博士論文を出した日

先月下旬、ようやく博士論文を提出した。際立ってドラマチックな出来事というわけではなかったが、確かに記憶に残る一日を過ごした。原稿がほぼほぼ完成した状態から、印刷業者へ入稿する「ほぼ」でない完成に至るまでに思ったより時間を要した。編集を加えるたびにあちこちへと飛び回る画像を元の正しい位置に繋ぎ止めたり、図や章番号を順序通りにするの苦労し、それを終えるのに半日はかかった。隣のインペリアルカレッジ内にある業者から受け取った論文五部(二部は二人の外部審査員用、一部は審査の座長用、あとの一部の提出用はおそらく保管用だろうか、最後の一部は自分用に刷った)は持っていたどの鞄にも収まらず、結局両手に抱えたまま大学まで五分程度歩く羽目になった。三日間満足に寝れておらず疲れていたので、ところどころで休み、手を持ち替えつつサウスケンジントンを歩いた。こういうときに限って、すれ違う人々は誰も、その大げさな量の紙の山にも、持ち主の顔にうっすらと漏れている満足と安堵にも目も触れない。

提出には図書館と学務課からの署名(未返却の図書がないだとか、学費滞納がないとかを証明するためのもの)が必要だが、それはもう済ませてあった。メールのやり取りはあったものの、その日論文提出のために初めて会う研究事務担当の女性は予想していたイメージと大分違っていて、(ある同僚曰く)その「ヒッピー」な雰囲気に少し驚いた。そうした風貌の人間はこの大学では何ら珍しいことではないし、また大学の性質関係なくそもそもロンドンという場所において特に不思議なことではないはずだった。だが恐らく自分の中で、三年かけた研究が(大凡)終わろうとする瞬間に立ち会う人物のイメージを勝手に厳粛な裁判官のようなものとして思い描いていたから、少し面食らったのかもしれない。彼女は提出用の論文に署名があるかだけ確認し、あとは論文のPDFと付録のデータを受け取った。五分とかからない作業で提出は完了した。事務の女性のキャラクターに対する若干の驚きと、三年の研究が大凡終わろうとしている達成感が落ち着かないまま、事務室を後にした。スタジオでは同僚たちがねぎらいの言葉をかけてくれた。(私に断ってから)刷りたての論文をパラパラとめくり、それぞれによくやったと言った。元々研究科にいるのは(修士過程の一部の人たちとは違い)物静かな人が多いが、それでも笑顔と声のトーンが控えめだったのは、将来自分自身もこれに近い何かを完成させ、提出までこぎつけなくてはならないという未来を突きつけられたような気持ちになったからだろうか。

普段は歩くのにちょうど良い帰路だったが、自分へのほんの些細なお祝いとして、その日はUberで帰った。ドライバーは私が日本人と知り、彼がいかに中国人観光客に悩まされているか流暢に話した。短い車中の会話に、いくつものエピソードを詰め込んだ。私の同僚の中国人は皆素晴らしい人達だが、そういうこともあるかもしれない、と丁寧に(彼のいう日本人らしい態度で)心持ちバランスを戻そうした。フェアじゃないのは良くない、全体を見ないといけない。帰宅後家の近くの中華料理屋で夕食をとった(車中の会話とは無関係な選択だった)。普段より少し多くの量を、普段より少しがっついて食べた。そうすることで、ここ暫く溜め込んでいた焦りと不安を宥めることができるような気がした。帰宅後ベッドで短めの仮眠をし、身支度をして少し休んだ後、早朝の便で短期的な療養のため日本に発った。機内で眠っているあいだ夢らしき夢は見なかったが、本州上空あたりで起きたときには長く緊迫した夢から覚めたような感じがした。

葉月、第二稿

五月に博士論文の初稿が完成した。RCAの博士課程では、第三学年の学年末審査で論文の原稿がほぼ出来ている状態と認められれば、それ以降の学費は殆どかからない。(逆に言えば、ヘマをすると資金的に大分困った状態になる。)この制度のおかげで、なんとしてでも学年末審査に「それなりにできた」初稿を間に合わせなければいけなかった。同月末に審査が無事に終わり、あとは最終稿の提出と学位審査が残っている。とりあえず急いで書き上げた初稿は、書いた当初はそれなりに満足したものだったが、今読むとあちこちに穴が空いている。言いたいことは分かるし、ところどころ悪くない部分もあるが、それでも完成と呼ぶには程遠い。一度組み上げたものに手を入れるのは、全くの更地に何かを建て始めるのとは違った難しさがある。自分でこうしたいという欲もあれば、人からの期待もある。幸い、今書いている研究は恐らくずっと先の長いものになる。少なくとも、自分が卒業した後大学図書館の倉庫にひっそり置かれるだけという状態にはならなさそうだ。最終稿の締め切りは十一月。秋が過ぎないうちに十分に整えたい。

