しながら両手で水面近くの水を掻き、バタ足をしながら水面から顔を出している体勢を保ち、体が満足するまで息を吸い続ける。やがて徐々に体が落ち着いてきて、最後に大きな深呼吸をしようとした時だった。
彼の視界の外から迫ってきた水上を滑る何かがガコンという嫌な音を立て、彼の後頭部に重い衝撃を与えた。思ってもいなかった完璧な不意打ち。何の対処も心構えもできていなかった彼の意識は一瞬で何処かへと飛び去り、体中から力が抜けていった。
「は、はわわわわっ。アリア社長、避け切れませんでしたー!」
「ぷいにゅー!」
「駄目ですよ! 社長は泳げないじゃないですかー!」
ピクリとも動かずに水の中へと沈んでいく彼の真後ろにあるゴンドラの上。そこでは独特な衣装を身に纏った少女が水の中へと沈んでいく彼の背中を見ながら慌てていて、アリア社長と呼ばれた猫のような生物が水の中へと飛び込もうと勇敢な姿勢を見せている。だが、その行動は少女によって止められ、アリア社長は少女の腕の中へと納まった。
「ど、どうしましょう! た、助けないと!」
焦りは冷静な判断を抑制し、少女の行動も同士に抑制する。その結果、どんどん時間は過ぎていって水面下へと沈んでいた彼の姿はもう完全に見えなくなってしまった。
ゆっくりと沈んでいく彼とゴンドラの上で行動を起こせない少女。このまま少しも状況が変わらないで時間が過ぎていったら彼の死亡は確定してしまうが、どうやらそうはいかないらしい。急に彼の周りの水が荒れ始め、その水が彼の体を水面へと向かって持ち上げ始めた。
この不思議な現象は水面まであと一メートルという所で、水中に漂っていた小枝が彼の頬へと当たるまで続いた。その小枝が当たった衝撃の痛みで彼が目を覚ますと、水は何事も無かったかのように今までの姿を取り戻し、彼の体を持ち上げるのをやめた。
「がぁっ!」
意識を取り戻した彼は口の中に入っていた空気を一気に吐き出し、手足を素早く動かして水面から顔を突き出す。水に濡れた黒い髪の毛が毛先から透明な雫を水の中へと落とし、その茶色い瞳がゴンドラの上にいる少女へと向けられた。
「殺―ごほっ! けほっ! 殺す気か!」
「あ、あわわわっ。す、すいませんー」
後頭部を擦りながら喜怒哀楽の怒の意を前面に出している彼に頭を下げながら謝る少女と、水面から顔を出している彼をゴンドラの上から覗き込みながら観察しているアリア社長。
そのアリア社長の存在に気が付いた彼は目を細めてアリア社長をジッと見詰め返し、首を傾げた後に手を叩いた。
「狸か」
「にゃ!?」
彼の言葉にショックを受けたのか、アリア社長はゆっくりと彼を覗き込んでいた顔を引っ込め、ゴンドラの中央で項垂れ始めた。それに構うことなく彼は少女へと視線を戻し、右手を少女へと向かって伸ばす。
「とにかく、その船に俺を乗せてくれ。話はその後だ」
「は、はいっ」
少女が伸ばされた彼の手を掴むと、それを支えにして彼は階段を上るように水を踏み台にしてゴンドラの上へと上がった。その光景をみた少女は不思議なものを見たような表情を見せていたが、ゴンドラの上に乗った彼が濡れている自分の服を気にしだした事で、その不思議から目を逸らしてしまいます。
「まったく、何で俺はこんな海の中に」
「え?」
「お陰で二回も死ぬかと思った。二度目は殺されかけたがな」
「はうぅっ」
彼の鋭い睨みに少女は怯み。その姿を見た彼は大きな溜め息を吐いてから濡れている自分の服を埃を払うように叩いた。すると、濡れていたはずの服が一瞬にして乾き、通り過ぎる微風でも揺れるようになった。
「これで良し」
「ほぇー、凄いですね。どうしたんですか?」
「これ位お前にもできるだろ? できなかったら半人前よりも酷いぞ」
「え?」
完全に彼の言葉を理解できていない少女。その少女の反応を見た彼は目を細め、しばらくしてから周りを見渡し始めた。
彼の記憶にある故郷とはかけ離れた風景がその視界の中へと入ってきて、さらに彼は眉を顰める。そして、少女へと視線を戻してゆっくりと口を開き始めた。
「一つ、質問をして良いか?」
「はい?」
「ここは何処だ?」
「はひ?」
彼の質問が少女にとっては余り聞かない質問だったのだろう。一瞬目を見開いてから少しだけ黙ってしまう。この反応からして、彼はどうやら自分の質問の仕方が下手だった事に気が付いたが、この時点ではもう取り返しの付かない事である。
「ここはネオ・ヴェネツィアですけど、知らないで来られたんですか?」
「ネオ・ヴェネツィア? ヴェネツィアならイタリアのヴェネト州の州都だが…。ネオ・ヴェネツィア?」
「はい。アクアの港町ネオ・ヴェネツィアです」
