「人を救いたい」と思う人へ。

あなたは人を殺めてしまう覚悟がありますか?

 

のっけから挑発的な書き出しをしてしまいました。ごめんなさい。

 

「〇〇な人を救いたい」という言葉はそれほど珍しいものではなく、また別にそれ自体糾弾されるものではありません。
ですがこの「救う」という行為には「救おうとした結果殺してしまう」というリスクがあります。

 

ここで救うの定義を見てみましょう。

"すく‐う
すくふ 【救う】
《五他》あぶない状態、苦しい状態、悪い環境、貧しい境遇などにある者に力を貸し、そこからのがれるように助ける。"
(2018/3/18時点Google検索によるもの)

概ね皆様の想像している通りの定義だと思います。
崖から落ちそうな危ない状態から救う、危篤状態から患者を救う、奴隷商から救い出す、貧者を経済政策で救う。割とすぐに思いつく事例ですね。

 

「救う」という行為は少なからず快感を伴います。
これはおそらく人類にプリインストールされてるものだと感覚だと思います。
そうでなくても「誰かを救いたい」と願う心は体を強く動かします。火事場の馬鹿力エピソードなどは特にそうでしょう。

 

昔親友の家へ自殺を止めに走った時の頭と体の冴え渡り方ったら。
友達の希死念慮を抑えるために大規模なイベントを企画したときのスムーズさといったら。

 

しかし救うという行為には必ずリスクが伴います。
救いたいと思っている対象を、逆に追い詰めたり殺してしまったりするリスクです。

 

崖から救うにあたっては手を滑らせて落としてしまうかもしれません。
危篤状態の患者を手術したら容態がさらに悪化してしまうかもしれません。
経済政策を打ったらさらに貧困が加速するかもしれません。

上記私の個人的な事例でも、家に走ることによって事態を悪化させてたかもしれませんし(親友の自殺企図の原因が私だったら?)、イベントが失敗に終わることによって友人の希死念慮はよりひどくなったかもしれません。

 

ノーリスクで救うことができる相手などいないのです*1

 

そこで改めて問いたいのです。
「人を救いたいというあなた。あなたには人を殺めてしまう覚悟はありますか?」
「人を救おうと動いて、その逆の結果が起きたとき、あなたはその結果を受け入れられますか?」

 

ここでいう「人」が具体的な誰か一人のことなら、「そんなことは気にしてられない」で済みます(執刀医がイチイチ「もし殺しちゃったらどうしよう…」なんて考えてたら外科手術はできません)。

 

でももしその対象が数多くの人たちだったら。
「よかれと思ってやったこと」も試行回数が増えれば逆の結果をもたらしやすくなります。
大きなことを為そうとすればするほど逆の結果に遭遇する場面は増えます。
殺めてしまう可能性を無視してた場合、実際その場面に遭遇した時には心折れてしまう可能性は高くなるでしょう。

 

「人を救いたい」という気持ちは人を盲目にします(だからこそ馬鹿力が出せます)。
その情熱は冒頭の問いではきっと折れないでしょう。
ムッとした人もいるかもしれません。
けれども大事なのは「救いたいという願い」を完遂することだと思います。

 

どうかその目的に沿った行動ができますよう。

*1:無論、主観的にノーリスクに感じられる相手はいます。
例1:生きようが死のうがどうでもいい人。「どこにあるかもわからない国の、いるかもわからない恵まれない子供たち」なんかは主観的にノーリスクです。だって死んでも見えませんからね。
例2:結果的に誰かのせいにできる相手。「国が悪い、他の活動家が悪い、と言ってればいいや」と思ってればノーリスクです。そいつらのせいにすることによって団結力が高まればリスクどころかむしろプラスかもしれません。(※)。

恋愛懺悔①

自分を尊重してくれる人を自ら突き放してしまったお話。

 

高校生の頃、ブログを通じて彼女ができました。

オフで出会った時に、向こうから告白されて、付き合うこととなりました。

私にとっては初めての恋人だったので、とても嬉しくて、付き合ってる間は毎日のように連絡を取っていました。

とにかく私は「良い彼氏」でなくてはならないと思い、日々「モテるためのハウツー本」を読んで勉強し、毎日のように好きとメールを送っていました。

相手は相手で、私の考え方や書いた文章を尊重してくれる子で、男子校で揉まれてまるで垢抜けない私のことを「かっこいい」と言ってくれました。

 

