日々雑録

40歳、書籍編集者の日記です。

恋と愛と目の狂い

19歳の春、生まれて初めてすごく好きな人ができた。17歳の、細身で、明らかにやんちゃな、少しだけ影のある、音楽とクラブが好きな、高校をドロップアウトし、その日暮らしをしている男の子だった。

その頃、私はまだ東京の暮らしに慣れておらず、DMRなどレコード屋さんの場所があまりわからず、今度案内してもらうということになって、その前に高円寺でご飯でも食べようと待ち合わせたのが最初。ちなみに待ち合わせ場所には、もうひとり男の子がいた。明らかにバンドやってる、ヒッピー風の子。「はじめまして」と言ったら「はじめましてだって~」と大笑いした彼は、地元の中学の同級生だった。彼は中学時代、めちゃくちゃヤンキーだったので、あまりの変わりように全然わからなかったのだ(その後、彼はアフリカに行くと家を引き払って以降、どうしたのかわからないんだけど、元気だろうか)。

以来、紆余曲折あってすぐに付き合うことになり、顔を見るだけでうっとりしたし、片時も離れたくないと思うほどに好きになった。一時は大学にも行かず、ほぼ一緒にいたくらい。あとで聞くと、地元にいた私の母は、その状況を知っていたけど(一生に一度は、そのくらい誰かを好きになって、恋愛にのめり込む時期もあっていい)と思って見守ってくれていたそうだ。

それでも、大学時代、私は長期休暇になると親許に長く帰省した。卒業後も絶対に閉鎖的な田舎には帰りたくなくて、東京で暮らすと決めていたからだ。働き出したら長くは帰れなくなる、親と過ごせる時間は有限だと知っていたから。帰省して、両親の許で子ども時代の最後を楽しみ、両親が喜ぶことを一緒にしたいと思っていた。

長期休暇を終えて東京に戻ると、彼はよく東京駅で待っていてくれていた。彼に会えることが嬉しくて嬉しくて顔をみると、なんか違う。全然違う。離れていたあいだに思い描いていた顔とまったく違うのだ。

 

――あれ、こんな子どもみたいな変な顔だったっけ? 

 

でも、数時間すると違和感はすべて消え去り、私の思っていた顔に戻る。

 

――ああ、かっこいい! そうそうこの顔!

 

もしかして半径1m以内にいるとかっこよく見える類の顔なのか。いや、顔のほうが変わっているんじゃない。私の目だ。私の目が恋によって狂っているんだ! こんなに違って見えるなんて、恋ってすごいな! と感動したのを、今でもはっきり覚えている。

あれから22年が経った。今も彼と一緒にいる。彼は単位制高校へ行って、私と同じ大学を卒業して、なりたかったカメラマンになった。私も好きな本を作ってる。結婚して子どもも生まれ、7歳になった。今では片時も離れたくないという気持ちは皆無になった。そして、少しばかり離れていても、目はおかしくならなくなった。若くなくなったから、恋の比率が減って愛になったからかもしれない。産後クライシスのときは、憎くて最悪に気持ち悪い顔に見えたこともあった。でも、また今はかっこよく見える。以前よりもずっと。

『あたし おかあさんだから』について

Huluの「だい!だい!だいすけおにいさん!!」で流れた『あたし おかあさんだから』という曲の歌詞が炎上している。歌詞を見た瞬間、私の口からは反吐が出てしまい、その反吐が小川となり、大河となり、やがては大海になった(嘘です、が、そのくらい気持ち悪かった)。

これは様々なひとが言及している通り、母親だけに呪縛を与えると同時に、子どもに恩を着せて罪悪感を持たせかねない歌詞。本当に腹が立ったので、私が腹を立てた理由を詳しく書いてみることにした。

〇間違いなく女性蔑視だから

「立派に働けるって 強がっていた」という部分。当たり前だけど、女性が一人暮らしをしたり働いたりすることは、男性がそうではないのと同じように、強がりなんかではない。すべての女性に対して失礼だ。男と女は違う生きものだとでも思っているのだろうか。母である前に、みんな同じ人間。働く理由は、まず<生活していくため>が多いだろうけれど、それ以外にも<社会貢献したい>、<特定の仕事で成し遂げたいことがある>とか様々だろう。そこには女も男もない。私自身、子どものときから編集者か保育士か建築士になりたくて、編集者になった。そして、歌詞を読み進めると、このお母さんはパートをしていることがわかる。立派に働いている。だいたい男だろうが女だろうが、家事や子育てに専念していたって、やはり立派に働いているだろう。

