『季節のはざまで』(ダニエル・シュミット)

ダニエル・シュミット『季節のはざまで』。オーディトリウム渋谷以来。
どんだけ人を入れようが、がらんどうだろうが、カメラを動かそうが、エロい話になろうが(鍵穴のところなんか凄い)、精神病院に行こうが、全てにおいてちょうどいい距離を維持し続ける。ものすごく古典的ってことかわからないが、今ならエリセ『瞳をとじて』くらいしかない。もう大半の誰が目指しても、ほぼ100%つまらないことになりそうな絶望感がある。もちろん言うまでもなくシュミットだけでなくレナート・ベルタも凄いんだろうが、当然撮影だけの話ではない。言葉と声と映像の距離感というか、たとえばサラ・ベルナールの昔話なんか、このままサイレント映画にしても全然いけそうだけど、もちろんペーア・ラーベンの劇伴からイングリット・カーフェンにアリエル・ドンバール、ウリ・ロンメルなどなど声の彩りに建物の音も響く。ほぼ失明しかかっているらしいモーリス・ガレルはどんな声か覚えていないが、フィリップ・ガレルでは見たことない滑稽な佇まいをしている。

別に安心できる作品ではない。冒頭のトンネルを二度ほど通り抜けるバス内の暗さ。鏡を切り返して出会う「友人」と、そのバスルームでのやり取りを聞いてしまったサミー・フレー(誰も覗いていない)。このやり取りを人に安心できるものとして受け取らせるフレーミングは一切なく、ただ向こう側とこちら側があるのみ。幾度も繰り返される旅行鞄など手にした家族の階段の上り下りに漂う、説明しがたい暗さ。父の死と、天使の集うパーティー。「天使」というのは勿論『ラ・パロマ』もあるけれど、やや飛躍して『エクソシスト3』(もしくは『トゥインクル・トゥインクル・キラー・カーン』?)を思い出す、すでに全員が死んでしまってからの日に少年時代から一気に飛躍してしまった感覚。記念撮影が死を呼ぶ予感は「監督小津安二郎」を読んでたりするんだろうか。そして、これまで一つの空間にいながらすれ違い続けてきた少年時代と現在が、ついに一つの画面におさまる時の「終わり」の予感。ミッキーマウスの画からパンして、窓をあけると待っているラストは『ラ・パロマ』の歌唱と同じくらい忘れられないインパクトがあるけれど、結局どうなってしまっているんだろうか。こんな世界だからこそ、ある距離を維持し続けなければいけなかったかのような。精神病院からも教会からも途中で親の手で引き返すまでの長さの「ちょうどよさ」。サラ・ベルナールと祖父の間に何があったのか、「そのあとどうなったの?」「さあ、それで終わりよ」、またはウリ・ロンメルによる「サハラの夜」は子供は見れなかったから人から伝え聞いての想像という話、そしてイングリッド・カーフェンの「子供で居続けるのも大変ね(私には子供時代はなかった)」、そうした死だけでなく性的なものとの境界もある。ファスビンダーの『ローラ』で繰り返し聞いた曲をイングリット・カーフェンが歌って、あらゆる境の中で流れる曲に聞こえてくる。

『ペナルティループ』(脚本・監督:荒木伸二)

