1、KGグリー静岡演奏会
 2月の終わり、関西学院大学のグリークラブが、関西学院後援会の主催で、静岡市にて演奏会を開くということで、会場である静岡市のAOIホールへと出動。久しぶりにグリークラブの歌声を聴いたが、どの曲目もすばらしい演奏であった。事前申し込みで入場は無料とのことであったが、こんな演奏を無料で聴けるとは、なんと果報なことであろうかと実感させられた。

 その翌日は、清水港から駿河湾フェリーにて伊豆半島の土肥港へ。ちょうど河津桜が見頃を迎えているとのことで、そこから西伊豆を下って南伊豆へと出向き、満開の河津桜を堪能して、再び駿河湾フェリーにて清水まで戻って帰途に就いた。駿河湾フェリーを利用すれば、天城越えで河津町へと向かう渋滞を避けることができ、日帰りも十分に可能であることがわかった。

2、川浦温泉「山県館」へ
 3月、自分の誕生日と、家内の仕事がひと段落したというお疲れさま会を兼ねて、山梨県の川浦温泉へ。投宿したのは、笛吹川上流に位置する「山県館」。武田信玄の命で開発された川浦温泉の歴史ある湯屋で、武田二十四将の一人である山縣昌景を先祖に持ち、現当主はその15代目にあたるとのことである。
 せっかく山梨まで行くので、今まで訪れたことのない昇仙峡の景観を楽しんでから宿へ。ここの湯は、今まで入った温泉の中でも屈指の泉質であった。湯温はちょうどよい42度、無色透明の透き通るような、Ph9.6のアルカリ性源泉で、湯上がり後は皮膚がコーティングされたみたいにスベスベになった。翌日は、武田信玄の菩提寺である恵林寺と、山梨県立美術館を訪れてから浜松に帰った。

3、都道府県対抗全日本中学生ソフトテニス大会が開催された
 3月、4年ぶりに三重県伊勢市にて開催された「都道府県対抗全日本中学生ソフトテニス大会」に静岡県女子選抜チームのスタッフとして参加した。前年の12月にチームを結成してから3ヶ月間、ほとんどの週末を利用して練習を積み重ねてきた。
 結果、団体戦は2回戦で敗退したが、個人戦では主将のペアがダブルスでベスト8という結果を残してくれた。チームの目標がベスト8だったので、団体戦は達成できなかったが、個人戦で目標を達成することができた。目標に向かって努力をした選手はもちろん、陰で支えてくれた保護者の方々、そして熱心に指導してくれたスタッフの協力の賜物であったと思う。

4、「天下第一の桜」を愛でた
「天下第一の桜」と称される「高遠城址の桜」。3月の終わり、ネットで最新の開花状況を確認していると、既に七分咲きとなっていると知り、取るものも取り敢えず南信州の伊那市へ。
伊那の市内は、至る所に高遠城址公園の桜と同じ品種であるタカトオコヒガンザクラが咲いていた。タカトオコヒガンザクラは、ソメイヨシノよりは少し濃い目の花で、全体にむっちりとしたボリュームが華やかな印象であった。

5、髙橋佳三さんの講習会
 5月、びわこ成蹊スポーツ大の髙橋佳三先生による講習会が開催された。髙橋先生が所用で浜松まで来られることになり、せっかくなので講習会も開催できたらということで、地元の中学野球指導者を中心に活動しているNPO法人のジュニアスポーツアカデミーの主催で開催の運びとなったのである。
 髙橋先生による浜松での講習会は、じつに10年ぶりであった。参加した選手・指導者も、何かしら得るものがあったことであろう。活発な質疑応答もあって、有意義な研修会であった。

6、4年ぶりに城崎温泉へ
 8月、コロナ禍でずっと中止になっていた城崎温泉麻雀であるが、4年ぶりに再開されることになった。前日に神戸に宿泊し、内田先生と合流して再会を祝し、翌日は凱風館まで先生をお迎えに行き、従来のように出石にて皿そばの昼食、そして城崎温泉では外湯に入ったあとで、いつものように麻雀三昧。
 往復の車中では、内田先生からさまざまなお話を伺うことができた。得難い時間であった。

7、立山・黒部アルペンルートへ
 8月の終わり、今年も家内の誕生日小旅行は3年連続で信州へ。今年で竣工60周年を迎える黒部ダムから、雄山の山裾に広がる室堂平までの「立山・黒部アルペンルート」を訪れることにした。宿泊地は、アルペンルートの長野県側の出発地である大町市。せっかく大町市に泊まるのならと、大町温泉郷の奥にある葛温泉や、市内の山岳博物館なども訪れた。
 翌日は、アルペンルートの出発駅である扇沢駅へ。そこから電気バスにて黒部ダム駅に到着。駅から階段を登ると、ダム展望台からは黒部ダムの全景が見られる。ちょうど観光放水をしていたので、水煙に朝日が当たって虹が見られた。圧巻の景観であった。
 展望台からダムの堰堤へと降りて、黒部湖駅からケーブルカーにて黒部平パノラマテラスへ、さらに黒部平からは立山ロープウェイで大観峰へ。大観峰雲上テラスからは、後立山連峰や黒部湖を望むことができた。
 大観峰からは、トロリーバスにて室堂へ。ターミナルを出ると、眼前には室堂平の絶景が広がっていた。みくりが池周囲の遊歩道をのんびりと歩き、野生の雷鳥に遭遇したり、至る所に広がるパノラマに感動しきりであった。この旅で、大自然に癒されるということを心より実感させられた。

8、秋の高山祭(八幡祭)へ
 10月、ぜひ一度は見て見たいと思っていた高山祭へ。高山市内の宿を予約したのは半年前の4月。市内の宿はまったく空きがなかったのだが、奇跡的に市内の中心部からはやや離れてはいるものの、年間を通して均一料金の宿を予約することができた。
 高山に到着後は、小雨が降り続いていたため、その日予定されていたほとんどすべての祭行事が中止となってしまった。屋台の漆が水分には極端に脆弱とのことなので仕方がないことであった。
 二日目の朝も、雨こそ降ってはいなかったものの、空はどんよりと曇り、山裾には霧がかかって、いつ雨が降り出してもおかしくはない状況であったが、朝食を食べ終わる頃には少しずつ雲が切れて、青空が覗くようになってきた。
 ネットで確認すると、屋台の引き揃えと御神幸は予定通り実施とのことだったので、すぐに支度をして桜山八幡宮へと向かった。表参道には、ちょうど重要有形民俗文化財に指定されているそれぞれの屋台が引き揃え始めたところであった。昼前に予定されていたからくり奉納も最後まで見ることができた。来てよかったと思った。
 帰りは、せっかくなので、今まで行ったことがない下呂温泉の日帰り入浴に立ち寄ってみた。平日であったが、旅行客(特に外国人)の多さに驚いた。

9、ファイターズが敗れた
 11月、関西学生アメリカンフットボールリーグ最終戦、関西学院大学ファイターズ対関西大学カイザーズの一戦を観戦するために大阪へ。せっかく大阪まで行くので、中学のソフトテニスの指導を通してお世話になった大阪の下村先生や、奈良の大山先生と再会して小宴を催すことになった。楽しいひとときであった。
 翌日の試合は、終始カイザーズにリードされる展開で、最後はファイターズQBの投じたパスをカイザーズディフェンスに弾かれてゲームセット。前節で立命館大に敗れていたカイザーズと、ファイターズに敗れた立命館大パンサーズ、ファイターズがそれぞれ1敗で並び、大学選手権決勝(甲子園ボウル)へと繋がる大学選手権準決勝へは、3チームがくじ引きで出場チームを決定するとのことであった。
 まさか試合終了直後に、その場でくじ引きをするなどとは思っていなかったので、大阪モノレールが混み合う前に帰ることにしたのだが、その後のファイターズのFacebookを確認すると、なんとファイターズの準決勝出場が決まったとのことであった。どこかで神様が見ててくれたのかと思った。
 その後、準決勝を危なげなく勝ち上がったファイターズは、甲子園ボウルにて関東代表の法政大オレンジと対戦、61-21の大差で甲子園ボウル史上初の6連覇を達成した。なんだかんだと、今年もファイターズは強かった。

10、iMacを購入した
 わが家のデスクトップは、ずっとMac miniを使用してきたのだが、システムはアプデされないし、動作はかなり遅くなってきていたので、そろそろ買い替え時か思っていた12月、どこの量販店でもM3チップを搭載したiMacは値引きしていないのに、なんとCostcoで1万円以上安価に売っていることが判明したので、思い切って購入することにした。
 ストレージが256GBしかないので、Mac miniから全てのデータを移行することはできなかったのだが、それも外付けのHDを付けることで特に問題になることはなかった。今までは、何かとすぐに「虹色風車」がくるくると回って先に進まないことが多かったのだが、M3のiMacは気持ちいいくらいに全ての動作が速い。たぶんこれで、もう生涯新しいPCを購入することはないだろうと思っている。

番外編「今年の読んだ本ベスト3」
①岡真理『ガザに地下鉄が走る日』みすず書房(パレスチナのことを知るための貴重な一冊)
②ルトガー・ブレグマン『希望の歴史』文藝春秋(従来の定説が覆される)
③アンリ・シャリエール『パピヨン』タイムライフブックス(波乱万丈、映画以上のおもしろさ)

 今年も残すところあと数日となりました。どちらさまも、良いお年をお迎えください。来年もどうぞよろしくお願いいたします。

2022年十大ニュース

1,成人式に出席した
 1月、現役時代最後の3年間を共に過ごした生徒たちの成人式ということもあり、コロナ禍ではあったが、卒業式のときに「成人式には参加するから」と言明もしていたので、当日は久しぶりに礼服を着て会場へ。当時の校長・教頭が出席しないとのことだったので、代わりに恩師代表ということでお祝いのスピーチを述べた。誰かすぐにはわからない生徒や、逆にほとんど変わっていない生徒もいて、楽しく懐かしいひとときを過ごした。

2,今年も都道府県対抗戦が中止になった
 2月、都道府県対抗全日本中学生ソフトテニス大会は、今年もコロナ禍のために中止となった。前年の12月から県選抜チームを編成して練習に励んできたのだが、今年もその成果を発揮できる場がなくなってしまった。ちなみに、県選抜チーム(女子)の監督を拝命してから、まだ一度も本戦を迎えたことがない。
 3月には、富山県ソフトテニス連盟が、近県に呼びかけて代替の大会を企画してくださったので、選手とともに高岡市へ。暴風雨の中での大会であったが、3位という結果を収めることができた。コロナの第8波も懸念される昨今、はたして来年の開催はどうなることやら。

3,確定申告をした
 3月、それまではしてこなかった確定申告に挑戦。家内と医療費等の計算をしながら、ネットでe-Taxの画面を見ながら入力を進めた。途中、よくわからないところがあって電話相談したりしながらも、なんとか期日までに種類を整え、税務署に提出することができた。国民は、こんなにもきちんと税金を収めているのだから、政府にはその使途には十分に心を用いてもらいたいものである。

4,南伊豆と西伊豆へ
 4月、県民割を利用して、西伊豆の雲見温泉へ。都合三度目の伊豆行きである。1月は、三が日が明けた4日に南伊豆の「河内屋」へ。既にかなり咲いていた菜の花畑を嘆賞しつつ、源泉かけ流しの温泉を満喫。3月は、自分の誕生日小旅行で、同じく南伊豆の民宿「美浦」に投宿。誰もいない弓ヶ浜を散策したり、青野川沿いの河津桜を愛でた。雲見温泉では、民宿「とみや」にて、一生分は食べたと思うほどのキンメダイの料理をいただいた。
 この三度の伊豆行きには、行き帰りとも清水港〜土肥港間の駿河湾フェリーを利用した。県民だと半額で乗船できたからである。特に帰りは、清水港の魚市場にて遅めの昼食を食べてから帰るという楽しみがある。静岡県民は、できれば永久に半額で乗船できるようにしてもらいたいものである。

