summer is ready,when you are

Jul 16 2017

バットマンのテーマ

バット振って 振って
バット振って 寝る

母の夢 父の愛
生まれた場所を愛せるひとはいい
うらやましくなんかないけど

海のない街に住んでる君と
お酒を飲んで笑いたい

小田急線で メールを読んだ
なんでここで 人生が終わらない?
人生が終わらない

バット振って 振って
アイス食べて 寝る

いってはいけない ことをいった
わたしはきっと 地獄に落ちるだろう

この街には 行くところがないから
ブックオフで立ち読みしてる
週刊ベースボールのなかの
あなたの真顔をずっと前から
知ってた気がする
知ってた気がする

バット振って 振って
バット振って 寝る

4 notes

Feb 13 2016

とり乱し松野カラ松論

松野カラ松という男に恋をしてしまってつらい。

松野カラ松は、アニメ『おそ松さん』における六つ子のうちのひとり、次男である。
わたしは去年からこの松野カラ松というキャラクターを強烈に好きになってしまい、ことあるごとに松野カラ松のことを考えているという、混乱した状態がずっとつづいている。
わたしは松野カラ松のことが大好きなのに、松野カラ松という男のことがまったくわからないのでつらい。わたしは松野カラ松(以下、カラ松兄さん)のことがとても好きなので、カラ松兄さんのことをわかりたいと思う。でも、わからない。だからつらい。この混乱が、恋でなくてなんだろうか?
わたしはここで、わたしの好きなカラ松兄さんのことを、そしてカラ松兄さんに恋をしているという、「混乱」の状態そのもののことを書いてみたいと思う。

当然のことながらカラ松兄さんはアニメのキャラクターなので、実在しない。混乱のさなかにあっては、「カラ松兄さんが実在しない」という事実ですら自明なものではなくなるわけだけども、ひとまずそれは置いておく。カラ松兄さんに恋をしているということはすなわち、わたしがカラ松兄さんを人格だとか、性格だとか、『おそ松さん』というアニメの背後にカラ松兄さんの人生や生活があってしかるべき、そういった存在感のある「キャラクター」として認識しているということだ。カラ松兄さんという人間や、カラ松兄さんの人生は、『おそ松さん』というテクストに描かれえない、その背後にもたしかに存在している(ように思える)。そうとらえているのだ。

『おそ松さん』のキャラクターということで、まず主人公である松野おそ松(以下、おそ松兄さん)の話をしたい。わたしはおそ松兄さんというキャラクターのことがとても好きで、どこが好きかといえばそのセリフ回しだ。おそ松兄さんのセリフはとても軽妙で、しゃれている。わたしは6話Bパートの、「イヤミ〜、時空を超える馬を選んじゃダメだよ〜」「煮込みバカ!?おれはバカにしても、煮込みはバカにするな!」というおそ松兄さんのセリフがつぼにはまって、「あ、このアニメすごい面白いな」とようやく確信するにいたったのだ。わたしは、おそ松兄さんのことを「おそ松さんというテクストの背後に人生や生活があってしかるべき存在感のあるキャラクター」というふうにはあまり思っていなくて、『おそ松さん』というギャグアニメの主役であり純然たるスター、のようにとらえているところがある。長男であるおそ松兄さんにもきっと彼なりの懊悩があって、そこに「人格」や「性格」あるいは「生活」を読み取るということもできるだろう。そういった「読み」も存在する。でもわたしは、おそ松兄さんに関しては一生全力モラトリアムをやって、イヤミと永遠に、世界の終わりのような場所でドンパチしていてほしい(18話最高だった)。そういうふうに思っているところがある。

