漫画皇国

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課長の仕事の2年目を終えての感想

 絶対向いてはいないが、人に任せて不満だけ抱えるよりは自分でがんばった方がいいかもしれないと思って続けている課長職ですが、2年目を無事終えました。この前の賞与査定も最高評価だったので、まあ上手くやっていると思います。

 

 仕事の詳細は書けないのですが、僕は新規事業を興す仕事をしていて、それが過去の事例のないものであるため、前例に倣うこともできないところが多く、都度都度今何をすべきなのかの判断をしつつ、仕事を進めています。

 今のところ、様々な操舵を小刻みに繰り返しながら、目的にちゃんと進んではいるのですが、そのための人員は足りないし、時間も金も潤沢とは言えず、それでもまあなんとかやってはいます。

 

 課長としてしていることの中で重要だと感じていることは、人を確保し、人を育て、体制を構築していくことです。そのために、対外的にも発表できる仕事を色々して、この仕事はやる意義があると会社の経営陣と社内の人たちに思って貰うようなことをしています。お金と人を投入してもらい、やりたいと思う人を確保したいからです。

 それはそんなに簡単にはいきませんが、この1年でどうにか新しい人材も確保でき、一緒に仕事をしながら、その人たちに専門的な知識と経験を積んでもらっています。社内的に色々動いたおかげで、この4月からは予算も新しい体制も構築できて、だんだんとなんとかなってきたような気がします。

 

 若い人が育って、自分がいなくなってもこの事業が進んでいくようになるといいだろうと思っています。それが見えてきたら気兼ねなく辞められるなと思うので、早くそうなって欲しいです。

 

 人って教えられただけでは育たないと思うんですよね。教えてもらうのはきっかけでしかなくて、教えられただけでは意味が分からなかったことを自分で再発見したときに、初めてそれが身になるように思っています。

 

 思い返せば子供の頃に、色んな大人が話してくれたことの意味が、今になってようやく分かってきたと感じることが多いです。答えはとっくにあったのに、そこに実感を込めて理解できるようになるのにとても時間がかかりました。そこにはその教えに対応する実体験が必要だったのだと思います。

 先人と同じことを自分で発見した時に、ようやくその教えの意味が分かるような気がしています。だから、人に教える時にも、教えることそのものは教えにはならないだろうなと思います。その人に自分で発見してもらう機会が多分必要なのだろうと考えているので、若い人たちにその機会をできるだけ設定するようにしています。そこで困ったら頼って貰えるようにはしつつ。

 

 課長になってよかったのか?と問われると、とにかくずっとしんどいので、やめときゃよかったなと思うことも多いです。でも、とても重要なやってよかったこともあります。それは最初にも書いたように、自分でできることの範囲が広がることで、他人のせいにしなくて済むということです。

 

 平社員の頃は、上司が何かをしてくれないということに不満を抱えて、でも上司が何かをしてくれなければ不満を抱えたままです。不満を抱えていると自分が正しいような気がしますし、やってないのに正しいような気持ちになると楽なので、そこに居続けてしまいそうになります。

 なので、自分の成果がでなくても上司のせいで会社のせいで、自分は悪くないし、そこに浸っていれば楽になれましたが、でも、問題が解決していないんですよね。解決したかったのであれば、それを自分の頑張りでなんとか手を打てるようになったことは良いことです。誰かをバカだと言ってなにもせず、不満の前に座り込むみたいな不毛なことをせずに済むからです。

 

 お金が足りない、人が足りない、新規事業だからまだ体制がない、それらは全て僕が抱えていた不満でしたが、それぞれ手を打って、少しずつ解消に向かっています。問題が解決すると不満を溜めずに済むので、少しずつ気が楽になります。自分の頑張りで不満が解消されるなら、もう少し頑張ってもう少し解消しようとなるサイクルが生まれますし、それが生まれているということに救われているところがあります。

 

 40歳を超えて思うのは、日本というのは自分だなと思っていて、例えば景気が悪いと言っても、その景気をやっているのは、そのごく一部だとしても自分の仕事で、今は日本社会の中で一番働いて実務を動かしている年代だと思うので、自分達がやらにゃあなというような気持ちがあります。もうおじさんなんですよね。大人に庇護される存在ではなく、若い人を庇護するのが自分の役割だなと思います。

