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酒を呑んで映画を観る時間が一番幸せ・・・と思うので、酒と映画をテーマに日記を書いていきます。 映画の評価額は幾らまでなら納得して出せるかで、レイトショー価格1200円から+-が基準で、1800円が満点です。ネット配信オンリーの作品は★5つが満点。
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流転の地球 -太陽系脱出計画-・・・・・評価額1600円
2024年03月26日 (火) | 編集 |
流浪の地球はどこへ行く。

急速に膨張する太陽から逃れるため、無数の巨大エンジン群を建設し、地球そのものを宇宙船にして4.3光年先の別の太陽系を目指す、という劉慈欣(リウ・ツーシン)原作の超豪快な設定の中国製SF大作。
日本では配信スルーとなってしまった「流転の地球/さまよえる地球」に続く第二作だ。
もっとも物語の時系列的にはこっちが前なので、単体で鑑賞しても問題無い。
前作公開時は東宝の「妖星ゴラス」との類似性が話題になってたが、「地球を巨大なエンジンで動かす」以外は全然別の話だ。
本作では地球を動かして太陽系を脱出する派と、肉体を捨ててデジタル生命に進化する派が対立する中、地球のエンジンの準備が整う前に、軌道を外れて地球とのコリジョンコースに入ってしまった月を回避するための作戦、そして遂に地球が動きはじめるまでが描かれる。
宇宙飛行士のリウ・ペイチアンを演じる主演のウー・ジンや、監督のグォ・ファンら主要スタッフは続投。
天才科学者トゥー・ホンユーを演じるアンディ・ラウが、重要な役割で出演しており、ダブル主演に近い形になった。
※核心部分に触れています。

太陽内部の核融合が異常に加速し、近い将来破滅的な爆発“ヘリウムフラッシュ”が起こることが確実視された2040年代。
人類は連合政府を樹立し、1万機をこえる巨大エンジンによって地球を動かし、4.3光年離れたアルファ・ケンタウリ星系へ移動させることを決定。
100世代、2500年かかる壮大な計画が幕をあける。
しかし人類は肉体を捨て、デジタル生命として生き残るべきだと考えるグループが、政府に抵抗し続けていた。
宇宙飛行士候補のリウ・ペイチアン(ウー・ジン)は、軌道エレベーターの基地に配属され、訓練に明け暮れていたが、ある日基地は過激派によって襲撃され、エレベーターが破壊されてしまう。
一方、幼い娘を突然の交通事故で亡くした量子科学者のトゥー・ホンユー(アンディ・ラウ)は、娘の人格をコンピューターの中で生かすことを条件に、新たな量子コンピューター開発への参加を約束する。
14年後、さまざまな困難を乗り越えて、プロジェクトは完成を間近にしているが、月を地球から引き離すエンジンが故障し、地球とのコリジョンコースに入ってしまう・・・・


以前映像業界のセミナーで、前作のVFXプロデューサーに話を聞く機会があったのだが、前作の制作時には誰もこの規模のSF大作の経験が無かったそう。
結果、予算組みに無理が出て、4000万ドルあったにも関わらずポスプロ途中でお金が足りなくなってしまった
現在の中国映画界ではスター俳優の囲い込みがファーストプライオリティで、VFXには潤沢な予算が回らない。
スタジオの技術に対する無理解は、どうやらどこも同じらしい。
だが、制作ストップしそうになったところ、ウー・ジンがポンと1000万ドル出資して完成に漕ぎ着けたとか。
中華圏スターの景気の良さに驚いたものだが、今回は前作のヒットを受けて予算も増えて(推定1億2500万ドル)、見せ場てんこ盛り、3時間の大長編となった。
連合政府とデジタル生命派ゲリラとの戦いから始まって、地球から遠ざかるはずが、エンジン故障で地球に向かって暴走する月を破壊するためのミッション、地球の全エンジンをシンクロさせるため、水没した都市で寸断されたインターネットを復旧させるミッションなどが次々と展開しお腹いっぱいだ。

