巡る口の島 INNOSHIMA

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瀬戸内海の真ん中、美しい景色と音が響き渡る。

芸予の島々の中でも独特の文化を形成してきた因島は、
歴史が文化を生み、産業が街を育て、それを人が紡ぎ繋いできました。
“巡る因島”はこの島に眠るルーツを探し、編集して未来へ発信するWEBメディアです。
さあ、巡る□の島にでかけよう。

「カーン カーン」

島全体にこだます鉄を打つ音。
瀬戸内海のほぼ真ん中に位置するここ因島は、古くより造船の島と呼ばれ、最盛期は島の労働者の8割にあたる約9,000人が島内の造船鉄工関連の会社で働いていた。

当時、企業が集中していたエリアの商店街では、週末ともなると店先は人で溢れかえり、歩けばお互いの肩がぶつかるくらい人が行き交っていたそうだ。

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この島の主幹産業として造船鉄工業が大きく発展をしたのは理由がある。

それは、波が穏やかで潮の干満の差が大きく、雨が少ない温暖な瀬戸内の気候だという事と、戦国時代、因島に本拠を構えた村上海賊の、船を作る技術が受け継がれていき影響したからだと考えられている。しかしその後、時代の流れとともにこの産業は転換期を迎える。

昭和の終わり、大手造船工場の撤退など、島は大きく揺れた。
それでも、これで終らないのがこの島の産業マンたちだ。船体ブロック生産量日本一を誇る産業集積地として、国内でも高い評価を得ている技術は、衰退することなく現代に受け継がれている。今では、造船業の他にも、その技術を応用して他分野に活路を見出していくなど、羅針盤の針は常に未来を指している。

モノづくり大国ニッポンのアイデンティティは、まさにこの島の中心に巡っている。

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「トーン トーン トトーン」

船から島に降り立ち目を閉じる。
小刻みな太鼓の音に合わせて櫂が踊り、波を切り裂き突き進む小船には、勇猛果敢な男たち。そう、ここは日本中世で活躍した海賊衆である村上海賊の本拠地だった。

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それは、戦国時代、「日本最大の海賊」とルイス・フロイスに言わしめたほど。
南北朝時代には、瀬戸内の制海権を握っていた村上海賊は、海上に関を設け、行き交う船団から通行料を徴収し、水先案内や海上警護を行うなど、独自の経済圏を築いていた。
航行船の積み荷の10%が通行料の相場だったと言われており、石高は最高約15万石と推定され(現在でいう約100億円)、最大動員兵数は10,000人もいた一大勢力だったそうだ。

彼らが繁栄を手にしたのは、過酷な海との生活を生き抜く上で、自然を恐れ敬い、共に生きる中で、風を操り、潮をよむ力に長けていたからだとも言われている。

先人達の自然と寄り添って生きるこの精神は、故郷を想いながら暮らす現代の島民たちにも、きっと宿っているのだろう。

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「カツーン カツーン」

穏やかな海と、透き通る青い空、眼下にはいくつも島々が織りなす絶景。
この瀬戸内を一望できる標高227mの白滝山には、約700体もの石仏が鎮座する五百羅漢がある。

この石仏たちは、江戸時代に僅か10人程度の石工たちが山に籠り、祈りを捧げながら作ったという。

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当時の石仏制作中は、地域住民が歩いて麓から食事や水などを運んでいたそうで、その際、
石工たちと親睦を深めたのか、素人ながらに住民が彫った石仏もあるというから面白い。

すべての石仏にそれぞれの表情や形、意味が存在していて、またそれを見る人によっても、
それぞれの捉え方や感じ方がある。

「人はみんな違っていていい―」
石仏の目の前に立つたび、石を打つ金属音とともに、彼らの願いが聞こえてくる。
幸せを願う先人たちの想いと、時を超えて繋がっているのだ。