5,部活動の外部コーチを依頼された
 4月の市中学ソフトテニス選手権大会の折り、中学時代の教え子と再会、その娘御が試合に出場していると聞き、一緒にその試合ぶりを観戦したりしていたのだが、試合終了後に「誰もコーチしてくれる人がいないので、ぜひ外部コーチになってください」と熱心に依頼された。教え子からのたっての頼みということで、夏の大会までという期限付きでコーチを引き受けることにした。
 件の娘御のペアは、7月の県大会個人戦に出場、残念ながら3回戦で敗退したが、マッチポイントを二度も握っての惜敗であった。久しぶりの夏の大会にベンチ入りであったが、とにかく炎天下の暑さにはほとほと参らされた。シューズの底が熱くて、じっとコートに足を置いていられないほどなのであった。

6,飛騨高山と平湯温泉へ
 5月、旅行支援の県民割が近県まで拡大されたとのことで、ならばと昨年訪れてひどく印象深かった岐阜県高山市と、奥飛騨温泉郷の平湯温泉へ。高山では、夜はホテル近くの「寿々や」にて飛騨牛の朴葉焼きを、翌朝は陣屋と宮川の朝市や三町筋にて買い物してから平湯温泉へ。
 奥飛騨最古の温泉といわれる平湯温泉で投宿したのは、数少ない源泉を引く「平田館」。温泉は言うまでもなく、近くの平湯バスターミナル内の土産物店にて買い物もできる好立地もありがたかった。

7,善光寺参りへ
 6月、今年は7年に一度の秘仏が御開帳されるとのことで、一生に一度でもいいから善光寺へ参詣すれば極楽往生が約束されると言われる善光寺参りへ。せっかく長野市まで行くのならと、初日は戸隠神社に参詣し、翌日に善光寺へ、さらには川中島の古戦場跡も見てくることにした。
 それまで善光寺には多くの人が詰め掛けているとの報道を見聞していたが、これほどとは思わなかった。戸隠神社まで行くのには善光寺の近くを通るのだが、上信越自動車道の長野インターを出たとたんに渋滞である。善光寺近くの道路はほとんど動かず。仕方がないので、ナビを見ながら脇道を通って戸隠神社奥社へ。駐車場から片道40分の参道を歩いて拝殿までたどり着いたが、けっこう多くの人が参拝を待っていて驚いた。
 さらには、中社へも参拝してから、その日の宿舎であった千曲市のホテルへと向かった。長野市のホテルはどこも空きがなかったのである。
 翌日は、いよいよ善光寺へ。混雑するのはわかっていたので、朝8時前にホテルを出て善光寺へ向かった。幸いにも近くの駐車場に停めることができて、境内へ向かったのだが、既に多くの人が本堂へと向かっていた。有名な回向柱にも多くの人が行列だったのでスルーして、まずは本堂を参拝することにした。ほとんど本堂を一周するほどの行列の最後尾に並ぶこと1時間。ようやく本堂に入ることができた。
 7年に一度御開帳された御本尊を拝んでいると、近くにいた関係者と思しき人が「ほら、開きましたよ、ご本尊のすぐ左!」と言っていたので内々陣の瑠璃壇を見たのだが、帳が上がっても特に何も見ることはできなった。あとで確認すると、実は秘仏はその帳の奥の厨子に安置されているとのこと。しかし、今まで誰も見たことがないので「絶対秘仏」なのだということもわかった。
 善光寺参りを済ませて川中島の古戦場跡へ。上杉謙信が陣を敷いた妻女山や、武田軍との激戦が行われた八幡原などを訪れて、その日の宿舎である「松代荘」へ。真田氏の居城であった松代城(旧海津城)からすぐ近くの国民宿舎である。
 松代荘の湯は、鉄分を多く含むため、酸素と反応して美しい黄金色に変化することから「黄金の湯」と言われる100%かけ流しの湯である。日帰り入浴客も受け入れているのだが、宿泊客は専用の湯船が用意されている。のんびりと湯に浸かりながら、善光寺参りの疲れを癒やした。
 翌日は、再び善光寺へ。平日ということもあってか、さほど参拝客も多くはなかったので、回向柱にも触れることができた。コーチをする選手たちへのお守りと、御朱印を入手して帰途に就いた。

8,再び信州へ
 8月、今年の家内の誕生日小旅行は、久しぶりに遠くまで出かけようかとも思っていたのだが、7月に入ってコロナの第7波が大流行し始めたということもあって、今年もお隣の長野県へと出かけて、信州のぬる湯を探訪することにしたのである。幸いにも、近隣県の県民割が使えるとのことだったので、少し贅沢をしていい宿に泊まろうということになった。
 初日は、上田市の霊泉寺温泉和泉屋旅館の日帰り入浴へ。青空を見ながら、誰もいない源泉かけ流しのぬる湯を堪能して、その日の宿舎である公営の宿泊施設「ビレッジ安曇野」に投宿。
 翌日は、青木村にある沓掛温泉叶屋旅館の日帰り入浴に立ち寄ってから、諏訪市へと移動。諏訪大社の下社春宮と上社本宮に参拝して、諏訪湖畔のホテル「紅や」へ。このホテルの夕食のおいしかったこと!機会があれば、ぜひまた泊まってみたい。
 最終日は、奥蓼科温泉郷「渋・辰野館」の日帰り入浴へ。この宿は、かの東山魁夷が投宿して、近くの御射鹿池をモチーフにした「緑響く」を描いた宿としても有名である。温泉は、ぬる湯と言うよりは冷泉であった。源泉は硫黄臭のする白濁の湯であったが、外の露天風呂は泉温が21度ということもあって、とてものんびりと入れるものではなかった。

9,孫娘の七五三
 10月、3歳になった孫娘の七五三のお祝いで、座間市にある鈴鹿明神社へ。せっかく座間まで行くのならと、途中の厚木市にある七沢温泉の元湯玉川館に立ち寄ることにした。ここは、明治35年から続く由緒ある宿で、「のらくろ」で有名な田河水泡氏も投宿したことがあるとのことである。総檜の湯船から晩秋の庭を眺めつつ、ゆっくりとpH10.1の湯に浸かった。
 翌日は、箱根にでも泊まってから帰ろうと思っていたのだが、箱根は外国人観光客でひどく混雑していると聞き、ならばと以前から一度訪れたいと思っていた、伊豆の国市の畑毛温泉大仙家に宿泊することにした。この宿は自前の窯を持っているとのことで、陶芸も体験することにした。
 ここの湯も、約30度のぬる湯で、長く入っていてものぼせることがない名湯として有名である。家内は「今まで入った温泉の中でも一二を争う湯」と評していた。よほど気に入ったのだと思う。

10,今年もファイターズは強かった
 今年から、秋のリーグ戦優勝校だけが全日本大学選手権へ出場することになった(昨年まではリーグ3位校までが出場)関西学生アメリカンフットボールリーグ。立命館に勝って勢いに乗る関西大を10-7でなんとか下したわれらがファイターズであったが、リーグ最終戦である立命館戦で負ければ、関大・立命・関学が1敗で並び、大学選手権への出場権は抽選にて決定されるとのことで、ファイターズにとっては負けられない一戦である。現地でその試合を観戦するに如くはなしということで、11月最後の土日は関西へ。
 例年、この最終戦のときには、京都の晩秋の紅葉も同時に楽しもうと、京都に宿を取って翌日に試合会場である大阪万博記念競技場へ向かうことにしていたので、今年も二条城近くの駐車場のあるホテルを予約した。
 試合当日は、キックオフが午後2時だったので、余裕のある午前中に東寺を訪れることにした。ホテルから歩くにはちと距離があり、車で行くとホテルの駐車場に置けなくなる可能性もあり、バスはどうかとも考えたのだが、ふと見るとホテルの前に何台かの自転車が置かれていたので、フロントでそのことを聞いてみると、シェアサイクルなるもので、アプリをダウンロードすれば使用できると教えてもらった。
 さっそく家内とダウンロードして、自転車の鍵本体のQRコードを読み取って解錠、サドルの高さを調節して東寺へと向かった。東寺の近くにもシェアサイクルのポートがあったのでそこに自転車を停め、帰りもそのポートから自転車でホテルまで帰ってきた。なかなかよくできたシステムだと思った。京都に来た際には、ぜひまた利用したいと思った。
 試合は、互いのディフェンスが踏ん張って、オフェンスがなかなか進まない展開であった。互いにタッチダウンを1本ずつ取って、最後はファイターズがフィールドゴールを決めて勝利した。見ている方もなかなかにしんどい試合であった。
 12月、早稲田大を迎えた大学選手権決勝の甲子園ボウルでは、オフェンスが早稲田大を圧倒、5年連続優勝を飾ってくれた。なんだかんだと、今年もファイターズは強かった!

番外編
今年読んだ本ベスト3
(海外編)①ドストエフスキー『罪と罰』(亀山郁夫訳・光文社古典新訳文庫)、②ニコラス・ハンフリー『喪失と獲得』(垂水雄二訳・紀伊國屋書店)、③アトゥール・ガワンデ『死すべき定め』(原井宏明訳・みすず書房)
(国内編)①広井良典『人口減少社会のデザイン』(東洋経済)、②小田雅久仁『本にだって雄と雌があります』(新潮社)、③田中真知『旅立つには最高の日』(三省堂)

 こうして振り返ってみると、コロナ禍にもかかわらず、けっこう出掛けていたなあと思います(ほとんどが県内か近隣県ですが)。来年は、コロナがどうなるかわかりませんが、遠出もできるような状況になってほしいと、旅行(温泉)好きとしては切に願っております。どちらさまも、どうぞよいお年をお迎えください。

 仕事をしなくなって2年目、なんだか一年の過ぎるのがひどく早くなったような気がします。そんな2021年を、今年も10大ニュースで振り返ってみたいと思います。

1、内田先生が浜松支部に来られた
 5月、内田先生が浜松支部の活動状況を視察に来られた。「目には青葉山ほととぎす初鰹」の句のように、鰹の美味しい時期でもあったので、御前崎にて藁焼きの鰹をご賞味していただき、視察のあとは西伊豆へと足を伸ばして、温泉と金目鯛の煮付けを堪能していただいた。

2、新型コロナのワクチンを接種
 7月、市から接種券が届いたので、大規模接種会場を予約してファイザー製のワクチンを接種した。発熱こそしなかったが、1回目の接種後は全身に湿疹のようなものが出た。すぐに収まったが、これがいわゆる副反応かと思った。2回目は、接種部位の痛みだけで1回目のときのような湿疹は出なかった。オミクロン株対策で3回目の接種と報じられているが、どうしようか思案中である。

3、夏は松本と上高地へ
 8月、例年月末の家内の誕生日には小旅行に出掛けていたが、8月は全国的に新型コロナのデルタ株が大流行し、本県のみならず周囲の県も緊急事態宣言下や蔓延防止等重点措置下にあるところが多く、一時は出掛けるのを断念しようとも思っていた。ところが、幸いなことに本県のすぐ北の長野県は宣言も重点措置も出されていないということがわかり、それならば秘湯や名湯と言われる温泉地を中心に訪れてみようということになった。
 宿泊は松本市を選び、周辺の温泉地と、家内がまだ行ったことがないとのことで、上高地も訪れてみることにした。上高地へは沢渡からシャトルバスにて大正池へ、そこから散策路を歩いて河童橋まで。梓川のせせらぎと涼風がまことに気持ちよく、自然のすばらしさを満喫することができた。上高地を訪れた後は、そこからさほど離れていない白骨温泉の泡の湯へ。白濁した泉質の大露天風呂は、ぜひまた再訪したいと思った。

