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するめ

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ウチの子にかぎって。

職場のパートさんが、子ども(高二)の学校から呼び出しをくらったので休ませてほしいと。

後で顛末を聞いたら  

 『無期停学になった』

今どきは何をしたら無期停学になるのだろうー?

『ネットでいじめをしたんだって!』

あらら。まずは本当かどうか、確かめないとね。そしてもし本当ならどんなことをなぜしたのか冷静に聞いてみないと

『なんで!?たいしたことじゃないでしょ』

おおっと。そもそも学校で、先生にどういう話をきいたの


『知らない。私そっぽ向いてたし』

・・・?うわー。そっぽて。親が。先生困っただろうなあ。

ただの停学じゃないってことは他に何かあったんでは?

『ウチの子が首謀者だっていうのよ』

本当に首謀者なのかどうか当人に聞いた?

『そんわけないもの!ウチの子にそんなこと出来るわけない。
第一ウチの子だけじゃないのに。どうしてウチの子だけがあんなに言われなきゃならないの!』


うーん。素でこのセリフを言う人がいたとは。
そしてそれが身近にいたとは。
「何を言ってもムダ」感におそわれてクチをつぐみました。


きっと日本中で同じことがあるんだろう。
# by machonatu | 2015-09-12 18:35 | はみだし

境界はいつもあいまい

先日、3歳の幼児がイメージビデオを出すことについてツイッターでいろいろ流れていました。
いったいどういうことだ。3歳に欲情するなんて変態。なんとかやめさせなければ。などなど。
いろんな視点から様々な意見が見られました。
こういう問題はどう考えたらいいのでしょう。

まず、「道徳」と「倫理」の違いを認識しなくてはいけません。
「モラル」と「エチカ」が「道徳」と「倫理」に訳されているのでその通りで進めます。

この場合 親が同意している
       犯罪性がない
だから個人の勝手じゃん?まわりがとやかく言うことではないよね、と思う人は道徳を無視して個人の倫理で考えています。
「かかわった全員が納得していようとも、3歳の子供を性の対象となりうる商品にするなんて間違ってる、というのは道徳的な考えです。
道徳とは本人たちがいくら良くても、それはいけないだろう、という、規範になるものです。

もっと具体的に言うと
女子高生が売春して「誰にも迷惑をかけてないし」と開き直るのは個人の倫理で物を言っています。
「いや、本人がよかろうと同意していようといけないことである」というのは道徳です。

そう考えると。
たとえば同性婚。
私は本人たちが良ければいいじゃないか。したくない人にしろって言ってないし。 と思うのですが、これ道徳を無視してることになるんですよねw
反対派の人たちは道徳を重視してるわけです。

先日来世間をにぎわせてる「婚外子の相続」問題も同じです。
反対派は道徳的に許せない。

と、ネット上で侃侃諤諤とやりあってる話題があるとき、ここに注目すると「あー食い違ってるなー」と思うことがよくあります。
どちらが良い悪い、正しい間違ってるというよりも、視点が違うから言い合ってもかみ合わないまま終わります。
何かを考えるとき、この違いを抑えておくことは、考える上で一つ指針になります。


法律で決まっていれば話は簡単ですが、すり抜ける穴ってのは必ずあるものでして。
法律は道徳寄りでしょうね。個人の倫理、実はエチカと言うのは倫理というよりもっと精神的なものを言います。

たとえば人殺しはいけない。これはモラル。
信仰のために戦争をして人を殺す。これを許すのはエチカ。

さて、3歳のイメージビデオです。
幼児は見ているだけで心が和む存在でもありますが、そのスジの人には性的対象になる場合もあるのでしょう。
しかしこれはイメージビデオです。おかあさんといっしょで流されるような女の子がただ遊んでいる姿を販売したからといって警察は規制の対象には出来ないでしょう。

数の問題、という言い方はつまり普通の商品なら消費者が騒いで大事になればイメージダウンを恐れる企業がすぐに販売をとりやめることが多い、その路線で差し止めを狙いたいということと思われます。
でもこの手の会社がとりやめるとは思えません。