地球が動き出して、木製の引力に引き込まれそうになる危機を描いた一作目をすでに作っているので、ある意味本作で描かれたことは全て過去。
少なくとも、地球が動き出して木星軌道までは到達したことは分かっている。
そこで本作では、未来に起こるイベントに向けて、「◯◯が起こるまで後何日」のようにカウントダウン形式で進む。
予告された危機を、どうクリアするのかが面白さのポイントという訳だ。
ヒロイックなウー・ジンのキャラクターは前作と変わらないが、ドラマの変数となるユニークな存在が、アンディ・ラウ演じるちょっとマッドが入り気味のトゥー博士。
彼は事故死した娘の意識を、自身が開発している量子コンピューターの中で再現しようとしていて、それを計画参加の条件としている。
このデジタル生命という概念により、単なるアクションだけでなく、そもそも人間存在とは何か?などハードSF的哲学要素も多くなって見応えは十分だ。
原作者のリウ・ツーシンも、本作では製作総指揮の一人として参加しているので、この辺りは彼のアイディアじゃなかろうか。
前作の時点でもなかなかだったVFXは、質量ともに大幅に拡充。
製作費が増えたと言っても、1億2500万ドルはボリュームの凄まじさを考えれば、ハリウッド映画に比べればだいぶ安い。
「ゴジラ-1.0」のオスカー受賞の要因であろう、「ハリウッド映画の効率悪すぎ問題」がここにも見えてしまう。
世界観を構築する膨大な美術デザインも、相変わらず素晴らしいクオリティだ。

ただあまりにも複雑かつ壮大過ぎて、この尺を費やしてもダイジェスト感がある。
実は本作の原作は大長編の「三体」とは違って、短編集の「流浪地球」に収録された50ページほどの作品で、移動をはじめた地球に暮らす「ぼく」の一生を一人称で語るシンプルな物語だ。
これはこれで素晴らしいので、ぜひお勧めしたいのだが、ぶっちゃけ世界観以外は映画とは別物。
映画化に当たっては、鉛筆ほどだった原作を丸太になるくらい大幅に肉付けしているのだが、SFや異世界ものの常で、世界を丸ごと作っているので、広げようと思えば無限に広げられる
本作の場合は思いっきり広げた世界観のもとで、複数のプロットが矢継ぎ早に同時進行し、全体に大味な印象になってしまってるのが残念。
まあ前作よりは尺が伸びた分ベターになってはいるものの、作り上げたストーリーのボリューム感を考えれば、これも配信ドラマの方がフィットしそうだ。
大スクリーンの迫力は捨て難いのだけど。
とりあえず、流浪の地球の物語はまだまだ続きそうなので、次回作を楽しみに待ちたい。
中国政府の偉い人が2058年にも人民服着たのには笑っちゃったけど、アレはもはや民族衣装みたいなものなのか。
地球ごと移民しようというアイディアも、世界中どこでも中華街を作っちゃう中国的な発想かも知れないな。
次回作が作られるとすると、永遠の存在となったトゥー博士と娘がキーになって来るはずだが、果たして?

ところで同じウー・ジン主演の「戦狼 ウルフ・オブ・ウォー」もそうだったけど、単体で完結してるとは言え、前作があることはもうちょっとインフォメーション出してもいいのでは。
宣伝的に言いたくないのは理解するが、タイトル出た時に観客席から「え?これ2なの?」って声上がってたぞ。

地球を動かしてしまうのだから、当然天変地異に襲われる本作には、「アースクェイク」をチョイス。
ドライ・ジン20ml、ウィスキー20ml、アブサン20mlを氷と共にシェイクし、グラスに注ぐ。
アブサンの香りが強く、香草系が好きかどうかで好みが分かれるだろう。
非常に強いカクテルなので、酔っ払って地面が揺れているような感覚になるのがネーミングの由来。
ゆえに、飲み過ぎ注意。

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ショートレビュー「12日の殺人・・・・・評価額1650円」
2024年03月20日 (水) | 編集 |
彼女はなぜ殺されたのか?