〇女性が「家」に縛り付けられてきた歴史に無知だから

私は現在40歳だけど、女性が十分な教育を受けられなかった世代の祖母は「女性の人生には我慢が多い」、進学率は多少上がったものの花嫁修業的な意味合いが強かった時代の母は「もっと仕事がしたかった」と言い、やっと進学や就職が普通になった世代の私には「自由に生きてほしい」と言った。祖母も母も、前向きに自分の人生を受け入れていたから幸せそうではあったものの、“女性に生まれたがために”、自由ではなかったからだ。ほかでも、良妻賢母とされた女性が「男たちはずるい 自由に夜まで出歩いて」、「家庭から逃げて えらそうに」と本音を言う姿をたくさん見てきた。

見なかっただろうか? 自分の母ではなくても、年末年始や冠婚葬祭に自分の夫が酒盛りを楽しむ中ずっとお給仕をして疲れ果てている母を、ひとり家事や育児に追われて大変そうな母を、遊びに行く夫を後目に自分の趣味もままならない母を、どこかで。おかしいと思わなかっただろうか、同じ人間であって同じ親なのに、母だけが家事や育児をするのを。思わなかったとしたら、どうかしている。

自由にすればよかったのにと思うひともいるかもしれないけど、昔は特に男の子を進学させるために女の子は進学できないことが多く、幼い頃から「女は結婚して子育てするもの」、「女は勉強や仕事をしなくともよい」という有形無形の様々な刷り込みに晒され、気が付いたら子どももいて逃げられないということは本当に多かった(今でもある)。美化された良妻賢母たちの中には、確実にただ順応して我慢せざるを得なかった女性がたくさんいる。子どもに出会えたこと自体は幸せでも、時代的なことだから過ぎたことだからと仕方なく肯定的に受け止めたとしても、女性だからと性別を理由に理不尽な我慢を強いられたことについては、多くが確実に不満だったと思う。差別だから。

〇今も子育ての負担は女性に偏っているから

前項のような歴史の名残で、今でも子育てや家事の負担は、まだまだ女性に偏っている。そのうえ母性神話も未だにまかり通っているために、肉体的にも精神的にも苦しんでいる女性は多い。頭では「子育ての責任者は私だけじゃない。夫も責任者」と思っていても、産後のホルモンバランスの乱れや疲れ、世間の風潮から「母になったし、もっと子どものことをやらないと」、子どもに何かがあると「私のせいだ」と産後うつ育児ノイローゼになるほど追いつめられてしまう女性も多い。第一、夫が家にいなければ分担できない。それなのに「事実でしょ?」と、さらに追い込むような歌詞をまき散らされたら、怒って当たり前だろう。もしも差別がなかったとしたら―刷り込み教育がされず、平等に就学や就職のチャンスがあり、子育てや家事も分担されていたら―ここまで炎上しなかったかもしれないけれど(それでもなぜ母だけ?という疑問は残る)、いまだにそうではない。

〇とにかく我慢、我慢の歌詞だから

「おかあさんだから」「おかあさんだから」と、様々なことを我慢する母親が描かれているが、息抜きもしようみたいな言葉はひとつも現れない。子どもとのかかわりの楽しさも出てこない。とにかく我慢して滅私奉公するばかり。もしかしたら一部の母は好き好んでやるかもしれないけど(それは自由にしたらいいと思うけど)、ほとんどの母は心が病んでしまうだろう。当たり前だけど、母になったって、本当は好きなことをしていい。子育ては父もやるべきだ。そのほうが、子どもにだってよいだろう。だいたい母だって父だって誰だって、自分を大切にできないのに他人を大切にできるわけがないと思う。

〇勝手に一般化して母親への呪縛を強化しているから

作者は「歌詞の内容で僕が おかあさんたち こうなんでしょって 想像で決め付けて書いていることは、一つもないよ 取材して書いているので」と責任逃れをしているけれど、そういう問題ではない。書いたのは作者。それに、もともと自分の絵本を好んでいてFacebookでつながっている自身の考えと親和性の高い母たちに、「おかあさんだから我慢していること」を聞いていて、しかもいくつかの例文がそのまま使われている。バイアスかかりまくり。それなのに「日本中のママたちに聞いた」というのは、どういうことなのか理解に苦しむ。勝手に一般化して代弁したつもりにならないでほしい。

〇子どもに聞かせたくないから

この歌詞は、子どもによっては「生まれてきて、ごめんなさい」、「我慢ばかりさせて、ごめんなさい」と罪悪感を持ってしまうだろう。うちの子なんか、ほぼ間違いなくそういうタイプだ。一方で「子育てや家事は女性がやるものだ」と、時代遅れの性別分業を刷り込むことにもなってしまう。この点でも最悪。やっと少しずつ、子育ても家事も男女両方がやるものだという風潮になっていっているのに逆行している。

