水戸便り・下野薬師寺篇

39年前の教え子から宅急便が来ました。開けて見ると、夫の出張土産です、という添え書きで、ベトナムジャスミン茶と蓮花茶が入っていました。そして下野薬師寺リーフレットと、誕生日カード(まもなく私の誕生日なので)が同封されていました。今春、一人娘が自治医大に入学したそうですが、自治医大は7世紀末に天武天皇が創建した薬師寺の跡地に建っている。娘に面会旁々観に行ったんだな、と思いました。

メールを開けると、薬師寺の瓊花の写真が届いていました。

瓊花

薬師寺戒壇を設けた鑑真和上ゆかりの花だそうです。寺の説明板の通り、紫陽花に似てはいますが、甘い香りの忍冬の仲間、隋・唐の皇帝に愛されたという。奈良の唐招提寺へ、鑑真和上の故郷揚州から贈られた木から分けて貰ったのだそうです。ちょうど今が盛り、日曜には写真撮影に来ていた人たちも多かった、とのことでした。

下野薬師寺

戒壇寺院とは上代、国家に認められた僧侶の資格を出せる寺のことで、比叡山、福岡の観世音寺と下野薬師寺でした。三井寺戒壇建立を求め、認可が得られなかった怨念の余りに皇子が早世する話は、平家物語巻3の「頼豪」に語られています。

鑑真和上は何度も暴風に妨げられ、視力を喪いながら僻地の日本に仏教を広めるために来日、鹿児島から佐賀の嘉瀬に上陸し、奈良へ、そして下野にもやって来たのです。調べると、瓊花は佐賀の森林公園にも植えられているという。嘉瀬は鹿谷事件に連座して鬼界ヶ島へ流された成経・康頼が、赦されて帰京する際に滞在した地でもありました。

下野薬師寺はその後、足利尊氏らによって禅宗に改宗され、安国寺と改名して、戦国時代に焼失していたのですが、近くの龍興寺と本家争いが続き、平成29(2017)年、本堂大修理を機に薬師寺を名乗ることにしたのだそうです。公式サイトがあります。

保元物語平治物語古活字版

阿部亮太さんの論文「『保元物語』『平治物語』に見る古活字版刊行事業の一端ー第一種と第十一種を中心にー」(「国文学研究資料館紀要」文学研究篇50)を読みました。保元平治物語の古活字版の中、川瀬一馬氏の分類によって慶長年間の平仮名10行本(第一種)と元和4年刊片仮名11行(第十一種)とを取り上げ、刊行作業の経緯を推定した論文です。ああ印刷の話か、と思う勿れ。版面を注意深く観察し、印刷工の作業を推測し、その背景を想像する過程は、極上の推理小説を読むよりスリリングで、面白い。国文学研究資料館のレポジトリでも読めるそうで、一読をお奨め。

近世も半ば以降の整版本では保元平治物語は一揃いとして出版されますが、最初に出された慶長古活字版も(元和古活字版も)、欠損のある同じ活字を使用しているところから、すでに一揃いとして出版されたと、阿部さんは判断しました。また活字の差し替えによる誤字訂正、字母の同じ活字が並ばないよう差し替える例もあり、同じ第一種の中でも伝本ごとに異同が見られ、手作業によって製作される古活字版は限りなく写本に近いという。何らかの理由で挿入された補写丁の筆者が版下筆者と同一である可能性も指摘しました。製本されるまで、差し替えの行われた刷りもそれ以前の刷りも区別せずに積まれていたらしく、伝本ごとに先後関係を判定することはできない、としています。

ごく初期の保元物語平治物語の古活字版が平仮名交じりで、後期になると片仮名交じりになるのは何故なのか、私も気になっていました。阿部さんは片仮名の方が校閲回数が少なくて済み、低コスト化の一環だったのでは、と言うのですが、私は当時の読者にとって保元平治物語は、史書である前に「物語」だったのであり、平家物語源平盛衰記の刊行につれて史書志向が高まったのかなと考えていました。

役員当番

今日はマンション管理組合の総会、会場は区役所の会議室です。新年度から役員に当たっているので、出なければなりません。食後の珈琲は1階のカフェで飲むことにして、早めにワンコインバスに乗りました。礫川公園の八重桜はもう終わったようで、街は新緑と水木の白い花で輝いていました。