アクアの港町ネオ・ヴェネツィア。彼の記憶には少女が言ったネオ・ヴェネツィアという町は存在しない。ヴェネツィアというイタリアの州都なら知ってはいるが、ネオ・ヴェネツィアなんて聞いた事がない。つまり、ここは彼にとって知らない場所であることは確かなようだ。
だがここで冷静さを失ってしまってはいけないし、訓練されている彼はこれ位では冷静さを失わない。
「さて、どうしたものか」
「あの、マンホームからいらしたんですか?」
「マンホール? あんな物の中を移動したくはないな」
「違います。マンホームです」
「……あー、そうだな。そこから来た」
適当に話を合わし、彼はゆっくりと目を閉じて頭を回転させ始めた。これからどうすれば良いか、どう行動するのが最善か。だが、解決策も改善策も浮かばない。言ってしまえば、八方塞という奴だ。
自分ではどうする事もできなければ他人の助力を借りるのが最善なのだが、彼は自分の目の前にいる人物を見て不安を抱かずにはいられなかった。
「どうやらあれだ。記憶が少し飛んでしまっているらしい。どうやってここに来たのか思い出せないし、ここが何処だかも思い出せなかった。ふむ、お前の殺人未遂行動の所為だな」
「ええっ!?」
「多分、お前にとっての一般常識が完全に欠けていると思う。んで、できれば俺の質問に的確に答えられる人物を―」
「大変です! すぐに戻ってアリシアさんに! 掴まっていてください!」
「は? って、うぉっ!」
オールをその手に持ち、少女がゴンドラの先端に立ち、普段とは逆の場所でゴンドラをこぎ始めた。そのスピードは結構な物で、立っていた彼はゴンドラの上で尻餅を付いてしまう。
風が彼の髪の毛を揺らし、横に見える風景がドンドンと変わっていく。それを横目で見ながら彼は進行方向へと目を向け、その先に何もない事を確認してから少女へと目を向けた。
「おいっ! もっとゆっくりと漕がないと危ないだろ」
「大丈夫です。逆漕ぎは得意なんです」
「そんなのは関係無いだろ。それに記憶喪失ってのは一秒二秒で死ぬ病気じゃない。見ろ、俺はすぐにでも死んでしまいそうな奴なのか?」
「でも、対処は早いほうが良いですー」
少女の言っている事は間違ってはいない。記憶喪失でも何でも対処が早ければ結果が良くなるのが多いし、すぐに治る確率が高い。だが、本当は何の異常も無い彼にとっては逆漕ぎで、しかもかなりのスピードを出しているこの状況は事故が起きる確立が高くなっているのでできるだけ回避をしたい。しかも、もう二度も死に掛けているのだ。二度あることは三度あるという言葉を信じているわけではないが、三度目は誰だって御免被りたいだろう。
その為には目の前にいる少女を止めなくてはいけないのだが、今無理矢理止めたら余計に危険な状況になるのではないだろうか。言葉での制止は先程やって失敗に終わっている。なら、今度は少女の手を止めるなどして制止しなければならないのだが、それをやってしまったら高確率でこのゴンドラのバランスが崩れる。このスピードで、その上バランスが崩れたりなんかしたら水の中へと投げ出されてしまう。そうしたらまた嫌な不幸が続くかもしれない。
そう考えると、彼は少女を信じて何も行動をしないほうが最善ではないのかと思ってしまった。
「ぷいにゃ」
「ん?」
進行方向へと目を向けて、その先を見詰めている事にした彼の膝元に、アリア社長がやってきてその膝に手を乗せた。その仕草を見た彼はゆっくりとアリア社長を抱き上げて膝の上に置き、その頭を撫で始める。
「これで死ぬ時は一緒だな」
「にゃっ!?」
「何、お前の主人を信じていないわけじゃない。だが、道連れくらいは欲しいものだ」
腕の中で暴れるアリア社長を押さえ込み、彼は進行方向をジッと見詰める。これから自分がどうなるのかを考えながら、できるだけ幸せな未来が来るのを願いながら。
あとがき
この作品はARIAでのオリキャラを混ぜた物語です。ですが、そのオリキャラがARIAの話に大きく関わる事はありませんし、ストーリー展開を完全に変えてしまうということも控えようと思っています。よって、ARIAの登場人物の誰かとくっ付けようという気もありません。つまり、オリキャラは脇役です。
ただ単に脇役のオリキャラを織り交じる事でちょっとした話の違いを生もうと思っているだけです。言ってしまえば原作とほぼ変わりのない話が淡々と続いていくだけなのです。
普通は劇的に変えてしまうと言うのが多いのでこういうのが需要があるのか分からないのですが、需要があれば続きをドンドン投稿しようと思っております。よろしくお願いします。