花の名残り

今日あたり、桜前線津軽海峡を渡っているでしょうか。我が家のベランダでは紫蘭や立浪草が咲き始め、石榴の蕾が赫い新芽の間から見えるようになってきました。紫蘭は根茎が伸びるので、鉢の縁に沿って芽を出しますが、我が家の小さい鉢では日に向かって傾きながら葉を広げ、まるで女子フィギュアスケートの選手が、片足を揚げながらリンクを回っていくような姿をしています。狭い天地でごめんね。

川越から送られた撫子を播種した鉢には小さな芽がいろいろ出てきましたが、どれが撫子なのか分かりません。川越に問い合わせたのですが、本家では未だ発芽していないらしい。素馨花が頭が痛くなるほど濃厚な芳香を放つ白い花房を捧げ、窓辺でこの香りに包まれる読書が、1年の中でも特別な楽しみです。しかし今日は南風が強くて、界隈の工事現場から砂埃が舞い込み、窓が開けられません。1階の庭先に植えられた桜の木が大きくなり、散る花びらが風に吹き上げられて、4階の我が家のベランダにも落花の風情。

山形で暮らす従妹の一人娘から、日本酒が1本届きました。山形大学が開発した限定物、今年は自信作ができたとのことなので送ります、という添え書きがありました。近年は大学も起業して資金を稼がねばならない御時世。銘柄は「燦樹」、きらめきと読ませるようです。花見酒だな、とまず仏壇に上げました。長野から貰った蕗の薹が漬けてあったことを思い出しました。胡麻油で素揚げし、甘酢に漬けておいたのです。早速味見ー常温の燦樹は、べたつかず、ほどよい爽やかさ。肴はぴったりでした。だしに甘酢で味をつけた、くらいの薄味がコツ。美しい薄緑も残っています。仏壇に上げておいた盃を冷やしてみたところ、風味はさらに明瞭になりました。

花の名残りを思う酒ー今夜は休肝日の予定でしたが、あえなく挫折。

番外編:太平記の人々に出会う旅② 第87回「鎌倉市・稲村ヶ崎の奇跡」

 後醍醐天皇に従って、実質的に鎌倉幕府を滅亡させたのは新田義貞です。義貞は上野国新田庄出身の河内源氏で、頼朝や義仲と同じく八幡太郎義家の子孫になります。

稲村ヶ崎
 元弘三年(1333)、義貞は小手指河原(所沢市)・分倍河原府中市)で幕府軍を破り、鎌倉へ向かいます。しかし、三方を山、一方を海で守られた鎌倉に攻め入るのは困難です。義貞は極楽寺の切り通しに向かいますが、その手前にあるのが稲村ヶ崎です。


稲村ヶ崎新田義貞徒渉伝説地】
 稲村ヶ崎の狭い砂浜の道は障害物で塞がれており、海上には敵の船が待ち構えています。義貞は海に向かって龍神に祈り、黄金作りの太刀を海中に投げ入れると、見る見る潮が引いて砂浜が広がったということです。(巻三「稲村崎成干潟事」)


稲村ヶ崎から江ノ島遠望】
 『保暦間記』には、稲村ヶ崎と頼朝の死にまつわる記事があります。『吾妻鏡』は、頼朝が相模川の橋供養の帰途に落馬し間もなく死去したと記していますが、『保暦間記』では、その帰途、八的が原で叔父の信太義広や行家、弟義経らの霊が出現し、稲村ヶ崎では安徳天皇が現れて、それ以降病気となり、翌年死去したとしています。


〈交通〉
江ノ島電鉄稲村ヶ崎駅
      (伊藤悦子)

維盛の高野巡礼

谷口耕一さんの「延慶本平家物語における維盛の高野巡礼ー延慶本特有の語句の由来をめぐってー」(『古代中世文学論考』第52集 新典社)という論文を読みました。

平家物語巻10は一の谷で捕らえられた重衡と、それ以前に脱落した維盛の物語が主な内容となっていますが、延慶本でも巻10(第5末)の大半がこの2人の物語で占められています。延慶本の特色は維盛が入水前に高野山を巡る記事と、更に粉河寺に参拝する記事が詳しいことですが、その高野山巡拝記事にはやや特殊な語彙が見られること、巡拝する堂塔の配置が史実に合わないことに注目して、谷口さんは延慶本の増補改訂の環境を推測できるのではないかと考えました。