けれど私は、相手が私の考えを、文章を尊重してくれることを、私のことをよく評価してくれることを、心からは信じられずにいました。

「自分が恋人としての役割をしっかりと果たさなければ、この人は私のことを好きではなくなる」と信じていたのかもしれません。

だから私は、恋人としての役割を全うしようと、半ば強迫的に努力をしていました。

 

彼女の創作、趣味、考え方が理解できないと、「理解できない自分は、恋人として充分な資格がない」と思って苦しみました。

彼女からのメールに、すぐに返信することができないと、罪悪感を覚えていました。

もちろん、彼女は私に趣味や考え方を強要したことなどありません。メールの返信が遅れてもそれほど気にしてはいない様子だったと思います。

けれども私は「相手を充分に理解できない自分」「相手へすぐに反応を返せない自分」であることが苦しくて仕方ありませんでした。「恋人としての役割」を果たせなかったことによって、見放されてしまうことが恐ろしくて。

 

私が考える「恋人としての役割」などというものを彼女は望んでいなかったと思います。

私は、自分で自分を勝手に縛って、勝手に苦しんでいただけです。

 

彼女がいない生活が忙しくなり、だんだんと彼女と連絡を取ることが少なくなってきたとき、私は「自分には恋人としての資格がない」と思うことの苦しみに耐えられなくなり、彼女に別れを告げました。

しばらくは彼女も復縁をしたい旨伝えてきましたが、私は取り合いませんでした。

彼女が何かをしたわけではありません。私の気持ちが冷めたわけでもありません。ただ、「ちゃんとしてない自分」に私が耐えられなくなっただけです。

 

その後、つい彼女のTwitterを、耐えきれず見てしまったとき、こんなようなことが書いてありました。

「私は、悩みを聞ける存在でいたかった。忙しい生活を支えたかった」

 

それを見て私は、とても後悔しました。

私を尊重し、支えようとしてくれる相手を、私は手放したんだ、と。

そして相手の気持ちを慮れなかったことに、深い罪悪感を覚えました。

 

当時の私からすれば、こうした考えになるのは仕方のないことだと、今思い返せば思います。仮に自ら手放すことがなかったとしても、何らかの形で別れは訪れていたかもしれません。

けれども私はその当時の罪悪感を、何年も引きずりました。

「自分が怖がっていることを相手にちゃんと伝えられれば、自分の苦しみをわかってもらう努力をすれば、何か違う道があったのではないか」と。

 

今更何を言っても、自分が傷つくのを避けるために、彼女を深く傷つけてしまった事実は変わりません。

それは過去のことで、どうしようもないことです。

でも、もしまた会えたら、今度はちゃんと、お礼をいいたいと思います。

 

「大事にしてくれて、ありがとう」と。

人の本当の面白さはネットでは分からない

私はしばしばオフ会に参加するのだけれど、そこでよく聞くのが「○○さん思ったより面白かった/面白くなかった」「○○さんがこんな人だとは思わなかった」といったセリフだった。その人がオフ会に参加するときにそこで何を期待しているかにもそれは依ると思うのだが、しかしながらそういった期待みたいなものはオフ会の醍醐味でもある。

 

期待が満たされないと皆ガッカリするし、時にはその相手を攻撃もする。

その逆に期待以上であればその人の身の丈以上にその人のことを褒めそやすこともあるだろう。

そこらへんの期待値のブレが評価のブレに繋がるのは仕方ないだろう。

 

まあそこはどうでもいいんだ。

 

私が本当に面白いな、と思うものは人と人との交わりであり、その交わりの中で現れる人の人間性である。もっというのなら、音楽のライブ感やライブでのその人の振る舞いとも言えるかも知れない。

目の前で流れている空気、会話のレスポンス、熱気、新しい発想を得られたときの喜び、時には恋心や嫌悪感。そういったものが場に生まれ、何かまた新しいものを起こし、消えていく流れが、そしてそれを作り出している人がとても好きだ。

自分のアクションが相手のアクションを起こし、また相手のアクションに影響され自分が新しい行動をする。次に何が起こるか、ある程度予想できつつ、けれども完全には予想出来ない。そういったセッションのような感覚が私にとっては「本当に面白い」。