つぎに、三男松野チョロ松(以下、チョロ松)をはじめとする4人の弟たちの話をしよう。チョロ松たちは『おそ松くん』が『おそ松さん』としてリメイクされるにあたり、個性を持ってしまったキャラクターだ。わたしが指摘するまでもなく、『おそ松さん』はギャグアニメの形式をとりながら、「家族のままならさ」だとか「人間関係のままならさ」だとか「社会に生きることのままならさ」といった、複雑で重い内容を描いてしまっている。あらゆる要素が、あの三十分のなかに詰め込まれている。だから、刺さるところには刺さるし、それでも形式はあくまで一話完結のギャグアニメなので、特にそういったことは考えずに単純にギャグとして楽しむこともできる。そういった秀逸な構造を持っている。
『おそ松さん』は、「世間一般のホモソーシャルから逸脱した男たちが、兄弟という小規模な世界でホモソーシャルを再構築している」という状態を描いている。第一に、六つ子たちには「ニート」かつ「童貞」であるという全員共通の設定がある。末弟である松野トド松(以下、トド松)は自分たちを「同級生カーストの最下層」と称する。トド松は最下層から抜け出したいと思っている。でも、「うんこな兄弟たち」に邪魔をされて身動きがとれない。金もねえ。女もねえ。大人にはなったけれど、「やることなんも見つかんねえ」。『おそ松さん』は、「男の子いかに生くべきか」という問題に直面した青年たちの物語であるといえる。
チョロ松は、六つ子の中では「唯一の常識人?」というキャラクターで、ギャグアニメの文脈では「ツッコミ」という役割をになっている。チョロ松は「大人なんだから、働かなければならない」と思って就活をしているけれど、いっこうに就職できる気配がない。アイドルオタクであり、「女の子が絡むとポンコツになる」。チョロ松は「自分は男らしさを取り戻さなければならない」と思っているキャラクターであるといえる。四男である松野一松(以下、一松)は一言で言えば「男らしくあることに疲れた男の子」というキャラクターだ。自分は社会的に何の価値もないゴミクズであると自称し、人並みに性欲はあるけれど、女の子とやれるのは来世だと思っている。だから普段は「何をしでかすかわからない危険人物」「犯罪者予備軍」としてふるまっていて、しかしじっさいはごくふつうの、内気で繊細な青年である。トド松は「男らしさよりもかわいらしさを選択した男の子」で、兄弟たちの中では一番外部との接触が多く、一見自立しているけれど、最終的には「同級生カースト最下層」に戻ってきてしまう。そして、五男である松野十四松(以下、十四松)は「核弾頭的存在」「異常に明るく、異常にバカ」というキャラクターで、ギャグアニメの中ではトリックスターのポジションを演じている。一見して十四松は「わけのわからないキャラクター」として描かれていて、兄弟たちに「実は一番闇を抱えているのではないか」とまで言われている。たしかに十四松はよく死ぬし、平気で分裂したりするけれど、少なくともわたしにとっては、「わけのわからないキャラクター」ではない。わたしは十四松を、基本的にとてもいいやつで、でもいいやつだからこそ何もできないという青年だと思っている。十四松は自分の兄弟たちのことが好きで、みんなに笑っていてほしいと思っている。おそ松兄さんいわく、「地獄のようにスベっても、手数が多いのが十四松」だ。そして十四松は、トド松が兄弟たちに処刑されるとき、そこに積極的にくわわりはしないけれど、かといって助けることもしない。これは9話「恋する十四松」を見ても明らかで、十四松は自殺しようとしていた女の子を助け、彼女を笑わせることで癒そうとする。しかし、それ以上のことは何もできない。十四松は彼女がなぜ死のうとしていたのかけっして聞くことができないし、彼女の内面に踏み込むことはできないのだ。みななんと、「テクストの背後に人生や生活があってしかるべき存在感のあるキャラクター」たちであろうか!

原作である『おそ松くん』は、もともとアメリカのコメディ映画『1ダースなら安くなる』がその発想の端緒で、本当は映画通りに12人兄弟にしたかったけれど、コマに入りきらないがために「6人兄弟」が主役に据えられたのだという。わたしは『おそ松くん』をまだ全巻読みきれていないのであまり断定的なことは言えないのだけれど、確かに『おそ松くん』の初期は「同じ顔が6つある」という絵面の面白さ・事象そのものが物語の原動力となっている。描かれるべきストーリーがあって、物語にキャラクターたちが従属するのではなく、「同じ顔が6つある」というギャグそのものがストーリーを動かすのである。それがやがて、六つ子たちは「イヤミ」と「チビ太」という強烈にキャラ立ちしたキャラクターたちに主役の座をとって食われることになる。イヤミとチビ太は、「テクストの背後に人生や生活があってしかるべき存在感のあるキャラクター」であることとは別に、強い個性を持った「キャラ」である。チビ太はどちらかといえば、『おそ松くん』の時代から「男の子いかに生くべきか」という問題に直面したキャラクターであるように思えるけれど、それでもずっとチビ太はチビ太だ。