少し時間のズレた同じ時系列を、四つの別視点で描いてゆく「悪なき殺人」がユニークだったドミニク・モル監督の最新作は、未解決事件を扱ったポーリーヌ・ゲナのノンフィクション「18.3 - A year at the PJ」にインスパイアされた作品だ。
発想の元になったのは2013年にパリ近郊のラニー・シュル・マルヌ起こった「モード・マレシャル殺人事件」だ。
若い女性が何者かにガソリンをかけられ、焼殺されたこの事件は、発生から11年が経つ現在でも犯人逮捕には至っていない。
映画では舞台をフランス南部のグルノーブル近郊に移し、被害者となるクララ・ロワイエが殺される日時を2016年10月12日の深夜に設定。
事件を追う刑事たちのリーダー、ヨアンに「悪なき殺人」にも出演していたバスティアン・ブイヨン、彼のバディとなるベテラン刑事のマルソーを、ブーリ・ランネールが演じる。
※核心部分に触れています。

姿なき殺人犯と、その背を追い続ける刑事たち。
なるほど、これはフランス版の「殺人の追憶」だ。
被害者のクララは、美人な上にダメンズ好きで惚れっぽく、捜査線上には彼女と関係を持ったという怪しい男たちが次々に浮かび上がる。
当初は早期解決かと思われるも、決定的な容疑者は見つからない。
しかしこの作品の場合、最初から“未解決事件”と断っているので、犯人探しのミステリは全く核心ではないのである。
映画が描き出すのは、被害者に感情移入し時には何年も犯人の背中を追い続けることが、刑事たちの心に何をもたらすのか?ということ。
これも「殺人の追憶」と共通で、おそらくモルはこのカテゴリのマスターピースをベンチマークしているはずで、いつしか主人公のヨアンと同僚のマルソーもキム・サンギョンとソン・ガンホに見えてくる。

本作の最大の特徴は、若い女性が理不尽に焼き殺された事件を描くにあたり、根深い男性中心社会を掘り下げていることだ。
舞台となっているグルノーブルは、最近では「落下の解剖学」の舞台となったフレンチアルプスの玄関口。
一歩街を出れば、切り立った岩山が聳え立つ。
主人公のヨアンの趣味は自転車なのだが、映画の冒頭で彼はレース用のオーバルトラックをぐるぐると走り続けている。
そしてシーンが警察署に移ると、そこにいる刑事たちは男だけなのである。
ヨアンもマルソーも、この世界にどっぷりと使っていて、知らず知らずのうちに偏った視点になってしまっていることに気付いていないのだ。
彼らは最初から犯人は被害者の男関係だと信じ込んでいて、他の可能性は早々に排除してしまう。

難解な事件に挑む刑事たちは、どこにも行けない回し車を走り続けるハムスターのように、徐々に疲弊して事件の闇に取り込まれ、ある者は心を破壊される
それはまるで、自転車で同じ場所をぐるぐる回るヨアンの姿と重なる。
事件が発覚した後、ある刑事が「ジャンヌ・ダルクの昔から、男たちは女性を燃やしてきた。だから犯人は男だ」と発言する。
これは加害性の認識としては正しいのだが、ある意味単純過ぎる世界観だ。
映画は全体の3/4が2016年の捜査を描き、終盤の1/4が迷宮入りした後の2019年の再捜査を描く。
三年の間に、刑事課には優秀な女性捜査官が配属され、事件を掘り起こしヨアンに再捜査を命じる判事も女性。
実際の事件と同じく、それで犯人が検挙されるわけではないが、刑事たちはようやく同じ場所の堂々巡りを脱するのである。
閉じたオーバルトラックでなく、険しいが開かれたアルプスの山に挑むヨアンの姿に希望が見える。
優れた暗喩劇であり、犯人捕まえてスッキリという単純な映画ではないが、一見の価値はある作品だ。

今回は、刑事たちを惑わす月光をイメージし「ムーン・グロー」をチョイス。
クレーム・ド・カカオ・ホワイト60ml、ドランブイ60ml、生クリーム60mlをシェイクして、グラスに注ぐ。
クレーム・ド・カカオの風味にドランブイの深いコクが加わり、生クリームが全体をマイルドに纏め上げる。
甘めで飲みやすい、乳白色のカクテルだ。

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ショートレビュー「ゴールド・ボーイ・・・・・評価額1650円」
2024年03月16日 (土) | 編集 |
恐るべき子供たちVS連続殺人鬼。