前作『人数の町』は蓮實重彦がコメント寄せていたから気になって見た(安易な動機で申し訳ないです)。『人数の町』はなかなか面白かったけれどラストがどうなったか思い出せない。ただスッキリしない終わりだったように思う。
『ペナルティループ』もかなり面白く見ていたのに、これまたどうにもスッキリしない終わらせ方をしていた。別に嫌な気持ちになる終わりでもなく、どうにもできないが日々生きていくのだろうということなんだろうと思うことにしたが、自分の解釈はともかく、そうした謎めいているわけでもないが曖昧な結末を用意するあたり「日本的」とか評されたりするんだろうか。
アメリカ映画のループなら最近だと『ドミノ』(ロバート・ロドリゲス)があるが、これはネタバレ第一段階みたいなもので、その後も二転三転捻りがあった(未見の方には申し訳ないです)。『コンテニュー』(ジョー・カーナハン)なんかゲーム世界の話みたいに繰り返しつつ足搔きながら最終的に人生を一歩進めるみたいな展開で、なかなか感動した。もう10年以上前になる『ミッション:8ミニッツ』にしろ詳細は忘れたが、やはり一発逆転あり見事だったように思う。
そのあたりの映画を『ペナルティループ』は勿論おさえている上で、ああなったのだろうが。だいたいループものの映画を見る前にどれだけそういう展開だと知ってるか。『ドミノ』は知らせていない例外だが、わりと観客として知った前提で見ている気がする。『ペナルティループ』はこのあたりが上手くて、その展開を知らされたところで驚きがあるわけではない要素を見せていくうちに大した説明をしないまま想定外へ転ばせる。繰り返される現在の合間にフラッシュバックを挟んでいくあたりは順当な語り方なんだろうが、そもそもの発端が要するに主人公には対処不能な外部に突き当たり(「外側で何が起きているのか関知していませんので」という台詞もある)、劇中に頻出する黒味の挟み方や、終盤の後ろ歩き、背中、振り向く行為(『オルフェ』の引用か)などループというより逆行しようとしつつ、それもできない。単に捻りが足りないだけかもしれないが……。偶然にも『フォロウィング』の予告が上映前に流れていたけれど、クリストファー・ノーランの名前を出すのは誤解を呼びそうだが、それでも物語が夢や過去との行き来をすることで、いまいち前進できてるかわからない結末になるあたり同じ轍を踏んでるんじゃないか。ただそのほうが才気ある作品として見えるのかもしれないが……(前作に続き宇野維正が書いてて何だか納得した)。そこであえて「実は抜け出せてないかも」みたいな終わりにはしない分、マシということか。
あのボートの登場は『セリーヌとジュリーは舟でゆく』のことは意識してるだろうし、最近のセザール賞スピーチにてジュディット・ゴドレーシュも引用した言葉がいっそ終盤にはっきり出てきたら意外とグッと来たかもしれないが、そういうことはしない低体温の映画だった。

レニー・ハーリン『ブリックレイヤー』

レニー・ハーリン『ブリックレイヤー』を見る。
仕事が忙しくなると「映画なんか見てる場合じゃない」と大半は後回しになるのに見てしまった。最終的には「見てる場合じゃない」映画かもしれないが悪くない。いや、本当はもっと良くも悪くも今つくられている映画を見なくてはいけない。そうしなければ、この映画が本当のところどのような位置づけにあるのかわからないままか。
元CIAがレンガ職人として活躍する序盤の『クリフハンガー』的な殺し合いに興奮。高い所と痛い所には目が行ってしまう(できればこの設定をさらに活かしてほしいが、忘れたように終盤の掛け合いで拾うのに心ほだされる)。というか相変わらず一々残忍である。特にクラブで敵を次々殴る場面のカメラの動きはブレブレなのに不思議と軸のある感じ(相手の方から次々向かってくる)がよくて、どこか間が抜けた応酬もあって面白い。俯瞰や複数人のショットを入れるテンポのよさ。犬アレルギーも気が効いてるような(なぜ犬がいないのにくしゃみが出たのだろうか)。どれほど真剣に見るべきかわからない物語で裏切りの繰り返しだが、最終的にはかつての友人、恋人とのやり取りが流れるように油断して見ていると不意にグッとくる。マイルス・デイヴィスも単にそれっぽいだけといえばそれまでだが良い。胡散臭い金の流れで、仕事だからと本当に撮りたい題材かわからない、彼の映画は全肯定できるわけもないが見続けるだろう。