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「ゆ〜ら ゆ〜ら」

物語は一つの偶然から始まった。

それは遡ること戦国時代、この島には東南アジアまで勢力を拡大した村上海賊の遠征により、現地の物品や食材など様々なものが運び込まれて来ていた。その中にあったであろう柑橘の種からやがて芽が出て花が咲き、自然交配を繰り返す中で、江戸時代に偶然「安政柑」と「八朔」が実ったと考えられている。

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そう、この島は、「安政柑」と「八朔」の発祥地なのだ。
一つの小さな種から始まったストーリーが、今や因島のみならず、四国や関西地域でも育てられるまでに広まった。それは、この一つの出来事を大切に保存し、後世にも残していきたいという、この地域の人たちの気概あってのものなのかもしれない。

今日まで守り育てられてきた因島の柑橘を頬張りながら、この小さな偶然から始まった奇跡を味わった。

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「ささ〜 さ〜らら〜」

一瞬の風が吹き抜ける。

一面の白い花の絨毯が、たなびく風景を、あなたは見た事があるだろうか。かつてこの島では、香取線香の原料として、シロバナムシヨケギク、通称「除虫菊」の栽培が、一大産業として盛んだった。

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和歌山県から広まった除虫菊栽培は、因島で爆発的に増え、ピーク時には日本一の生産量を誇っていたそうだ。限られた土地を耕し、除虫菊の段々畑が島中に作られ、毎年5月には、除虫菊の白い景色が島を彩った。除虫菊栽培は、それだけで家が建つほど、当時の乏しい地域産業を支える、島民の生活の糧でもあったという。

地域一丸で協力し合い、日本一の生産地にまで成長させた先人の熱意と協創の精神は世界に誇れるもので、旧因島市時代は「市の花」として制定されていた。その後、一時代を築いた除虫菊畑は、科学技術の発達で徐々に姿を消していったが、今でも観光用として一部栽培が継続されている。

風に揺れ咲く白い花を見ながら、旧き良き島の原風景を思い浮かべた。

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「 パチン 」

ピーンと張り詰めた空気。

格子状の碁盤の上に、白と黒の石が交互に置かれていく。お互いが向き合い、真剣勝負を繰り広げる。その空間は、きっといくら時が流れようとも、今も昔もこれからも変わらない。

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ここは、江戸時代に活躍し、現在でも尊厳を集める天才棋士、本因坊秀策の生まれ故郷。
御城碁と呼ばれる徳川将軍の御前で毎年行われる、当時もっとも真剣な対局で、秀策は前人未踏の19連勝という伝説的な記録を残している。また本因坊秀策は、囲碁の才能のみならず、人格、学徳にも恵まれた人物であったのだとか。

若干35歳の若さで亡くなった秀策とは、どのような人物であったのか。

現代では、これから油の乗り始める年齢。生きていれば、とんでもない偉業を残していただろう彼の生き様と、一瞬一瞬、一石一石に命を懸けた尊さ、自身の精進に励む姿勢は恐れ敬うばかりだ。

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MAP

芸予諸島北東部、本州尾道から約17km南に浮かぶ島。
因島大橋・生口橋で結ばれ構成されたしまなみ海道は、
世界屈指のサイクリングコースとして国内外から
サイクリストが集まる。

この瀬戸内の自然と産業に囲まれた島で、
約23000人が暮らしている。

[面積]
約35.03km2、外周は車でおよそ45分。

[アクセス]
飛行機:広島空港からバスでJR尾道駅へ。
乗り換えて因島行バス。

電車:JR福山駅からシトラスライナー因島行直通バス。
車:しまなみ海道へ。
因島北インター、因島南インター出口
その他:自転車で。
尾道、今治からレンタサイクルしまなみ海道。
船では尾道港から因島重井東港へ。

MEGURU MOVIE

2017.04.01

INNOSHIMA MOIVE

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お問い合わせ先

巡る因島製作委員会 | contact@meguru-innoshima.net

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