沖縄に住む三人の中学生が、偶然殺人事件の現場を撮影してしまう。
殺されたのは大手企業のオーナー夫妻で、殺したのは娘婿の東昇だが、警察は事故として処理。
お金の問題を抱えている子供たちは、映像を使って昇を恐喝することを思い付く。
原作は中国のベストセラー作家、紫金陳(ズー・ジェンチン)の小説「坏小孩(邦訳版:悪童たち)」で、「バッド・キッズ 隠秘之罪」として配信ドラマ化されて大ヒットしたという。
本作は舞台を沖縄に移して、「正欲」の港武彦が脚色、金子修介がメガホンをとった。
三人の中学生、朝陽、夏月、浩を、それぞれ羽村仁成、星乃あんな、前出燿志が演じ、彼らと対決する東昇に岡田将生、その周りを江口洋介や黒木華、北村一輝といった実力者が固める重厚な布陣。
「羅小黒戦記」など、中国の作品を日本に紹介する活動で知られる、チーム・ジョイが製作母体となる初の日本語実写作品だ。

しかしこの映画、とても面白いのだが、面白さを言語化して説明するのが非常に難しい。
なにしろちょっとでも内容に踏み込むと、即ネタバレになってしまうのだ。
この記事も出来るだけ配慮はしているが、なるべくならこれ以上情報を入れずに映画館で観ることをお勧めする。
子供たちは、それぞれの理由でお金を必要としている。
朝陽の家はシングルマザーで、母は息子の学費のためにダブルシフトで働き詰め。
夏月と浩は血の繋がらない兄妹だが、夏月が自分をレイプしようとした継父を刺してしまい、幼馴染の朝陽を頼って逃げてきた身。
三人の中で頭の切れる朝陽が主導し、恐喝の計画を作り上げる。
一方、東昇にも事情がある。
入婿である昇は、妻に離婚を切り出されているのである。
彼が財産を手に入れるには、自らが相続人となり、一家を皆殺しにするしか方法がない。
綿密な計画を立て、完全犯罪を目論んだものの、思わぬ所から見られてしまったというワケ。
 
子供たちの計画は、当初は映像データと引き換えに金を取ろうという単純なもの。
だが、大人対子供のコンゲームだと思っていると、ある人物の唐突な提案により、物語は中盤から急激に予期せぬ方向へと舵を切る。
しかもその方向転換は、二度、三度と繰り返されるのだ。
腹に一物ある登場人物たちのドラマに、沖縄という舞台が絶妙にフィットする。
ここで描写されるのは青い海と空に恵まれた南国のリゾートではなく、燻んだ色調で描写される閉塞した地方都市の姿だ。
子供のたちの感情を写し出すクローズアップの多用を含め、テリングの圧が強い。
おそらく知らされないで観たら、金子修介の映画とは思わないだろう。
オリジナルのドラマは未見だが、湊武彦の脚本は全く先を読ませず、非常にスリリング。
ジェットコースターのような展開に、はたして本当に事態をコントロールしているのは誰なのか?を考えているうちに、予想もしない“恐るべき悪”にたどりつく。

朝陽を演じる羽村仁成は、「リボルバー・リリー」の時はとっちゃん坊やみたいで、守られる非力な子供というキャラクターにちょっと違和感があった。
しかし強い目力の奥底に、不気味な図太さを備えた朝陽役はピッタリだ。
そして真っ直ぐな目で朝陽を見つめる、夏月の初恋の切なさよ。
星乃あんなの圧倒的な存在感が、本作の白眉である。
彼女なくしては、この作品はこれほどの情感を持ち得なかっただろう。
金子修介は少年少女の演出に定評がある人だが、改めてその資質を証明した。
スクリーン数も少なく、あまり話題になっていないのが残念だが、むしろ狙いは原作知名度の高い中国語圏の市場なのかも知れない。
ちょっとルネ・クレマンの「太陽がいっぱい」を思わせる、第一級の青春クライムスリラーだ。

