世界は称賛に値する

日記を書きます

2024年04月21日(日)公平に判断できないならなにも軽んじない

自己をフラットに見るのは難しい

鏡で見た自分の顔は何割か増しに見えているとかいないとかいう。慢心するタイプの性格なのか卑屈なタイプの性格なのかで、傾く方向がおおきく変わりそうな気もするのだけど、いずれにしても、自己に対してフラットな目線を保つのは難しいんだろう。技術や能力の面でいうと、自分より少し下に見えているくらいのひとが、むしろ「自分と同レベル」なのであって、もし「自分と同レベル」に見えているひとがいたら、そのひとは、実際は、一段高いレベルにいるのだ、なんて言われたりもする。見下している相手こそが自分のいる地点、同じくらいだと思っている相手には敵わない、と、そう聞くと、なかなか怖いなとも思う。

基本、応援してればよいのでは

つまらないと軽々しく切り捨てている文章や作品がときどきある。が、そんなことを言う権利というか、そんなふうに言えるだけの確かな判断力があるのか、って思った。なんだかんだ自分だって同じようなことをしてるんじゃないのかな、と、怖れながら、事態を見つめ直したくもなった。自分のレベルがフラットに判定できないなら、「下」だと判断して切り捨てているおこないが、妥当な気もしない。

同等のレベルにせよ、多少の上下はあるにせよ、互いに「できていない」レベルなら、素直にただ応援しあってればよいのに、とも思わなくはない。前向きに声をかけあいながら、軋轢なく進んでいったって、別によいはずだ。にもかかわらず、素直に応援できていない、ということがすでに、なにかしら劣等感を刺激されているというか、無意識的に自分の欠点を見出してしまい警戒しているというか、近親憎悪的なんじゃないか、って気はする。過敏になっていること事態がちょっとあやしいぞって思った。

2024年04月20日(土)充実した成果と充実しているかは別問題

書かないほうがよいくらい

趣味的な文章を読ませてもらって「おもしろい」「つまらない」と思ったりもする。好きな日記もあれば、嫌いとまではいかなくても、好みじゃない、面白味を読み取れない、日記もある。判定してしまうところはある。ただ、日記や文章が"つまらなかった"からといって(趣味で書かれたものなら特に)、その向こう側にひろがる「実際の景色」が、くすんでいるとは限らない。日記の上手い下手が、日常の潤いを、必ずしも、あらわしているわけじゃない。しゃべりの上手い下手が「賢さ」の指標であるかのように勘違いする瞬間がときどきあるのだけど、それと同型の認知バイアスだ。日記の巧みさに「景色の鮮やかさ」を見て取ってしまいそうになる。

じっくり書く暇などなく、そのせいで、表現が稚拙、単語の選びかたが雑、文章量も少ない、というくらいの日記のほうが、その向こうに拡がる世界の「よさ」でいえば、上位に位置づけられる可能性は十二分にある。"ろくなことが書けていない"くらいのほうがよい場合はありうる。誰が判定するのかは知らないが。ともあれ、軽率に「おもしろい」「つまらない」と断ずるのも、よくはなさそうだ、とは思った。

やっつけ

時間に余裕がない中、やっつけ仕事的に、ちょっとした思いつきを、軽率に書き記す。飛躍や破綻もなんのその、書けることだけ、さらさらと記述する。それくらいの、端的なメモ書きによる「日記」って、たぶん、つまらない。つまらないものになっちゃうんじゃないか、と思って、まず忌避する気持ちになって、そのあと、いやでも別にそれでいいはずじゃん、と思い直した。「片手間の日記」をむやみやたらに怖れるところがあったので、それを怖れるのってむしろ違うんじゃないか、と、思いこみを捨てようとした。乱暴でも稚拙でも大過はない。少なくとも大袈裟に怖れるほどのことではない。片手間でよいケースだってあるし、片手間だからこそよいケースもありうる。質と量が担保されていれば問題ない、とだけ、短絡的に考えているほうが、よほどあやういだろう。

2024年04月19日(金)いろいろ薦めたりしたい

書き足りない

毎日のように文章を書いていても書きたいことすべてを書き切れている気はしない。たとえばことばにすることで記憶の定着率が上がるなら、ことばにしておきたいことはもっとある。素敵な作品を称えることですこしでもそれが拡がってくれるなら(知ってくれるひとが増えるなら、あるいは、作品の新たな展開に繋がるなら)記しておきたい傑作・名作だって無数にある。ただただ言葉を書いてみせるだけで変わる気持ちがあるのなら、楽しさや幸せに近寄れるなら、そういったことも、ひらめくままに書いていきたい。いくらでも書きたい。書き足りない。

