世界は称賛に値する

日記を書きます

2024年04月24日(水)教えるというよりはファシリテーターだったはずだが

研修講師の真似事

講師を真似る業務をおこなった。研修の振る舞いを頑張った。手ごたえは微妙だったかな。気もそぞろな生徒役がいたせいではあると思う。せわしなく、心ここにあらずだった。遅刻もしていた。流石に少しやりづらくはあった。場をかき回すには固かった。ファシリテーションできたかあやしい。

業務タスクが多数積み上がっているからといって、そんなふうに並行作業的に進めることが、ほんとうに効果的・効率的なやりかたなのか?という疑問は、眺めていて浮かんだ。時間の限られかたによっては、それしか手立てがないことも、もちろんあるだろう。あえてそういう振る舞いを取っておいたほうが緊迫感や危機感を持ちやすい場合だってあるだろう。追い詰められ具合は実際のところ不明だった。なにが最善だったのか、一概には言えないとも思う。が、それでも、気にはなった。

シングルタスクが圧倒的によかったらおもしろい

「マルチタスクよりはシングルタスクのほうが優れている」問題を、最近は気にしている。検証できる機会があるならありがたい。経験談や印象も聞けるなら聞いてみたい。行動の性質にもよるし、制限時間にもよるし、リスクの取りかたや意識の持ちかたにもよる、といったところに落ち着く気はするが、もしかしたら、いずれの場合もシングルタスクのほうが優勢だ、といったワンサイドゲーム的な結果もまた、ありうるのかもしれない。圧倒的で一方的。といったところも気になる。

2024年04月23日(火)物語における具体的な世界を少しずつ知っていく

世界設定の味わい

細やかな世界設定の断片を、少しずつ提示してもらって、次第に視界が広がっていく様が、たいへん好きだ。都市の話、信仰の話、教育の話、組織の話、戦争の話、魔術理論の話。魅力的な「世界設定にかかわるホラ話」が並べ立てられるたびにドツボにはまっていく。どんどん好きになる。敬愛する魔術士オーフェンシリーズがたとえばその筆頭だし、HUNTER×HUNTERもそのあたりを楽しみのひとつにしている。ジョジョのスタンドを考察するときの頭の使いかたなんかも同じだろう。世界設定が解きほぐされているときの光景を味わいたい。

現代日本を舞台にした学生青春ストーリーなんかだと、そのあたりを味わいづらいところがあって、物足りなさを覚えることもなくはない。とはいえ、主人公の視点(人格や立ち位置)が独特だったり新鮮だったり、あるいは、ゆがんでいたりして、どうということもない世界設定でありながら、それでも、ヘンテコな光景を見せてくれる物語というのは、あったりもする。ブギーポップシリーズあたりにもそれを感じるかな。ときには一般人的な立ち位置のひとが、あやしい世界を見出していたりする。そういうのもよい。

2024年04月22日(月)集中というやつを称揚する環境構築

集中したほうがよい

同時並行で進めていくマルチタスク処理は好ましくなく、むしろ諸悪の根源ですらある、という助言は見かけたりする。ひとそれぞれ得意不得意がないわけでもなかろうが、しかし、ある程度は人類共通の弱点・欠点ではあるんだと思う。ひとつの物事にフォーカスして動いたほうが、効率も上がり、効果も上がり、よい「結果」が訪れやすくなる。ひとつだけに集中しているときと、たとえばふたつのことを交互に見つめて進めているときの、成果の違いは、二倍・半分の差では済まないみたいである。余所見していると、つかみ損ないが、指数関数的に増えてしまう、くらいのことも言えそうだ。

軽々しくマルチタスクくらいできると思っていた

とは言っても、まあ、ある程度はできるでしょ、と気軽に楽観し、気を逸らしながらなんとなくやってきた結果、ぽろぽろといろいろな「富」を取りこぼしてきた印象は、なくもない。けっこう反省させられている最近だ。頑張っている時間だってあったとは思うが、それでも、無駄が多かった。もっと網目の細かい吸収が可能なはずだった。いまからそれを取り戻せるかはわからないが、しかし少なくとも、ここからは、遊びであろうと学びであろうと、一点集中できるよう環境を整えておきたい、とは考えている。同時並行的なマルチタスク処理を楽観するのは流石にやめようと思っている。気の紛れる動画なんかを流しながら勉強するとかほんとにダメなやつだから……。