 

残念ながら私はネット経由ではそのライブ感は得られない。

相互作用的な発信に見えたとしても、個々人は発信のときに少なくとも内側に籠っており、ライブのときのような、相手のリアルタイムの反応ありきのアクションを起こすことは出来ない。

勿論私にとってインターネットは自分のクソみたいな自意識を垂れ流す場所であり、とても大切な場所である。多くの人にとってもきっとそうであるだろうし、誰にでもある程度そうした自分にとっての掃き溜めや殴り掛かれるワラ人形たちは必要だろう。

けれど現実世界で論争を展開したときの空気と、インターネットを挟んで議論を交わす空気は違う。

卑近な例で言えば甘い言葉をLINEで囁くのと、目の前で愛の告白をするのとでは雲泥の差だ(私は前者は断られたら非常に気まずい思いをするが後者にはどんな反応が返って来ても「面白い」と思う)。

 

インターネット上の関係だって私は非常に尊いものだと思う。

そこで得られた関係に救われたことも、高められたことも、たくさんあった。

 

けれどもやっぱりそれはライブではない。

そのことだけはどうしても代替出来ない。

インターネットに何年もどぷどぷと漬かってても、その「面白さ」だけは、どうにも作り出せなかった。

 

でも、仲良くしてね。

いつかどこかで一緒にライブが出来ますように。

良い習慣が続かないなら、自己嫌悪をする前に。

一人暮らしを始めて大体2ヶ月くらいになる。そんな中で思うのは「環境が習慣を作る」ということだ。

 

一番に目につくところに酒を置いておけば、晩酌の回数は増える。座りやすいところに机と椅子を置いておけば、机に向かう時間は長くなる(そのとき近くに置いてあるものがTwitterの画面が開かれたパソコンなら時間はTwitterに吸い取られる)。

 

私は最近自炊をしている。褒められたものでもなんでもないが、今までその習慣を私はあまり持っていなかった。そんな中で、一番大事にしなければならない、と自分で思っていたのは「料理をしよう」という気持ちを挫かないための環境づくりだ。手の届きやすいところに頻繁に使う道具を置く。食卓からコンロまでの導線を確保する。やっているのはそういう細々としたことだが、そうした環境を整えてからは自炊をすることが苦でなくなった。

 

動作から動作へ、パッと動くことが出来れば、そのスムーズな動きそのものが快感になってくるから、習慣にもなりやすい。逆に、パッと手の届くところにお酒やお菓子があれば、間違いなく自分は常用してしまうだろう(そのことに気付いてから私はインスタントラーメンを買わなくなった)。

 

新しい習慣を作り出すには、意志の力だけでなく、環境の力に頼ることも大事だ。

良い習慣が続かず悩んでる人は、自分の周りの環境を、その習慣にとって都合がいいように、少しずつでも変えてみてはどうだろうか。

もしかしたら、何か突破口が開けるかも知れない。

自分と向き合うということについて

「自分と向き合う」ことって、そんなに大事なことだろうか?と最近よく考える。

 

確かに自分のことを客観的に見ることで得られるものは大きい。

自分が何が出来ていないかが分かれば、改善して仕事に役立てることも出来る。性的対象からどう見られてるかが分かれば、モテるために自分の振舞いを変えることも出来る。

 

けれどもそれは本当にその人にとってプラスなことだろうか。

自分のことが盲目的に好きな人間が「自分はこういう人間だ」「自分は人から見るとこうだ」と言っている様子は、なんだか滑稽で嘘くさくも思える。

一方で、自分自身のことを嫌っている人間が自分と向き合って得られるモノは、「お前はこういうところがダメなんだよ」という更なる自己嫌悪であり、痛々しい。

 

自分のことを盲目的に好きな人間も、嫌っている人間も、「自分と向き合う」という行為はあまり薬にはならないように思う。

それは「自分は」「自分が」と自意識を肥大化させる可能性を秘めている。

なまじ世間的には上手くいくようになるから、そのことに気付くのも難しい。

そうして自分と向き合った結果、自意識中毒とでも言うべき状態に陥っていく。

 

自意識中毒にならないためには何をすればいいのか?