六つ子たちは『おそ松さん』でなぜ、個性や人格を感じさせる「キャラクター」として描かれうるに至ったのか?それは商業的な理由に端を発しているけれど、とにかく六つ子は個性を持ってしまったのだ。そして、『おそ松さん』は一話完結のドタバタギャグアニメのフォーマットを取りながら、六つ子たちの関係性は少しずつ変化している。『おそ松さん』というアニメの中ではたしかに簡単にキャラクターは死ぬし、設定は簡単に変わる。そしてそれらのすべては、次の回ではハイ、元どおりとなっているわけだけれど、時間はたしかに進んでいて、彼らは確実に成長しているのだ。たとえば、7話でトド松は兄弟たちに秘密でアルバイトをはじめ、周囲に「自分は慶應の学生である」と嘘をついていた。それによって彼は兄たちから大いなるしっぺ返しを食らうことになるが、しかしトド松は14話で、「嘘をつく必要なんてないし、かといって兄弟たちに何もかも言う必要もない」という結論にいたるのである。トッティ(トド松の愛称)はもはや、同級生カースト最下層たる松野家にとどまり続ける必要はないのだ。トッティに「闇ゼロ!ノーマル四男!」と揶揄された一松は、すでに彼が「アブないやつ」などではないことを暴かれている。(一松はこの、「アブないやつ」としてのふるまいとカッ飛び具合こそが面白いわけだけど、それはまた別の話である。)17話で一松は十四松について、「あいつはただ十四松なだけなんだ。闇はない。頭のてっぺんから足のつま先まで十四松。つまり十四松というジャンルなんだ」と語る。一松は他人との距離感がわからないというキャラクターで、兄弟たちに依存している。一松がもっとも行動をともにすることが多く、依存しているのが十四松であり、それは十四松がひとの内面に踏み込んでこないキャラクターであるからこそというのは、先述のとおりである。けれども一松は17話で、「十四松は十四松で、おれじゃない」ということをきちんとわかっているのだ。一松は「頭のてっぺんから足のつま先まで、僕がみんなで、僕たちは僕」という関係性にしか、安心を見出せていなかったというのに。そして十四松は15話Aパート「面接」において、「僕はここにいてもいいし、いなくてもいいかもしれない」という内容の発言をする。十四松は兄弟たちのことが好きだけれど、でもずっと一緒にいて、みんなを笑わせ続ける必要などないのだ。さらに17話で彼は「僕は僕である必要なんかないけれど、でも僕は僕でしかないんだ」という当たり前の場所にたっている。十四松においては「男の子いかに生くべきか」という問いはいったん終了しているといえる。だから18話の「主人公争奪レース」において、ひとりだけ別の地点にいて、レースの勝ち負けにこだわらないのだ。チョロ松に関してはずっと同じところをぐるぐるしているな、という印象だけれど、だからこそ18話における彼の「認められたい」という心情吐露はとても胸にくるものがあった。「いいかなあ、おれもう主役やってもいいかなあ!?今まですげー喋ったし!」な、泣ける…。チョロ松、大変だったよな、よく頑張ったよ。ツッコミ、大変だったよな。上二人がクソのせいで…。上二人のクソというのは当然、おそ松兄さんとカラ松兄さんのことである。