2024年04月21日(日)公平に判断できないならなにも軽んじない

自己をフラットに見るのは難しい

鏡で見た自分の顔は何割か増しに見えているとかいないとかいう。慢心するタイプなのか卑屈なタイプなのかで、傾く方向が正反対に変わりそうな気もするけれど、いずれにしても、自己に対してフラットな目線を保つのは難しいんだろう。技術や能力にかかわる似たところの話だと、自分より少し下に見えているくらいのひとが、実際は「自分と同レベル」なのであって、もし「自分と同レベル」に見えているひとがいたら、そのひとは、実際は、一段高いレベルにいるのだ、なんて言われたりもする。見下している相手こそが自分のいる地点で、同じくらいだと思っている相手にはきっと敵わない、と、そう聞くと、なかなか怖いなとも思う。

基本、応援してればよいのでは

つまらないと軽々しく切り捨てている文章や作品がときどきある。が、そんなことを言う権利というか、そんなふうに言えるだけの確かな判断力があるのか、って思った。なんだかんだ自分だって同じようなことをしてるんじゃないのかな、と、怖れながら、事態を見つめ直したくもなった。自分のレベルがフラットに判定できないなら、「下」だと判断して切り捨てているおこないが、妥当な気もしない。

同等のレベルにせよ、多少の上下はあるにせよ、互いに「できていない」レベルなら、素直にただ応援しあってればよいのに、とも思わなくはない。前向きに声をかけあいながら、軋轢なく進んでいったって、別によいはずだ。にもかかわらず、素直に応援できていない、ということがすでに、なにかしら劣等感を刺激されているというか、無意識的に自分の欠点を見出してしまい警戒しているというか、近親憎悪的なんじゃないか、って気はする。過敏になっていること事態がちょっとあやしいぞって思った。

2024年04月20日(土)充実した成果と充実しているかは別問題

書かないほうがよいくらい

趣味的な文章を読ませてもらって「おもしろい」「つまらない」と思ったりもする。好きな日記もあれば、嫌いとまではいかなくても、好みじゃない、面白味を読み取れない、日記もある。判定してしまうところはある。ただ、日記や文章が"つまらなかった"からといって(趣味で書かれたものなら特に)、その向こう側にひろがる「実際の景色」が、くすんでいるとは限らない。日記の上手い下手が、日常の潤いを、必ずしも、あらわしているわけじゃない。しゃべりの上手い下手が「賢さ」の指標であるかのように勘違いする瞬間がときどきあるのだけど、それと同型の認知バイアスだ。日記の巧みさに「景色の鮮やかさ」を見て取ってしまいそうになる。

じっくり書く暇などなく、そのせいで、表現が稚拙、単語の選びかたが雑、文章量も少ない、というくらいの日記のほうが、その向こうに拡がる世界の「よさ」でいえば、上位に位置づけられる可能性は十二分にある。"ろくなことが書けていない"くらいのほうがよい場合はありうる。誰が判定するのかは知らないが。ともあれ、軽率に「おもしろい」「つまらない」と断ずるのも、よくはなさそうだ、とは思った。

やっつけ

時間に余裕がない中、やっつけ仕事的に、ちょっとした思いつきを、軽率に書き記す。飛躍や破綻もなんのその、書けることだけ、さらさらと記述する。それくらいの、端的なメモ書きによる「日記」って、たぶん、つまらない。つまらないものになっちゃうんじゃないか、と思って、まず忌避する気持ちになって、そのあと、いやでも別にそれでいいはずじゃん、と思い直した。「片手間の日記」をむやみやたらに怖れるところがあったので、それを怖れるのってむしろ違うんじゃないか、と、思いこみを捨てようとした。乱暴でも稚拙でも大過はない。少なくとも大袈裟に怖れるほどのことではない。片手間でよいケースだってあるし、片手間だからこそよいケースもありうる。質と量が担保されていれば問題ない、とだけ、短絡的に考えているほうが、よほどあやういだろう。

2024年04月19日(金)いろいろ薦めたりしたい

書き足りない

毎日のように文章を書いていても書きたいことすべてを書き切れている気はしない。たとえばことばにすることで記憶の定着率が上がるなら、ことばにしておきたいことはもっとある。素敵な作品を称えることですこしでもそれが拡がってくれるなら(知ってくれるひとが増えるなら、あるいは、作品の新たな展開に繋がるなら)記しておきたい傑作・名作だって無数にある。ただただ言葉を書いてみせるだけで変わる気持ちがあるのなら、楽しさや幸せに近寄れるなら、そういったことも、ひらめくままに書いていきたい。いくらでも書きたい。書き足りない。

おもしろい話とかよい文章だとかは二の次だ、って書こうと思ったのだが、そこまで言うと流石に違うな、って思ったのでやめた(それを書いた)。