谷口さんはすでに維盛の粉河寺詣についての考察を書いている(「千葉大社会文化科学研究科研究プロジェクト報告書」103 2004/2)のですが、こういう報告書はなかなか一般には入手しにくいので、まとめて単行本化して欲しいものです。

十数年前、谷口さんの恩師栃木孝惟さん(私には大学院の先輩に当たる)と私とでチームを組んで、校訂延慶本平家物語校勘・出版を試みた時、中心になって牽引してくれたのは谷口さんでした。高校教諭の多忙さの中で、細かな作業に厭な顔もせず、知恵と手間を提供してくれました。巻10を担当したのは私ですが、この維盛記事の特異性に彼が注目していたのはその頃からです。

本論文の結論は、延慶本巻10ー11「惟盛高野巡礼之事」は室町時代になってから、根来寺蓮華院の僧によって改訂されたであろうということ、また記事中に禅宗の教義と関係ある語が見え、根来寺では禅宗の教義を援用して密教の解釈を行っていたことを考えると、延慶本の他の部分についても関連してくる可能性がある、ということでした。

川越便り・清雲寺篇

川越の友人から、花を追ってドライブした、と写メールが来ました。

清雲寺の枝垂桜

秩父の清雲寺は、我が家からは国道299号線でほぼ一本道で秩父市まで、さらに山梨へ続く街道をまっすぐですから非常に行きやすい。毎年のように桜を見にいきます。

有名なエドヒガンは寺創建時に植えられたもの、樹齢は600年を超えます。残念ながらすでに散っています(ソメイヨシノより早咲き)が、遅咲きの紅枝垂が満開です。

どこかの老人クラブらしき団体の老人たちが、思い思いに木の下やベンチに座って写生をしていました。桜の枝の下にシートを敷いて、持参のお弁当を広げている人たちも多くいました。そのため、なかなか写真を撮るベストポジションを得られません。】

花見の人々

【途中の山道は西武鉄道の線路とほぼ並行して川沿いをたどるので、あちらこちらの民家や、公共施設、寺社のあるところには必ず満開の桜が咲いており、山肌にも桜が雲のように咲き、新緑の薄緑のグラデーションが実に美しい。】

さまざまの桜

白い花は梅のように見えますが、枝垂桜にもいろいろ種類があるようです。今年は開花が遅いような気がしましたが、考えてみれば、かつては入学式の頃に咲くので学校に植えられたのでした。入学試験は沈丁花、卒業式は桃の花、そして入学式は桜、と思い出に結びついていたものです。毎年開花が早くなるので、花見には未だ寒すぎる、ちょうどいい時季に咲く品種を開発中だという話を聞きました。染井吉野が桜を代表するのはこの先、長くないかも知れません。

桜前線はいま日本列島のどの辺を通過しているのでしょうか。それを想像するのもこの季節の楽しみの一つです。今年はワシントンへ手土産に持参された苗木が250本あったという。グローバルパートナーとやらが、ずっと平和友好の間柄で終わりますように。

古典籍の文献学

「書物学」25号『古典籍の文献学ー鶴見大学図書館の蒐書を巡る』(2024/3 勉誠社)という1冊が出ました。鶴見大学総持学園)創立百周年記念事業の一環だそうです。鶴見大学図書館の蔵書の豪華さは有名ですが、目の利く専門家がいるからこそ出来るコレクションー古筆断簡や経典など、貴重でもあり、鑑定が難しくもある資料が多いことが特徴です。本誌の目次を見てもそれが分かります。

本誌は1物語と歌書 2仏書・漢籍・洋学・アーカイブの2部構成で、私は平藤幸さんの「『平家物語長門切」と石澤一志さんの「十三代集とその周辺」を興深く読みました。長門切を最初に蒐集し始めたのは鶴見大学で、私も40年近く前、岩佐美代子さんから勧められて拝見に行き、読み本系平家物語諸本の流動の広大さを改めて認識したものでした。本誌には鶴見大学所蔵17葉のカラー写真が載っていて、伝来の間の環境によるのか、料紙の色が各々違って見え、初めて見たら同一の巻子本が切断されたとは思えないだろうということがよく分かります。