フィリップ・ガレル『ある人形使い一家の肖像』

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ルイ・ガレルウディ・アレンの映画に出演したからと結びつけるのは短絡的だが、近作でのモノローグを用いながら男女関係の顛末を語るスタイルがアレンとガレルを意外と近づけているかもしれない(それ以上に異なる面を意識するべきだろうか)。それはともかく、やはり本作は良い映画に違いない。母の棺の十字架を外すような細部に宿る良さもあるが、振り返ればいかにもガレルでしかない要素が詰め込まれているのに、しかしガレルでなくても構わないことを見ているような印象が近寄りやすい近作の中でも、特に感動的な映画だった。凡庸な監督なら手持ちを使うだろう演出でもカメラ位置は定まり、客席の子供たちにはガレルの映画だからだろうかけがえのなさがある。終盤の、それでも前進あるのみといった各々が映されるアップにも素直に感動した。嵐の異様さのような逸脱もある。もしかするとキャリア終盤に操り人形の話が出るのは五所平之助アンソニー・マンに通じるかもしれないが、あくまで本作は舞台の下から腕を上げて動かす手人形であって、その方向は上下逆になり、肉体に与える負担も異なるのだろう。この人形使いという点が映画や演劇を舞台にした時以上に、肉体的疲労と死が結びついて見える。

・国アカにて沖山秀子脚本・監督『グレープフルーツのような女』。序盤の雪山でのパンから何を見せられているんだと困惑するが、だんだんとヘンテコなエロ映画というより、役者の監督作として興味深くなってくる。彼が海外へ立つことが決まって、一人で我慢ならなくなってからがいい。手紙を読み終わっての独り言とかわざとらしいのだがたまらない。望まない暴力的なセックスをさせられるヒロインの眼つきなどリアクションが生々しい。ライブ終わりの飲み会でしつこく彼を口説こうとするバンギャル(?)とか騒々しい。結末が意外と爽やか。
続けて見た珠瑠美『熟女スワップ若妻レズ』は題名通りのパートナー交換モノで熟女と若妻の二刀流みたいな紛れもない怪作で、沖山秀子の記憶がだいぶ薄れた。かなり頻繁にシェーンベルクらしき音楽が流れ(教養ないから音楽の確信もてず)まさしく不協和音というか、特に序盤の唐突に自分語りを珠瑠美が始めてトラックインしだすタイミングで流れるとストローブ=ユイレか?とツッコミたくなるくらいバカバカしい(撮影は『愛のコリーダ』など伊東英男)。部屋住みさせてる元バニーガールから逢引している恋人を奪う場面での、画面奥のベッドで行為に励む二人に対して後ろ姿のままの珠瑠美が衣類を脱いでいくのに合わせて盛大に不協和音が奏でられ、さらに珠瑠美をフルサイズで横から捉えたカットから彼女が背後のソファへ後退する歩みに合わせての横移動が妙に印象深くて、それから彼へ向かって「いらっしゃい」と股を開いて誘惑のポーズをとるアップも相当力強い。そこから不意にコマが飛んで、なぜだか様々な展開に???マークが脳裏を飛びまくるうちに、4P中のヒロイン二人の接吻直後にエンドマーク。エラいもの見た。

 

・国アカにて『よみがえれカレーズ』(熊谷博子、土本典昭、アブドゥル・ラティーフ)と『映画をつくる女性たち』(熊谷博子)。
『よみがえれカレーズ』は『パルチザン前史』より踏み込んだ戦闘訓練のシーンがあって、少年に「銃が弓で、弾が矢と思え」と伝えながら狙撃訓練をするところなど「ここまで撮るか」と驚く。また難民たちが遠景から歩いてくるカットも「こんな画が撮れたのか」という興奮がある。意外と見ていて楽しい農耕、牧畜、工作の場面も多く、藁をまとめて驢馬に乗せる画なんか、こんなに藁というのは身体全体をまるめて大きな量を束ねて、それを驢馬の3倍くらいありそうな大きさで乗せるのかと面白い。また祈りの仕草が身体を何度も揺らすリズムは画に無意味なようでたくさんの動きを入れる。同時に性差の問題は避けられないが、問われはしても答えは一面的には描かれない。そんなフワフワ見ていると不意にショッキングな爆殺された死体と、そのちぎれた手をシートの下にしまうカットに(いまだやまないパレスチナでの虐殺を伝える動画が流れる今でも)動揺し、周りの警官らのカメラを向けられても目をこちらに向けたくないといった顔が印象に残る。
熊谷博子の『映画をつくる女たち』に自作の話として『よみがえれカレーズ』は出てきても(協力に土本の名はあっても)土本に対する言及はない。『映画をつくる女たち』は羽田澄子の「感じた人が動かなければいけない」といった言葉が忘れがたい。宮城まり子の映画はかなり濃さそうで見るのが怖い。『挑戦』(「東洋の魔女」のドキュメンタリー)の渋谷昶子が現場で受けたスタッフからの苛めに近い扱いは酷い話だが、一方で「そうしたスタッフたちも撮っている彼女たちを見るうちに変わる」「嫌なことだらけだが洗濯などして気を晴らすしかない」といった話をする姿には作家としての毅然とした強さが伝わる。『黒い雨』の製作、飯野久の「約束手形」を切る話もかなり面白かった。