ここでわたしはようやく、カラ松兄さんの話ができる。

そもそも、六つ子は全員ニートだけれど、明確に「労働への意志」を拒んでいるのはおそ松兄さんとカラ松兄さんだけだ。「おれは銀河一のニート目指してるから」とおそ松兄さんは言う。そしてカラ松兄さんは「働かない我が人生、セラヴィ!」と高らかに謳いあげる。次回予告で「不毛なことをさせるんじゃない。労働と同じくらい不毛だ」と吐き捨てるカラ松兄さんは多分にセクシーで、わたしはここでカラ松兄さんがいかにセクシーかという話ばかりをしたいけれど、本題からそれるのでひとまず置いておく。チョロ松以下弟たちはただ単に働きたくないわけではなく、自己実現の困難さに苦しんでいる。『おそ松さん』というアニメはある意味で、アッパラパーの兄二人に振り回されるチョロ松の物語である、とすら言えるかもしれない。『おそ松さん』がビルドゥングスロマンなら、主人公はきっとチョロ松だ。おそ松兄さんは言う。『おそ松さん』はギャグアニメではなく、「自己責任アニメ」だと。別にどう受けとったっていいし、どう解釈したっていいしそんなことおれは知ったこっちゃないと。ギャグアニメ『おそ松さん』の主人公はおそ松兄さんだ。では、カラ松兄さんというのはいったいなんなのだろう。わたしが混乱するのは、実はカラ松兄さんこそがもっとも、「男の子いかに生くべきか」という問題に真っ向から直面しているキャラクターであるからだ。

わたしがカラ松兄さんに恋をしたのは8話Bパート、魚アイドルであるヒロイン・弱井トト子に「トト子ちゃんが本気で人気を取りに行くなら、まず、魚の要素を捨てないとダメだ」という正論をぶちかますシーンだった。日ごろから痛い痛いと言われ、ないがしろにされてきたカラ松兄さん。そのカラ松兄さんが、完璧に着こなしたトレンチコート姿であらわれ、悶絶するような本質を突く。しびれるほどカッコよかった。カラ松、実は兄弟の中で一番まともなんじゃねえか。やばい。めちゃくちゃかっこいい。カラ松兄さん、今すぐ松野家を出てくれ。そしてわたしと結婚してくれ!!そうやってうっとりしているところに、あのエンディングである。もうお前完全に酔っ払っているだろうというテンションで謳われる「誰だと思う?カラ松さぁ♡」「最後まで実家から離れないぜぇ〜?」というクソバカ全開・マザコンヒモ体質全開なダメ台詞の数々。これらがあの中村悠一の美しい声で歌われる。「なんなんだこいつ」というのが率直な感想である。そして、「働かない我が人生、セラヴィ!」。ここでわたしは考えるのをやめた。エンディング後のCパート「六つ子に生まれたよ」にいたってはもう何もわからない。わたしは混乱とともに、恋におちたのだった。

カラ松兄さんは基本的に、「男の子かくあるべし」と自分が信じる自己像に従って生きていて、そしてその「男の子かくあるべし」がとんでもなくズレていて「痛い」がために、ひどい目にばかりあっているというキャラクターである。そしてその姿がギャグになっている。カラ松兄さんは尾崎豊に憧れているので、多分きっと「僕が僕であるために勝ち続けなきゃならない」と思っている。でもつねに負けている。そういう近代的な(時代錯誤な?)キャラクターだ。カラ松兄さんは、自分は男で、男らしくありたいと思い、男らしくてカッコいい自分をつねに演出している。カラ松兄さんは「男は優しくあるべきだ」と思っているので優しい。けれどそれは、カラ松兄さんの本質的な優しさではない。一松はカラ松兄さんのことを蛇蝎のごとく嫌っているけれど、それは一松がカラ松兄さんの優しさが欺瞞であることを知っていて、かつカラ松兄さんの愚直な「男らしさ」や「優しさ」をうらやましいと思っているからだ。先に一松のことを「男らしくあることに疲れた男の子」であると書いたけれど、そう解釈すれば一松が16話Bパートで実はカラ松兄さんの革ジャン(カラ松兄さんの男らしさの象徴である)を着たかった、というのもさもありなんという気がする。しかしわたしは、一松がカラ松兄さんを嫌う心理状態はわかっても、カラ松兄さん自身のことはまったくわからない。カラ松兄さんが「僕が僕であるために」ともがけばもがくほど、その内面は不可知で、わけのわからないものになってゆく。そこがとてもつらく、楽しい。