 働く環境を少しでも良くして、若い人が働くことを面白いことだと感じられるような会社組織を作って維持したいんですよ。おじさんが若い人にできることなんてそれぐらいだから。

 

 これをやりきれたら自分のことをやり遂げられた人間として、さらに好きになれるだろうなと思います。どうにか頑張って事業立ち上げを完遂し、自分がいなくなってもそれが続いていくことを信じて、そして、辞めてえなあ…と思っています。

ピエちゃんは会社辞められへん関連

 会社、この3月末で辞めようかなと半年ぐらい前には思っていたのですが、結局辞めていません。次の辞めチャンスとして、この前までは、自分がやらないとみんなが困りそうな仕事が終わる7月末かなと思っていましたが、僕が課長をしている課のメンバーで、長期休みに入る予定がある人の話を聞いて、じゃあ、彼が復帰するまでは働くか…と思い、辞めるかものタイミングをまた延ばしました。

 

 辞めたいです。なぜ辞めたいかというと、こんなに沢山働く意味がないからです。生活に必要な額の何倍も稼いでも、使いもしないので意味がありません。生きるために働くのであれば、もっと楽な仕事でいいし、あとは資産を回しながらぼちぼち漫画を描いていれば、生きて行けそうな感じになっています。

 

 辞めない理由を挙げます

・今やってる仕事を最後までやりきりたい

・今やってる社会的意義のある仕事を途中で降りることの申し訳なさ

・今辞めたら困る人が沢山近くに見えている

・仕事環境を良くするという自分との約束を守りたい

・物価と給料が上がっているときに資産を頼りに辞めるのが不安

・仕事上の不快な人間関係があることで自分の頭がハッキリすることがある

・仕事で役割を担ったり、経験することで自分がよりよく変わっていると感じられている

・仕事を進める中で色んな気持ちになることが漫画になっているという自覚がある

・仕事を辞めたら家を出なくなり引きこもりが加速するかもと思う

・自分の社会的信用力は会社から生まれていると感じているので失うことに不安

・生活をガラリと変えることへのストレスがあり現状維持が楽

 

 今書き連ねていて分かりましたけど、会社の仕事をしたいという部分が全然ないですね。辞めるのが嫌なのはあるけど、続けるのが好きなわけではないということだなと思います。

 これって悲しい状況かもしれません。

 

 会社は辞められるなら辞めたいです。やりたいゲームができないから。気が済んだらまた会社員として就職すればいい話でもあります。でも、辞められないんですよね。とりあえず上記に挙げた項目をひとつひとつ潰していければ辞められるかもしれないので、それを頑張ってみます。

札幌までサイン会に参加しに行ってきた関連

 先週末、札幌旅行をしてきました。三宅乱丈先生のサイン会に参加するためです。

 

 サイン会は日曜にあったんですけど、せっかく遠くまで行くのだからと、土曜日から行って、月曜日に会社の休みをとって、二泊三日にしました。

 札幌は、いい街です。本屋が大きいから。ジュンク堂はいい本屋でした。僕の単行本が全部あったからです。

 

 僕はまだ十代の頃に読んだ「ぶっせん」から、三宅乱丈先生のファンで、単行本はだいたい持っているのですが、中でも特に好きなのが「pet」でした。

 「pet」は割と短く完結した漫画なんですけど、当時大学生だった僕は、あんなに面白い漫画はもっと読みたかったと嘆いていて、でも、その後の三宅乱丈先生の作品もずっと面白かったので、それはそれでよかったです。

 

 何年か前に「pet」がアニメ化され、それも良かったのですが、最終回のあとに続編の「fish」が描かれることが発表されたのを見て、狂喜乱舞してしまい、ビームコミックスとしてリマスターエディションが出たときに、実は3部作の構想で、「pet」はその第2部にあたると描かれていて、でも読むのを諦めていた第3部があるんだ!と思って、読めるんだ!と思って嬉しすぎておかしくなってしまいました。

 

 その後、コミックビームの編集さんにウチで漫画を描いてみませんかと声をかけてもらったときに、三宅乱丈先生の漫画が自分はとても好きで…と話し、同じ雑誌に載ってやりたいという欲望をおさえきれずに漫画家になった、みたいなところもあります。

