気付いたら、あっという間に月日が流れていて。
年も変わり、1月も後半に入ってた。
これまでの間を振り返れば、卒研に追われて、何とか提出して12月。
クリスマスイブにテストを受けて、クリスマスに歯医者に通いだして。
そして12月26日に祖母が他界しました。
一昨年の夏に足の付け根に出来た腫瘍を取る手術を受けたおばあちゃん。
でも、病名も難しくて、腫瘍も神経とかに複雑に絡んでて。
あっという間に再発。
再発して、他の病院でも診断を受けたけど、手術はもう無理で。
手術で筋肉もとったから、右足は思うように動かせなくなって。
杖を使う生活になった。
おばあちゃんは家で過ごしたいっていう思いが強かったから、在宅看護を選択。
お母さんが主に介護をやることに。
最初は看護師さんが全然合わない人で、おばあちゃんもお母さんも困って。
でも看護師さんが代わることになって、いい看護師さんに出会えて。
どんどんおばあちゃんは歩けなくなって、車椅子になって、座ってると再発した腫瘍の部分が痛いからって、最終的にはベッドから動けない状態に。
この頃には介護も大変で、それでもお母さんは献身的で。
薬が経口摂取できなくなって、坐薬になってからもちゃんと1日4回薬を入れて。
おむつ交換だって、文句一つ言わずやって。
ただ、お母さんが家を空けてると周りから文句を言われたりするようになって、お母さんは外出はろくに出来なくなって。
あたしは何もできることはないから、せめて夜中の薬を入れるのは変わることにして。
11月の下旬くらいにおばあちゃんの容態が悪化して、24時間誰かがそばにいなきゃいけなかったから、23時から6時まではあたしがおばあちゃんのそばにいて。
昼間はお母さんに頑張ってもらうしかなかったから、それしかできなかった。
夜中はおばあちゃんも落ち着いてるから、あたしは薬を入れれば特に何もすることはなくて。
ただいるだけ。
お母さんは朝から夜まで、おばあちゃんの介護も、家事も全部しなきゃいけなくて。
あたし達家族は、お母さんに甘えてた。
でも、お母さんは身体的にも精神的にも疲れて、壊れちゃった。
頑張ってるのに、周りから色々言われるし、やらなきゃいけないことは沢山あるし。
お母さんのそばにいて、話を聞いたりしてたつもりで、お母さんの支えになってるつもりだったけど、全然だった。
足りなかった。
この頃のおばあちゃんは、かなり弱ってて、少し心配なことがあると容態が悪化する状態で、ホントは大声とか出したくなかったけど、お母さんの部屋の前で泣き叫ぶしかなかった。
お母さんが自殺を選ばないように。
あたしにとってお母さんは絶対的な存在だから、必死で万が一なんて起きちゃいけないって。
鍵がかかったお母さんの部屋の前で「死んだら許さないから」って叫ぶしかなくて。
万が一のことにはならなかったけど、全然出てきてはくれなくて。
ちび達も、何が起きたんだろうって顔してて。
子どもながらに何かは感じてたみたいで、大人しくしてた。
家で何が起きても、ちび達には普通に過ごして欲しいと思って。
次の日にもちゃんと学校に行けるようにしなきゃいけないから、あたしの部屋から布団を運んで、チビ達を寝せて。
そのうちお父さんが出張先から急いで帰ってきて、部屋をこじ開けてた。
お父さんと話をしてたみたいで、結局はお父さんが一番お母さんを助けられる存在なんだと思った。
夫婦の絆には敵わないって思った。
なんとかお母さんも回復して、何事もなかったように普通にもどって。
そしたら12月で。
おばあちゃんは一回悪くなったけど、また持ち直して。
食べ物とかを飲み込むときにむせることも減ったから、夜中についてなくても大丈夫ってなって。
しばらくは夜中起きていなくても大丈夫になった。
でもいつだったかな?