ついでに、これから子どもを育てたいと思っている人が、子どもが、こんな歌詞を見たら親になるのがこわくなりそうなところもよくない。子育ては我慢ばかりじゃなくて楽しいよ、夫婦で分担しながら他人も頼って息抜きしながらで大丈夫なんだよと伝えたい。実際、私は友人や知人から「親になっても変わらないところを見るとホッとする」「子どもを持とうと思った」と言われたことが何度かある。

自分は自分でいいんじゃないかという考えもあるかとは思うけど、私は差別的なものには異議を唱えたい。ただでさえ、普段から、まだフェアじゃないのだから。だいたい表現が自由だとしても、公開されたものに対して批評や批判をする自由もあるのだから。

子のイヤイヤ・私のイライラ対策

このあいだ、Sarahahに“親なのに情けないと思うけど、子どものイヤイヤに強く怒ってしまいそうになってしまう”というメッセージが届いた。

まず、少しも情けなくなんかなくて、本当に心から“お疲れ様です”って思う。Twitterだと字数制限があるので詳しく書けなかったけど、私もイライラすることはあるし、親とて生身の人間だし(子ができたからって人間性は変わらないし)、何より子育ては24時間体制で(仕事をしている場合は仕事以外のほぼすべて)、しかも子どものペースに合わせてばかりになるので(自分の欲求は生理的なものさえ満たせないこともある)、怒りやすくなるのは仕方がない。

しかも、人によって、他の負荷がかかっていることもある。たとえば心身の調子がよくないとか、配偶者が子育てや家事をしないとか面倒なことを言ってくるとか、家族の誰かが病気でケアに時間がかかるとか、時間やお金のやりくりが大変とか……。

なので、できたら自分を否定しないで褒めたほうがいいと思う(罪悪感を持つと、よりイライラするか落ち込んでしてしまうし)。みんなも私も十分がんばってる。たまに嫌な態度をとるのは仕方ないから、もし間違えたら謝ればいいと割り切ったうえで、私がやっていることは以下のようなこと。

①できるだけ無理をしない

少なくとも適当な子育ては続けなくてはいけないし、できるだけ子どもと楽しく暮らしたい。無限に我慢できる人間はいないので、できる限り他の負荷を減らしている。嫌だと思ったことは断る、疲れたなと思ったら料理をしないで(片づけも省略できる)お惣菜を買ってくるか外食をする(離乳食はレトルト)、掃除をあきらめる(外注する)、お風呂や洗濯をさぼる、食洗機やルンバを導入するなど。私は疲れたら、子どもと夜道を楽しく探検したり、コンビニで一緒に好きなものを買ったり、外食したりして、早く寝るようにしている。

②ひとりだけの時間をとる

私は、子どもが生後1か月のときから、夫にすすめられて1か月に1回くらいは日中から夜まで自由に単独行動している。それ以外にも、夫がいるときなら、限界が訪れる前に「ひとりになってもいい?」と聞いて離脱(もちろん、夫も限界になったら交代)。イライラを態度に出してしまう前に、ほんの30分でも1時間でもひとりでお茶をしたり散歩をしたりすれば気分が変わる。休憩の必要性がわからないパートナーの場合は、話し合いが必要かも。無理ならシッターさんや保育園や幼稚園の一時保育を利用し、それも難しいなら子どもに「少しだけ休憩させてね」と言って、時間を区切って勝手に過ごすとかがいいのかも。

③子どもの面白い点に目を向ける

いろいろ工夫しても、子どもはぐずったり泣いたりイヤイヤしたりするし、その気持ちを受け止めてもらう経験も必要なので、諦めて面白い点に目を向けている。客観的な目で見ると、めちゃくちゃ面白い顔をしていたり、変な言葉を口走っていたり、ありえない動きをしていたり。たとえば魚のようにビチビチしていたら、漁師気分になって「とったど~」と言いながら抱えると(なんだこれ?)と笑えてくるし、実際に笑ってみると少しは気がまぎれるかもしれない(私はアホなのでまぎれてしまう)。ただ、ちょっと大きくなってくると「笑わないでぇ~!」とめちゃくちゃ怒るので、心の中にとどめる必要が出てくるかもしれない。

④少し大きくなってきたら説明する

(小さな子どもに説明なんかしても……)と思いがちだけど、繰り返し説明すると、子どもでもわかってくれることは多い。赤ちゃんのときは無理なのでしなかったけど、1歳時でもたたいてきたら「痛いからやめてね」などと理由と嫌だということを伝え、3歳時には「お休みの日の朝早くは起こさないで。パパを起こして」、「ママやパパの行きたいところも行くよ。Aの行きたいところも行く。誰でも行きたいところがあるでしょう」などと言い、少しずつレベルを上げて繰り返し理由や意義、親の意思を穏やかに説明してきた。このひと手間が私たちの明日をラクにするのではないか!!(大げさ)。