今回は、夏月の初恋に捧げる「トゥルー・ラブ」をチョイス。
ドライ・ベルモット15ml、ポートワインの赤15ml、スコッチ・ウィスキー15mlを氷と一緒にミキシンググラスでステアして、グラスに注ぐ。
マイルドな口当たりで、ルビー色が美しいカクテル。
だがこの“真実の愛”は、ジュースのような見た目とは違って相当に強い。

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デューン 砂の惑星 PART2・・・・・評価額1800+円
2024年03月12日 (火) | 編集 |
圧巻の叙事詩的惑星絵巻。

ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督が、フランク・ハーバートの古典SF「デューン 砂の惑星」を映画したプロジェクト、前後編の後編がついに完成。
前作で宿敵ハルコネン男爵の陰謀によって、父のレト公爵を殺され、母のジェシカと砂漠に脱出した主人公ポール・アトレイデスは、先住民フレメンに受け入れられる。
惑星アラキスの支配権を取り戻し、希少なメランジ(スパイス)の増産を急ぐハルコネン対し、ポールはフレメンと共にレジンスタンスを繰り広げ、復讐の時を待つ。
ヴィルヌーヴをはじめ、ほとんどの主要スタッフ、キャストは前作から続投。
キャストには新たに、クリストファー・ウォーケン、レア・セドゥ、フローレンス・ピュー、オースチン・バトラーらが加わり、豪華なオールスターキャストとなった。
前作を上まわる166分をかけた超大作は、SF映画史のエポックであり、壮大なる宇宙神話の幕が上がる。
情報量がとてつもなく多く、完全な続きものなので前作の鑑賞も必須。
鑑賞していても、キャラクターの相関関係などは、なるべく復習しておいた方がいいと思う。
没入感の映画なので、初回鑑賞はIMAXがオススメだ。
※ラストに触れています!

10191年の未来。
皇帝シャッダム四世(クリストファー・ウォーケン)の娘、皇女イルーラン(フローレンス・ピュー)は、父がハルコネン男爵(ステラン・スカルスガルド)と組んでアトレイデス家を滅ぼしたことを悔やみ、行方不明のポール・アトレイデス(ティモシー・シャラメ)が生きている可能性を考えている。
先住民フレメンの一員として迎え入れられたポールは、フレメンの戦士チャニ(ゼンデイヤ)と恋仲になるが、自分が伝説の救世主だという噂を受け入れるかどうか迷っていた。
ベネ・ゲゼリットの秘術を学んだことによって、ある程度未来を見ることのできるポールは、自分が宇宙を滅ぼす戦争の引き金を引くことを恐れていたのだ。
フレメンの新たな“教母”となったジェシカ(レベッカ・ファーガソン)は、ポールにフレメンの人口の大半が住むアラキスの南部に行き、命の水を飲んで完全な能力を覚醒させるべきだと諭すが、ポールは拒む。
行方不明だったガーニイ(ジョシュ・ブローリン)と再会したポールは、砂漠のネズミ“ムアティブ”を名乗り、メランジの収穫を目論むハルコネン家に対して、執拗にレジスタンスを繰り返す。
やがて彼の存在を知った皇帝が、イルーランを伴ってアラキスにやって来るのだが・・・・

三十数年前の若かりし頃、初めて原作小説を読んだ時に、胸躍らせながら想像した惑星アラキスの世界が、三割増しくらいのイメージの洪水となって押し寄せてくる。
ハーバートが1965年に発表した壮大なスケールを持つ原作小説は、それ以降の深宇宙SFの祖となった。
権謀術数の渦巻く宮廷陰謀劇によって、浮かび上がる人間の業は、いわばギリシャ文明からシェイクスピアまで受け継がれてきた、西洋文明の神話的叙事詩の宇宙版。
その最初の映画化の試みである、アレハンドロ・ホドロフスキー版の企画は紆余曲折の末に霧散するが、そこに参加した多くの若き才能は、70年代以降のハリウッドSF映画の主要なクリエイターとして活躍する。
「スター・ウォーズ・サガ」を初めてとする、ハリウッド映画に登場する宇宙帝国のほとんどが、ローマ帝国風の国家なのは、世界観が「デューン」をロールモデルとしているからである。
その意味で、「デューン」は、ファンタジージャンルにおける「指輪物語」と同じ地位を占める。