着手、20/100

博論に着手し始めた。並行して最終プロジェクトも進めているものの、費やしている時間は執筆の方が全然多い。人生に書いたことのない量の文章(大凡4万語)を書き始めるのは、巨大なジグソーパズルをピースから作り始めるような感じだ。どんな質であれ、研究に関するこれまでの書き物の存在が有難い。博士から新しい分野に来て、成果発表というよりは修行的な時間の過ごし方をしてたので出版物こそないものの、学内で必要な年度末レポートは根詰めて書いていた。まずはそれを論文の型に流し込むところから始まった。型そのものも全く固定されていないので、なんだかぶよぶよした塊をいじったり、それに書き加えたりしている感じだ。当然英語で書かなければいけないが、そこは意外と問題になっていない。特別英語が得意なわけではないけれど、研究に関することになると日本語の方がうまく書けない*1むしろ、他所で読んだ綺麗な言い回しを自分の文で使ってみる機会でもあるので、それはそれで高校英作文の続きをやってるような感じで楽しめている。文章を書くと自分の中にあるコトバの範囲に絶望的になることがある一方、コトバが勝手に自分の何歩か先を行くことがある。そのときは不思議な感覚で、また高揚する。よくもまあそんな冴えた言い回しができたもんだ、と書き上げられた一文に素直に驚くことがある。経験上、二文、三文とは続かないようだ。もう少しぐっと、息継ぎを我慢してみれば少し先が見えるのかもしれない。英語だと簡潔な文章がまだうまく書けず、一文がどうしても長くなってしまう。最近博士号を取得した(ネイティヴで物書きの)同僚の文は見事に簡潔で表現力豊かだった。そのクオリティがどうしたら出せるものかと悩ましい。Puwantsのときもそうだが、美術作品というよりは俳句を作っている感じで、なるべく色んな要素がぴたっと調和するように作りたい。文章もそうで、よく響かない文は中身も少ない感じがする*2100ピースのジグソーパズルに取り組んでいるとすると、今出来たのは20ピースくらいだ。

*1:自分に限ったことでは全くない。

*2:皆が喜びそうなふわっとしたことを書けば良いというのとは違う。

02017年RCA納め

Design Research Student Conferenceでの発表を終え、夜な夜な発表練習をする日々がひと段落ついた。と同時にこの大学院に通う2017年最後の日でもあった。自分のような美学的な研究は意外とマイノリティ*だが、良い反応が得られた。同僚の発表ももちろん聞いていて面白いが、それ以上に見モノなのが、ドイツからこの会議のために渡英してきた自分の指導教官や、ファッション・テキスタイル科*のチューターがどう彼ら(自分ら)の研究を分析批評して、どんな助言なり質問するのかというところだった。デザイン研究と実践を内側から理解している研究者だからこそ持てる視点が非常に刺激的で格好良かった。実際に彼らの中に、デザイン研究なりの実践研究「を通して」得られた深い知見がある。これは、デザイン研究「について」の研究(的立場)とは全く性質が異なる。

*主流というほどではないが、behavioural change, data visualisation, A.I./machine learning, sustainabilityあたりの研究テーマは毎年数人ずつやってる人がいる印象がある。しかしRCAは総合大学のような、研究室があって研究テーマが細分されていて、それぞれに教授がいて下に学生がいて、という形でないためやや辺境で萌芽的な研究がやり易いのかもしれない。現に自分も工学部にいた頃ほどの、ある特定の(歴史の長い)分野に所属するが故に生まれてしまう制約のようなものが割と少なく、その点非常に自由で居心地が良い。また、そこでただ「学際」として領域の問題を済ませ(たことにし)てしまうのではなくて、(デザインをベースとすることで大義名分を得た?)具体的で強力な実践で以って調査するという文化が大きな強みなのだろう。