『女課長の生下着 あなたを絞りたい』(監督:鎮西尚一 脚本:井川耕一郎)

鎮西尚一監督のフィルム上映に駆けつけないわけにはいかないと『女課長の生下着 あなたを絞りたい』を見にラピュタ阿佐ヶ谷へ久々に行く。冴島奈緒の役名は「小泉京子」、クレジットには「小沢健三」という役者の名前に94年らしさを感じる。
舞台はほぼ窓際を中心に、そこで開け放たれた窓から吹く風にあたる冴島奈緒の、仕事に対し全くやる気なさげに机に伏して寝る姿の爽やかさも、または横たわった裸体も、フィルムで見ると肌の色がより生々しく、それを目に焼きつけるだけで充分という気がしてくる。ブーツ姿で、どこかたどたどしくも恥じらいなく歩いてくる冴島奈緒のフルサイズの足元に惹かれていくと、直後に滑稽な階段落ちが待っていて、そこで彼女の転倒そのものは見ていないけれど、倒れた彼女自体を見ようとする、こちらの欲望が彼女を決して捉えきれないからこそ更に映画の魅力も増していく。フェティッシュであるよりも、多くをこだわらない素振りに過剰さの魅力がある鎮西尚一監督の素質と、井川耕一郎脚本の組み合わせが、こちらのことなど構わず先へ先へ抜けていく風のような在り方が清々しく、常にこうありたいとさえ思う映画になる。当時であっても影響下にあるのは明らかなゴダールの、今なら『奇妙な戦争』の、もう観客には会うことのできない白い壁に貼られたヒロインの像でも見るしかない、先を行かれてしまった感覚。またはサッシャ・ギトリの、いくら繰り返されても失われない爽やかさ。決して予算がかけられたわけでもない簡素な舞台と、そこから発せられる最大限の豊かさ。たとえばスタンバーグ『ジェットパイロット』のジャネット・リーが制服を脱ぐ間にジェット音が重なるときのような、いやらしく性的であっても、それが吹き抜けていくような感覚が、何分の1の規模であっても成し遂げられている。それさえあればいい。
冴島奈緒が自転車の後部座席に男を乗せて川沿いを走るロングショットが、その相手を変えつつ印象に残る。冒頭に連れられてきた、川へ飛び込む寸前を彼女に救われたという青年が冴島奈緒との性交を経て、体液だけを残し消える。既に溺死した霊との性交という解釈を残すのが実に井川耕一郎らしく、または『雨月物語』的な意味での儚さもある。一方で「かわいい下着が本当はいいけれど、シミとか匂いとか好きな変態が多いのよね」と自転車に乗って颯爽と、というよりガタガタ揺れながら地面の存在を意識させるように冴島奈緒は去っていく。シミや匂いのこびりつくしつこささえ、ここでは誰も座っていない椅子に対して、ただ変わらずカーテン越しに風が吹いているのを見るような、今はないものの痕跡として愛おしく、いわゆる風通しの良さと同一化する。サドルの匂いを嗅ぐ仕草さえ滑稽なお辞儀の挨拶に見えて、馬鹿々々しく猥雑であっても、もはや恥じらいはなく何も気にしない。
寝ている時の、もしくは登場人物に対して以上に、こちらへ目を向けている冴島奈緒へのトラックインまたはズームの、やる気があるのかわからないがやるとなったらやるしかない、そうした佇まいが何かを注視させるのとは異なる印象に繋がる。ただ冴島奈緒のアップを見るだけで価値がある映画かもしれないが、彼女へ寄っていく画に押しつけがましさはない。彼女の存在も風や水と変わらず自然のように吹いてきて染みこんでくる。そうした存在が画の順序の記憶が朧げになるほど唐突に入ってきて忘れがたいものになる。