おもしろい話とかよい文章だとかは二の次だ、って書こうと思ったのだが、そこまで言うと流石に違うな、って思ったのでやめた(それを書いた)。

2024年04月18日(木)肩の力を抜かないと肩こりが厳しそう

張り詰めている

業務中ずっと張りつめている。一息ついて、手元や足元を見直すような余裕が、ほとんどない。まだまだ未熟なのは間違いないので、なるたけ油断しないようにしている、とも言えるが、気を抜いているところを見られたくない、隙を見せたくない、といった警戒心もまたあるんだろう。敵意のようなものもうごめいている。ほんとうは、ときどき立ち止まって、ロードマップや現在地を確認するくらいのほうが(効率も、気持ちも)よいはずなのだけど、なんだかんだで、警戒心がまさってしまっている。ひと目を気にしているし、見栄を張っているし、警戒アラートを鳴らして身体も硬くなっている。あんまりよい状態ではない。

道を間違ったかもしれないにもかかわらず、確認せず、かまわずにぐんぐん前に進んでしまい、最終的にはかなりの時間を無駄にする、といったケースもなくはない。実際の徒歩移動のときなどによくやらかしている。いくらかの時間を費やして細かく軌道修正するのと、とにかく急いで移動距離を稼ごうとするのを、比べられていない。その結果、無駄を増やしている。仕事上の振る舞いでも同じようなことをやっちゃってるぞ、と思った。「なんとなくこっちだと思う」だけの楽観で、猪突猛進を繰り返している。よくない癖だ。

2024年04月17日(水)常に明日に道が延びている

明日がない

明日がある、っておそらくずっと思い続けている。これを、「常に先行きが輝いて見えている」「希望や理想がいつも心の中にある」といった意味合いでとらえるなら、まあよいのだが、しかし、後回しにする動機を常にかかえている、と言うこともできる。実際問題、「明日やればよい」と延々と考え続けているフシはある。「明日なんて来ないかもしれない」「いまやれることやっておかないともうやれないかもしれない」「ここで終わりかもしれない」といった怖れがほぼない。緊急・期限の意識が極めて低い。だいたいのことは、分割して進めたほうがラクなわけだけど、緊急や期限といった意識が弱いから、それに準じて、無邪気に分割してしまう癖が染みついている。分割したうちの「今日」の担当分だけやればよいと決めつけがちである。要するにこれも「明日がある」という観念が生成している習慣だろう。

2024年04月16日(火)ボトルネックで冴えなく見える

冴えない

自分で読み返して「つまらん」ってなる文章はたまにある。理由はだいたい不明だ。今回もなんとか分析できたりしないかなと見つめ直していたのだけど、わからなかった。というか、一意には定められなかった。諦めた。結局、総合力、総合点なんじゃなかろうか。題材だけがよくてもダメ、切り口だけよくてもダメ、言い回しだけよくてもダメ、リズムやテンポだけよくてもダメだ。どこかが乱雑だと、それだけで、全体像が冴えないものになってしまう。一部の欠点に全体が引っ張られる。足を引っ張られる。

レベルの低い要素がボトルネックになる。全体のレベルが落とされてしまう。というのであれば、いずれの要素についても、平均点以上を狙っていく必要がある、とまではいかなくても、とりあえず赤点は免れたほうがよいんだろう。最低限のクオリティは維持できるだけの振る舞いを心がけたい。書く題材についてはしっかり情報収集したほうがよいし、取捨選択もしたほうがよい。鋭い断面を見つけるためにいろいろな角度からためつすがめつ眺めるのも重要だ。さらには、伝えようとしていることに適した言葉選びと、その言葉の配置によるリズム・テンポの調整まで考える必要もある。めっちゃむずい。

新鮮味

こういった「これまで気づいていなかった」「言語化するタイミングがなかった」事柄に関する思索は、たとえシンプルでベーシックな話であっても、なんとなく「つまらん」とはなりにくい傾向があって、ちょっとずるい。新鮮味、新しさ、珍しさ、貴重さ、というものには代えがたい魅力があるんだろうな。シンプルにとらえ直そうとする行動そのものがけっこうな新鮮味を呼び起こしてくれたりもするし。