しかし犯罪性がない、法に触れないのであるなら単なるイメージビデオの規制は出来ないしするべきではありません。
一旦規制が出来てしまえばあらゆる作品に適用されてしまうからです。
何を芸術とし、何を低俗とするかの線引きが出来ないからです。
表現者が自由に表現できなくなる悲劇は防がねばなりません。

「作家が書きたいものを書けなくなった時、市井の人はとっくに言いたいことが言えない世の中になっている」

ああ、もちろんこんなのを撮影された女の子には心から同情します。
たぶんお金と引き換えに承諾したであろう親は地獄へ落ちろと軽蔑しますし、かかわった大人すべてを蛇蝎のごとく嫌悪します。

同じく同人誌などの児童ポルノのひどさは、文字通り目を覆うばかり。
若干オタクの遺伝子も持っている私でも吐きそうになるようなストーリーと画で、とても読み進められるものではありませんでした。

それでも表現の自由は守らなければいけないと思います。

今回の場合はあきらかに肌の露出が大きいので、18歳以下の露出割合に関する規制なら出来てもいいと思いますね。

以前、米国に住んでいた友人と海へ行きました。彼女は4歳の男児を連れており、銭函の海で水着に着替えさせました。男の子だし気にせずすっぽんぽんにしながら「これがアメリカだったら私は逮捕w」と笑っていました。
そんな世の中も窮屈そうですが、表現の自由に抵触しない規制ならやりようがあると思います。
子供を守ることはどの国でもどんな世界でも最優先されるべきことだと思っていますから。

しかしそのように性犯罪、とりわけ子供に対する犯罪に対して非常に厳しい米国で犯罪件数が少ないのか?と言ったらそれも・・


斯様に線引きは難しいものでございます。
# by machonatu | 2013-12-05 01:37 | はみだし

旗色不鮮明

デマ。


口伝いに姿を変えながら広がるもの。
伝言ゲームが確実に変化するように、人の噂も必ず姿を変えます。
筒井先生の「デマ」を思い出すわけですがw

都市伝説の類もそうですね。
誰が広めたのかわからない、なのにいつの間にか誰もが知っているものです。
内容が少しずつ違う。

元々の情報はまったく違う、ひとつの真実だったかもしれません。

ささいな「事実」が広がると共に「面白くするために」または「印象深くするために」装飾されていきます。

「何かで読んだ話なんだけど」
「友達が聞いた話なんだけど」「友達の知り合いがね・・」

聞いた話を自分勝手に面白い形に変えて理解し、面白おかしく回りに伝える。
どう広がろうと、変化しようと、自分に痛みは無く責任は感じないのです。



今まではそれで済んでいました。


Twitter恐いですねw

スマホの普及が拍車をかけて、自分の意見を発信する人が爆発的に増えています。
「つぶやき」の気安さから、フォロー数も少ないから、と知ってる人同士の無責任な噂話の感覚で書き込む人が後を断ちません。


書き込んで送信した瞬間、「www」で始まる、ワールドワイドな場所に送られ、世界中の誰でもが見る可能性がある、という自覚がまったく無いまま噂を広げる人たち。
それを素直に信じる人たち。


そして、言葉は残り、「元をたどれる」んですよね。

誰が広めたのか。
誰が尾ひれをつけたのか。
どこの誰が。証拠が残る。


「デマ」だと誰かが叫んだ瞬間、あっという間に誰もが道を逆戻りするかのようにたどり始め、「デマ」らしき情報を広めた人を責める。
責められた人は世界に向けて発信した覚えがないから、大勢に一斉に糾弾されて狼狽し、中にはパニックを起こす人もいます。