⑤怒りが静まらないときはコーピング行動

一瞬でも何か別のことを考えたり、別のことをしたりすると、気分が切り替わりやすい。それではおさまらないようなら、認知行動療法のコーピング行動(対処方法)を試すのもおすすめ。コーピング行動は、いったん違う部屋に行く、アメをなめる、ガムを食べるなど、なんでもOK。「どんなことがあると、自分などんなふうになるか、そのときどんなコーピング行動をとるか」をセットで決めておいて、怒る代わりに実行するだけ。怒りっぽい人は、子どもに関係なく認知行動療法の本を読むといいかも。

 次にイヤイヤの対処法でやっていたこと、今でも反抗されたときにやっていること。子どもの行動には理由があったりするし、少なくとも成長の途中だから仕方のないことが多く、決して(ククク…親を困らせてやろう)と思って反抗しているわけではないので、まず観察したり理由を聞いたり考えたりしてから落ち着いて対処するのがいいかなと思っている。

①まずは観察して理由を考える

なぜ子ども荒ぶっているのか理由を考えると、イヤイヤ期で自己主張の練習をしている以外でも、お腹がすいていたり眠かったり疲れていたり体調が悪かったり、親の都合に合わせすぎていたり、一緒にいる時間が少なくて不満だったり、短時間でも集中して一緒に遊べていなかったり、話を聞いてもらえていないと思っていたり、園で嫌なことがあったり、などいろいろある。思い当たることがあるときは、強く叱ったりせず、話を聞いたり改善したり謝ったりするだけで解決することがあるなあと実感してる。

②接し方を工夫してみる

<イヤイヤ期などの理由がある場合・急いでいる場合>

「あれ? これは何?」と何かを見せて問いかけたり、別の場所に移動したりして気分を変える。抱き上げてクルクルまわったり、「おっとっと~」と落としそうになったフリをしたりしてあやす。何か別の楽しいことに誘うーたとえば「帰りに公園に寄って、すべり台しよう。何回する?」などと聞く。安全な道なら「帰っちゃおうっと」と笑いながら逃げるか競争する。お風呂に入りたがらない場合は、湯船にペットボトルやフィギュアなど毎回違うものを放り込んで「よーし、遊ぶぞ!」と言って誘導する。着替えをしたがらなかったら服を2択で選ばせたり、「どっちが早いかな? よ~いドン!」と競争したりする。「これできたら〇〇をしよう」「△△を食べよう」などとご褒美をあげる。いずれにせよ、よくない行動をやめられたらほめる(よい行動をとりたいという動機づけになる)。

<仕方なくもない場合、急いでいない場合>

感情的になっているときは「〇〇をやめなさい」など、冷静に短くわかりやすく具体的な指示をしたあと、他人の迷惑にならない限りはそっとしてる(たたいたりするなら手をやさしくおさえるけど)。ずっと近くにいて「どうしたの?」「なんで怒ってるの?」「やめなさい」「いい加減にしなさい」などと言い続けると、火に油を注ぎ続けるようなものだし、ずっと何か言われていたら気持ちを整理できないだろうから。私は「自分の気持ちは自分にしか変えられないよ。気持ちが落ち着くまで別々に過ごそうね」と言うこともあるのだけど、子どもはだいぶ自分で気持ちを切り替えられるようになってきた。えらい。もちろん、よくない行動をやめられたらほめている。

というわけで、これまでに私が専門家の本などから学んだこと、思いつきでやってみてよかったことを、いくつか挙げてみた。これは私が個人的にいいと思っていることだし、子どもだって個人差が大きいので効果的とは限らないけど、誰かの参考になればうれしい。

そして、本当につらいときは、自分の気持ちを否定しないで(親だからしっかりしなくては、と思いすぎないで)、早めに家族や友達、地域の子育て支援センターや保健所、児童相談所、保育園や幼稚園(広く相談を受け付けているところもある)、精神科などで相談してほしい。あとは、もしも可能なら近所の人や同じ園の父母に相談するのもいいかも。それは無理って思うかもしれないけど、話すだけで気持ちが軽くなることはあるし、助けてくれる人がいるかもしれない。普段から同じ親仲間が大変なときには可能な範囲で何かしたいと思っている人は結構いると思うのだけど、「つらい」と言ってくれないとわからなかったりするので。