4、TVを買い替えた
 10月、デジタル放送開始と同時に買い替えたテレビがどうやら寿命らしく、最初は入力を切り替えてビデオを見ようとしたり、YouTubeなどをストリーミング再生して見ようとすると、15分ほどで電源が落ちてしまっていたのだが、そのうち普通にテレビ番組を見ていても20分ほどで電源が落ちるようになってしまった。何度かテレビ本体を再起動したりしてみたのだが、やはり15分ほどで電源が落ちてしまうので、行きつけの電気店に電話をして症状を話したところ、買い替えるしかない言われたので、4K放送も受信できHDを外付けすれば録画もできるテレビと、ついでにBDレコーダーも併せて購入。
 20年以上使用してきた給湯器も壊れて買い替えることになった。ちょうど、いろんなものが壊れる時期を迎えているのかもしれない。いろいろと出費が増えて困ります。

5、香月泰男展へ
 10月、神奈川県立近代美術館葉山にて開催されていた「生誕110年 香月泰男展」へと出向いた。2年前に山口県を訪れた際、長門市にある香月泰男美術館にも行ったのだが、有名な「シベリヤ・シリーズ」全点は山口県立美術館に所蔵されていると知らされ、残念ながら見ることは叶わなかった。
 香月泰男の「シベリヤ・シリーズ」は、今年亡くなった立花隆氏が「実物を見ないうちは、本当の意味でシベリア・シリーズを見たことにはならない」(『シベリア鎮魂歌ー香月泰男の世界』)と書かれていたので、ぜひ実際にこの目で見てみたいと思っていたのだが、その実物全54点を見ることができた。一つ一つの作品が持つ迫力に圧倒された。

6、奥歯と親知らずを抜歯した
 9月の歯の定期検診の際、奥歯がひどく虫歯になっていることがわかり、かかりつけ医の話によれば抜歯するしかないとのことで、浜松医科大歯科口腔外科を紹介された。予約を取れたのが約1ヶ月後で、担当医の見立てによれば、奥歯を抜く際にその後ろにある親知らずも一緒に抜いたほうがよいとのことで、11月に抜歯することになった。
 担当医はまだお若い女医さんであったが、処置はきわめて手際がよく、部分麻酔でほとんど痛みもなく抜歯を終えることができた。抜歯後は抜いたところが痛んだが、担当医が言ったように一週間ほどでその痛みもなくなり、痛み止めのお世話になることもなくなった。

7、飛騨高山と奥飛騨温泉郷へ
 11月、家内が文化の日とその翌日は仕事が休みになるということで、文化の日の前日から仕事終わりの家内の帰宅を待って飛騨高山へ。翌日は、朝から高山陣屋前朝市と宮川朝市へ。出店の気さくなオバちゃんたちと会話しながら楽しく買い物ができた。
 午後は、第二の目的地である奥飛騨温泉郷へ。宿泊した「奥飛騨ガーデンホテル焼岳」は、男女別と混浴の露天風呂を合わせて、すべて源泉かけ流しで全部で12ものお風呂があるホテル。特に、ここの湯はエメラルド色をしているのが特徴で、露天風呂から見える紅葉がちょうど見頃の周囲の山々の紅葉と相まって、お湯も景色も堪能することができた。

8、ウェスタンジャパンボウルへ
 12月、今年のアメリカンフットボール全日本大学選手権 西日本代表校決定戦決勝(ウェスタンジャパンボウル)は、試合会場が例年の万博記念競技場と違って、大阪長居のヨドコウ桜スタジアムにて開催されるとのことで、ならばと長居のスタジアムにほど近い大阪のシモムラ先生のご自宅に「民泊」をお願いすることにして、久しぶりにてっちりで前夜祭ということになった。
 試合はファイターズが終始リードを保って快勝、6年連続55回目の甲子園ボウル出場を勝ち取った。今年もしたたかなファイターズの試合ぶりを目の当たりにすることができた。ファイターズは、そのまま甲子園ボウルにて東日本代表の法政大学を圧倒、4年連続32回目の優勝を飾った。

9、映画と音楽
 コロナ禍でなかなか映画を見に行くことも叶わなかったが、感染者が減ってからはいくつかの作品を見ることができた。今年のベストワンは、12月に公開されたばかりの「マトリックス・レザレクションズ」。「マトリックス」のファンにはたまらない作品だったのではないだろうか。今までの3部作の続編としても傑作だと思う。
 今年一年、朝のウォーキング時にいちばんよく聴いたのは、フリードリッヒ・グルダが弾いたバッハの「平均律クラヴィーア曲集」。今まではリヒテルが弾いたCDを愛聴していたが、リヒテル盤と違って、音の一つ一つが珠玉のように際立っていて、ピアノという楽器はこのようにいろいろな音色を出せるものなのかと驚嘆した演奏である。

10、今年読んだ本
 今年は97冊の本を読んだ。ベスト3は以下の通り。①ミラン・クンデラ『冗談』(岩波文庫)、②立花隆『天皇と東大』(文藝春秋)、③斎藤幸平『人新世の資本論』(集英社新書)。
①は、人生とは何か?というなかなか答えることができない問いについて、一つの「答えのようなもの」を提供してくれる小説である。
②は、今年亡くなった立花隆の大作。歴史をきちんと学ぶことは、わたしたちが「いつか来た道」を再び辿ることがないようにするためにも、とても大切なことなのだということを教えてくれる。
③は、誰もが「何かがおかしい」と思いつつも、どこからどうすれば現状を変えることができるのか、なかなかその答えとなるものを見出すことが困難な状況の中で、その答えを明確に打ち出してくれた。「3.5%」でいいのだ、と背中を押してくれたその呼びかけに応えたい。

 いったんは収まったかに見えた新型コロナウィルスも、また新たな変異種が蔓延の兆候を見せて、今後も予断を許しませんが、どちらさまも健康にご留意されて毎日をお過ごしになられますよう、そして来る2022年がみなさまにとってよい年であるよう祈っております。来年もどうぞよろしくお願いいたします。

2020年 十大ニュース

1、都道府県対抗全日本中学生大会が中止になった
例年3月に、三重県伊勢市にて開催されている都道府県対抗全日本中学生ソフトテニス大会が中止になった。女子監督として、前年11月の選手候補選考から始まって、12月の選手決定、そして他県選手との研修大会(練習マッチ)などをこなしながら本戦に備えていたのだが、コロナ禍のため中止になった。本県女子チームは、参加したすべての研修大会で決勝まで進出していたので、実際の本戦でどの程度その実力を発揮してくれるのか楽しみにしていたのだが、まことに残念なことであった。
コーチ陣には、試合にも練習にも、できるだけ選手自らが考えて取り組むことを念頭に置いてコーチしてもらうことをお願いした。ソフトテニスの試合では、試合中のインターバルの際、監督・コーチがあれこれ指図するのを選手が一方的に聞かされている光景をよく目にするが、もはやそういう時代ではないのではないか。ウィンブルドンなどでも、コーチは観客席で拍手をするだけである。ソフトテニスも国際化を目指すのなら、封建的な監督・コーチと選手との関係を見直すべきであろう。

2、年金生活者になった
定年退職後、3年間お世話になった私立高校も3月いっぱいで辞め、4月から基礎年金受給者となった。仕事をしなくなった4月1日の空はどんなふうに見えるのだろうと楽しみにしていたのだが、その日の空はあいにく小雨降る曇り空だった。
日々の生活は、判で押したような毎日となった。朝は5時に起きて1時間ほどウォーキング。朝食後、月〜水曜日はラジオ講座を聴いて、そのまま読書または何か買い物があれば買い物を済ませてお昼。昼食は何か適当に作って食べ、午後は昼寝をしてから読書を再開。夕方、植木に水を遣り、18時ころからお風呂に入って夕食。就寝はだいたい20〜21時。毎日8時間は寝てます。

3、フランス語とイタリア語のラジオ講座を聴き始めた
4月、勤めなくなった代わりに何かを始めようと思い、今はコロナで外国へも行けないけれど、いつかまた行けるようになった日のためにと、フランス語とイタリア語の入門編を聴くことにした。毎週月〜水曜日の7:30〜8:00までの15分ずつ計30分、テキストを買って、午後からの再放送も聴くようにしている。単語がなかなか覚えられないので、単語帳や語句ノートを作ったりしたのだが、どうもあまりはかばかしくない。特にフランス語は、スペルを見ても発音ができないのと、文法がさっぱりわからないので往生している。でも、がんばって来年も続ける予定である。

4、山梨県の温泉に行った
8月、今年の家内の誕生日小旅行は、コロナの関係もあり、できるだけ近場にしようということで、山梨県の「信玄の隠し湯巡り」へ行くことにした。最初に訪れたのは岩下温泉。泉温29度ということで、水のプールに入るような感じであったが、沸かした温かい湯と交互に入っているうちに身体も慣れてきて、たいへんに気持ちのいい入浴ができた。
翌日は、北杜市の増富温泉へ。天然ラドン泉の岩風呂がある「不老閣」へ行こうと思ったのだが、コロナ対策のため立ち寄り入浴はやっていないとのことだったので、公共の「増富の湯」へ。25〜42度までの5種類の浴槽があり、そのうちの一つはラジウム・ゲルマニウム鉱石風呂であった。
宿泊は下部温泉の「下部ホテル」。立ち寄り湯の「古湯坊源泉館」は営業していなかったのだが、ホテルの5種類あるお風呂を堪能した。
帰りに、身延山久遠寺に参拝した。境内の樹齢400年といわれる枝垂れ桜、満開の時節にぜひ見てみたいと思った。

5、県内の温泉巡り
9月、県内で「オクシズ・大井川水系名湯御朱印巡り」なるイベントを開催していることを知り、さっそく静岡市の山奥にある温泉へ。大井川水系の温泉と合わせ、全部で11箇所の温泉を巡って、それぞれの温泉でもらった御朱印を専用のノートに貼り付け、静岡市の山奥と大井川水系それぞれ3箇所ずつ計6箇所の御朱印を集めると、お気に入りの温泉施設の無料入浴券がもらえるというイベントである。今までまったく知らなかった県中部の温泉施設も知ることができ、コロナ禍で旅行もままならない中、暫しの旅行気分を味わえたのもありがたかった。

6、降圧剤のお世話になることになった
1月、市の特定健診で血圧が高いと指摘され、以後毎日血圧を測るよう促され、その記録用紙までもらったので、試しに毎日記録することにしたのだが、10月ころから上が160を超えるようになったので、2月からお世話になっている皮膚科に併設されている内科を受診、降圧剤を処方されて、以後毎日1錠ずつ飲むことになった。おかげで血圧は少しずつ下がり始めた。

7、ケータイのキャリアを変えた
11月、2年縛りケータイの更新月を迎え、年金生活者にもなったことだし、今までの高額なケータイ料金をなんとかしたいということもあって、更新月ならば解約手数料もかからないので、思い切って格安SIMに変更することにした。4年間使用してキャリアの電波を受信しなくなったりしたiPhone7も機種変更することにした。これでたぶんケータイ代は従来のほぼ半額になるはずである。