そういう事例を眼にし、うろたえる人発言を見るたびに、浅はかだなあと思うと同時に
徹底的に追い込む人たちをおそろしいなあと感じます。



過去の無責任な噂話が良かったというわけではありません。
根も葉もないひどい噂を広げられたこともありますから。


ただ、「デマ」のあり方ひとつとっても、これだけ変わってしまいました。
噂話でさえ、出処を突き止められてしまう息苦しさを感じます。

あいまいではっきりしないものが許されない社会に移行しているような。
ワン・ゼロ。1か0か。



曖昧、あそび、割り切れない、グレー、 な部分をなくならないように祈っています。
# by machonatu | 2012-04-30 16:22 | はみだし

祖父の教え

遺言って、死ぬ間際の言葉とは限らないと思うんですよ。
育つ過程で、共に過ごす過程で、何か残してくれるものがあるはず。


◎ 本は手元にないとだめだ。


私が小学校6年生の頃に祖父から言われた言葉です。
当時読書熱があがり、子供向けの、いわゆる「少年少女文学全集」のようなものは卒業して大人向けの本へ移行しようとしている時です。
「罪と罰」を読んだ(当然意味なんぞわかっちゃいません。読んだだけ)、と話す私に祖父が
「トルストイなら『白痴』は?スタンダールはまだか。次には何を読む?」のような内容の会話があったと記憶しています。
その時に「図書館でこれこれこういうのを借りようと思ってる」と答えた私に祖父が言いました。「図書館?!」

「本は手元におかないとだめだよ」

本でも音楽(当時はレコード)でも、手元において繰り返し何度も咀嚼しないと味わえないよ。
そうしないと本当の教養として身につかないよ。
借り物で得たものは借り物でしかない。



とは言え全部買ってたらお金が続きませんから、お金のない若い頃は図書館から借りまくって読みました。
でも借りるものは「話題になっているからおさえておこうかな」程度のものや、「買うまでもない」と判断した軽いものに限定しました。

今でもこの教えは守っています。
自分のものにするには対価を支払うこと。これだけは。



ただ、元々クリスマスプレゼントはいつも本だったのですが、
この図書館発言以降、お年玉まで図書券に変わってしまったのはありがたいやらつまんないやらでした・・・・・・
# by machonatu | 2012-04-16 17:58 | はみだし

こそこそ話

車を買い換えようと思ってる。

喫茶店でそう一言いうと、オトコノコたちは色めき立ちました。
それぞれが、自分で買うかのように吟味、比較、情報収集と情報交換を始めるのです。
いや、買うの私だから。 そんなことはどうでも良いふうに、勝手にあれがいい、これがいい、と相談しているのです。

今のようにネットの無い時代のことですから、パンフレットを集めてあれこれ比べながらわいわいやるのです。
どうやら比較検討作業そのものを楽しんでいるらしいので、私はぼんやりと眺めていました。


一人が言いました。
「小型車ならファミリアは?」
すると皆が口々に言いました。
「マツダはダメだよ」「マツダはねー」「マツダは故障が多いし燃費もわるいしちょっとねー」

そのとき突然、A君が
「いや!マツダの車も結構いいよ!コスモかっこいいし!!」
皆はこいつ何を言い出すんだ、という顔をして、更にいいつのります。
「マニアの車はいいけどさー普通のはだめでしょ」「そうそう、店も少ないから、故障したら面倒だよ」
A君は張り付いた笑顔を崩さずに、でも目は笑ってない顔でなおも言います。
「いやいや!いいよマツダ!」

様子がおかしいぞ、そう思ってなんとなくあたりを見回すと



カウンターに座っている作業服を着た二人連れの、背中に大きく


「MAZDA」


一瞬だったかそれとも長かったのかわからない間、カウンターの二人の背中は動きません。



全員 「そ、そーだよねいいよねマツダ!!」


ちょっと年長の一人が直接
「すみません、悪気はなかったんですが・・」
マツダの人
「いや、いいですよ。本当のことだしw」

快く(一応)許してくれたものの、気まずさはあります。
似たような経験て誰にでもあると思うのです。
思い出すと自分の失礼さ、配慮のなさに恥ずかしくなるような。


現在、人の悪口を言う、揚げ足をとる、根拠のない批判(正当な論争は除いて)をするという事例が日々ネット上で無数に行われています。
普通なら、面と向かってなら言えないこと、言ってはいけないことを言う。
姿を見せないままで言う。

そこに遠慮も配慮も気まずさも無いことがこわい。
# by machonatu | 2012-04-14 00:06 | はみだし