 

 そして、その「fish」が来月完結し、三宅乱丈先生のサイン会があるということで、速攻でチケットをとってしまいました。

 たしか10年ぐらい前にもサイン会があって、そのときはさすがにサイン会のために札幌までは行けない…と断念したのですが、今の自分にはお金も行動力もある!行ける!行かねば!という気持ちも背後にありました。人には後悔がありますが、それを乗り越えるチャンスもあることが多いです。

 

 ちなみに三宅乱丈先生は僕が連載していた「ゴクシンカ」を読んでくれていて、僕がサイン会に行くということも編集さんに話したら伝わっていたので、コミックビームで連載をしていて得をしたなと思いました。

 同業者がサイン会のためだけにわざわざ札幌まで来てくれることなんてないよと言って歓待して頂き、自分はキモいファンだからな…と思ってたため、めっちゃよかったです。

 

 サイン会は、色紙の他に単行本にもサインをしてくれるということで、家にあった本を何冊か持っていったのですが、まずは色紙に絵を描いて貰えるので、桂木(petの登場人物で一番好きな男)をリクエストして、嫌われ者のときの桂木って言ったら、昔の単行本を確認して描こうとなったのですが、そんなこともあろうかと僕は袋から「pet」の最初の単行本を取り出し、昔からのずっとファンであることをアピール、三宅乱丈先生にもよく持ってるねって言われて、でへへとなってキモいファンであること全開で、単行本の方には若い頃のカッコいい桂木を描いて貰いました。

 

 20年前にまだ大阪に住んでたとき、近所の本屋でこの単行本を買った頃のピエテヅ!おまえは20年後にその本に桂木の絵を描いてもらえるぞ!しかも、続編も描かれていて、おまえは漫画家になっていて、同じ雑誌で連載もしているし、それを読んでもらっている!と伝えたら、そんなことあるわけないだろ!と怒るんじゃないかと思いますが、あったんです!あってよかった!嬉しすぎる!!

 

 夜には三宅乱丈先生と編集さんたちの打ち上げにも混ぜてもらって、色々お話させてもらったり、他に持ってきた漫画見せたり、単行本化されてない連載の話とかをして、ファンアピールをしたりしました。

 あと、三宅乱丈先生が持ってきてくれた「ゴクシンカ」の単行本にサインをし返したり、念のため持ってきた「ひとでなしのエチカ」の単行本もお渡しして、こっちにもサインしてよって頼まれたので、ウキウキしながら描いてしまいました。

 

 こんなにいいことがあっていいのか??わだすの人生に!という時間を過ごさせてもらい、もうほんとずっと嬉しかったです。

 僕は漫画家もやってるだけの漫画オタクなので、一介のオタクが、そんな抜け駆けのようなことをしていいのか?他のファンに怒られるのではないのか?と思ったりもしますが、それはそれとして、漫画家になってよかったなと思います。得をしているから。

 

 漫画家になってから、色んな昔から好きな漫画家さんに自分の漫画を読んでもらったり、面白いと言って貰ったりしているのですが、自分が子供の頃から好きな人に、自分が描いたものを面白いと言って貰えるの、嬉しさのボルテージがほんとすごいですよ。

 皆さんも漫画を描き、それを好きな漫画家さんに褒めて貰うのはオススメです。嬉しすぎるから。

 

 三月末締めの会社で働いているので、今はすごく忙しい時期なのですが、なんとか時間を作って行ってよかったです。ほんとよかった。

アウトプットってインプットだなと思う関連

 僕は、商業漫画を描いたり同人漫画を描いたりブログを書いたりウェブラジオに参加したり、SNSでも発言が多く、それ以外に会社の仕事もゴリゴリやっているため、「アウトプットが多い」という評価を人から受けることがあります。

 でも、個人的な感覚では、そのほとんどはアウトプットではなくインプットとしてやっている感覚があって、特にこのブログなんかはほぼ完全にインプットとしてやっていると思います。
    