8、今年もKGファイターズは強かった!
11月、コロナ第3派の感染拡大が懸念されつつある時期であったが、関西学生アメリカンフットボールDiv.1決勝、関西学院大学ファイターズVS立命館大学パンサーズの試合だけはどうしても現地で見たいとの思いやまず、大阪の万博記念競技場まで足を運んだ。試合は、終始パンサーズが主導権を握って進んだが、ファイターズが1点差を追いかける第4Q、QB奥野が追い詰められた場面からのパスを次々にヒットさせパンサーズのゴール前へ。最後は、残り3秒を残してK永田が21ヤードのフィールドゴールを決めて逆転。今年も痺れるゲームを見せてくれた。
ファイターズは、そのまま甲子園ボウルでも因縁のある日大フェニックスと対戦、見事大学日本一に輝いた。鳥内前監督から監督を引き継いだ大村監督の就任1年目、コロナ禍で練習も思うに任せない状況であったと思われるが、今年も強いファイターズを見せてくれた。

9、庄司紗矢香の演奏を聴いた
年の瀬も押し迫った12月、何と浜松で庄司紗矢香の生演奏が聴けるというので、一も二もなくチケットを申し込み、ひょっとしてコロナの関係で演奏会が中止になるのではと心配しつつ、当日を待った。
曲目は、バッハのヴァイオリン・ソナタに始まり、最近十八番にしているバルトークのヴァイオリン・ソナタ、後半はプロコフィエフの小品に続いて、最後はブラームスのヴァイオリン・ソナタ。腰を悪くしていたためか、椅子に座っての演奏だったが、そのテクニックといい、音色といい、まさに世界的ヴァイオリニストに相応しい名演を聴かせてくれた。コロナで何かと心が荒み勝ちになるときに、そんなことも忘れさせてくれたすばらしい演奏会であった。
当日は、マスクの着用はもちろん、入場時の検温や、チケットの受け渡しにも細かな注意がなされて、主催者の細かな心配りを感じることができた。開催の可否もぎりぎりまで検討されたのではないかと思われるが、なんとか開催を決定してくれた演奏者と主催者に感謝したい。

10、本たくさん読んだ
コロナで外出もままならない状態が続いたこともあり、今まで積ん読状態だった本をどんどん読むことにした。おかげで、1年間で135冊を読み終えることができた。
135冊中の個人的ベスト10(内田先生のご著書を除く)は、①立花隆『巨悪VS言論』、②管啓次郎『ハワイ、蘭嶼 』、③スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『セカンドハンドの時代』、④ジョージ・オーウェル『一九八四年』、⑤石川理夫『本物の名湯ベスト100 』、⑥植村直己『青春を山に賭けて』、⑦安東量子『海を撃つ』、⑧アンドレーア・フローヴァ『ブラヴォー、ゼバスティアン』、⑨マルクス・ガブリエル『未来への大分岐』、⑩高橋源一郎『たのしい知識』

今年はとにかく、コロナに始まりコロナに終わった一年でした。
国の舵取りをすべきリーダー(およびその取り巻き)は、新型コロナウィルスによって、いかにそのリーダーシップがないかということを露見させられました。それも含めて、とかく悲観的になりがちな毎日ですが、この国が少しでも住みよい国になっていくよう、心ある人たちと連帯しながら、自分なりにできることをしていこうと思います。
来年は、一日も早くコロナ禍が終息して、平穏な日々が戻ってくることを願っております。
内田先生をはじめ、みなさま方におかれましては、コロナにも十分ご注意の上、どうぞよいお年をお迎えください。来年もよろしくお願いいたします。

今年も残すところあと一日ということで、いつもの重大(十大)ニュースで今年一年を振り返ってみたい。

1、初孫が生まれた
7月、初孫が生まれた。3,022グラムの女の子であった。生まれて二日後に、家内と病院のある神奈川県まで顔を拝みに行った。病室に入って、寝ている孫娘を抱かせてもらった。こうして命が繋がっていくんだということを実感させられた。わたしたち夫婦は「じいじ」と「ばあば」になった。

2、自宅倉庫をリフォームした
2月、父親の四十九日の法要も終わり、両親がかつて仕事場として使用し、今は物置になっている倉庫をリフォームすることになった。その前段階として、以前は事務部屋として使用していたところを片付け、浜松支部の麻雀ルームとして使用できるようにした。数年前、私たちが四半世紀にわたって通った雀荘が廃業するに際し、店主のご厚意で全自動卓と椅子四脚を譲ってもらえることになって、ヨッシーとオノちゃんが二人でわが家まで運んでくれて、そのまま卓と椅子は倉庫に眠っていたのだが、それが晴れて再び日の目を見ることになったのである。秋には、支部例会に本部よりサニーくんが参戦してくれて、なんとも楽しいひとときを過ごした。
さらには、家内の発案で、子育て支援のためのスペースと娘夫婦たちが帰省した際に宿泊もできるよう、倉庫の半分をリフォームしようということになり、リフォームの業者さんと契約して11月から工事に入った。完成したのは、年の暮れも押し迫った今月27日。何とか娘夫婦たちの帰省にも間に合った。

3、内田先生講演会を開催した
3月、内田先生をお招きして、市内のお寺さんにて講演会を開催した。義務教育に携わる若手の先生方の愚痴を聞く会のようなものを立ち上げて、年間を通して少しでも先生方をサポートする機会が持てたらと考え、会の発足の手始めとして内田先生に講演を依頼したのである。先生には、会の名称まで考えていただいたのだが、諸事情により会場のお寺さんが使用できなくなったことと、講演後に二回ほど会合を持ったのだが、肝心の若手先生方の参加が全くなかったことから、現在は開店休業状態となってしまった。

4、みんなで西伊豆へ行った
5月、中学校での部活動指導を通じて知己を得た先生方と、静岡県の美しい風景とおいしいものを堪能するツアーを開催。みんなで三島駅に集合し、レンタカーにて西伊豆へ。泊まりは「伊豆まつざき荘」。特大のキンメの煮付けに舌鼓を打ち、翌日は沼津を経て焼津へと移動、鰹のレアステーキをなどをご賞味していただいた。来春は、熱海の梅と河津桜を愛でることになっている。

5、自治会役員になった
4月、順番で自治会の組長が回ってきた。家内も女性部の代表となり、回覧板を回したり、配布物を配ったり、自治会費や募金の集金に回ったり、神社の清掃活動に駆り出されたりと、それなりにやることの多い一年であった。組の各家庭を回ることで、それまでほとんど付き合いのなかったご近所の人たちと挨拶を交わすようになった。

6、ネコが来た
亡くなった父親は猫が好きだった。野良猫がやって来ると、家族には内緒で餌をあげたりしていたらしい。父親の誕生日は7月7日であった。ちょうどその7月7日、自宅の庭にそれまで見たことのない茶トラの猫が現れた。よく見ると、両耳の先端が切り込まれて耳全体が桜の花びらのようになっている。ネットで調べると、野良猫でも避妊手術を施した「地域猫」だということがわかった。
地域で世話をする猫ならば、自治会の役員としては面倒を見なければならない(?)。ましてや、父親の誕生日に現れた偶然を考えると無視することはできない。餌を与えると、それから毎日のようにやってくるようになった。最初は夜のはじめだけ来ていたのだが、そのうちに朝晩二回ずつ来るようになった。今では、わたしたちが早朝のウォーキングに出かけるときには、既に玄関近くで待機して猫なで声で朝ごはんを要求してくるのである。

7、基礎年金をいただくようになった
定年退職して3年、自分が早生まれということもあり、ようやく基礎年金がいただけるようになった。そのため、退職後にご縁があって勤めていた高校での授業も減らしていただき、来年の3月いっぱいをもって、そのお仕事も終わらせていただくことになった。来春からは、ようやく時間に縛られない生活が待っている。

8、美術館めぐりをした
ここ数年、家内の誕生日でもある夏の終わりは北海道へと旅行していたが、今年はちょうど9月1日から山本浩二画伯の「雪舟と山本浩二」展が山口県萩市にて開催されるとのことで、それならばと山口県へ。せっかくなので、開催初日の前日は秋芳洞へ、翌日は長門市の香月泰男美術館を訪れてから萩市内へ。松下村塾跡などを回って「雪舟と山本浩二」展の熊谷美術館へ。夜は、山本画伯ご夫妻も加わっての小宴。萩はよいところであった。
11月には、没後70年ということで山梨県の河口湖美術館にて開催されていた「吉田博展」へ。4年前にNHKEテレで紹介され、東京の東郷青児記念美術館にて実際の作品を見て以来、すっかりその魅力の虜になった吉田博の木版画。今回は、東京では見られなかったスケッチ帳なども展示されていて、なかなか見ごたえがあった。翌日は、せっかく河口湖まで来たのだからと、家内とレンタサイクルにて約3時間をかけて河口湖一周に挑戦した秋の一日であった。

9、選抜監督を引き受けた
県ソフトテニス連盟からの依頼で、誰も引き受けてくれる人がいないからと泣き付かれ、仕方がないのでいくつか条件を付けることで、県中学生選抜チームの監督を引き受けることにした。始動は11月。来年3月末の都道府県対抗戦本戦まで、コーチ陣と選手のチームワークの醸成をしながら全体のレベルアップを図ることがその主な任務である。

10、今年は61冊読んだ
昨年はたくさん読んだので、今年はその反動もあってか61冊止まりであった。ベスト3は以下のとおり。①岡田暁生『西洋音楽史』(中公新書)、②斎藤隆夫「回顧七十年」(中公文庫)、③青木理『日本会議の正体』(平凡社新書)。

それでは、どちらさまもよいお年をお迎えください。来年もどうぞよろしくお願いいたします。

父の死

死んだ父は寡黙な人だった。

僕が、父と生涯に喋った時間を合わせても、たぶん1時間に満たないのではなかろうか。
例えば、僕が学生時代に実家へ仕送りの電話をした際など父が電話を取ると、会話は「今月入り用なので仕送りしてほしいんだけど」ー「わかった」と、ほとんど1,2秒で済んでしまうというような具合で、父とのほとんどすべての会話はこんなふうだったのである。

若い頃の父がどんなふうだったのかは、父の母、すなわち僕の祖母から、「あんたのお父さんにはホントに匙を投げたよ」と聞いたことがある。さぞかし無頼をしていたのであろう。

反物を風呂敷に包んで背中に背負い、村から村へと歩いて呉服の行商していた祖母が、浜名湖畔のかつては村で名主をしていた家の娘を、そんな無頼の息子の嫁にと懇望して祝言を挙げさせたのも、行商をしながらの出来事であったろうか。
そして、どういう経緯かは知らないが、祝言を挙げた父と母は、母の実家である屋敷の一角に小さな家を建て、祖母の行商のツテもあってか、村でただ一軒の呉服屋を営むようになったのである。

しかし、もともと無頼が性で寡黙な父が、客相手の商売などに向くはずはなく、そのうちに父は競艇やオートレースなどの公営ギャンブルにのめり込み、店の売り上げをそれらのギャンブルに流用していた(僕が小学生のときには、父から預金通帳を渡され「これで3万円出してこい」と使いを頼まれたことが再三あった)のではないか。

そのうちに、たぶん母方の伯父から父に話があって、呉服店を営むかたわら、オートバイの部品加工(エンジンのシリンダーヘッドにゴムパッキンを接着する)の仕事を内職として始めることになった。
この仕事に父は夢中になった。それまでどちらかと言えばあまり身の入らなかった呉服店の仕事は母に任せきりになり、自分は母の実家の叔母や祖母にその内職を手伝ってもらいながら、それまでとは見違えるような熱心な働き手となった。

内職で始めた仕事がほとんど本業に近くなるほど軌道に乗り始めた矢先、とある出来事があって、その浜名湖畔の家を出なければならない事態が生じた。僕が中学校3年生のときである。
とりあえずは住むところを何とかしなければということで、ちょうど母の兄が他所に自宅を新築して空き家になっていた家を借りることになり、内職の仕事もそこで行うようになった。

それからほどなくして、父は郊外の二軒続きの借家を買い上げ、一軒を仕事場として使い、もう一軒を住家として使うようになった。家の西側には茶畑が広がり、遠くに見える三方原台地の松林の向こうに沈む美しい夕日が見えた。