カラ松兄さんがわけのわからないキャラクターである理由のひとつに、カラ松兄さんが「テクストの背後に人生や生活があってしかるべき存在感のあるキャラクター」であること以前に、まず「ギャグアニメのキャラ」としての要請があったということが挙げられる。これは何もカラ松兄さんに限ったことではないけれど、カラ松兄さんは特にそうだ。『おそ松さん』というアニメは「大人になった六つ子に個性ができる」「そこに人気声優を配置する」という商業的なコンセプトからスタートしている。まず6人の声優ありきで、誰が誰を演じるか、そして六つ子たちがどういったキャラクターたちであるのかは明確でなかった。カラ松兄さんのキャラメイキングは、「中村悠一というとてもいい声の声優が、とてもカッコつけていて痛々しいキャラを演じる」というところに最初の発想と、原動力がある。じっさいに、カラ松兄さんのキャラは声ありきで、あのやたらめったら美しい声でクソみたいな台詞ばかり言うのは異常に面白く、ギャグとして成立しているのだ。これはもう事故だ、とわたしは思う。カラ松兄さんがいい声でカッコつけながら、やたら不憫な目にあうのはめちゃくちゃ面白い。けれども、『おそ松さん』はチョロ松たちと同様、カラ松兄さんを純然たるギャグアニメのキャラとして描かなかった。カラ松兄さんが、本当にわけのわからないキャラクターだったなら、こんなにややこしいことにはならなかったのだ。「ギャグアニメのスターとしてのカラ松兄さん」と「テクストの背後に人生や生活があってしかるべき存在感のあるキャラクターとしてのカラ松兄さん」の間に生じる混乱。演じられる身体と演じられた身体の間の不一致。この混乱にこそ、カラ松兄さんの美しさがある。わたしはひとまずそう、解釈している。

ひとりの青年としてのカラ松兄さんは、かなりヘビーな問題に直面している。あの問題の5話、「カラ松事変」において、カラ松兄さんは兄弟に石を投げつけられて死にかけた。カラ松兄さんは5話のあとで何ごともなかったかのように松野家に帰ってきて、しかし彼はひとり、誰にも知られることのない闘争に身を投じる。カラ松兄さんは「男はかくあるべし」と自分の信じるところのふるまいを続けていれば、自分は愛されるはずだ、とかたくなに信じてきた。けれども、5話で自分が愛されないことを知るに至り、ならばおれはどうすれば愛されるのか?という果てしない自問自答をはじめる。それは「俺に愛される資格はあるか?」という問いだ。カラ松兄さんは、唯一の兄であるおそ松兄さんに問う。「なあ、おそ松。痛いってなんだ?」「なぜ人はみなおれを痛いという。なぜだ。なぜおれは、こんなにみんなのことを愛しているのに、傷つけてしまう…」。そして15話で、カラ松兄さんはひとつの結論に到達する。それは「この世に絶対の愛など存在しない」ということだ。カラ松兄さんは「ずっとそばに居てくれないと死ぬ」という女に対して自らのすべてを与え、やがて身を滅ぼす。その相手は「ドブス」(キャラ名)であり、「花の精」であり、人間ですらないのだ。わたしは思う。「男の子いかに生くべきか」という問題は、こんなにも困難なことであるのかと。いや、違う。カラ松兄さんが過剰すぎるだけだ。16話以降、カラ松兄さんは明確にキャラチェンジしている。今まで兄弟たちに過剰な愛を与えてきたカラ松兄さんが、過剰に「与える人」であることをやめたのだ。そして、与えることをやめたカラ松兄さんは最高にクールで、セクシーだった。カラ松兄さんは、やはり15話で童貞を捨てたのだろうか?そして18話では、おそ松兄さんの死に対して「クソ政権にピリオドだ!」と笑い、「認められたい」「褒められたい」「注目されたい」と心情を吐露する弟たちに対して、ただただ「モテたい!!」と絶叫するカラ松兄さんというのはもう、クソバカオブクソバカという感じで、わたしは「最高…」とつぶやいてひれ伏すしかなかった。カラ松兄さんというのは、いったいなんなのだろう。やっぱりわたしは、カラ松兄さんのことが全然わからない。

