躑躅の街

朝、顔を洗おうとしたところで、ピンポーンが鳴りました。宅急便にしては早すぎる、ゆうパックならロッカーへ入れて行くだろうと思って、インターホンの映像を呼び出してみると、何やら装備万全の男たち。消防署だが階下の家に立ち入る必要があるので、ベランダの非常梯子を使うかも知れないと言う。こちらは未だパジャマ姿です。どうすればいいんだ、とりあえずズボンだけでも穿き換えるか、とうろうろ。

先日エノキさんと、最近の若い人はパジャマを着ない、スェットの上下で部屋着・寝間着兼用、コンビニくらいへは外出もする、という話をしたばかりでした。パジャマはデザインがはっきり「パジャマです」と名乗っている。スェット生活は合理的なのかも、と考えたところで、隣室から入れましたとの連絡があり、やれやれ。残り湯に入って毎朝恒例のストレッチをこなしました。後で聞くと、高齢夫婦の世帯に電話しても応答がないからと、マンションの管理人(思い込みのつよい女性なんです)が呼んだらしい。じつはお向かいにお子さん夫婦が住んでいるんだけど・・・

買物に出たら、外はすっかり躑躅の街になっていました。米子の街を思い出します。再開発されて新築ビルが建ち並んだ春日町では特に、新緑の木々の下草代わりに、鮮やかな色の躑躅が姫卯木や山吹と共に植え込まれています。本屋へ寄り、スーパーで野菜を買って、菊坂の裏通りを歩いて帰りました。かかりつけ医が突然辞めてから2、3年通らなかった間に一戸建てやアパートが随分建て変わり、カフェが1軒開店していました。いつか人と待ち合わせることがあるかも知れない、と名刺を貰って帰りました。

坂の手前で管理人に遭いました。階下はただ外出中だっただけらしい。独居老人は人騒がせの種だと疎まれないようにしなくては、と思いながら坂を登りました。

書評京都の中世史

松薗斉さんの「『京都の中世史➀摂関政治から院政へ』を読む」(季刊「古代文化」3月号)を読みました。吉川弘文館から出た叢書『京都の中世史』第1巻(編集代表元木泰雄)の書評ですが、通史としての立脚点、企画構成そのものから論じています。私は本書を読んでいない(気にはなっていたが、この版元が手を変え品を変え、矢継ぎ早に出す通史を購入、読了するのに疲れた)のですが、書評の内容には納得しました。

約半世紀前に出た叢書『京都の歴史』(学芸書林)と対比しながら論じるのも、書評としてはユニークだが成功していると思います。本書は叢書名にふさわしく、都市としての京都、の構造的変化ー京・白河という新たな市域の形成を以て時代区分としていることに、松薗さんは注目、共感しています。つまり令制の機構外に構築されていく政治権力(令制の統治機構から逸脱して権力を拡大した藤原道長が、結果的に院政への道を開いた)の変化を追うことで、通史として一貫することができているというのです。保元物語平治物語やその頃の説話を思い浮かべて、腑に落ちるところがあります。

昇殿制度や小朝拝など宮中年中行事に関する見方も、平家物語の語る挿話を参照すると松薗さんの見解に納得がいきます。許認可制度や恒例行事は、それに参加する者たちにとって必ず二重の意味がある。そしてそれらによって旧秩序は維持され、新興階級はそれらを利用しながら作り変えていく。

『京都の歴史』を特徴づけていた林屋辰三郎の庶民史観的熱意はもはや本書にはないが、京都の空気に全身浸されて人と成った研究者たちならではの大業であると述べています。松薗さんからの添え書きには、この抜刷を発送する日、図らずも元木さんの葬儀に参列することになり、最後の手向けになってしまった、とありました。

サプリメント

紅麹なるものは今まで知らなかったのですが、食品の色付けやサプリメントに広く使われていたのだそうで、原因は不明なまま病害を引き起こしたことで有名になりました。服用していた人たちは、麹なら天然素材という安心感があったと思います。薬もワクチンも一切使わない、と標榜している美容院の親父と、あれは発生後の製薬会社の対応がわるい、という話で意見が一致しました。