僕が大学に進学してからのことは、実家を離れていたので断片的にしかわからないが、日本の高度経済成長期とも重なって仕事は順調で、かなりの収入に恵まれているらしかった。
僕は、大学を卒業した翌年に地元の教員採用試験に合格して採用が決まったので、5年ぶりに地元に帰ってくることになった。

ちょうどその頃、自宅を新築する話が持ち上がっていた。買い上げた借家と、さらにその前の土地も合わせて買い上げて宅地とし、その敷地に仕事場と自宅を建てるということで、その間だけ僕は自宅から少し離れたアパートの一室を借りて、自宅を建てる間そこに住むことになった。
建前の日の夜、父は珍しく上機嫌で、お祝いに駆けつけてくれた僕の友人を相手に、酒の勢いも手伝ってか野鄙な話も持ち出したりして、一人で盛り上がっていたことを思い出す。

僕の結婚の際には、きちんと結納を交わしたいということで、父が主導してわざわざ結納の場を設けたこともあった。まさか父がそんなことを言い出すとは思わなかったので、ひどく意外な感じがした。

それから数年後、さらに仕事場を拡張するために、従来の仕事場を潰して新たな仕事場兼事務所を建てることになった。そして、それまでの仕事場のあったところに、僕の家を建てることになった。

バブルが崩壊してほどなくであったか、取引をしていた事業所が浜松から移転したことをきっかけにして、それまでの仕事がなくなった。
年齢的なこともあってか、父は積極的に次の仕事を探そうともせず、家の補修をしたり、庭木を植えたりしながら、自分は事務所だった離れの二階の部屋を自分専用の部屋にして、読書をしたり、ラジオを聴いたり、相変わらずオートレースの予想をしたりして、悠々自適の生活をするようになっていった。

ほとんど僕の家にも顔を出したことのない父が、「具合が悪いので病院まで連れて行ってくれや」と珍しく僕のところへ頼みに来たのが昨年(2018年)の夏(8月)のことであった。
「息が苦しい」とのことで、地元の総合病院で検査を受けた結果、「間質性肺炎」との診断であった。医師の話では、「原因不明、したがって有効な治療法もなし、とりあえずは経過観察するしかない」とのことであった。

それから二ヶ月後の10月、また父親が顔を出して、「オレはもう1週間後に死ぬから、家の権利書とか受け取ってくれや」と言いに来た。そのままいつもの総合病院に連れていって診察を受けたが、入院するほどではないと言われ、そのまま家に帰ってきた。

容体が悪化したのは、年の瀬も押し迫った12月、件の総合病院に入院したことを知らされ、担当医師からは病気の進行と合併症のことを知らされた。すぐにどうこうということはないだろうが、常に酸素を吸入できるようにしておくことが必要だと言われた。

初めは自宅で療養することも考えていたのだが、酸素吸入のことやらも含めると、長期療養できる病院で世話してもらった方がいいのではないかという医師や看護師からのアドバイスもあり、自宅から車で20分ほどの赤十字病院で療養する手筈を整えた。

見舞いに行っている家内から、どうやら父親が出された食事をほとんど口にしていないどころか、看護師には食べたと言って、実は食事をティッシュなどに包んでベッド内に隠したりしているらしいことがわかった。
母親や看護師にその旨を伝え、ちゃんと食事を摂るように促してもらうよう依頼したのだが、僕が見舞いに行ったときも、もう昼前になるというのに、朝食で出された膳がまだ目の前に置かれたままということもあった。

入院して10日後の早朝、病院から父親危篤の連絡が入った。まさかと思いつつ病院に駆けつけると、時おり呼吸の止まる様子がモニターに見て取れた。これは覚悟を決めなければならないと思った。
父親の死亡連絡が入ったのは、その翌日の早朝であった。死に際には間に合わなかったが、看護師の話では静かに息を引き取ったとのことであった。

ちゃんと食事を摂り、リハビリもしていれば、もう少し長く生きられた可能性もあったと思われるが、どうやら父は自分で死期を早めたのではないかと思われる。
自宅療養や、長期療養病院への入院等で家族に迷惑をかけたくないとの思いもあったのであろうか。そういう意味では、父らしいまことにあっぱれな最後であったと思う。

初七日、そして四十九日の法要と納骨を済ませ、少しずつ父の遺品整理をしていく中で、離れの二階からびっくりするようなものがたくさん出てきた。

一つは、大量のカセットテープである。何を録音していたか一つ一つ確認はしなかったが、どうやら謡曲を中心に録音していたらしい。確かに、晩年はどこかから三味線を手に入れて時おり練習をしていたらしいが、それらのカセットに録音したものを手本にしていたであろう。

もう一つは、大量の趣味や教養のNHKテキスト類である。語学を除いて、ありとあらゆるジャンルのテキストで、そこから園芸や木工の知識を得ていたらしいことがわかった。

仏教関係の書物もたくさん出てきた。自宅近くの寺院をわが家の菩提寺にして、親戚からの援助も得て墓を建立したのも父だったが、どうやら寺院の選定については、それらの仏教の知識が役立ったのではないか。

その他、週刊朝日百科の「日本の国宝」と「世界の美術」が全巻、そして英字新聞も出てきた。
まさか英語がすらすら読めたとは思わないが、アメリカ合衆国の大きな地図が二階へ行く階段の途中に貼ってあったことを考えると、アメリカへの憧れがあったのかもしれない。

父は若い時分に耳疾を煩い、以来左耳の聞こえが悪かった。寡黙になったのは、そんなことも影響していたのだろう。
そんな自分の障害に重ね合わせたのであろうか、父はベートーヴェンが特にお気に入りだった。自分も独学でヴァイオリンを弾いたりしていたらしいが、僕も小学生の低学年のときには子供用のヴァイオリンを弾かされたことを覚えている。もちろん、僕の場合は熱心に練習する子どもではなかったのでそれきりになってしまったが。

それでも、僕がクラシック音楽に親しむようになったのは、そんな父の影響があってのことであった。自宅には、ベートーヴェンの交響曲の古びたオーケストラスコアが何冊かあった。レコードでそれらの曲を聴く際には、スコアを見ながら聴くことで、さらに曲への親しみが増したことを覚えている。

完成こそ叶わなかったが、父は仕事場の一角に茶室を建てていた。大工仕事の覚えもないのに、ありあわせの材料を使い、見よう見まねで作っていたのである。家内には、「茶室を完成するのが俺の夢なんだよ」と語っていたらしい。

義務教育の学歴しかなかった父は、「無知の知」ということを身をもって実践した人だった。晩年になっても、自らの教養を高めることを忘れていなかった。そして、芸術に親しむ心を忘れなかった。
菩提寺の住職は、父の戒名に「自楽」という文字を入れてくれた。生涯「自ら楽しむ」ことを実践して生きた、いかにも父に相応しい戒名であった。

1分56秒の奇跡

2018年5月、悪質タックル問題の被害側となった関西学院大学アメリカンフットボール部であったが、昨年末そんな彼らがすばらしい試合を見せてくれた。
幸いにもスタジアムでその試合を観戦できた一部始終を書き残しておきたい。

人は時に、常識では考えられないような出来事に遭遇することがある。巷間、そんな出来事は通常「奇跡」と呼び慣わされている。

2018年12月2日、大阪の万博記念競技場で繰り広げられた全日本大学アメリカンフットボール選手権西日本代表校決定戦「ウェスタンジャパンボウル」では、関西学生リーグの優勝校である関西学院大学ファイターズと、西日本代表校4回戦の勝者である立命館大学パンサーズの試合で、そんな「奇跡」のような出来事を目の当たりにすることになった。

西日本代表校決定戦に到るまでは、初戦で中四国代表校と北陸代表校が、2回戦ではその勝者と九州代表校が、3回戦ではその勝者と東海代表校が、4回戦ではその勝者と関西学生リーグ2位校とが対戦し、その勝者が西日本代表校決定戦で関西学生リーグ1位校と対戦することになっている。今年の4回戦の勝者は、関西学生リーグ2位の立命館大学パンサーズであった。

大学日本一を決める「甲子園ボウル」は、全日本大学選手権の東日本代表と西日本代表との間で争われる。甲子園ボウルに出場するためには、東西の代表校決定戦を勝ち抜かなければならないのだ。

既に、両校は関西学生リーグの最終戦で一度対戦していた。そのときには、関学ファイターズが終始試合の主導権を握り、31−7で圧勝していた。
一度対戦したチームが再戦する際には、よほどの力の差がないかぎり、追いかける方=前回の対戦で負けたチームの方が有利と言われる。敗戦の教訓を生かし、技術面や戦術面で立て直しを図ってくるだけでなく、何より「やり返してやる」という精神面でのモチベーションが高まるからだ。

現に、2017年のウェスタンジャパンボウルでは、関西学生リーグ最終戦で立命館大に敗れた関学ファイターズが、34−3で関西学生リーグ1位の立命館大に勝利している。やはり「追いかける方が有利」だったのだ。
2017年とはまったく逆の立場になった両校が、さてどんな試合を展開するのか興味は尽きないままに、2018年の「ウェスタンジャパンボウル」を迎えたのである。

キックオフは14:05。試合開始直後からそんな通説通りの試合が展開されていった。
パンサーズのオフェンスは、ファイターズのお株を奪うかのようなノーハドル(ハドルとは、オフェンスチームが事前に戦術の打ち合わせをすることで、それをせずにどんどんオフェンスを進めるやり方)のオフェンスで幸先よく先制、得点後のTFP(トライ・フォー・ポイント、得点後のボーナスポイント。キックで1点、エンドゾーンにランまたはパスで持ち込めば2点が追加される)こそファイターズのディフェンスに阻まれたものの、試合のモメンタムを引き寄せる貴重なタッチダウン(6点)を奪った。

対するファイターズのオフェンスは思うように進まない。何とかパンサーズゴール前には迫ったもののタッチダウンは奪えず、FG(フィールドゴール、ボールを蹴ってゴールポストを通過させること)の3点を返すに止まった。
逆に、前半終了間際には、ファイターズのQB(クォータバック)奥野#3が投じたパスをパンサーズのディフェンスがインターセプト、そのまま一気に68ヤードを走り切ってタッチダウン、差を13−3と広げる。

後半に入ってもパンサーズのオフェンスは好調で、第3Qにはパンサーズのキッカーが44ヤードのFGを決めて16−3。さらに点差は開くばかりであった。
しかし、第3Qに入ってようやくファイターズも反撃に出る。完全にパンサーズへと傾きつつあった流れに待ったをかけたのは、前半から今一つ波に乗れない奥野#3に代わった、主将でQBの光藤#10だった。その光藤がWR(ワイドレシーバー、主にパスを受けることが専門のポジション)阿部#81への24ヤードパスを決めてようやくタッチダウン、点差を16−10と詰める。

これでファイターズに流れが来たかと思いきや、次のオフェンスシリーズでは奥野がこの日3本目のインターセプトを喫し、攻撃権を奪われてFGを決められ、点差はまたもや19ー10と開いてしまう。

試合は、第4Qに入ってファイターズの敗色濃厚という雰囲気であったが、ここからファイターズが息を吹き返す。奥野のパスとランで陣地を進めたファイターズは、さらに光藤のランでエンドゾーンに迫り、最後はRB(ランニングバック、主に走ってボールを運ぶポジション)中村#26が飛び込んでタッチダウン、19-17の2点差に迫った。
直後のパンサーズの攻撃をディフェンスが凌いで、オフェンスに攻撃権を渡す。試合終了まで残り1分56秒。ボールオンはファイターズの自陣36ヤード、相手エンドゾーンまで60ヤード以上の距離が残っている。