2017年いちばん驚いたこと

今日で2017年が終わる。今年いちばん驚いたことは何かというと、これはもう15年くらい働いた前の勤務先が倒産したこと以外ない。

5月後半のある日、少し遅れて会社に着くと社長と弁護士さんが倒産についての説明を始めていた。寝耳に水。何しろ、その日まで印税や原稿料や給与などの支払い遅れはなかったし、進行中の本が何冊もあったから(しかも急かされていた)。いまや中小版元は余裕があるところのほうが少ないだろうし、倒産はあり得ることだけど、そういう場合は何か月も前から支払いの遅れが出るとも聞いていたので、まさかだった。

会社はすぐ立ち入り禁止になると説明されたので、真っ先に資料をまとめた。大規模容量のUSBを後輩が買ってきてくれて、そこへ必要なデータをコピー。段ボール箱に資料を放り込んで自宅に宅配便で送った。それから著者や関係者に電話やメールをして、ご報告とお詫び。これが最もつらかったこと。幸運なことにやさしい人ばかりで、私のことを心配してくださって、それでも職を失ったことより申し訳なさで落ち込んだ。いつもノーテンキな私でも、こんなに落ち込むことがあるんだなと思った。

一方、編プロ部門の人たちは既に受けた仕事を放擲するわけにもいかないので、慌ててレンタルオフィスを借りようとしていた。総務の担当者は一人ずつにクリアファイルを渡してくれた。中を見ると、これからやるべきことのリスト、今年の途中までの源泉徴収票、書き込むところに付箋などをつけた退職金請求の書類、企業年金解約の書類、失業届の用紙などなど。「編集には全然わかんないだろうと思ってね」と用意してくれていて涙が出そうだった。そして、みんな丁寧に挨拶しあって解散。

ハローワークに行って失業届を出す

〇厚生年金を国民年金に切り替える

(倒産の場合は全額もしくは部分免除が適用になる場合もある)

企業年金の解約手続き

(いつまで存在するかわからないため解約)

国民健康保険に切り替える

〇税金を確認して払う

〇退職金を請求する

で、翌日から以上のような様々な手配をすると同時に、速やかに履歴書と職務経歴書を用意してエージェントに会い、さらにフリーで仕事をすることも検討した。大学卒業後はずっと働き続けてきたし(産休と僅かな育休を除く)、もしも特に予定がなかったら1年くらいはのんびり家事と子育てをして過ごしただろうと思うのだけど、出したい本があるし、待ってくださっている人がいたから。

再就職活動をしてみると、出版業界は思っていた以上に厳しいことに気づいた。年30冊のノルマのある版元も少なくない。それだけの冊数を担当するとなると、資料も読み込むのも難しいのではと思った。一方、WEB系(特に企業の一部門)は条件がよかった。でも、やはり書籍を作りたい。そして3か月が過ぎたころ、幸い「得意分野の書籍を作ったらいい」「定時帰宅でも大丈夫」と言ってくれた現在の勤務先に再就職することになった。

振り返ると、私が無職のとき、友人は飲みに誘ってくれたり、美味しいものをご馳走してくれたり、会社や人を紹介してくれたり。仕事関係の人は新しい仕事に誘ってくれたり、フリーの仕事について教えてくれたり。夫は「フリーでも会社員でもどちらでも大丈夫」「俺よりずっと優秀だから」などと言って元気づけてくれた。それから、ネット上で書店の方が私の担当本を「もっと売りたかった」と言ってくださったり。

そして、著者や関係者のみなさんは「一緒に仕事できてよかった」「気長に待ってます」「飲み会やりますよ」などと言ってくださったり、中には「印税はいらないから他で復刊してください。お任せします」とまで言ってくださった人もいた。とてもありがたかった。とりわけ、“待ってる”とか“また一緒に仕事したい”と言ってくださるのが、すごく嬉しかった(みなさん、ありがとうございました)。

勤務先の倒産なんか経験しないほうがいいのだけど、もともと知っていたことだけど、やさしい人がたくさんいることが改めてわかって、いいこともあったなと思う。あとは途中になっていた仕事、新しい仕事をきちんとやるだけ。

来年はよい本をだすぞ!!!(復刊もします!)