 つまり、何かに関する考えをまとめるて書くということは自分にとってのインプットの側面があります。なぜなら、外部の刺激を受けたことについて、自分の中で考えを整理することは、自分の中にその考えを定着させるというプロセスのひとつであると感じているからです。なので、ここで文章として書いたからこそ、それをインプットとすることができ、他でやる何かのアウトプットに転用をできていたりします。

 

 そういう認識なので、僕自身は色んなアウトプットを頑張っているというよりは、アウトプットを継続するために、その下地として何かを書いたり作ったりするタイプのインプットを繰り返していると感じています。

 

 例えば漢字を書けるようになるときに、漢字を見るだけじゃなくて、書き取りをしてみるじゃないですか。そんな感じです。自分で実際に書いてみるときには、見ていただけのときには分からなかったことがわかったりします。書いてみることで、いろんな角度からその感じを見ることができるようになったりします。

 

 映画観たり、漫画読んだり、ゲーム遊んだりしたときも、その感想を書いたときにやっと観終わった読み終わった遊び終わった気持ちになったりします。それぞれの作品から自分がその時点で何を得られたと感じているかが明らかになるからです。ゲームのリザルト画面を見ているような感覚です。そこで一気に経験値が入っているような。

 

 僕が今漫画を描けているのは、若い頃から漫画の感想を書いたり喋ったりし続けてきたおかげだと思っています。それが自分にとっての大切なインプットとなっていて、自分自身にとって漫画がどのように面白く作用しているのかがそこで言葉になっていたので、それを手がかりにしながら今の漫画のアウトプットをやっています。

 さらには、漫画を描く中で分かってくることも多くあるので、漫画を描くというアウトプットがさらにインプットとなって、さらにアウトプットするときに作用してくるというサイクルが回ってくるので、漫画の仕事を始めたばかりの頃より、色んなことを考えて描くことができるようになってきました。

 

 漫画を描くというときに役立つインプットは漫画を描く中に沢山あるので、継続的に描けるようになると、とても効率がよくサイクルが回るなと思います。

 なので、アウトプットをするためには、そのためのインプットとして、少しでも多くの完成原稿を作るといいんじゃないかと思って、できるだけ仕事を引き受けたり、コミティアで本を出していたりする感じです。

 

 今年もできるだけ漫画を描きたいなと思っています。

結局人が死なないと変わらないんじゃないかと思ってしまうこと関連

 世の中はまだまだ完璧ではないので色んな問題が出てきますし、一度は上手く解決していたと思えたはずの問題だってだんだんと綻びが見えてきて再び問題となってしまうこともあります。そのため、人はその視界の範囲に問題を認識していて、ああ問題があるなと思ってはいるものの、それが上手く解決していないという状況の中で生きることも多いです。それはそこそこストレスがあるので、どうしたものかなと思ったりします。

 

 例えば、安全管理上問題のある運用がされているものがあったりします。それに対して、「危険だから止めましょう」と言えば一時効果はあったりしますが、結局すぐに戻ってしまりしたりして、その理由を聞けば、危険なやり方の方が早く終わるからとか、いちいち許可をとらなくてもいいからとか、やらなくても問題は起きていないのにやる意味が分からないとか、そもそも人手が全く足りていないのに、そんな労力を出すことはできないとか、様々なやらない方が得になるという理由が出てきます。

 

 そういうときに一瞬頭をよぎるのは、これはもう一度、この危険なやり方で人が死んだりしないと徹底した対応はできないでのはないか?という考えです。これは本当に悪い考え方で、つまりは自分の目的を達成するために誰かが死んでくれと望むことに等しい考えです。人柱を求めているようなものです。なので仮に一瞬よぎったとしても、この考えを決して認めてはいけません。

 

 しかしながら、人の生死は社会的な大きな意味を持つことが多いため、そういった呪術的な認識により、「人の死によって何かを変えたい」と思う動きは、実際世の中に存在していると思います。以前、自死をしようとしたことがある人と話をしていたときに、その人は、自分のしようとした自死は前向きな自死であると思っていたいう話をしてくれました。つまり、自分が死ねば、それによって周りが深く反省をしてくれて、自分が嫌だと思う状況が改善されるかもしれないという願いの話です。