「奇跡」はここから始まった。

ここでファイターズのベンチが送り出したのは、流れを変えた光藤ではなく、この日インターセプトを3本も献上した奥野だった。観客席からも「奥野じゃダメだ、光藤を出せ!」という声が聞こえた。
その奥野が、WR松井#85へ矢のような24ヤードパスを通す。続けて、WR阿部#81へもミドルパスを決め、阿部はボールキャッチ後のランでそのまま一気に28ヤードをゲインし、パンサーズのエンドゾーン10ヤード付近まで迫った。ファイターズ応援席はほとんど総立ちになった。

試合終了まで1分を切って、次にファイターズが選択したのはランプレーだった。ランプレーの場合、ボールキャリアがファーストダウン(4回の攻撃で10ヤード進んだ場合に与えられる新たな攻撃権)を獲得せずにフィールド内で倒されると時計は進む。
ゲインは2ヤードほど。時間は刻々と過ぎていく。観客席からは「何してんねん、タイムアウト取らんかい!」と怒号が飛ぶが、試合終了まで残り2秒となったところで、ようやくファイターズベンチはタイムアウト(前後半それぞれ3回ずつタイムアウトが取れる)をコールした。相手に攻撃時間を残さないためにあえて時間を進ませ、24ヤードのFGトライを選択したのだ。

すべてはK(キッカー)の安藤#8に託された。パンサーズの観客席からは大ブーイング、ファイターズの観客席は手を合わせて祈るばかりだ。
タイムアウトが解け、安藤がポジションにつく。ゴールポストを越えれば20-19でファイターズの勝利、失敗すれば19-17でパンサーズの勝利である。勝ったチームが甲子園ボウルへの出場権を得る。

ボールを後ろにスナップするスナッパー鈴木#67が、ボールをセットするホルダー中岡#14へボールを送り、中岡がセットしたボールを安藤がゴールポスト目がけて蹴り込む。
ゴールポスト下に控えた2人の審判の両手が高々と挙げられた。ボールは見事ゴールポストの間を通過したのである。ファイターズ観客席からはうなりのような声が挙がった。試合終了と同時のファイターズ1点差の勝利であった。

観客席の誰もが「1分56秒の奇跡」と感じたこの試合であるが、その布石は第1Qから始まっていた。
「布石」のその1は、第1Qにパンサーズの先制タッチダウン直後のキックによるPAT(1点)をファイターズのディフェンスがブロックしたことである。
ファイナルスコアは1点差。このブロックがなければ、最後のFGを決めても同点だった。その場合、ファイターズは勝つために最後はどうしてもタッチダウンを取りにいかなければならなかったはずだ。ゴール前のディフェンスは守りやすいと言われる。残り時間を考えても、それはFGを決めるより困難であったろう。

「布石」のその2は、試合開始から終始健闘していたファイターズディフェンスチームの粘りである。
パンサーズに2本のタッチダウンを許したのは前半だけだったし、そのうちの1本はオフェンスチームがインターセプトされてのタッチダウンだった。後半も、パンサーズには2本のFGを決められたが、そのうちの1本はまたもやオフェンスチームがインターセプトされての失点であった。
残り時間が少なくなった第4Qで、パンサーズオフェンスに時間も使わせず、ゲインもほとんど許さずに1分56秒をオフェンスチームに残したことが、オフェンスチームを奮起させたことは想像に難くない。これが「奇跡」のお膳立てとなった。

「布石」その3は、主将でQBの光藤の存在である。今季のファイターズは、3人のQB(2年生の奥野#3、昨年のエースQBだった4年生の西野#18、そして光藤#10)を場面に応じて使い分けていた。
この試合では、先発の奥野が3本のインターセプトを喫するなどして精彩を欠いた。流れを変えるべく途中から出場した西野も、プレー中に手を骨折してしまった。そんな状況の中で、光藤は冷静に自分のやるべきことに徹していた。
試合後、光藤は「前半から相手にリードされている展開を予想して練習していました」と語った。光藤にとっては、予想通りの試合展開だったのだ。その光藤が、後半2本のタッチダウンを演出した。光藤のクォーターバッキング無くして、ファイターズが接戦に持ち込むことはできなかったのである。

このように、一見するとまるで奇跡のように思えることでも、そこに至るまでの過程を振り返ってみると、いろいろな要素がお膳立てとなって「奇跡」へと収斂していったことが判明する。
もちろん、そんな「お膳立て」をするのは、日々の精密な練習の積み重ねであり、戦略と戦術を含めたコーチ陣のゲームプランであり、試合中の選手たちのメンタルの持ちようなのであろう。

最後にFGを決めた安藤は、「あれはミスキックでした」と語っていた。相当のプレッシャーがあったのだろう。しかし、見事に成功させたのは、日ごろからこういう場面を想定して練習してきたからであろうし、コーチ陣もそんなキッカーの力量をしっかりと見極めていたのだ。

そして、何より忘れてはならないのは、スポーツにおける「奇跡」を演出するためには、実力が伯仲したライバルがいなければならないことだ。
関西学生アメリカンフットボールリーグにおいては、この10年ほどは、ほとんど関西学院大と立命館大でその覇権が争われてきた。ライバルの存在を意識するからこそ、さらなる高みを目指そうと互いに切磋琢磨する気運は生まれる。
それは、実際の試合においても、僅差を争う好ゲームにつながる。僅差のゲームだからこそ、試合終了までその行方を予想することは難しく、両チームの応援席では固唾を飲んで試合の展開を見守ることになる。そんな観客の存在が、時に「奇跡」を生む土壌ともなるのだ。

今季、ウェスタンジャパンボウルを制した関西学院大学ファイターズは、甲子園ボウルでも東日本代表の早稲田大学ビッグベアーズを圧倒、2年ぶり29回目の甲子園ボウル制覇を遂げ、大学日本一に輝いた。もちろん、ファイターズの面々はパンサーズの思いも背負って甲子園ボウルに臨んだはずである。

かつてファイターズと互いに甲子園ボウルで覇を競った日本大学フェニックスOBの宍戸博昭氏は、「週刊TURNOVER」誌上で関学ファイターズを次のように評していた。
「仲間を信じ、スタッフを含めた全員が勝利を目指して死力を尽くす。他大学が憧れリスペクトしてやまないK.G.ファイターズとは、そういうチームなのである。」

スポーツ、特に学生スポーツってすばらしい。
来季、関西学院大学ファイターズはどんな戦いぶりを見せてくれるのだろう。

<十大ニュース2018>

1、父親が亡くなった
秋口から「呼吸が苦しい」と訴えて、総合病院で精密検査を受けた結果、「間質性肺炎」と診断され、とりあえず現時点で治療法はないと医師から告げられたときから、自らの死を決意していたであろう父親が、年末の12月に入院してわずか10日で亡くなった。
入院した直後は、今後の療養のために介護認定を受ける準備をしていたのだが、日に日に病状が悪化し、自宅での療養は難しい状況と判断された時点から、長期療養先の病院を決めていた矢先、病院から危篤の報を受け取り、翌朝には帰らぬ人となった。
病院食をほとんど口にしなかったことから、急激に痩せ細って、体力的にも限界を迎えての死だったのであろうが、父親の性格から想像するに、たぶんわざと食事を摂らず、自ら死に向かっていったのだと思う。父親らしい、まことに見事な死に様であった。

2、ザルツブルク音楽祭へ
以前からぜひ行ってみたいと思っていたオーストリア、ザルツカンマーグートのシュタインバッハ・アム・アッターゼ。その湖畔には、グスタフ・マーラーが夏のオフシーズンに交響曲第2番と3番を作曲した作曲小屋が今も残されている。
せっかくザルツブルクまで行くのなら、ついでにザルツブルク音楽祭を鑑賞できないものかと調べたところ、なんと音楽祭が開幕した直後に、ウィーン・フィルによるマーラーの交響曲第2番の演奏会が開催されることを知った。
さっそく、音楽祭のサイトにアクセスし、チケットを申し込んでみた。チケットが確約されるかどうかは2ヶ月ほど待たねばならないとのことだったが、それから2週間後にチケットが確約された旨のメールが入った。天にも登る気持ちだった。音楽祭で聞いたアンドリス・ネルソンス指揮、ウィーン・フィルによるマーラーの交響曲第2番は、生涯忘れることがないであろう。
演奏会は7月の終わりだったので、約5ヶ月をかけてツアーの準備をした。いちばん頭を悩ませたのは、シュタインバッハ・アム・アッターゼへ行く方法だった。オーストリア連邦鉄道のHPにアクセスして、電車のバスのチケットを予約し、なんとかザルツブルクから日帰りできる日程を組んで、無事に作曲小屋にはたどり着くことができた。
それにしても、今夏のヨーロッパは暑かった。エアコンのないホテルでの滞在は、なかなかにきついものがあった。

3、ウェスタンジャパンボウル
この10年ほど、大学アメリカンフットボール界で毎年のようにレベルの高い試合を展開してくれている関西学院大学ファイターズと立命館大学パンサーズ。今年も、12月に開催されたウェスタンジャパンボウル(全日本大学選手権西日本代表校決定戦)では、期待に違わぬすばらしい試合を見せてくれた。
リーグ戦ではパンサーズを圧倒したファイターズであったが、この日は終始パンサーズがリードを奪った。「奇跡」は、試合終了まで1分56秒を残してファイターズ2点ビハインドというところから始まった。
それまでパスを3度もインターセプトされていたファイターズのQB奥野(5月の日大戦で悪質タックルを受けた選手)が、自陣から目の覚めるようなパスを2本通してパンサーズ陣内に攻め込む。さらに、ランを織り交ぜてパンサーズのゴール前へ前進。最後は、残り2秒を残してキッカーの安藤に逆転のFGを託す。関学の応援席からの大歓声を受けたキックは、見事ゴールポストを越えて、ファイターズの逆転勝利となった。
スポーツは筋書きのないドラマだと言われる。まさにその言葉通りのすばらしい試合だった。両チームの監督、選手、コーチにあらためて敬意を表したい。

4、サイモン・ラトル、ロンドン交響楽団演奏会
6月にベルリン・フィルの首席指揮者兼芸術監督を辞したサイモン・ラトルが、新たに就任したロンドン交響楽団を率いて来日公演をするとの報に接し、しかもその演奏曲目がマーラーの交響曲第9番と知り、これは何をさておいても聴きに行かず場なるまいとのことで、9月の終わり、横浜のみなとみらいホールへ。
ベルリン・フィルに比べると、自国のオーケストラであるということも手伝ってか、演奏はたいへんに感動的な演奏であった。今後の活躍が楽しみである。

5、黒岳登頂
今年の北海道旅行は、時期を例年とは1ヶ月ほどずらして、9月に行くことにした。目的は、日本でいちばん早いと言われる黒岳の紅葉を見るためである。
せっかく黒岳のロープウェイに乗るのならば、そこからリフトを乗り継げば7合目までは行けると知り、ならば登頂を目指してみようかということになった。
とりあえず登山靴だけあれば、あとはなんとかなるだろうと高を括っていたが、豈図らんや、そんなに甘いものではないということを思い知らされた。7合目から登り始めた時には薄日が差していたのに、8合目を過ぎたあたりから雨が降り始め、9合目を過ぎるころには吹き降りとなった。なんとか頂上にはたどり着いたものの、山頂は猛烈な風と雨と寒さで5分といられなかった。
早々に下山し、麓の層雲峡の宿の温泉に浸かって、ようやく生きた心地を取り戻した。あらためて自然の厳しさを実感させられた。