嫌なことも好きなことも違う

夏前くらいだったか、子どもが「ぼくはなんにもしてないのに、〇くんが怒る」「ぼくはなんにもしてないのに、〇くんが嫌なことをする」などと何度か言ってきた。よく聞いてみると、お互いに相手は嫌がっているのに(自分だったら別に嫌じゃない)と思ってすぐにはやめず、ケンカになったということだった。

そういえば、昔、学校の先生が「自分が嫌なことは人にもしないように」って言っていたなあと思う。でも、こう言い聞かされてしまうと、相手が嫌がっていても(自分だったら別に嫌じゃない)と思ってやめないかもしれない。自分も相手が嫌がることをしていてお互いさまでも(自分は何もしていないのに相手に嫌なことをされる)と思ってしまうかもしれない。実際、うちの子も友達もそう主張していた。さらに相手が嫌がるようなことを(自分なら嬉しいから)と思ってしてしまうかもしれないし、そんなのって不幸だ。

本当のところ、嫌なことは人それぞれに違う。思いのほか、幅がある。だから「嫌なことは人それぞれ違うから、自分だったら嫌じゃなくても、友達は嫌だと思うことがあるよ。相手が嫌だと言ったり、嫌そうにしたりしたら、すぐやめようね。反対に自分が嫌なことは嫌だと言わないと、他の人には伝わらないよ」と言うと、驚きながらも納得していた。ついでに「同じように好きなことも人によって全然違うよ。だから自分にはよさがわからなくても、他の人の好きなことをけなさないようにしよう」「プレゼントをするときは、自分があげたいものではなく、相手が好きそうなものをあげるといいよ」とも伝えた。

自分と他人は違うと認識すること(自他の境界線をはっきりさせること)、嫌なことは嫌/好きなことは好きなどとはっきり自己主張できるようになることは、楽しく暮らしていくために(苦しくならないために)必要なことだと私は思う。子どもは、このときから割とすんなり自他の区別がつけられるようになった。ところが、自己主張については「胸がドキドキして言えないときもあるよ…」と言う。もちろん「無理はしなくていいんだよ。でも、いつも悔しくなるなら、少しずつ言えるようになろう」と伝えて、家では話をよく聞き、なんでも先まわりしないで自分の口で言えるまで待つなどしていたんだけど、「今日は言えた!」「今日は言えなかった!」を繰り返しながら、徐々に言えるようになってきた。最近は、言えなくて悔しい思い抱えたまま帰ってくることはあまりない(小学生以降では、また出てくるだろうけど)。

それと敬老の日の贈り物を選んだとき、子どもは元気のよい夫母には<大胆な柄の大判のハンカチ>、いつも荷物の多い夫父には<小さなキーホルダー>、植物が好きな私の母には<葉っぱ柄の布バッグ>を選び、「これなら喜んでくれるんじゃないかなあ」と言っていた。さらに私の母には「ばぁばは、じぃじがいなくてさみしいから、これもあげる」と白い貝殻のおまけつき。お土産を買うときも、渡す相手のことを考えるようになっていて、どんどん成長していくなあと思う。

ちなみに趣味に合わないものをもらう面白味もあるとは思うのだけど、私はものを増やしたくないし、かといって捨てたくもないし、ものにこだわりもあるので、あまり趣味とかけ離れたものをもらうとつらい。「この子(もの)も、うちにさえ来なければ大事にされただろうに…」って思ってストレスになる。でも、その話をしたときに友達が「それはね、くれた人を好きなどうかなんだよ」と言ったのが面白かった。相手のことがすごく好きなら「こんなのくれるなんてかわいい」と思って、どんなものも受け入れられるのだと。確かにそうかもしれない。

ただ、どんなに好きな人からでも、趣味に合わないものを大量にもらったら、やっぱりストレスなんじゃないだろうか。

男の子はバカじゃない

「男の子ってバカだよね」「男の子だからバカ」……男の子の粗暴なふるまいや思いがけない行動を見て多くの親たちが言う、このセリフが苦手だ。でも、まあ最初は(うちの子はバカじゃないけど)とか思いつつも、「そうかなあ?」「性別は関係ないんじゃない?」「自分も子どものときに変なことしなかった?」と答えつつスルーしてきた。

でも、ある日、帰宅してから子どもが悲しそうに「ああ、男の子じゃなくて女の子に生まれたかったな」「だって男の子はバカなんでしょ。大人が言うから」と言う。(ああ、見過ごしてきた私がいけなかった)と反省して、すぐさま言った。「男の子はバカじゃないよ」「男の子だからバカとか女の子だからバカとかあるわけない。それは差別」「だいたい、きみは割と賢いと思うよ」と。それ以降、子どもがいるところで言われたら「男の子はバカじゃないよ」と、はっきり返すことにしてる。

親のほうは面白半分の気軽な気持ちで言っていても、子どもは「バカ」なんて言われたら言葉通りに受け取って傷つく。だってあからさまに普通に悪口なんだもん、バカって。自分で言うぶんにはいいけど、大人だって他人に言われたらムカッとする。ましてや「女だから」「男だから」って言われたら腹が立つだろう。