12月の中旬くらいにまた悪化して。
でも少し持ち直して。
そんな中、今度はおじいちゃんの介護認定をしてもらうことになって。
でも、親戚ともめて。
おばあちゃんの娘であるおばさんが、うちにはもう来ないって言って。
ゴタゴタがあったけど、おじいちゃんの介護認定も降りるってことになって、しばらくは落ち着いてた。
けど、12月下旬に入るとまたおばあちゃんの容態が悪化してきた。
また夜中に付き添うことになって。
あたしはどうしても5時くらいになると寝ちゃうから、お父さんと5時で代わりながら夜中付き添って。
そんな中、少しずつ準備を始めて。
うちの地域は葬祭会館とか使わない地域だから、ほとんど家でやることになる。
そうなると、あたしの部屋に祭壇が作られるから、部屋を片付けなきゃいけなくて。
学校も冬休みに入って、国試対策の冬期講習が始まるまでに部屋を片付けようとして。
掃除をしてた二日目。
少しおばあちゃんの呼吸がおかしいからって、担当の先生を呼んで来てもらってた。
あたしの部屋はおばあちゃんの部屋の隣だったんだけど、隣からお母さんがちび達とあたしを呼んだ。
お母さんも、お父さんも、お父さんのいとこも泣いておばあちゃんのそばにいて。
一番下の弟が「おばあちゃん」って叫んでて。
あたしは少し離れたとこで見てて。
もうおばあちゃんは息を引き取ってて。
涙が溢れてきて。
お父さんのいとこに手を引かれて、ようやくおばあちゃんのそばに行った。
触った手は冷たくて。
顔は白くて。
血の気がなくて。
これが人が死ぬってことなんだって思った。
おばあちゃんの顔を見てたら、なんで昨日の夜、もっとそばにいなかったんだろう、苦しそうにしてたのになんでモルヒネ使わなかったんだろうって悔やんで。
けど、おばあちゃんの顔は穏やかで。
お母さんが「やっと楽になれるね」って言ってるの聞いてたら、もっと泣けてきて。
先生が死亡診断書を書いて、お父さんがおばさん達に連絡入れてる間に、お母さんと一緒に、おばあちゃんにパジャマを履かせて。
おばあちゃんはずっと腫瘍のとこが気になって、パジャマはずーっと履けないままで。
右足を伸ばすのもつらいから、右足はずっと立てたままで過ごしてて。
やっとパジャマを履く事ができて、足も伸ばせるようになって、良かったなぁって思った。
デイサービスに行ってたおじいちゃんも帰ってきて。
おばさん達が来て、弟にも連絡をして。
お母さんは先生と話をして、その後に先生は帰って行って。
お母さんと、「先生が来てくれたから安心したんだね」って話した。
おばあちゃんが亡くなる数日前に、来ないって宣言してたおばさん達も来てくれて、先生も来てくれて、おばあちゃんは安心したんだと思う。
おじいちゃんもデイサービスに行くようになって。
おばあちゃんの不安は取れたんだと思う。
きっとそれまで、いっぱい不安なことがあって、気張ってたんだ。
やっと楽になれたんだね。
お坊さんがきて、お経を唱えて、お線香をあげるときになって、また悲しくなって。
しばらく泣いてお線香があげられなかった。
おばあちゃんが亡くなって、近所の人たちも一斉にきて、色々手伝いとかバタバタして。
おばあちゃんの顔に布が被せてあるのを見て、また泣けてきて。
お通夜で御詠歌を聞いてるときも、お経を聞いてるときも、最後のお別れをするときも、棺桶に蓋をするときも、火葬場で燃えるときも、告別式も、ずっと泣いてた。
おばあちゃんの死を色んなところで実感したから。
身近な人の死を体験するのは初めてで。
あたしか赤ちゃんの頃に母方の祖父は亡くなっているけど、あとは親戚が亡くなるのはなくて。
昔、近所に住んでた同級生のお母さんが亡くなって、お通夜に行って、悲しくて泣いたけど、他に身近な人の死は体験してなかった。
おばあちゃんは父方の祖母で。
あたしはお父さんと血はつながってなくて。
つまりお母さんは今のお父さんと再婚をして。
あたしとすぐ下の弟はお母さんの連れ子。
下のちび2人はお母さんと今のお父さんの間の子。
あたしが今の苗字になったのは9年前で。
一番下のちびが生まれてから引っ越して、おじいちゃんとおばあちゃんと家族になって。
血が繋がっていない孫だから、どう接したらいいのか分からなかった。
けど、優しくしてくれて。
おばあちゃんの作る草もちが好きだった。
おばあちゃんの作るあんこが好きだった。
おばあちゃんの作るポテトサラダが好きだった。
明るくて、よく笑うおばあちゃんで。
優しくて。
人に気を使うおばあちゃんで。
介護するようになって、薬の時間を教えに行ったり、薬を入れると「ありがとう」って言ってくれるおばあちゃんで。
短い時間だったけど、おばあちゃんに出会えて良かった。
おばあちゃんの孫になることが出来て良かった。
おばあちゃんが、どんなに大きな存在なのかすごく感じた。
ありがとう、おばあちゃん。
これからは、天国から見守っていてね。
天国では、いっぱい歩けているといいな。
大好きな花も育てられてたらいいな。
コーヒー飲みながら、これからもあたし達を見ててね。
何か間違った事したり、間違った方向に行きそうだったら、夢にでも出てきて教えてくれたらいいな。
まだまだ、あのときのことを思い出すと泣けちゃうけど。
だって本当におばあちゃんの存在は大きかったから。
でも、おばあちゃんの思い出を笑って話せるようにもなってるし。
この悲しみは少しずつ癒えていくと思うけど、おばあちゃんのことは忘れないし、忘れられない。
おばあちゃんはあたし達と家族になって、幸せだったのかな。
あたしはおばあちゃんの孫になれて幸せです。
おばあちゃんの介護を通して、家族の支えは本当に必要だって感じた。
これからも、家族で支え合っていくね。
おばあちゃんに「何やってんの」って怒られないように。
本当にありがとう、おばあちゃん。