6、京都の桜と紅葉
3月の終わり、桜を愛でに京都へ。山科の勧修寺や大石神社、西陣の本法寺、蹴上インクラインや平安神宮の庭園などを回った。特に、本法寺ではちょうど公開していた長谷川等伯の佛涅槃図に圧倒された。夜は、中華料理店のハマムラにてナガミツくんと再会、久闊を叙した。
紅葉を愛でに京都に宿泊したのは、ウェスタンジャパンボウルが開催された12月の初め。雨上がりの北野天満宮内、御土居のもみじ苑を朝のうちに訪れたが、ほとんど訪れる人もなくて「紅葉の錦」を堪能することができた。

7、年間100冊超
今まで1年間に100冊以上の本を読んだ年はなかったのだが、今年は初めて100冊を超えた(102冊)。きっかけは、1月に千葉雅也『勉強の哲学』を読んだこと。この本を読んで、本の読み方が劇的に変わった。
今年読んだ本の中でベスト5は、①村上春樹『職業としての小説家』(スイッチパブリッシング)、②内田樹『日本の覚醒のために』(晶文社)、③生島美紀子『天才作曲家 大澤壽人』(みすず書房)、④立花隆『シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界』(文藝春秋)、⑤千葉雅也『勉強の哲学』(文藝春秋)

8、ライフワーク
昨年定年退職してから2年目、ようやくこれから自分のライフワークにしようと思えることを見つけることができた。きっかけは村上春樹の『職業としての小説家』を読んだこと(もちろん小説家になることを目指すわけではありません、念のため)。なかなか難しいが、それだけにやりがいもあるし、何より楽しいと思えること。それがライフワークというものであろう。

9、陶器まつり
今年は各地の陶器まつりによく出かけた。5月は岐阜県土岐市の「美濃焼まつり」へ。9月は愛知県瀬戸市の「せともの祭」へ。そして、10月は滋賀県信楽町の「信楽焼まつり」へ。それぞれの土地での焼物の微妙な違いも少しはわかるようになってきた。個人的には信楽焼の素朴な感じがお気に入りである。

10、神保町ブックフェスティバル
10月、東京で香月泰男の作品が見られると知り、新宿まで出かけたついでに、神保町にて開催されていたブックフェスティバルに立ち寄った。あまりの出店の多さに驚いた。家内は、いろんな絵本がほとんど半額で売られていると知り、あれこれ買い求めていた。当日は、140Bのブースや、ブリコルール・パブリッシングの島田さんにもお会いすることができた。行ってよかった。

番外
年明けの1月、芦屋の光安さんからのご案内で、京都での「京響ニューイヤーコンサート」終演後に、指揮とオーボエ独奏のシェレンベルガー氏を囲んでの打ち上げに同席させていただいた。シェレンベルガー氏は、カラヤンの時代のベルリン・フィル首席オーボエ奏者である。至福の時間であった。

それでは、どちら様もよいお年をお迎えください。
来年もどうぞよろしくお願いいたします。

「サイモン・ラトル、ロンドン交響楽団による来日公演(マーラー交響曲第9番)を聴いて」

9月28日、横浜みなとみらいホールでのサイモン・ラトル、ロンドン交響楽団による日本公演を聴いた。

サイモン・ラトルは、今年(2018年)の6月にそれまで16年間務めたベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者兼芸術監督を辞した。そして、9月からはロンドン交響楽団の音楽監督に就任した。
今回の来日公演は、新たに手勢となったロンドン交響楽団を率いての公演ということで、どんな演奏を披露してくれるのだろうとの興味から、公演のことを知った4月、すぐにチケットを手配して5ヶ月後の公演を楽しみに待っていたのだった。

僕がサイモン・ラトルという指揮者のことを知ったのは、確か彼がベルリン・フィルの首席指揮者に就任する経緯を取材したテレビ番組であったと思う。その番組内では、ラトルがマーラーの交響曲第7番をリハーサルしている場面が紹介されていた。第4楽章のセレナーデの後半部分を、できるだけ弱音で演奏するようにリハーサルしているシーンが印象的だった。

その指揮者としての実力を思い知ったのは、ラトルがベルリン・フィルの首席指揮者に就任した直後に演奏したマーラーの交響曲第5番の演奏だった。首席ホルン奏者であるシュテファン・ドールを指揮者のすぐ横に立たせ、まるでホルン協奏曲のように演奏した第3楽章もよかったが、何より感心させられたのは終楽章の演奏であった。
どちらかと言えば、最後のフィナーレに至るまでが間延びしがちな演奏の多いこの楽章を、ラトルは聴き手をまったく飽きさせることなく、それぞれのパッセージを有機的に際立たせながらフィナーレへとなだれ込んでいったのである。僕はすっかり彼の演奏の虜になってしまった。

それから、次々とラトルによるマーラー演奏のCDを買い求めた。ベルリン・フィルとのCDはまだ少ししか発売されていなかったので、ほとんどは前任のバーミンガム市交響楽団との演奏であったが、これが粒揃りの名演(3番はあまりよくなかったですが)ばかりであった。
中でも、とびっきりの名演は交響曲第2番と6番であった。2番は、演奏に25分近くも要する長大な第1楽章が少しも長いと感じることなく聴けた。どうやら、サイモン・ラトルという指揮者は、やや退屈に聴こえるような楽章でも、いかに興味深く聴かせるかというところに特異な能力を発揮するらしいということがわかった。
6番は、第1楽章の出だしから圧倒された。かつて聴いたことのなかった迫力でリズムを刻むコントラバス!そして、まさに阿鼻叫喚という形容が相応しい終楽章。スコアをその細部に至るまで徹底して読み込み、あらゆるパッセージを「意味あるもの」として位置付けるとともに、それらの音符の背後にある作曲者のパッションを余すところなく表現した演奏であった。

そんなサイモン・ラトルが、世界屈指のヴィルトゥオーソの集まりであるベルリン・フィルの首席指揮者に就任したということで、その期待はいやが上にも高まっていったのであった。

ところが、である。もちろん、ラトルがベルリン・フィルの首席指揮者に就任してからのCDもいくつか買い求めてみたのだが、どうも心にぐっと迫ってくるものがないのである。
典型的だったのは、マーラーの交響曲第9番。かつて、ベルリン・フィルはジョン・バルビローリの指揮で、この交響曲第9番の後世に残る名演を残している。ラトルにもそんな名演を期待したのだが、期待が大きすぎたためか、僕の耳にはバルビローリの演奏を超えるような感動はなかった。
何がよくないのか。バーミンガム市響との演奏では、指揮者ラトルがイニシアチブをとって演奏しているということが実感させられたのだが、ベルリン・フィルとの演奏では、そんなイニシアチブがあまり発揮されていないように感じたのである。サイモン・ラトルといえども、歴史があり世界一と言われる名手揃いのオーケストラを前にして、演奏者の自発性を重んじたところが裏目となって出たのであろうか。
そんなこともあって、それからはサイモン・ラトルとベルリン・フィルによるCDは、あまり買い求めなくなってしまった。
CDは買わなくなったが、ヴァルトビューネ・コンサートやヨーロッパ・コンサートなど、BSで時折り放送されるライブ映像は、録画してよく見ていた。ライブでは、CDから受けるような印象を感じることはなかった。

そして、ついにサイモン・ラトルがベルリン・フィルを去る日がやってきた。最後の定期演奏会に選ばれたのは、マーラーの交響曲第6番。その一部始終がBSで放送されることを知った。かつてバーミンガム市響との名演を思い出して、これは絶対に見逃せないとの思いで、録画予約をして放送される日を待っていた。

7月、録画したマーラーの6番を聴いた。かつて驚愕した第1楽章の出だしは、まあこんなものかという感じ。ところが、テンポが落ちるところになると途端に音楽が流れなくなった。
6番では、サイモン・ラトルは緩徐楽章であるアンダンテ・モデラートを、よく演奏される第3楽章ではなく、第2楽章に置く版で演奏する。今回もそうであったが、この緩徐楽章が流れないのである。まるで、川の水が淀みで流れなくなっているかのように。

僕は、個人的にこの6番の緩徐楽章が、マーラーのすべての交響曲の楽章の中でも特に好きな楽章である。安らぎと平安に満ちた生活も、時にどうしようもない悲しみで包まれることがあるが、この楽章の最後ではそんな人の力ではどうしようもない運命に苛まれる者の慟哭を聴くような感じがするからだ。
かつて、レナード・バーンスタインは、ウィーン・フィルを指揮した演奏で、この場面を唸りながら指揮していた。ところが、ラトルの演奏では、そんな思いが伝わってこないのである。ベルリン・フィルとの最後の定期演奏会なのに。

そんな経緯もあって、今回のロンドン交響楽団とのマーラーの交響曲第9番では、実際にサイモン・ラトルがどんな指揮をするのだろうとの興味から、通常の演奏会では舞台とは反対側の観客席ではなく、舞台側のパイプオルガンが設えられたところの下の席をチョイスすることにした。これなら、最初から最後までサイモン・ラトルの指揮ぶりを堪能することができるからだ。

演奏会は金曜日の夜であった。午前中の仕事を終え、その日が仕事休みだった家内と連れ立って、トゥインゴにて集中工事の期間中であった東名高速道を横浜町田インターまで、さらには保土ヶ谷バイパスを経て、横浜スタジアム近くのホテルにチェックイン。中華街にて早めの夕食を取り、地下鉄にてみなとみらいホールへ。

地下鉄みなとみらい駅の改札を出て3階分のエスカレーターを上ると、ホールは目の前である。既に入口には入場を待つ観客の列ができていた。さすがの人気と思っていたのだが、実際に舞台側の席に着席してみると、反対側の客席にはかなりの空席が目立った。開演直前でも7割弱の入りではなかったろうか。平日の夜ということも空席の理由だったかもしれない。

開演を知らせるゴングが鳴り、楽団員が入場してきた。チューニングが終わって、サイモン・ラトルの登場を待つ。まもなく、黒の詰襟風の服を着用したラトルが登場してきた。
最初は、イギリスの作曲家ハンス・グライムの「織りなされた空間」という現代曲。変拍子を交えた曲なので、指揮をするのは容易ではないと思われるのだが、ラトルは難なく振り分けて、きちんとクライマックスも作り上げていた。

20分間の休憩を挟んで、次はいよいよマーラーである。
第1楽章、前奏に続いて、ところどころにルバート(テンポを加減しながらの演奏)を効かせながら、主題をたっぷりと歌わせる。ゆったりとしたテンポではあったが、ここではベルリン・フィルとの最後の定期演奏会でのような「淀み」は感じられなかった。
第2楽章は、スコアに「レントラー(舞曲)風のテンポで」というマーラー自身の指定があるように3拍子で演奏されるのだが、ここでも主題にルバートを効かせたためか、あまり「舞曲」らしく聴こえない感じがした。
第3楽章では、ロンドン交響楽団の演奏技術の高さに驚愕させられた。中でも、首席トランペット奏者は、フィリップ・コブ(コプ?)という若者が務めているのだそうだが、この奏者が超絶的にうまかった。トランペットの二重奏のところではその抒情性を遺憾なく発揮し、フォルテッシモでは突き刺すような鋭さを付け加える。まちがいなく、彼は世界でもトップクラスのトランペッターであると確信させられた。
また、ラトルはシンバルのキュー(打ち鳴らす際の合図)をほとんど出さなかったのだが、いかにもぴったりのタイミングでシンバルを打ち鳴らしたロンドン響の打楽器奏者もさすがであった。そして第4楽章。この交響曲の中では、最も感動的な楽章だ。それはラトルももちろん心得ていて、時に大仰な身振りも交えながら、楽団員から精一杯の演奏を引き出そうとしていることが、その指揮ぶりからも十分に伝わってきた。