それに一度言われるくらいならまだしも、いろんなところでたびたび言われれば誰だって嫌になる。私は「女の子だから」と繰り返し言われることの嫌さを、本当によく知っている。子どもの頃、親は私に「女の子らしさ」をまったく求めなかったけど、周囲の大人たちは好き放題に言った。屋根に上ったり粗暴なふるまいをすると「女の子のくせに」「男の子じゃないんだから」、よくしゃべったりおしゃれしたりすると「女の子だから」、ニコニコしていると「女の子は愛嬌」、進学すると「女の子は勉強できなくてもいい」など。常に私個人の性質は無視して性別でジャッジ。正直、小学生のときには(しつこいなあ)(性別なんて関係ない。大人なのにバカなのかな)って思っていたし、少し大きくなったら「性別は関係ないでしょ」と言っていた。

近年、さすがに「女の子はバカ」なんて言う人は、なかなかいない。それが「性差別」であり、怒られることだとわかっているからだ。それなのに男の子には「バカ」と言う。性差別に怒っているフェミっぽい女性も言ったりするから驚く。同じことなのに。

「男は泣くな」「男は泣きごとを言わず我慢しろ」「男は強くあれ」「男は稼げ」という価値観を刷り込まれて育った子どもがどうなるか。「女は家事をしろ」「女は母性で癒せ」「女はおしとやかにしろ」「女は男に従え」っていう傾向が出てくるんじゃないだろうか。自分が「らしさ」に縛られたら(抑圧されたら)、異性にも同じことを求めるかもしれない。コインの裏表のように。イライラして家族に当たる古いタイプの男性を見るたび、「男は泣きごとを言わず我慢しろ」と言われて育ったのかなって思うことがある。他人に八つ当たりをしたり、イライラを撒き散らすより、素直に弱音を吐けたほうがずっと恰好いいのに。

「男ってバカ」については、そこはかとなく(男の子って、いつまでもバカで子どもみたいでかわいい)みたいな価値観を感じることもあり、それでは男の子が「子どもっぽくていいんだ」って思ってしまうリスクもあるんじゃないかと思う。夫がいつまでも子どもみたいだ、日本の男は幼稚なのではないか……「ぼくの話を聞いて聞いてとうるさい」「褒めて褒めてとしつこい」「世話を焼いてほしがる」「親になった自覚がない」などと怒っている女性を本当によく見かけるのに、なんだか矛盾してはいないだろうか。

最後に、子どもの多くは大人が思いもかけないことをするのであって、それは男の子に限ったことじゃないだろう。忘れちゃった人もいるのかもしれないけど、私は小さいとき親に隠れてバケツを片手に町内を歩きまわりグミを山ほどとってお腹を壊すほど食べたこと、細い竹の棒を振り回していたら指にささって貫通したこと、高校生になっても後先考えずに仲間と夜の学校に忍び込んでプールに飛び込んでずぶ濡れになって帰ったことなどをよく覚えている。バカって言えばバカなんだけど、みんな多かれ少なかれバカだし、なんなら今もバカかもしれない。

子どもに読んでほしくない絵本

昨日、園に子どもを迎えに行くと、3歳児クラスで読んだ絵本として『ママがおばけになっちゃった!』が紹介されていて、よりによってお母さんを亡くした子どもがいるクラスだったこと、普段とてもよい保育をしてくださっていると信頼していたこともあり、失望と怒りで震えた。

だいたいのことには賛否両論ありえる。なんでも善悪二元論に落とし込むのは好きじゃない。けれども、ものには限度がある。『ママがおばけになっちゃった!』は、以下のような理由でまったくおすすめできない絵本だと、私は思う。

①分離不安を引き起こす可能性が高いから

幼児が愛着関係にある保護者から離れるのを不安に思うのは当然で、それでも安心感を取り込みながら少しずつ離れられるようになっていく。これが自立への第一歩なのに、まったく意味もなく「お母さんが死ぬかもしれない」という不安を抱かせることは、子どもの育ちを邪魔することにしかならない。

うちの子は5歳のとき、『もののけ姫』がきっかけで「死」について疑問を投げかけてきたので、いろいろと会話したけど、丁寧に話してさえ、数日間は「ママは死なない?」「ママが死ぬと、ぼくも死んじゃう?」と不安そうに聞いてはくっついたり泣いたりしてた。まだ自力で生きていけない子どもにとって、保護者の死は実際的にも心情的にも何より怖いこと。「ママは死なないよ」「たとえママが死んでも、あなたは死なないよ」と答え続けた。本人が聞いてきたときには(聞ける状態になったときには)大人は応えるべきだと思うから、あらゆる生き物はいつか死ぬことは伝えたけれども、伝え方には注意が必要だと思う。