前作もそうだったが、この二部作は映画作家ドゥニ・ヴィルヌーヴの独特の特質にピタリとハマる。
彼の作品は極めて絵画的で、ストーリーとテリングで言えば、テリングの力が突出している。
もちろん、小説を原作とする本作は、ストーリーもきちんと組まれているが、ヴィルヌーヴのファーストプライオリティは、設定された状況をいかにして壮麗な映像として描き出すかだろう。
三年前に前作が封切られた時、「映像はすごいけど話は抑揚がなくてつまらない」という感想が日本のSNS上に結構あった。
まあこのように感じるのも、分からないではない。
思うに日本人にとっての映画とは、基本的にストーリーを追うもので、未知の世界観を楽しむと言う体験が希薄。
日本では評価が分かれた「君たちはどう生きるか」が、米国では批評家、観客双方から絶賛されたのも同じ文脈だろう。
特に本作は、最初から最後まで難解な用語や組織、人物のオンパレードで、原作本では膨大な“辞書”が用意されているくらいなのだが、映画では一切の説明要素がない。
観てるうちに必要な部分はなんとなく分かってくるのだが、日本人はこの“なんとなく”が苦手なのかも知れない。

もちろん前記した「君たちはどう生きるか」や「エヴァ」シリーズのように、日本でもよく分からない世界にいきなり連れ込まれる作品はなくはない。
しかしエンターテインメントのメインストリームでは相対的に少数な上に、映画作家の創作の熱量によってグイグイ引っ張って行くタイプが大半。
本作のヴィルヌーヴのように力技に頼らない、引いた視点で描く作家はさらに少ないので、どう作品に向き合ったら分からないという観客は多いかも知れない。
まあ原作を読んでいれば何の問題ないのだが、未読でも世界観の未見性を楽しみつつ、悠久の歴史を持つ惑星アラキスで危険な観光を楽しんでいると思えばいい。
映像に身を委ねていれば、遠い未来の宇宙の果てにあるであろう星の歴史や人々の営みを内包した壮大な光の絵巻物に、いつの間にか没入しているだろう。
言わばこれは観るのではなくて浴びる映画で、IMAXシアター内にはメランジが大量に舞っていたに違いない。

映画は前作同様ゆったりとしたテンポで進み、基本はどこまでも広がる砂漠を舞台としたポールとフレメンのシークエンスと、ハルコネンの陰鬱な宮廷での権謀術数劇が繰り返される。
プロットは大筋では原作に忠実だが、文庫版で上中下3巻に及ぶ文量には、前後編5時間21分を費やしてもまだ取捨選択が必要。
ここはキャラクターの数を削り、ポリティカルリーダーとしてのポールの成長を絶対的な軸とすることで無理なく再構成している。
脚色の注目点は、ゼンデイヤが演じるチャニのキャラクターで、映画版ではポールとの息子レトを産んでおらず、二人で過ごした時間も短い。
母ジェシカが妊娠している妹アリアも生まれないまま(ただしジェシカが命の水を飲んだことで胎内で覚醒している)なので、全体でも数ヶ月程度の物語になっているのだ。
なのでチャニにとっては、ポールとの関係が恋人として成熟してないうちに、クライマックスがやって来きてしまう。

オースチン・バトラーが怪演するフェイド=サウラとの決闘を制したポールは、チャニに真実の愛を約束した上で、皇帝に譲位を迫り、イルーランを名ばかりの妻として娶るのは原作通り。
ジェシカの説得でチャニも複雑な心境ながら、運命を受け入れたかに思えるところで原作の本編は終わる。
だが映画では、皆が新皇帝ポールに傅き、フレメンたちが聖戦へと向かおうとする中、チャニは一人宮廷を去り砂漠へ向かうのである。
そして彼女の怒りとも悲しみとも取れる、何とも言えない複雑な表情でジ・エンド。
これによって、覚悟を決めて冷徹な君主となってゆくポールと、状況を受け入れられないチャニがの感情の衝突がコントラストを形づくり、なんとも不穏なエンディングとなっているのだ。
本作は「デューン 砂の惑星」の映画化として完璧であり、一つの戦いが終わってもすべてクリアとなるわけでなく、登場人物の物語はずっと物語は続いてゆくという余韻の表現としても秀逸。
これで完結だとしても、何の問題も無い。