演奏の全体的な印象としては、ベルリン・フィルとの最後の定期演奏会のときのような、テンポの緩いところでの流れの悪さのようなものは感じられなかった。いい演奏であったと思う。
終演後のカーテンコールでは、ラトルが楽団員たちの間を巡回しながら、それぞれのパートの首席たちを讃えていた。就任してちょうど1ヶ月であったが、やはり自分の故国のオーケストラということもあってか、楽団員たちとはいい関係が築かれているように感じた。

以前、佐渡裕がベルリン・フィルにデビューする際のドキュメンタリー番組を見たが、どうやらベルリン・フィルはプレーヤーが指揮者を「値踏み」するようなところがあるらしい。それはそれで、楽団員たちにしてみれば民主的な集団として演奏者の意向が大切にされているという実感が持てるかもしれないが、指揮者からしてみればたいへんに敷居の高い演奏者集団ということになる。

いかなサイモン・ラトルとて、それは感じていたのではなかろうか。彼がベルリン・フィルの首席指揮者に就任する前のバーミンガム市響とのレコーディングの数々と、ベルリン・フィルとのセッションとを比較すると、どうも後者の演奏が見劣り(聴き劣り?)するように感じる(もちろん個人的な印象である)のは、そんなところも影響しているかもしれない。

オーケストラと指揮者の関係というのは、そのどちらにイニシアチブがあるかというような単純な問題ではないにしても、どちらかといえば指揮者の方にイニシアチブのあった時代の演奏の方が、聴く者の心に訴えるところがあるように感じてしまう。
尤もそれは、僕らのようなレコードの時代に育った者は、その年代的な印象に左右されすぎているのかもしれないのだが、ことベルリン・フィルの演奏に限っても、フルトヴェングラーやカラヤンの時代の演奏の方が心に迫るものがあるように感じるのはどうしたことか。やはり、指揮者はオーケストラに「君臨」しないと、いい演奏はできないということなのだろうか。

そんなことをあれこれ考えさせられた横浜の夜だった。

<ザルツブルク音楽祭全般とチケット入手に関して>
○「ヨーロッパ音楽の旅」というHPの「ザルツブルク音楽祭チケット購入方法」というページ
http://xn--u9j7ipb4eza3g9248bthgp86i.com/salzburgerfestspiele-ticket/
が最も参考になりました。音楽祭の公式HPからどのようにしてチケットを申し込むのかが懇切丁寧に解説されております。

もちろん、実際には公式HPから申し込みます。
○「ザルツブルク音楽祭公式HP」(ドイツ語か英語かどちらかの表示が選択できます)
https://www.salzburgerfestspiele.at/

音楽祭のプログラムに関しては、JTBの以下のページで。
○「ザルツブルク音楽祭2018公演プログラム」(JTB)
http://www.jtb.co.jp/luxurytravel/live/repertoire/salzburger.asp
期間中の全てのプログラムがまとめられています。

<移動手段について>
オーストリア国内の移動に関しては、
○「オーストリア連邦鉄道」(ÖBB)
https://www.oebb.at/en/
のHPで、行き先に関しては、
http://fahrplan.oebb.at/bin/query.exe/en?
で調べ、
チケットの予約に関しては、
https://tickets.oebb.at/de/ticket
で、出発時間と出発駅、到着駅を入れると、列車の選択から座席の指定、乗り換えのバスの予約と支払いまで全てできました。

ウィーン市内の交通機関に関しては、
○「48時間ウィーンチケット」(Wiener Linien)
https://shop.wienerlinien.at/index.php/product/5/show/0/0/0/0/buy
地下鉄・トラム・バスなどの48時間フリーパスのチケット(14.1ユーロ、約1,800円)です。もちろん、デイチケット、24時間、72時間パスなど、いろんな種類のチケットが用意されています。
支払いはカード決済で、予約が完了するとチケットがPDFでメールに添付されて送られてきます。

<入場チケット>
○「シシィチケット」(Imperial Austria)
https://www.imperial-austria.at/hofburg-vienna/sisi-ticket.html
ウィーンのホーフブルク(王宮)博物館と、シェーンブルン宮殿の入場料がセットになったチケットです。29.9ユーロ(約3,800円)でちとお高いですが、どちらもスマホの画面をQRコードを見せるだけで、待つことなく入場できます。シェーンブルン宮殿については、公開されている40室が全てが見学できる「グランドツアー」に参加できます。

<役に立ったモノ>
○「撥水オーガニックコットン 疲れにくいスリッポンスニーカー」(無印良品)
https://www.muji.net/store/cmdty/detail/4549738777939?searchno=13
これは優れモノでした。相当歩き回ったと思うのですが、確かに「疲れにくい」と実感しました。スリッポンの靴なので、飛行機内での靴の脱ぎ履きも楽ちんでした。

○「海外用マルチ変換タップ」(ヤザワ)
https://kakakumag.com/seikatsu-kaden/?id=12444
世界150カ国以上のコンセントに対応している変換プラグです。日本の電化製品用のコンセント2つに、USBポートも2つ付いているので、スマホやタブレットだけでなく、カメラやモバイルバッテリーの充電にも重宝しました(ただし日本では使えません)。

○「携帯ウォッシュレット」(TOTO)
https://jp.toto.com/products/toilet/travel_washlet/
日本ではウォシュレットを備えているホテルが多くなってきたものの、海外のホテルではほとんど普及していません。ふだんからウォシュレットを使っていると、どうしても海外でも使いたくなります。そんなときに、この携帯ウォシュレットはとても便利なのです。

○「KLAXのSIMカード」(T-Mobile)
https://www.t-mobile.at/internet/internet-fuer-unterwegs/ohne-bindung/
1ヶ月8GBで10ユーロ(約1,300円)のSIMカード(通話なし)です。持参したSIMフリータブレットに装着して使ってみました。データ量を気にすることなく使えるので、タブレットをテザリングしてアプリをアップデートしたり、たくさんの写真をネットにアップしたりすることができました。

<コンサートについて>
○客席の照明
ザルツブルク祝祭大劇場では、演奏が始まっても客席の照明はそのままでした。日本の演奏会場では、演奏が始まる前には例外なく客席の照明を落とします。「静かにしろよ」という合図の代わりなのでしょうか?あるいは「集中してありがたく聴くんだぞ」というコンサート主催者の暗黙の指示なのでしょうか?映画を見るわけでもないので、客席の照明は落とすなら少し暗くするだけでいいと思います。

○カーテンコール
アンドリス・ネルソンスとウィーン・フィルによる演奏終了後は、スタンディングオベーションの拍手喝采だったのですが、カーテンコールはわずかに3回でした。日本では、5回も6回も呼び出されるので、指揮者がやたらとプレーヤーを立たせて拍手に応えるようなことが行われていますが、はっきり言って必要ないと思います。「では」という合図をして、3回で舞台から退場したウィーン・フィルのコンサートマスターはカッコよかったです。

<その他>
○航空会社のウェブ(オンライン)チェックイン
フィンエアーの場合は、出発の36時間前からチェックインができました。たぶん、どこの航空会社も同様のサービスをしていると思います。これは本当にラクです。とにかく、出発の当日チェックインカウンターに並ばなくていいんですから。海外旅行の場合は2時間前に空港へと言われますが、このウェブチェックインを済ませておけば、1時間前でも十分なのです。

○改札
鉄道の駅に改札がないというのは、最初はヘンな感じがするんですけど、慣れてくると便利でいいと感じました。オーストリアのレイルジェット(特急列車)の場合は車掌が検札に来ましたが、ウィーンのトラムや地下鉄では、検札を見かけることはありませんでした。日本も改札をなくせば、自動改札機や人件費の大幅な削減になると思うのですが。どうなんでしょう?

○チップ
オーストリアはチップの国なので、いろいろと戸惑うことが多かったです。チップのための小銭を用意しておかないといけないという面倒なこともありますが、最も面倒だったのはレストランなどでカード支払いしようとするときでした。チップを払うかどうかを聞いてくるのでOKすると、チップだけの金額を打ち込んだり、チップ込みの金額を打ち込んだりしないといけません。チップなどというものは、まことに不便な制度です。一律にサービス料込みにしてもらう方がややこしくなくていいです。
ホテルでは、よく枕の下にチップを置いておくと言われますが、僕らはメモ用紙に「Danke!」と書いて目立つところへ置いておくようにしました。そうすると、部屋の掃除をしてくれた人によっては、ご丁寧に返事を認めてくれる人もいました。ちょっとした交流ができた感じがしました。
家内の話では、公衆の女子トイレには清掃のためのオバさんがいて、しっかりチップを要求しているとのことでした。
そもそも、どうしてチップなどという制度ができたのでしょう?貴族と平民という身分制度が長く続いた国家ほど、地位の上の者が下の者に小遣いを与えるというようなしきたりができたのでしょうか?一度その起源を調べてみたくもなりました。

○ネックピロー
ホームセンターで売っていたアイマスクとセットになったもの(空気を入れて膨らませるタイプ)を持参したのですが、首回りが暑苦しい感じになって、とても眠ったりすることはできなかったです。周囲を見ると、ビーズなどでできたものを手に挟んだりして持参している人がけっこういました。今度はビーズタイプのものを使ってみようと思いました。

○バスタブ
今回は、旅行社の方にお願いをして、すべてバスタブ付きのホテルを予約してもらうようにしました。どうしても歩き回ることが多くなるので、一日の疲れを癒すためにはゆっくりとお風呂に浸かるのがいちばんなのであります。

○エアコン
ヨーロッパの宿にエアコンは必要なしと思っていましたが、今回のようにヨーロッパが熱波に襲われてしまうと、エアコンは必需品です。幸い、ザルツブルクのホテルにはエアコンが設置されていましたが、ヨーロッパの多くのホテルにはエアコンがないと思われます。部屋の窓も、上部が斜めに15センチほど開くだけなので、今夏のような状況の場合はエアコンのあるホテルを選ぶことも必要かと思います。

○宿泊保証金?
ザルツブルクのホテルでは、チェックインの際にいきなり100ユーロ(約13,000円)を要求されました。どうやら宿泊保証金のような名目だったと思います。もちろん、チェックアウトの際には返金されるとのことだったのですが、いきなり100ユーロ要求されたのには驚きました。そんなことは、ホテルの予約の際にはどこにも記載されてはいませんでした。

○物価
ヨーロッパの物価は総じてあれこれ高いと思いました。スーパーはさほどでないかもしれませんが、レストランや、施設への入場料などは高いです。日本に帰ってから外食をしたときには、ユーロ換算してみるとずいぶん安いなあと実感いたしました。

以上、今回の旅で役立ったことや気がついたことをまとめてみました。
旅をするということは、基本的に日常を離れて、非日常の世界に身を置くという経験です。だから、日常とは違うことが生起して当然だと思うのですが、どうも私たちは旅先でも日常を求めようとするところがあるように思います。
Wi-Fiのルーターを借りてスムーズにネット接続できる環境を整えたり、現地での移動ができるだけ支障をきたさないよう事前に準備をしたりするのも、できるだけふだんの日常に近い形で旅をしたいという無意識が働いているのかもしれません。

僕が38年前にウィーンに来たときは、パスポートと少しのお金、行き帰りの航空券、そしてユーレイルパス(ヨーロッパ中の鉄道に乗れるフリーパス)を持って来ただけの旅でした。それでも、なんだかんだと見たいところや行きたいと思っていたところはちゃんとその目的を果たして、無事帰国することができました。
もちろん、若かったということはありますが、どうも年齢を重ねると、旅で非日常を経験するなどと思っているほどには、日常から抜け出せていないのかもしれません。

これからも旅に出ることはあると思いますが、日常と非日常のどこで折り合いをつけるかということを考えながら、旅の計画を立てることも必要かと思っております。
とりあえず、次の旅まで少しだけ休息します。