境涯 44




 容赦のない抱き方を幸陵は滅多にしないけれど、そうされたとき、翌日の自分がほとんど使い物にならない事を十分わかっていた更古は、途中、何度か意見はした。
 夕食もまだだったし、明日は店もあるし、自分が寝ているときまめに顔を出してくれていたのを知っていたから、そもそも幸陵は忙しくはないのか、こんなことで疲れてしまったりはしないのか。
 だが、幸陵らしいと言うか、当然のようにそれはことごとくいなされた。
「……せっかく治ったのに。」
ぐずぐずと崩れそうな下半身に負けて布団に潜ったままの更古は、少し離れた位置の幸陵の背中を見ながら聞かせるともなく呟いた。
「治ったからじゃねえか。」
振り返った幸陵は上着を羽織るだけにして、手に水を持っている。
「聞いてらしたんですか。」
「聞こえたんだよ。」
――耳がいい……。
聞かせるつもりはなかったので、なんとなく間の悪そうな顔をして、更古は肘を立てて半身を起した。
「ありがとうございます。」
差し出された水を受け取って、張り付くような渇きを訴えている喉に流し込む。
「煽った分は治ったらと言っておいたろう。」
「煽った分?て、なんですか?」
空になった杯を卓に戻した幸陵は、更古の横に寝そべる様に座った。
「煽った分は煽った分だろ。体調の悪い時に煽るのは、あれか、俺が無体が出来んと思っての事か?」
「あ、あれは…。」
煽るな、と言われたこと――しかも二度も――を思い出した。
 あんなのは一種言葉遊びだと思っていたから、言った幸陵が覚えているのがそもそも意外で、妙にどぎまぎしてしまう。
 布団の中で居心地悪そうに身じろぎして、身体の向きを斜めに変えると、意志の力で幸陵の身体から視線をはがす。
「幸陵様は別に嫌なことをなさるわけでもないですし…無体とかそういうことは、思わないです。大体俺は煽ったつもりもあんまりなくて。」
「無いから性質が悪い。」
逃した視線の先に幸陵の手が現れて、ふうわりと額に触れる。
 そのまま後ろに髪を梳かれて目を閉じる。
「良くないですか?」
煽っているつもりはないけれど、煽られるというなら、それが嫌だと言うなら、
「良くねえな。」
「……気をつけます、治せるように。」
どうにかして改善すべきなのだろうか。
「そういうことじゃねえよ。」
くすくすとくすぐる様な笑い声が耳に気持ちいい。身体は重いし、喉はひりつくし、足は思うようにならないし、沈み込むような疲労に出そうになるため息が、声と息と触れる手のひらで宥められていく。
――ずるいなあ…。
この疲労感が、幸陵の所為だと思えない。
「良くないんですよね?」
「良かねえが、俺が見る分にはいい。」
ただし、と指先に搦めて持ち上げた髪をいじりながら楽しそうに幸陵が話す。
「他を煽るなよ。」
「……俺が思うに、俺を気にいって下さるのはたぶん幸陵様くらいです。」
「ならいいがな。」
――じゃあ、幸陵様はまだ、
自分の事を気にいったと思ってもくれているのだ、と思いがけず確認できたことが照れ臭くて、更古は少し布団に沈んだ。
「大体お前、あの晢の女にも懐いたろう。」
「娃而さんですか?お話、させていただきましたけど。」
「鵬歩から聞いた。」
「あ、そうなんですか。」
鵬歩は同席していたわけではなかったが、ではあの後、娃而と話をしたのだろうと更古はあたりをつけた。そう言えば今日店に来た晢も鵬歩の名前を出していた。
「更古。」
「はい。」
呼ばれていつもの倣いで視線を幸陵に向けると、はだけた上着と、解けた黒髪が妙に婀娜っぽくて困る。
――なんで、なんか綺麗だし…。
 がっしりとした肩幅に、ゆるぎない腕に、どこか人を食ったような威圧的な視線と、少し皮肉っぽい頬と。
 綺麗と言うのはもしかしたら違うのかもしれない、けれど、他に言い様がない。
「俺の事を好きだとか、傍に居たいだとかは、直接言え。」
うっかり見とれていたところでにやりと笑われて、更古はあっという間に赤くなった。
「……な、なんで…!」
「なんで?」
「なんでご存じなんですか。」
別に今更知られたところで、伝えたこともある内容だけれど、それを他人に話していたと知られるのはまた別問題である。