 それは具体的に例えるなら、過重労働が問題視されている仕事場で、過重労働による自死が起これば、その仕事場でやっと過重労働が亡くなる方向に動くのではないか?というような願いです。つまり、前述の人柱問題に対して、人柱とする対象を自分自身にすることで、自分が加害者となる抵抗を感じることなく目的を達成しようとする話だなと思いました。

 

 それは、よくない考えですよという話をしました。実際にされなかったことはよかったですし、それにきっとそれを見た人が一時気にしても、深く反省なんて別にされないだろうし、また戻ると思います。

 

 このようなことは、最初に「問題が解決してほしいという」願いがあることだなと思います。そして、そのための方法として人の死が出てきてしまう話です。

 つまりは、そもそもは人の死の話では全然なかった話のはずです。問題の話だと思います。本来は人の死なんて話に出て来なくていい話で、問題が直接的に解決できる状況であればそもそもそんな話にはならないものだろうなと思います。

 

 何が言いたいかというと、人の死によって何かが動いたり、動きそうなときに話した方がいいのは、「そこで人が死ぬことの是非」ではなく、そんな話にまでなる必要がないように「そもそもあった問題を先に解決すること」だろうなと思うということです。

 

 なのでそういうことを日々やっていかないといけないなと思って、手の届く範囲でそれをやっています。

人から漫画を描き始めたと教えてもらって嬉しい関連

 この前のコミティアに来てくれた人たちの中で、何人かの人が、僕の様子や言っていることを見て「自分も漫画を描き始めてコミティアに初参加しました」と伝えてくれたということがあり、とても嬉しかったです。作った本も頂きました。

 これまでも色々書いてきましたが、僕は人が何か新しいことに踏み出すことをよしと考えていて、逆に、何かをやりたいと思っても、何らかの理由で自分のような人間にはそれをやってはいけないんじゃないかと思って踏み出せなかったりすると、悲しいことだなと思います。

 

 始める何かは別に漫画じゃなくてもいいです。自分にとって何か意味のあることを新しく始められたらいいと思っていて、歳をとってくるとそういうことが余計に難しくなってきたりするので、そういうことが気軽にできるといいなと思っています。それぞれの人が何かを始められるといいと思います。

 それは、それによって日々が楽しくなってくるだろうと思うからです。昨日の自分よりも今日の自分が、少しでも何か新しいことができるようになって、そのうち段々と色んなことができるようになると、毎日に楽しいことが増えるじゃないですか。

 

 僕自身のも四十歳を過ぎ、周囲から中年がしんどくなってくる話もよく聞くんですけど、その理由の一つは、中年になると色んなことを知ってしまうので、目の前にあるものが知っているものばかりにできて退屈になるというのがあるんじゃないかと思います。たとえば、新しい漫画を読んでも、昔読んだ別の漫画との類似点を見出して、それで昔読んだのと同じだと思ってしまったら、読んでも面白くなくなってしまうかもしれません。新鮮さがないからです。

 

 生活の中で知っていることが増えていき、慣れて、効率化はして、悩むことは減ったとしても、おかげで退屈になってしまうということがあるんじゃないでしょうか?だから毎日に変化が少なく無為に思えてしまったりするんじゃないかと思っていて、だからこそ新しいことを始めると退屈しないでいいと思うんですけど、踏み出す最初の一歩には大きな労力がかかるので、なかなか踏み出せないものだなと思います。

 

 さらに、周りの目だってあるじゃないですか。子供が何かが下手くそでもまだいいかもしれませんが、大人が下手くそだと笑われるかもしれません。大人は慣れた分野で笑われにくくなるので、また昔のような拙い笑われる存在になったりしたくないと思ったりします。恥ずかしいからです。なので、笑われたくなければ最初から新しいことなんてやらなきゃいいんですけど、でも、やらないと何かができるようにはそもそもならないですし、それで人生に退屈しちゃうんだと思うんですよね。

 

 だから僕はそういうのを笑いませんよという態度と、自分だって拙いのを晒してやっているんですよという様子を見せることで、他の人も最初のハードルが下がってくると信じて醜態を晒しています。だってみんなもそうなった方が雰囲気から閉塞感がなくなって、楽しいじゃないですか。

 

