実践者としての私は、終わったのだ。
私は自分自身が実践者として終わったのだと強く感じている。これはネガティブな感情ではない。
私は、実践者として自分の能力でやれるだけのことはやったと思っている。私は一流の実践者にはなれなかった。そんな才覚は無い。
一方で、アクティブラーニング系の授業・『学び合い』実践者としては、自分の能力以上の評価をしてもらったと思っている。
国語、算数、理科、社会の授業で言えば、私がほぼしゃべらなくても、教科書の内容以上の学習ができるクラスを育てる事はそれほど難しくなかった。体育でも準備運動から用具の準備、片付けまで、私が一言もしゃべることなく、授業が進むような授業をしてきた。最も苦手な音楽だって、子どもたちが楽器を分担して伴奏したり、合奏したり、合唱歌したり、発表したりするような授業をしてきた。まあ、授業については、それなりにやってきた。
あとは、自分たちで評価を出すとか、課題作りに取り組むとか、もうちょっとやってみたかったこともあるけれど、でもやれなかったと言うよりも、それほど興味を惹かれなかったとも言い換えられる。
また、ここ数年は、荒れたクラスの対応についてもずっと考えてきた。これについても、2000年前後の学級崩壊と、最近の学級崩壊の違いもあらかた見えたし、自分が対応するだけじゃなくて、他の先生がどう対応すればいいのかと言うのも見えた。数人が荒れているクラスと学級全体としての荒れの違いも、はっきりとわかった。
そして、私は管理職になった。
なろうと思ったのは、自分がこれ以上は実践者としての伸びしろがないと感じたからだ。そして、実践者として力を伸ばすことに興味を持てなくなったからだ。
伸びしろがないから、興味がなくなったのか、興味がなくなったから伸びしろを失ったのかはわからない。
でも、昨今の学校を取り巻く現状を変え、目の前の子どもたちを幸せにするには、実践者としての腕を磨き続けるだけでは足りないと強く感じている。そして、少なくとも学校を(2、3年ではなく)10年単位で関わり続けるような、そんな立場になるしかないと思ったのも事実だ。
運も味方して、私は今後やる気と能力の問題さえクリアできれば、1つの学校を20年近く経営することもできなくは無い立場に立った。もちろんそれをやりきれるかどうか、そして周囲が許してくれるかどうかは別問題だけど。
そうなると興味関心の対象が、今までと全くもって異なってしまった。
と言うことで、私は実践者としてはもうおしまいだ。これからは全く違う人間として仕事をしていくことになるだろう。
思い立ったらすぐに行動しないと我慢できない性格なので、とりあえずFacebookのアカウントを消した。Facebookでの活動は、実践者としての私の象徴だと感じたからだ。
今まで、実践者としての私を支えてくださった皆さんや、私の授業に多大なる影響与えて下さった皆さんに、心の底から感謝したい。
本当にありがとうございました。
note始めました
ずっと放置してしまっているこのブログ。
でも、時々覗きに来てくださっている方もいらっしゃるようです。
申し訳ありません。
書きたいことは多いのですが、Twitterやブログには書きにくいなあということも多くなってしまいました。
そのため、noteを始めました。
書き続けることができたら、有料化も考えています。というのも、やっぱり「無料」の情報は「無料」のものとして扱われることに、ちょっと苦しくなっているからです。お金が欲しいわけじゃありません。そうじゃなく、ちゃんと読んでもらえないことが苦しいのです。(この苦しさは、ブログよりもTwitterの方が大きいですけれど)
ですが、続くかどうか分からないので、とりあえずは無料公開です。
週に2回くらいの更新を続けたいなあ。
緻密というより窮屈
算数の教科書を見ていたら、「スモールステップ」の細かさに苦しくなった。
つまずかないように、迷わないように。ていねいに指導事項が整理され、学べるように緻密に作られた階段。最近の私は、それがどうにも苦しい。
それらは、どれを見てもとてもよく考えられた並びだ。ある程度の人数の子は、この並びで学ぶことができるだろう。でも、それは「どの程度」の人数だろうか。
ここには、踊り場がない。ちょっと休む場、ちょっと立ち止まる場、荷物を降ろす場がない。つまりは、学び直す場がないのだ。パンパンに積み込まれた学習内容を時間内に終わらせるために、一直線に並べられたもの。子供たちはそれを順に学んでいく。
整然と正しく並べられた問題を、正しい速度で、正しい順序で学んでいく正しい子どもが、さて、どれくらいいるのだろうか。緻密になればなるほど、その流れに乗れなかった子は、途中から混ざることも、追いつくことも難しくなっていかないだろうか。
どこかでつまずいたら、あとは学べない。
一段飛ばしで駆け上がることも許されない。
そんな縛りの強さを感じてしまう。
それが苦しさの原因だろう。
「優れているつもりの教員」は、「子供が喜んでその階段を上っている」と勘違いしている。一人一人の違いが見えていない。苦しんでいる子が見えない。かつての私だ。
山道は、登ったり下りたり曲がったりするものだ。頂上まで一直線の山道などありはしない。
同じように、学習だって、一直線に分かるわけじゃない。分からない、できないと、分かった、できたを繰り返す。それが自然だろう。その繰り返しの中で「ああ、そうか」となっていく姿を、何度も見てきた。そういう学び、それが可能な授業や学校を私は目指したい。
けれど、分からない、できない子がいると、「これは〇〇についての指導が不足していることが原因だ」とさらにステップが増やされるのが最近の風潮ではないだろうか。もっと丁寧に、もっと緻密に。そして、窮屈になる。
それは、世の中の問題もあるだろうけれど、でも、耐えられない教員が多いことも原因なんだと思っている。子供たちの「分からない・できない」を受け止められないのだ。ま、受け止めるって、辛いもんねえ。。。