 赤くなって更古は布団にもぐろうとした。
 ところを、からかう声で止められる。
「鵬歩から聞いた、言わなかったか?」
「伺いました…。」
けど、
「だ、って、そんな…鵬歩さん、いらっしゃったわけでもなかったのに。」
「ああ、まあ、家令だからな。」
「家令、だとなんですか?」
「危機管理も鵬歩の仕事の一つだ。」
「?」
わけがわからないという顔をした更古に幸陵は笑う。
 不調のときに頼られるのも縋られるのも悪くないが、それを経て変わらずにいる更古と話しているのは楽しかった。
 やはり更古らしい反応が返ってくるのが愉快だ。
 らしさの中にはあからさまに混じる幸陵へ向かう気持ちもある。
「あ、でも晢殿下が、鵬歩さんに釘をさされたとおっしゃってました。」
それもつまり、鵬歩が家令だということに関係するのだろうか、と話の流れで更古は口にしたのだが、
「晢?会ったのか?」
いつだ、と幸陵の目がふっと真剣さを帯びる。
「今日です。昼過ぎに店にいらして、娃而さんから伝言をと。」
「お前に?」
「はい――あ。」
「なんだ。」
「これくらいの、」
と更古は自分の手を引っ張り出して、片方だけを何かを受け取る様に丸くたわませた。
「包みをいただきました。まだ中は見ていないんですが、俺それを服に仕舞ったまま――」
「ちょっと待て。」
そこまで聞くと、幸陵は身軽に立ち上がって、ざっとまとめてあった更古の服を探る。それは袂と袖の間に器用に引っかかっていた。
「これか?」
「それです。」
示されて、更古が頷くと、そのままそれを持って寝台に戻ってきた。
「晢殿下はたぶんこれを渡しに来て下さったんじゃないかと。」
持ってこられても受け取るそぶりを見せない更古に苦笑して、引き寄せた手のひらにそれを乗せる。
 更古は別に怠惰でそうしていたわけではない、自分の所有物だという意識が薄いのだ。
 だから、渡されたことに軽く首をかしげて見せてから、
「開けていいですか?」
と幸陵に聞いたりする。
「お前が貰ったんだろう。」
「……そうでした。」
そうだった、幸陵は更古の物を、更古の持物を積極的に認めてくれる人なのだったと、当然すぐに思い出して、更古も苦笑して頷いた。
 するりと背中に回った手が身体を起こすのを助けてくれるのに礼を言って、簡素な包みを解いていく。
 こつんと中で箱にあたって硬い音を立て、出てきたのは陶製で蓋つきの小さな箱で、七宝の表面が部屋の灯を取りこんで複雑に揺らめいている。
 それを見た時、微かに目を見張った更古の表情を、幸陵は見ていた。細かい細工物に感嘆する素直さか、それとも好みか。
――前者だろうな。
これが、そういう細工物が好みだ、と言うのなら、幸陵としては願ったりではあるが、物事はそう上手くは行かない。
「中も見てみろ。」
「はい。」
促されて、壊れ物を扱うようにそっと指をかける。
 箱の蓋をあけると蝶番が細く軋んで甲高い音を立てた。
「……あ。」
その高貴な見た目の箱に反して、中にひっそりと収まっていたのは、ころりとまあるいまだ青い実だ。
「姫林檎。」
まだ青い、これから熟して行くのだろう、小さな林檎の実。
 残っていたへたを摘まんで持ち上げて、くるりと指先で回してみる。
 娃而と言葉を交わしたきっかけは姫林檎だった。
――あの時の実は赤かったけど。
娃而にはこういう遊び心のようなものも備わっていて、やっぱりちっとも卑下する要素のない人に更古からは見えるのだ。
 今更伝える機会はないけれど。
 そしてこれを届けようと思った娃而の真意は、確かめようがないけれど。
 額にかかる様に落ちた髪を幸陵の手がどかしてくれる。
「…ありがとうございます。」
視線を上げて目の前の人をちゃんと見て、そうして更古は林檎を仕舞った。温かな布団と安心な腕と、真直ぐ自分を見てくれる視線を、娃而もきっと受け取っている。

 後日、姫林檎は丁寧に乾かされ、一回り小さくなって小箱に戻った。
 更古の部屋の花台の端に置かれている。



九話『境涯』完




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