密かに思うのは、開発者は真剣だが権利を譲り受けて商売にする辺りから問題が起きやすい、ということです。責任の感じ方が違う。対象への愛着が違うからかもしれません。健康被害が見つかって以降の対応がひどすぎる。発表、報告が遅いのはもとより、原因は分からないと言われた被害者や顧客の気持ちを、想像したことがあるのか。研究開発部があるのだろうから、不眠不休で原因解明に総力を挙げるべきでしょう。

亡父は食後、サプリメントをずらりと並べて服用するので呆れられていました。70歳過ぎるまで週6日は御前様でしたから、それが唯一の健康法だったのです。でもあの頃のサプリメントは、殆どが天然素材由来(麦芽とか肝油とか)で、次第に薬品に近い製造法のものが出回るようになってきました。私はアリナミンの害が言われるようになってから、サプリメントの類は全く使いませんでした。

健康によい成分でも、濃縮して毎日摂取していたら思わぬ害があり得る、薬品ほど厳格な規制がない、と知って、自分の選択が正しかったことに安心しました。私流のサプリメントは、例えば朝食に果物やヨーグルトを欠かさない、、チョコレートや珈琲を毎日少し、必ず摂る、といった習慣です。いま閉口しているのは、歯科衛生士がしつこく勧めるフッ素の洗口液、毎晩口に溜めるのは気が進まない。断る口実を探しています。

花の名残り

今日あたり、桜前線津軽海峡を渡っているでしょうか。我が家のベランダでは紫蘭や立浪草が咲き始め、石榴の蕾が赫い新芽の間から見えるようになってきました。紫蘭は根茎が伸びるので、鉢の縁に沿って芽を出しますが、我が家の小さい鉢では日に向かって傾きながら葉を広げ、まるで女子フィギュアスケートの選手が、片足を揚げながらリンクを回っていくような姿をしています。狭い天地でごめんね。

川越から送られた撫子を播種した鉢には小さな芽がいろいろ出てきましたが、どれが撫子なのか分かりません。川越に問い合わせたのですが、本家では未だ発芽していないらしい。素馨花が頭が痛くなるほど濃厚な芳香を放つ白い花房を捧げ、窓辺でこの香りに包まれる読書が、1年の中でも特別な楽しみです。しかし今日は南風が強くて、界隈の工事現場から砂埃が舞い込み、窓が開けられません。1階の庭先に植えられた桜の木が大きくなり、散る花びらが風に吹き上げられて、4階の我が家のベランダにも落花の風情。

山形で暮らす従妹の一人娘から、日本酒が1本届きました。山形大学が開発した限定物、今年は自信作ができたとのことなので送ります、という添え書きがありました。近年は大学も起業して資金を稼がねばならない御時世。銘柄は「燦樹」、きらめきと読ませるようです。花見酒だな、とまず仏壇に上げました。長野から貰った蕗の薹が漬けてあったことを思い出しました。胡麻油で素揚げし、甘酢に漬けておいたのです。早速味見ー常温の燦樹は、べたつかず、ほどよい爽やかさ。肴はぴったりでした。だしに甘酢で味をつけた、くらいの薄味がコツ。美しい薄緑も残っています。仏壇に上げておいた盃を冷やしてみたところ、風味はさらに明瞭になりました。

花の名残りを思う酒ー今夜は休肝日の予定でしたが、あえなく挫折。

番外編:太平記の人々に出会う旅② 第87回「鎌倉市・稲村ヶ崎の奇跡」

 後醍醐天皇に従って、実質的に鎌倉幕府を滅亡させたのは新田義貞です。義貞は上野国新田庄出身の河内源氏で、頼朝や義仲と同じく八幡太郎義家の子孫になります。

稲村ヶ崎
 元弘三年(1333)、義貞は小手指河原(所沢市)・分倍河原府中市)で幕府軍を破り、鎌倉へ向かいます。しかし、三方を山、一方を海で守られた鎌倉に攻め入るのは困難です。義貞は極楽寺の切り通しに向かいますが、その手前にあるのが稲村ヶ崎です。


稲村ヶ崎新田義貞徒渉伝説地】
 稲村ヶ崎の狭い砂浜の道は障害物で塞がれており、海上には敵の船が待ち構えています。義貞は海に向かって龍神に祈り、黄金作りの太刀を海中に投げ入れると、見る見る潮が引いて砂浜が広がったということです。(巻三「稲村崎成干潟事」)


