毎年、京都に行っている。
といっても、去年からだけど。
それは、以前塾で教えていた生徒がフリーの写真家として
毎年京都で個展をやってるからだ。
と書くとカッコイイけど、
プロではなくて、バイトしながら、展示をたまにやっている。
今年で3回目。
ギャラリーのオーナーと仲良くて、
毎年やらせてもらってるらしい。
1回目は見逃したけど、去年と今年は見に行けた。
小さい三角形のスペースの3階で、
いつも何かを表現したそうにモヤモヤしてる、
そんな展示だった。
けど、去年よりは断絶よかった。
ギャラリーでその子に会って、
ひと言ふた言、話したら、彼女は一人でコンビニに行ってしまった。
いつもそうやって自由だったな、
と一年前を思い出す。
帰りを待つ間、2階の作業部屋で、
お茶を飲んでいた。
そこもおんなじ三角形の部屋。
六畳の四角形を半分に切ったような三角形。
そこで、一人の男の子が書き物をしていた。
見たことあるな、と思ったら、
去年も京都で会ってたのを思い出した。
去年は彼の友達たちとバーベキューをしたんだった。
その彼が真剣に楽譜みたいなのを書いていた。
彼は今回の展示で流すBGMを作った人だった。
バンドやったり、
曲つくったりしてる大学生の彼は、
バンドのために曲を作っていた。
「オリジナルの曲やってんのー?」と僕。
「そうっすね。全然ダメなバンドなんすけどね。」
と彼。
「今年卒業?音楽続けんの?」
「うーん、音楽で食ってければいいすけど、難しいでしょ。」
「ずっと京都にいるの?」
「まだわからへんけど、ニューヨーク行きたいっす」
彼がニューヨークと言ったことに、僕は一瞬返答に困った。
彼はきっと適当に言ったと思う。
けど半分真剣だったかも、と今は思う。
彼とニューヨークの距離がどれくらいなのか、
僕にはわからなかった。
ニューヨークに行くことが、
どれほど遠いのか、わからなかった。
それは物理的な距離じゃなくて、
可能性の距離。
たとえば、僕の周りには、
ニューヨークで活躍してる人もいるし、
ニューヨークを拠点にしてる人もいる。
ニューヨークで頑張って仕事探してる人もいるし、
日本に戻ってきた人もいる。
だから、ニューヨークは近い気がする。
自分は行ったことないけど、
なんだか距離は近いと思う。
人にはそれぞれ「近さ」というのがあると思う。
その土地にどれだけ馴染みがあるのか、
そこにどれだけ知り合いがいるのか、
どれだけ生き抜き方を知っているのか。
それは場所に限らず、
小説家になるには、
小説家に近くならなきゃいけないし、
ビジネスマンになるには、また近くならなきゃいけない。
そのためにコネをつくったり、
本を読んだり、
つながりを持たなきゃいけない。
だから、親が小説家だと、
子も小説家に近くなる。
そうやって、
目標に対して近くなろうとしないと、
絶対にそこには辿り着かない。
いつか誰かが自分を「発見」してくれるんじゃないかな、
なんて思ってても、
そんなことはない。
無人島で旗を振る人しか、
助けてもらえない。
僕は、何かに近くなりたくて、
東京に出てきたんだと思う。
長崎ではあまりにも何もかもが遠すぎた。
一体何に近づきたいのかはまだわからないけれど、
少しでも近寄っていかないと、
何も獲得できない気がした。
京都の彼がニューヨークに近づいていくかはわからないけど、
もはやネタ的にニューヨークと言ったのかもしれないけど、
それくらいニューヨークは京都から遠かった。
東京にいたって、
動かなければすべてが遠い。
遠くにいながら、
遠いことを嘆いていても始まらない。
一歩でもどこかに近づけるように、
一歩を踏み出すしか無いんだと思う。
★
最近になると、
だいぶ、周りの人達が、
何かに近づいていこうとしなくなった。
安住や安定、諦めや保身に向かう。
それもいいかもしれないけれど、
安住して、死んだ目をしてる人がいっぱいいる。
ニューヨークでも小説家でも、
主婦でも東京でも、
そこに向かおうとする一歩が
きっと人を生きさせるんだと思う。
そんなことを考えているうちに、
ギャラリーにあの子が戻ってきた。
この子は一体どこへ向かっているのだろう。