 

そのために大事なことが、「自分の内側の声を聞く」ということだと思う。

自分自身が求めているものを聞く。自分がどうなりたいのか、何をイヤだと思っているのか、そういったものを聞く。

否定せず、バカにせず、自分自身の声を、一生懸命身振り手振りを使って話す小さな子どもと対峙するように、聞く。

自己陶酔や自己嫌悪といったナルシズムに基づいた行動ではなく、自分の声を聞くという形で自己受容をするのが、自意識を拗らせない上で非常に大事なことだ。

 

「自分と向き合おう」とするとどうしても自分を甘やかしすぎたり、傷つけたりする人は、向き合おうとするのではなくて、自分の声を聞いてみてはどうだろうか。

気付かなかっただけで、実は必死にあなたはあなたに語りかけているかも知れない。

「もう『心配されない存在』でいようとしなくていい」

新入社員である私は、よく先輩にこう言われる。

「お前は本当に分かってなくても『わかりました!』って言うよな」

合理的に考えれば、わかってもいないことをわかったフリをすることは不都合だ。ましてや「新卒」というカードをこちらが持っている以上、「期待を裏切られた」と相手が思うことも少ない。むしろ「わかっていてもわかっていないフリをする」くらいが(先輩に可愛がられやすいという点でも)一番得られる物が大きい。

 

なのに何故私は分かったフリをしてしまうのだろうか。

いくつか思いつくが、「人に迷惑をかけてはいけない」「心配される存在であってはいけない」という信念を持っているから、という可能性が高そうだ。

私は三人兄弟の一番上で、家全体の状況について、ずっと気を配っていた。弟と妹は反抗期が長く、しょっちゅう親と揉めていた。私は、そこに入る訳にもいかないから、いつも部屋で大人しくしていた。「あなたは大人しいよね」「(勉強等について)何の心配もしてないよ」という言葉を受けながら生活をしていた。だからきっと、「心配をかけないように生活する」ということが行動指針になっていたのだと思う。

人に迷惑をかけてはいけない、失望をさせてはいけない。そう考えれば必然的に口数は少なくなり、物わかりの良いフリをするしかなくなる。

全てを家庭環境のせいにするわけではないが、こういったバックグラウンドがあるため、この考えそのものはとてもしっくりとくる。

 

この今回指摘された「なんでもわかったフリをする」をABC理論に当てはめると

A.出来事:「相手のリアクションがある」

B.信念:「自分はこれ以上迷惑をかけてはいけない」

C.結果:「すぐに話を切り上げようとする」

といったところだろうか。

「迷惑をかけてはいけない」「自分が話してる時間は相手にとって迷惑だ」と思ってるのに相手の時間を取って話を続けることは苦痛だ。だから結果だけを変えようとするのはとても難しい。

Bに対する反論だけならば実は簡単だ。「迷惑をかけるのが仕事だ」と反論さえすればいい。でも今回、自分に対してもっと何か優しい言葉を、肯定の言葉をかけられないかと思って、別の言葉を探してみた。そしたら、すぐにふと浮かぶように、見つかった。

 

「もう『心配されない存在』でいようとしなくていい」

 

この言葉を自分に語りかけたとき、私は身体が、急に軽くなるのを感じた(同時に、職場のデスクにいるにも関わらず泣きそうになって大変困った)。「これが自分が欲しかった言葉なんだ」と、そう思えた。

人と繋がり続ける方法を他に知らないから、周りに心配をかけまいと気を配り、用意周到に振る舞おうとする自分。それは確かに人の役に立つこともあったかも知れないけれども、痛々しい努力だ。

 

誰かに心配をかけても私は人と繋がれる。繋がれていることを感謝する方が、その感謝を伝える方が、心配されないように気を配るより、遥かに大事だった。

仕事も人と繋がるための一手段である以上、心配はかけて当たり前。大事なのは自分の役割を、しっかりと全うすること。そうすれば、自然と繋がりは作られてくる。

 

誕生日にもらった、「たまには心配させてね」という言葉。

今、改めて見返すと、とても嬉しくて、でもおんなじくらいに申し訳ない気持ちです。

 

「お前心配させすぎだよ!」と突っ込まれるくらいになれたらいいな、と思う。

そんな感じで自意識過剰なブログのリニューアルです。