全冊を通して古典籍のカラー写真がふんだんに掲載され、それを見るだけでも幸福な満腹感を味わえますが、様々な分野の解説を簡潔に書ける人材が揃っていることにも感服しました。国文学だけでなく「本邦における仏典の書写・請来・印刷」や「禅籍からはじまる日本出版文化」、『観普賢経私記』の書誌など、近年の学界を覆う仏教資料重視の因由を納得できる入門書としても有益でしょう。

最後に載っている大矢一志さんの「でんしかしよう!」は、タイムリーな1本。素人も怖がらず資料の電子化に参入できることは、これからの若手研究者には必須。本誌は定価¥2000+税、お買得だと思います。

去りゆく花

今年の桜は咲くまで散々焦らされて、咲き始めたらあっという間、満開直後から風雨に遭い・・・という具合で気が揉めました。枝垂桜も染井吉野も八重桜も殆ど同時に咲き始めてしまい(例年なら順次楽しめるのに)、見歩くのにも気が急きます。

まず長泉寺の八重桜を見に境内へ入ると、巨大なクレーンが麒麟のように首を伸ばし、青空と満開の八重桜の上空を徘徊する光景に出くわしました。菊坂ホテル跡地にあった会社が退去して、大規模なワンルームマンションの建設が始まったのです。よく見ると昨夜の嵐で折れたのか、大きな枝が蔓草に吊られていました。花は萎れかけていましたが、未だ間に合う、と辺りを見回し、墓参用の手桶に水を張って投げ入れておきました。庫裡にでも活けてくれるといいな、と。

赤門脇の八重桜は九分咲き。何やら工事中らしく片寄せてあったベンチに座って、新聞を読みました。頁を繰るのに目を上げると、宙一杯の華。贅沢な時間でした。来年も見られるかしら。自分が元気かどうかもあるが、まさかこの工事で伐採されませんように。

古木になって花が少なくなったけど、と思いながら法真寺に入ってみました。狭い境内一杯に植え足した若木の八重桜が育って満開になり、柳や染井吉野御衣黄などと混じって賑やかになっています。その話をしながら扇屋で、道明寺と桜饅頭を買いました。帰宅して紙箱を空けたら、ふわあっと桜の香りが立ち、陶然となりました。

番茶を淹れてメールを開けると、元木泰雄さんの訃報が何通も飛び込んできました。ここ暫く体調が悪いと言いながら、いつも丁寧なお便りを下さいました。お書きになった物も次々頂いて、我が家には元木コーナーが出来ていたほど。殊に平治の乱についての見解には、蒙を啓かれました。戦闘的だが温厚な方でした。 合掌。

久松山

伏見の錦織勤さんから、夫婦で鳥取へ行ってきた、と写メールが来ました。

久松山の桜

【ガッカリしたのは、たった6年前なのに、町の地理をまったく忘れてしまっていたことです。今どの辺にいるのか、そこからどう行けば目的の場所に行けるか、すぐにはピンと来ないようになっていました(2人とも)。2日ほど車であちこちしたら、だいぶ思い出しましたが、人間の記憶力というのは頼りないものだ、と思いました。

鳥取の町は、かなり様変わりしていました。若狭街道に唯一残っていた書店がなくなって、市役所が移転し、跡地が病院になっていました。変わっていなかったのは久松山の桜。堀の外から眺めただけでしたが、昔と変わらぬ見事な満開の桜でした】。

城跡の枡形復元工事中

大雪のニュースなどで鳥取駅前の映像が出ると、見違えるほど小綺麗になっています(でも、朝早く地下街を通ると鼬が走っているのは変わりません、とかつての教え子から聞かされました)。私が赴任した時は、未だ城址には崩れた石がごろごろしていて、歩くだけですでに登山気分でした。踊り子草が大輪の花をつけ、これほんとに野生?と思ったくらいです。その後、観光できる程度に整備されたようです。

このお濠には鯉がいて、日曜の朝、袋一杯のパンの耳を持ってきて鯉にやっている女性がいました。近所の喫茶店主、サンドイッチの残りだそうです。私にも分けてくれたので、暫く並んで投げました。

久松山は263m、室町後期に城ができ、天正9(1581)年、秀吉の兵糧攻めに遭って、無惨な落城を遂げました。江戸時代は池田氏の居城で、取り壊されたのは明治の陸軍によってだったとのこと。市内に住んでいた頃、毎朝5時過ぎに2度、枕元がやかましくなる時間があって、日課に久松山を登り降りする人たちがいるのだと知りました。