『おそ松さん』のラストはハッピーエンドであるとわたしは信じているけれど、「男の子いかに生くべきか」という問題に直面した六つ子たちは、いったいどこに向かうのだろうか。これはきっと、わたしたちの物語でもあるのだ。『おそ松さん』はギャグアニメであると同時にビルドゥングスロマンであると書いたけれど、わたしたちの人生には「かくあるべし」という問いの答えなどないし、ハッピーエンドのあとも人生はつづくのだ。われわれの人生そのものが、ギャグのように思えるときもある。そういったことを描いているのが『おそ松さん』であるとわたしは思う。そしてカラ松兄さんは、わたしにとっては恋する対象であり、まぎれもないスターだ。カラ松兄さんは、「テクストの背後に人生や生活があってしかるべき存在感のあるキャラクターとしての身体」と、「わけのわからないギャグアニメのスターとしての身体」を同時に持っていて、そのどちらをも捨てることをやめない。最終回まであと6話、わたしは混乱しながら、カラ松兄さんの背中を追い続けてゆきたい。その混乱のはてに、何か美しいものが見えるだろうか?

Jan 10 2015

ハニーバニー

地球に隕石がぶつかる夜には
友達の恋バナを 聞きながらおそばを食べよう

なんにもないけど生きてる 生きてる
あなたの強肩が 見たいの見たい
崎陽軒のシウマイ買って

こっちを向いてよ ハニー
こっちを見ないで バニー
ああー ああー

あなたの目尻のしわが好きだよ
桜並木 息子を抱いて
子どもみたいに笑うの

生まれた街に
友達ひとりもいないけど
わたし あなたがいるから横浜が好き

こっちを向いてよ ハニー
こっちを見ないで バニー
ああー ああー

3 notes

Sep 01 2014
Aug 25 2014

ひとりのときが一番明るい

電車で化粧はしないけど
電車で菓子パンやめられない

ひとりのときが一番明るい

横浜スタジアムに向かう信号の途中
筒香の応援歌口ずさむ
筒香の応援歌口ずさむ

横浜の空高くホームランかっとばせ筒香♪
横浜の空高くホームランかっとばせ筒香♪

1 note

Jan 22 2014

女ぎらいのガールポップ好き 1「大森靖子」

いうほど女のひとのことは嫌いではないし、どちらかといえば男のほうが嫌いだ。
しかし、こと色恋沙汰となれば話は別で、自分以外の女がちやほやされるのは気に食わない。
女の人のことは嫌いでも、女の人がつくって、女の人が歌うポップミュージックのことがなぜだかずっと好きだった。
若くてかわいい女の子の音楽が好きだし、若くもなくかわいくもない女の子のつくる音楽はもっと好きだ。女の子はひとりでもいいし、ふたり以上でもいい。一番好きなのはチャットモンチーだ。
私はここで、私の好きなガールポップについて考えてみたいと思う。

高円寺の無力無善寺へライブを見にいったら、終演後にアイメイクの濃ゆいお姉ちゃんがフライヤーを配っていて、アイメイクの濃ゆいお姉ちゃんだなあと思ったことを覚えている。それが私のはじめて見た大森靖子さんだった。
だから、私は大森さんが無善寺で歌っているところをじっさいに見たことはないけれど、大森さんは無善寺のひとという印象がある。

話はそれるが、うみのてというバンドの「SAYONARA BABY BLUE」という曲が嫌いで、これは男に捨てられて自暴自棄になった女が「私の価値を教えてよ」とのたまいながら体を売るというだけの歌なのだけど、その女にベイビーブルーなんて気色の悪い名前をつけてニヤニヤ眺めている歌い手の視線はなかなかに気色が悪い。歌の中の女は自分を汚れた、と評しながら自分の性に価値があってしかるべきと信じて疑わない。PVの中では、ワンピースを着たはかなげで反抗的な女がうるんだ瞳でこちらを見つめ返す。はっきり言って最悪のセンスだと思う。
かつてYouTubeに大森さんがこの曲をカバーしている動画があって、嫌いな曲なのに私はこのカバーがけっこう好きだった。ぺらっぺらの歌詞も、大森さんが歌うとさまになっていた。しょうもない女のたわごとも、クールなたわごとのように聞こえた。大森さんはきっと何をやってもさまになる。

最新アルバム『絶対少女』のリード曲「ミッドナイト清純異性交遊」で、大森さんは無善寺をピカピカのステージにして歌っている。

「アンダーグラウンドから君の指まで
遠くはないのさiPhoneのあかりをのこして」
(「ミッドナイト清純異性交遊」)