日曜の朝のカフェは、外国人夫婦、書き物をしている老婦人、話し込む老人2人連れ、コンサートホールに出演するのかバイオリンケースを抱えた、ちょっと昂進している女性・・・杖を衝いている私を心配して、店員がカップを運んでくれました。薄い!久しぶりで店の珈琲を飲んだので、思わず声に出しそうになりました。所謂アメリカンコーヒーよりも薄い。こんなものだったっけ?早々に飲み干して4階へ昇りました。

ここの管理組合総会は当初は夫婦連れで出席する人が多く(1世帯2人で手を挙げたりしていたけど議決権は正しく数えていたのかなあ)、役員会には男たちが出てきて(ふつう主婦たちで運営するものだと思っていたのですが)オトコ目線で運営するため、生活実感とは遠く、設備とカネの話が主でした。結果として業者の提案に引っ張られていくので、年金生活者は堪らない。何とかしておかなくては、と思うようになりました。建て替え時期の折り返し地点でもあるし。今日の議題の目玉は、地下駐車場をリースに出す話。業者の作った資料はいかにも資金が浮くように見えるのですが、年間経費を1ヶ月当たりで出していたり、初期費用は小文字で書いてあったり、どこぞの政府の新政策そっくりです。昨夜2時間かかってコスト計算しました(この忙しいのに!)

役員任期のこの1年は、憂鬱色で染まりそうです。つい学会質疑のように、ピンポイントで攻め込まないようにしなくっちゃ。エノキさんが心配しています。

川越便り・晩春篇

川越の友人からは、今年は山野草の花つきがわるくて、と写メールが来ました。

大花延齢草

【大花延齢草はもう1鉢植えたのですが、あまり成長が芳しくないので、蕾を少し開いて覗いたら、中で腐ってしまっていました。】

うーむ、この花も皺が寄って苦しそう。我が家でも薔薇の葉が、新芽を広げたと思ったらすぐからからに乾いて枯れ、落ちます。毎朝霧を吹いてやり、水はたっぷり与えている所存なのですが・・・去年は菊も葉がちりちりと枯れて、花つきは例年の4割くらいでした。空気中の湿気が足りないのか、暑さ寒さが極端にぶれるせいなのか。

蝦夷花忍

写真の背景を加工したのでしょうか、すっきりと綺麗に撮れていますが、こちらも苦労して咲いたのでしょうね。我が家では、去年の晩春に買って来た朱鷺色のペチュニャ1株がとうとう1年保ち、真冬の2ヶ月だけ花をつけませんでしたが、暖かくなってからは次々に咲いています。健気で愛おしい気がします。

郵便局へ出かけたら、小手毬や木香薔薇や十二単など、それぞれの家の庭先に季節を確認させる花が咲いていました。思いがけず牡丹の1株も発見。近隣の花のありかを訪ね歩くのも人知れぬ楽しみの一つです。

川越の牡丹

ふと、小手毬の名を初めて知った時のことを思い出しました。子供の頃、身近に意地悪な女性が1人いて、でも何故かこの花の名を教えて呉れた時は上機嫌だったことを、唐突に思い出したのです。こうして、自分の過去のあれこれと和解していくのが、晩年なのでしょうか。小手毬があってよかった、と暖かな陽光を浴びながら帰りました。

今年もはや晩春ですー来年の桜に逢うまで1年もあると思うと気が遠くなる、と徳島の原水さんからメールが来ていました。同感。

躑躅の街

朝、顔を洗おうとしたところで、ピンポーンが鳴りました。宅急便にしては早すぎる、ゆうパックならロッカーへ入れて行くだろうと思って、インターホンの映像を呼び出してみると、何やら装備万全の男たち。消防署だが階下の家に立ち入る必要があるので、ベランダの非常梯子を使うかも知れないと言う。こちらは未だパジャマ姿です。どうすればいいんだ、とりあえずズボンだけでも穿き換えるか、とうろうろ。

先日エノキさんと、最近の若い人はパジャマを着ない、スェットの上下で部屋着・寝間着兼用、コンビニくらいへは外出もする、という話をしたばかりでした。パジャマはデザインも柄も、はっきり「パジャマです」と名乗っている。スェット生活は合理的なのかも、と考えたところで、隣室から入れましたとの連絡があり、やれやれ。残り湯に入って毎朝恒例のストレッチをこなしました。後で聞くと、高齢夫婦の世帯に電話しても応答がないからと、マンションの管理人(思い込みのつよい女性なんです)が消防を呼んだらしい。じつはお向かいにお子さん夫婦が住んでいるんだけど・・・