サッシャ・ギトリ『トア』

劇中にてギトリは「政治には関心がない」「政治より演劇のほうが大事だ」と言うが、「政治も演劇も役者が交代していくのに変わりはない」と続き、「政治は演劇と同じだ」と話題に区切りをつける。作品全体の中で言えば脇道へ逸れたに等しいが、このような台詞を作中に盛り込むことの政治性を理解した上での脱線だろう。
『ある正直者の人生』冒頭の台詞ではないが、本作も倹約精神のためか、主な舞台のギトリ邸セットに扉の外は映されず、すべて居間で展開される。また自宅での出来事を元に書いた演劇の上演される舞台も同じセットに見えるが(セットの一人二役?)、その違いは「第四の壁」になる。
今作にギトリの前口上やモノローグはない。それでも冒頭、扉の外で行われる夫婦喧嘩は一切映されず音だけで、そこで使用人が聞きながら観客がいる前提の独り言を発していて、早くも本作の(というよりギトリの一貫した)「人は誰でも演じる」(扉の外で聞き耳を立てているときほど不意に向こうから呼ばれたら、わざとらしく離れから走ってきたかのように遅れたふりをする、使用人も演技はやめられない。政治≒演劇、人生≒演劇、つまり人生≒政治?)といったテーマは意識させられる。ギトリは扉を出入りするものの、おそらく扉の向こう側にいるはずの喧嘩相手のラナ・マルコーニは第一場面の間、一切姿を見せない。このセットに観客席はなく、八歩分の空間の先には壁があるのは切り返されてわかるが、同時にスタジオらしく天井は見えないくらい高い。電話はかければ大抵通じる。
映画の場面が、上演された舞台へ移るタイミングで、劇場入口のロケーションのカットが挟まれ、カーテンをめくってギトリが客席へ挨拶のために姿を見せる(このあたり本当にカラックスへのギトリの影響の大きさを知る)。そのセット上とは異なる画の外気に触れて見える生々しさに対して、客席にて初めて姿を現したラナ・マルコーニとの過剰なほどカットバックの続く応酬が始まる。彼女は演じる側としてではなく、観る側として出演し、見聞きしたことに対し芝居が進まないほど、何か言うのをやめられない。見るのが苦痛どころか、いつまでもこのままで構わないほど面白いが、そこにカサヴェテスや、はたまたウォーホル&モリセイの作品に通じる、失敗する上演の先行きの見えなさがある(ジャック・ロジエ『フィフィ・マルタンガル』の「冒険」?)。警察によってラナ・マルコーニが追い出されて、ギトリは本作で初めて舞台上の共演者に向けて囁き声を発する。そして自ら書いたはずの台詞を忘れ、プロンプターの声がどこから聞こえてくるかわからなくなるほど過剰に音に敏感になる(ラナ・マルコーニから呼び鈴と電話の混同を招くような野次を受けたのが引き金に違いない)。そして客席は足元から照らすライトにより暗く見えず、そこにラナの姿を探そうとしているかもしれない、舞台上にいても心ここに非ずなギトリに『あなたの目になりたい』の盲目を連想する。すべてが書かれたものなのに、一つ一つへの反応の繊細さが増していくようだ。
舞台上のギトリに向かって「事実に反する」(大意)という妻に対して、ギトリは「誰も事実を見ることはできないから想像力を用いる」と返す。ハプニングも、台詞を忘れることも、電話をかけたのに繋がらないことも(このあたり何だかんだ『バービー』が近いのか)、ギトリにとって窮地ではなく、どのような嵐があろうと最終的にはギトリの筋書き通りに事は運び、どんな人生のハプニングよりも、演じられることに関心がある(これがギトリによる「政治」?)。無論それがどこまでもこちらの先を行くギトリの驚異であって、数あるギトリの監督・主演作の中でも特に自作自演という点が前面化している一本かもしれない。