②脅しでお母さんに感謝させようとするから

「親学」や一部の「二分の一成人式」なんかもそうだけど、大人が子どもに「親への感謝」を強要するのは本当におかしなこと。作者は以下のように言っているけど、脅して感謝を引き出そうとすることが適切なわけがないでしょう。しかも幼児に「ビンタ級の威力」って、何を言っているんだと強い憤りを感じる。

「大人もそうだけど、特に子どもはママに何かしてもらえるのは当然だと思ってる。だけど、それがなくなることはあり得るんだぞ、ということ。この本は子どもに対してビンタ級の威力があると思いますよ(笑)。「お前、ママは大切なんだぞ、よく考えてみろ」って分かってくれるといいな。」(webサイト「QREATORS」より)

③あまりにも死を軽く扱いすぎているから

この絵本において、お母さんはいきなり車にひかれて亡くなって「おっちょこちょい」ですまされている。大切な人を亡くすということは、こんなに軽くふざけて茶化せるようなことではない。シリアスすぎると子どもが読まないから、鼻くそやパンツを出せばいいと思う安易さもひどい。事実を伝えるという観点からもよくないと思う。

④主人公に「ひとりでやれるよ」と言わせるから

当たり前のことだけど、あえて問いたい。お母さんを亡くしたばかりの幼児がなんでもひとりできたり、がんばったりする必要ある? あるわけがない。まずは大人に悲しみを受け入れられ、受け止められて少しずつ回復して、それから成長していけばいい。

⑤以上のようなことを子どもに強要するから

子どもは大人が選んだ絵本を断れないことが多い。家庭はもちろん図書館や学校、園などで読みあげているかと思うとゾッとする。集団行動においては特に苦痛でも逃げられない。苦痛を感じてまで読んだほうがいい本なんてないし、絵本は子どものためにあるべきだ。

まして大切な親を亡くした子どもに、こんな絵本を読み聞かせるのは不適切すぎると思う。家庭によって死生観は違うし、がんばることを決して強要してはいけないし、ふざけた場面で他の子が笑っても悲しさは募るだろう。場合によっては(お母さんがおばけになるなんて)と悲しむかもしれない、(なんで自分のお母さんは出てきてくれないの)と悲しむかもしれない。下手したらトラウマになる。

本当に愛する人を亡くすと、大人だって簡単には立ち直れないもの。私なんか36歳で父を亡くしたけれど、まずはあまりのショックで足元の地面が崩れ落ちるような感覚を覚え、死を受け入れられない時期があり、悲しみにくれる時期がきて、うちにこもる時期を経て少しずつ元気になっていった。

幸いなことに、以上のようなことを園長先生に話したら理解してくださり、もう読んでしまった後なので傷ついた子がいたらケアしてくださるとのこと。よかった。わかりやすく分離不安を示さなくても、なんともないような顔をしていても、傷ついている子はいるかもしれない。深く傷つく子がいるかもしれないような本は、それでも読むべきか慎重に検討すべきだし、本当は読まないでほしい。

なお、この本の作者はインタビューにおいて、「子どもはおもしろいものが好きで、とにかく遊びたいんです。一方、絵本を読み聞かせるお母さんは、自分も涙ぐんでしまうような感動物語を求める傾向にあると発見しました」と言い、地の文には以下のように書いてある。

“彼の特徴的な取り組みのひとつに、完成前のラフ原稿を用いてさまざまな場所で何度も何度も繰り返し読み聞かせていることがある。この読み聞かせは発売前に2000回にものぼって行われる。自分の子どもに、講演会や読み聞かせ会に来てくれた親子に、何度も聞いてもらって反応を見る。受けがよかった部分、悪かった部分をブラッシュアップし、直しながら次の機会で新しいものを見せる。そうして完成形に近づけていくのだ。”(事業構想2017年10月号より)

真摯に子どものことを考えるのではなく、マーケティングを重視しているのがわかる。今年の夏には、“虐待を受けた子どもも親を選んで生まれてきた”とする「胎内記憶」をテーマとした絵本も出している。節操がなく最悪だ。

何かに疲れていたり自信がなかったりすると、子どもがこういう本を読んで泣いてくれれば承認欲求が満たされるかもしれない。でも、できたら他の方法で、子どもを傷つけない方法で満たされてほしい。大人だけが読むという方法もある。子どもを大人が感動(というか、これは死が悲しいから単純に涙が出るだけだと思うけど)するための道具にしないでほしい。

これらの絵本を読まされて傷つく子どもがひとりでも少なくなるようにと思い、微力ながら、このブログを書いた。