「SAYONARA BABY BLUE」の女は、自分が女であることを当然のように思っているけれど、大森さんは自分が女であることを自明とはけして思っていないだろう。「男らしさ」というものが幻想であるのと同程度に、「女」は存在そのものが虚構なのだ。「普通の女の子になりたかった」という大森さんは基本的に「私の存在の如何」について歌う、実存主義的なシンガーであると私は思っているけど、大森さんは「私が私が」と歌うほどに「私」から離れていく。それはきっと、大森さんは「私」以外のもっと大きくて美しいもののことを知っているからだ。それが大森さんいうところの「少女」というものなのか、私はまだ考えあぐねているけれど、大森さんがその美しいものについて歌う言葉はとても精確だ。

「ストロー噛んでバスストップから睨んだ 狂ってるのは君のほう」
(同上)

何のことかはよく分からないけれどとにかく、ストローを噛んでバスストップから睨んだんだな、と思う。高速の電子音にのっかって、その光景がさっと目にうかぶ。本当に鮮烈なフレーズだ。「ミッドナイト清純異性交遊」は大森さんがモーニング娘。の道重さゆみのことを歌った曲で、私は若くてかわいい女の子そのもののことは好きではないので道重さゆみさんのことはよく知らなかったけれど、道重さんはストローを噛んでバスストップから睨んだ女の子なのだな、ということがこの曲を聞いてとてもよく分かった。
かつて高円寺の無力無善寺でフライヤーを配っていたお姉ちゃんが、恵比寿リキッドルームでワンマンライブをやるということが私にはとてもまぶしく、うらやましいとも思うけど、大森さんはきっといまも高円寺にいて、わけのわからないものに向きあって音楽をつくっている。高円寺でもアンダーグラウンドでもどこにいても、多分大森さんのことはずっと好きだ。女の子がストローを噛んでバスストップから睨んだその瞬間のことを、私はガールポップと呼びたいと思う。

8 notes

Sep 06 2013

おれが考えた「女の子は誰でも」

1.
女の子は誰でも 毎日違うおべべが着たい
毎週違う男の子とデートがしたい
一日三食カレーが食べたい
そうじゃない女の子もいるけど
カレーが嫌いな女など女じゃないぜ 女の子は誰でも

2.
すごいブスとすれちがえば
すごいブスの人生に思いをはせるが
神と宇宙の視点で見れば
おまえのツラもおまえの人生もどっこいどっこい
昔わたしをふった男の顔が
うかんでは消える 女の子は誰でも

2 notes

Aug 14 2013
Jun 13 2013
Jan 23 2013

my own shelter for PARADISE GARAGE

10月 繁忙期 下北沢シェルター
パラガのライブが見られなかった

11月 仕事 定時あがり
チャットモンチーのライブ 渋谷サイクロン
こごえ 自販機 缶コーヒー
ライブハウスついたらチャットモンチーのライブ終わってた

Chatmonchy has come,
Chatmonchy’s coming back to me
Life is never coming back to you,hell
アーナル・ギンザ・オーケストラのライブがみたい
ノイズわかめよりサイケまぐろ
My soul is on my own shelter for PARADISE GARAGE
I wanna be your Chatmonchy
陽の当たる大通りで、ちゃんとしたいといいながら死ぬ
阿呆のソール
おれの魂
墓碑銘に非公式RT きざめ

「僕のパラダイスは君だ」なんてオメガトライブの
くだらん歌ラジオで聞いてた
がむしゃらに働いたし あてのない旅もしたし 南の島に暮らして
星も数えたけど、なんて
いいじゃんその人生
いいじゃんいいじゃんその人生!!
普通そのどれかひとつくらいじゃん、人生

My soul is on my own shelter for PARADISE GARAGE
おまえのしんじる おまえをしんじろ
しょこたんに諭され
おまえはおまえの 踊りを踊れ
わたしはわたしの チャットモンチーをやる
人前たやすく へらふら踊る
わたしの人生に関係ない

Chatmonchy has come,
Chatmonchy’s coming back to me
Life is never coming back to you,hell
アーナル・ギンザのライブがみたい
My soul is on my own PARADISE GARAGE
I wanna be your Chatmonchy

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