*Fashion & Textile専攻は以前マテリアル学科に属していたが、マテリアル学科自体が分解されて、今年からデザイン学科に属している。

refleCTion

昨年度まで年一回のペースで行われていたDesign Research Student Conferenceが今年から二回に増え、その一回目が明日から三日間に渡り行われる。デザイン研究科内各専攻のMPhil/PhDの学生が一人最大30分の持ち時間の中で研究発表し、その後質疑応答が設けられる。「あくまで"Design Research"なのだから、パワポ的発表に『陥らず』、プロトタイプ、デモ、実験などの実践を交えて発表するように」というデザイン研究科長からのリクエストもあった。学生といってもRCAの博士課程では年齢層の幅は広く、学士・修士からストレートできた若い層から、一度大学の学長やNASAのエグゼキュティブとして働いた後入学してきたような年配の層まで様々だ。テーマも関連してくる領域もバラバラだが、何かしらデザインすること(実践 = Practice)とそれを見返すこと(省察 = Reflection)を通して新たな知識を生み出そうとしていることは共通している。実践と省察については、RCAのデザイン研究科で教鞭を執っていたRanulph Glanvilleによるサイバネティクス的な考察が大変エレガントで且つ興味深い。

 

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RCAは大学院全体としてPractice(実践)からResearch(研究)へやや移行気味の傾向があるようだ。工芸的・職人的スキルを鍛える場というよりも、社会問題や科学技術により関連のある研究課題を扱う場にシフトしようという流れが見られる。勿論これは大学院独断の判断というよりは寧ろ年々厳しくなる国からの芸術系への助成金も背景にあるはずだ。藝術大学院として科学技術に対するリテラシーを一旦全体的に持ち上げようというのは有益で不可欠な方向性だと思う一方、アートスクールとしての自由を担保することも重要になってくるように思える。高い技巧や、そこから生まれる美学や、実験的な実践や、質的で経験的な、言語化したり研究したりしにくいけれども試行錯誤の価値のあるものが生まれる土壌を絶やすべきではない。純粋な技術系・デザイン系機関との違いはそういう混沌とした、非理性的・非論理的・非科学的な自由を内包できる環境にあると思う。

 

博士マラソン折り返し地点

毎年恒例の夏の一時帰国も残すところ1日となり、明後日から3年目のPhDが始まろうとしている。以前のブログにもあるように最初は色々と戸惑いがあったが、休暇ごとに日英を往復する生活にも大分慣れてきた。ただし今回の渡英は、先学期に起こったトラブルのせいでいきなり(ロンドンの)自宅に帰ることができず、少しの間同僚の家に泊めてもらう予定だ。近いうちに何が起こったか書いておきたいが、ロンドンでいくつかの修羅場を乗り越えて人生経験値が上がったような気がしている(悪いことはしてません)。

一時帰国する前から以前からのコラボレータに声をかけてもらい、東京での滞在中に今月から出展する新作を再び一緒に制作できたのがラッキーだった。PUWANTSという水中で動く造花のシリーズで、試行錯誤のおかげで新種がかなり増えた。しかも作れば作るほど発展できそうなのが面白い。学部生のときは流体力学の複雑さと美しさに惹かれたが、この作品ではリニアな思考では辿り着けないミラクルが時折起こっている感じがする。渡英のフライトをすでに予約してしまっていたために設営にだけ行けないのが残念だが、作ったものが初めて地元関西で展示されるのは嬉しい。実際に展示場を訪れることができるのは年末頃だろうか。きっと素敵な展示になるのでぜひお越しいただきたい。詳細はこちらから。

miyoshikensho.com

 

ところで、友人の薦めでVALUの利用を始めてみた。VALU保有者向けの優待では、あまり公には書けない(ややシークレットな)情報を提供しているので、ご興味のある方は応援いただければ嬉しい。留学先で出会う色々な景色や、実際行ってみないと分からないようなデザインと研究の実情を共有できればと考えている。

valu.is

 

 

 

 

Notes from the last seminar

What follows is a part of the topics of the last seminar in the School of Design Research where Richard Banks from Microsoft Research Cambridge presented.

1. Unexpectedly, there seem to be much fewer researchers with design background compared to those from social sciences or engineering. Design PhDs are rarer. There are some of the graduates from IDE MA in Microsoft Research where they are expected to take a designerly approach to research. 

2. While they present the outcomes at CHI, there is a tendency for the conference to focus on technological and methodological aspects. There is a certain limitation to the discussion around the design process i.e. about the artefacts emerged in research, why they were made, etc. RTD (Research Through Design) conference has a more suitable environment for design research where both a presentation and an exhibition take place.

3. There is still an inconsistency in Design PhD in terms of, for example, the criteria they are judged on. Compared to areas where repeatability is guaranteed to some extent such as natural science and engineering, the value and the insight of design research lie in the chaotic, ambiguous, and nonlinear process. This is related to the interview of Dr. Christopher Frayling, the former Rector of RCA, by RTD 2015.