買物に出たら、外はすっかり躑躅の街になっていました(米子の街を思い出します)。再開発されて新築ビルが建ち並んだ春日町では特に、新緑の木々の下草代わりに、鮮やかな色の躑躅が姫卯木や山吹と共に植え込まれています。本屋へ寄り、スーパーで野菜を買って、菊坂の裏通りを歩いて帰りました。かかりつけ医が突然辞めてから2、3年通らなかった間に一戸建てやアパートが随分建て変わり、カフェが1軒開店していました。いつか人と待ち合わせることがあるかも知れない、と名刺を貰って帰りました。

坂の手前で管理人に遭いました。階下はただ外出中だっただけらしい。独居老人は人騒がせの種だと疎まれないようにしなくては、と思いながら坂を登りました。

書評京都の中世史

松薗斉さんの「『京都の中世史➀摂関政治から院政へ』を読む」(季刊「古代文化」3月号)を読みました。吉川弘文館から出た叢書『京都の中世史』第1巻(編集代表元木泰雄)の書評ですが、通史としての立脚点、企画構成そのものから論じています。私は本書を読んでいない(気にはなっていたが、この版元が手を変え品を変え、矢継ぎ早に出す通史を購入、読了するのに疲れた)のですが、書評の内容には納得しました。

約半世紀前に出た叢書『京都の歴史』(学芸書林)と対比しながら論じるのも、書評としてはユニークだが成功していると思います。本書は叢書名にふさわしく、都市としての京都、の構造的変化ー京・白河という新たな市域の形成を以て時代区分としていることに、松薗さんは注目、共感しています。つまり令制の機構外に構築されていく政治権力(令制の統治機構から逸脱して権力を拡大した藤原道長が、結果的に院政への道を開いた)の変化を追うことで、通史として一貫することができているというのです。保元物語平治物語やその頃の説話を思い浮かべて、腑に落ちるところがあります。

昇殿制度や小朝拝など宮中年中行事に関する見方も、平家物語の語る挿話を参照すると松薗さんの見解に納得がいきます。許認可制度や恒例行事は、それに参加する者たちにとって必ず二重の意味がある。そしてそれらによって旧秩序は維持され、新興階級はそれらを利用しながら作り変えていく。

『京都の歴史』を特徴づけていた林屋辰三郎の庶民史観的熱意はもはや本書にはないが、京都の空気に全身浸されて人と成った研究者たちならではの大業であると述べています。松薗さんからの添え書きには、この抜刷を発送する日、図らずも元木さんの葬儀に参列することになり、最後の手向けになってしまった、とありました。

サプリメント

紅麹なるものは今まで知らなかったのですが、食品の色付けやサプリメントに広く使われていたのだそうで、原因は不明なまま病害を引き起こしたことで有名になりました。服用していた人たちは、麹なら天然素材という安心感があったと思います。薬もワクチンも一切使わない、と標榜している美容院の親父と、あれは発生後の製薬会社の対応がわるい、という話で意見が一致しました。

密かに思うのは、開発者は真剣だが権利を譲り受けて商売にする辺りから問題が起きやすい、ということです。責任の感じ方が違う。対象への愛着が違うからかもしれません。健康被害が見つかって以降の対応がひどすぎる。発表、報告が遅いのはもとより、原因は分からないと言われた被害者や顧客の気持ちを、想像したことがあるのか。研究開発部があるのだろうから、不眠不休で原因解明に総力を挙げるべきでしょう。

亡父は食後、サプリメントをずらりと並べて服用するので呆れられていました。70歳過ぎるまで週6日は御前様でしたから、それが唯一の健康法だったのです。でもあの頃のサプリメントは、殆どが天然素材由来(麦芽とか肝油とか)で、次第に薬品に近い製造法のものが出回るようになってきました。私はアリナミンの害が言われるようになってから、サプリメントの類は全く使いませんでした。

健康によい成分でも、濃縮して毎日摂取していたら思わぬ害があり得る、薬品ほど厳格な規制がない、と知って、自分の選択が正しかったことに安心しました。私流のサプリメントは、例えば朝食に果物やヨーグルトを欠かさない、、チョコレートや珈琲を毎日少し、必ず摂る、といった習慣です。いま閉口しているのは、歯科衛生士がしつこく勧めるフッ素の洗口液、毎晩口に溜めるのは気が進まない。断る口実を探しています。