 そういえば、先日、丁寧なお手紙を貰いました。その人は会社を辞めて漫画家を目指し始めた人だったんですけど、でも、なかなか上手く行かなくて弱っていたときに、もっと歳が行ってから漫画を描き始めた僕の話を目にして、なんだってやれるんだと思って、この前、ついに雑誌に掲載されたそうです。

 その雑誌とともに掲載しを僕が描いてる出版社に送ってもらって、打合せに行ったときに編集さんから渡されて、一緒に「なんて良い話なんだ」と感激しました。漫画も読みましたが面白かったです。

 

 自分が拙いことで醜態をさらしつつも頑張って何かをやっていることで、まだまだ可能性もあるし頑張れると思ってくれる人がいると実感できて、マジで良かったですね。そういう流れを支える中に自分がいると感じられることで満たされるものがあります。

 

 とにかく自分が良いと思ってやっていることの目に見える影響を直接教えて貰うことが何件もあって、本当に良かったです。続けていこうと思います。

いじめ撲滅プログラム最終章の掲載が始まりました関連

 現在発売中のヤングキングに、いじめ撲滅プログラム最終章の前編と、ひとでなしのエチカの第9話が同時掲載れています。いじめ撲滅プログラムは、藤見登吏央さんの原作をもとに描いている漫画で、2年前頃に2つのエピソードが掲載されており、あと1エピソード描けば単行本化できる分量が溜まる本で、ひとでなしのエチカの1巻の最後にも発売の予告が載っていたのですが(2023年春発売として…)、予定より1年遅れでようやく最終エピソードが載ることになりました。

 遅くなった理由は、ひとでなしのエチカの2巻発売の方を優先させたことと、僕がずっと忙しかったことで、去年の年末にようやく本格的にネームを描き始め、なんとか仕上がったので、会社の仕事をしているのと生活の最低限の時間以外はずっと作画をしています。

 

 2024年が始まってから、次号の後編の掲載までだと、

連載漫画「ひとでなしのエチカ7話8話9話」 16ページ×3=48ページ
読切漫画「サポーター」           10ページ
シリーズ連載「いじめ撲滅プログラム」    28ページ+36ページ=64ページ

 

 合計122ページの漫画の掲載があることになり、毎月50ページ以上載っているという感じなので、もっと頑張れば、会社員を続けながら週刊連載も出来るのではないかという雰囲気になってきました。
(無理です)

 

 さすがにこの前のコミティアに新刊を出すことは諦めましたが、漫画はいっぱい描いています。いっぱい描いているのは、描いてほしいと言われたからなので、頼まれたら嬉しくてやってしまいます。

 

 その代わり、人と会っているときもiPadで漫画を描いているという状態なので、これを続けていると人間関係に問題が出てくるやもしれません。

 

 いじめ撲滅プログラムは、藤見さんから預かった原作を、規定のページ数内でどうすればより良く伝わるかということを考えた漫画です。漫画を面白くするためなら内容は変えていいと許可を貰っているので、原作の流れと核の部分を生かすために、様々自前の何かで補強しつつ、原作の魅力が一番面白く伝わるようにと思って漫画にしました。

 

 面白かったら藤見さんの原作の力で、つまらなかったら僕の責任ということでお願いします。

 

 最初のエピソードを描いたのは、まだ連載を始める前の読み切り仕事を始めた時期で、商業誌に掲載される漫画としては2本目でした。そのため、今よりも漫画を描くということに描きなれておらず、2つ目のエピソードから今回の最終章までの間は2年、その間に描いた原稿の数は1000ページぐらいあるので、僕の漫画の描き方の変化をそこに見て取ることができると思います。

 

 最終章を描く前に、最初に描いたエピソードを読み返したのですが、当時は描き方の指針が少ないなりに、下手くそゆえの執着心で描いたので、今だとこんなには描かないなと思うような絵があって、頑張って描いとるやんけと思って良かったです。今はそこそここなれて描けるようになっており、描く速度も倍ぐらいの速さになっていると思います。まだ後編の仕上げが残っていますが、頑張ってよく描けたなと思うので、今載っている前編と、来月の前半に出る後編を宜しくお願いします。

 

 単行本もしばらくしたら出ると思いますので、そのときは買ってください。