稲村ヶ崎から江ノ島遠望】
 『保暦間記』には、稲村ヶ崎と頼朝の死にまつわる記事があります。『吾妻鏡』は、頼朝が相模川の橋供養の帰途に落馬し間もなく死去したと記していますが、『保暦間記』では、その帰途、八的が原で叔父の信太義広や行家、弟義経らの霊が出現し、稲村ヶ崎では安徳天皇が現れて、それ以降病気となり、翌年死去したとしています。


〈交通〉
江ノ島電鉄稲村ヶ崎駅
      (伊藤悦子)

維盛の高野巡礼

谷口耕一さんの「延慶本平家物語における維盛の高野巡礼ー延慶本特有の語句の由来をめぐってー」(『古代中世文学論考』第52集 新典社)という論文を読みました。

平家物語巻10は一の谷で捕らえられた重衡と、それ以前に脱落した維盛の物語が主な内容となっていますが、延慶本でも巻10(第5末)の大半がこの2人の物語で占められています。延慶本の特色は維盛が入水前に高野山を巡る記事と、更に粉河寺に参拝する記事が詳しいことですが、その高野山巡拝記事にはやや特殊な語彙が見られること、巡拝する堂塔の配置が史実に合わないことに注目して、谷口さんは延慶本の増補改訂の環境を推測できるのではないかと考えました。

谷口さんはすでに維盛の粉河寺詣についての考察を書いている(「千葉大社会文化科学研究科研究プロジェクト報告書」103 2004/2)のですが、こういう報告書はなかなか一般には入手しにくいので、まとめて単行本化して欲しいものです。

十数年前、谷口さんの恩師栃木孝惟さん(私には大学院の先輩に当たる)と私とでチームを組んで、校訂延慶本平家物語校勘・出版を試みた時、中心になって牽引してくれたのは谷口さんでした。高校教諭の多忙さの中で、細かな作業に厭な顔もせず、知恵と手間を提供してくれました。巻10を担当したのは私ですが、この維盛記事の特異性に彼が注目していたのはその頃からです。

本論文の結論は、延慶本巻10ー11「惟盛高野巡礼之事」は室町時代になってから、根来寺蓮華院の僧によって改訂されたであろうということ、また記事中に禅宗の教義と関係ある語が見え、根来寺では禅宗の教義を援用して密教の解釈を行っていたことを考えると、延慶本の他の部分についても関連してくる可能性がある、ということでした。

川越便り・清雲寺篇

川越の友人から、花を追ってドライブした、と写メールが来ました。

清雲寺の枝垂桜

秩父の清雲寺は、我が家からは国道299号線でほぼ一本道で秩父市まで、さらに山梨へ続く街道をまっすぐですから非常に行きやすい。毎年のように桜を見にいきます。

有名なエドヒガンは寺創建時に植えられたもの、樹齢は600年を超えます。残念ながらすでに散っています(ソメイヨシノより早咲き)が、遅咲きの紅枝垂が満開です。

どこかの老人クラブらしき団体の老人たちが、思い思いに木の下やベンチに座って写生をしていました。桜の枝の下にシートを敷いて、持参のお弁当を広げている人たちも多くいました。そのため、なかなか写真を撮るベストポジションを得られません。】

花見の人々

【途中の山道は西武鉄道の線路とほぼ並行して川沿いをたどるので、あちらこちらの民家や、公共施設、寺社のあるところには必ず満開の桜が咲いており、山肌にも桜が雲のように咲き、新緑の薄緑のグラデーションが実に美しい。】

さまざまの桜

白い花は梅のように見えますが、枝垂桜にもいろいろ種類があるようです。今年は開花が遅いような気がしましたが、考えてみれば、かつては入学式の頃に咲くので学校に植えられたのでした。入学試験は沈丁花、卒業式は桃の花、そして入学式は桜、と思い出に結びついていたものです。毎年開花が早くなるので、花見には未だ寒すぎる、ちょうどいい時季に咲く品種を開発中だという話を聞きました。染井吉野が桜を代表するのはこの先、長くないかも知れません。

桜前線はいま日本列島のどの辺を通過しているのでしょうか。それを想像するのもこの季節の楽しみの一つです。今年はワシントンへ手土産に持参された苗木が250本あったという。グローバルパートナーとやらが、ずっと平和友好の間柄で終わりますように。