だが私的には、ヴィルヌーヴは続編の「砂漠の救世主」まで、ポール・アトレイデスの「デューン・サガ」として、作る気マンマンなのだと思った。
実はこの作品には、未来のアリアとしてある人気スターがワンカットだけカメオ出演しており、もし彼女が「砂漠の救世主」に登場するのだとしたら納得である。
はたして、ヴィルヌーヴの「デューン・サガ」は続くのかどうか?
原作では「砂漠の救世主」は本作の12年後の物語なので、結論が出るのにはだいぶ時間がかかるのかも知れない。

今回は、「デザート・ヒーラー(砂漠の治療者)」という名のカクテルを。
ジン30ml、チェリー・ブランデー15ml、オレンジ・ジュース30mlをシェイクして氷を入れたタンブラーに注ぐ。
ジンジャー・エールで満たして、軽くステアして完成。
チェリーやオレンジの甘みと酸味が、ジンジャー・エールのシュワシュワと共にスッキリと喉を潤してくれ、名前の通りに暑い日を快適にしてくれる。

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すべての夜を思いだす・・・・・評価額1700円
2024年03月07日 (木) | 編集 |
すべての特別でない日に。

東京の郊外、多摩ニュータウンの一日を描いた群像劇。
東京藝術大学大学院の修了作品として制作した「わたしたちの家」で、国内外の注目を集めた清原惟が、監督と脚本を務めた長編第二作だ。
高度成長期の1966年から開発が開始され、71年から入居がはじまった多摩ニュータウンは、作者が幼少期を過ごした思い出の地でもあるという。
主人公となるのは、世代の違う三人の女性たち
失業中の知珠は、引っ越しを知らせる葉書を手に、街のどこかにいる旧友を訪ねる。
ガス検針員の早苗は、偶然にも行方不明の徘徊老人と出会い、彼に付き添うことに。
大学生の夏は、写真店を訪れて、亡き友が残した写真を受け取ろうとする。
時に邂逅しつつ枝分かれする主人公の三人の女性を、兵藤公美、大葉みなみ、見上愛が演じる。
住人たちと共に老いゆく街を舞台とした、ごく平凡な日常の物語でありながら、極めて映画的な時間を堪能出来る、才気あふれるユニークな作品である。

住民の高齢化が進み、静かな時間が流れる多摩ニュータウン。
誕生日を迎えた山住知珠(兵藤公美)は、ハローワークで求職面談をした後、友人から届いた引っ越しのお知らせの葉書を頼りに、ニュータウンの迷路のような街を歩きはじめる。
ガスの検針員の谷本早苗(大場みなみ)は、住人のお婆さんから団地の老人が行方不明だという話を聞く。
偶然にもその老人を見かけた早苗は、彼が帰りたいという家まで付き添うのだが、そこには誰も住んでいないようだった。
ダンスが趣味の大学生の萩野夏(見上 愛)は、亡くなった友人の命日に、彼の撮った写真の引換券を友人の母に渡そうとする。
しかし、引換券は夏が持っていて欲しいと告げられ、彼女は写真店に取りに行くも、期限切れで倉庫を探さないと分からないと言われる。
彼女は、亡くなった友人との思い出の花火をすることを思いつく。
接点のない三人の女性たちは、街を彷徨ううちに土地の持つ記憶に触れ、過去へと思いを巡らせてゆく・・・・


前作の「わたしたちの家」は、かなりトリッキーな作劇が特徴だった。
一見関係無い二つの物語が語られるのだが、実は舞台となっているのは同じ家なのだ。

映画が進むうちに、二つの物語は同じ家の時空が僅かにずれた、並行世界的な関係であることが分かってくる。
一人は記憶を失い、もう一人は父を失った二人の主人公は、どこからともなく聞こえてくる声や音、気配、時には襖の穴などの痕跡となって、お互いの喪失を埋めるかのように共鳴。
ポリフォニックに展開する物語は、徐々にエントロピーを増大させながら進み、やがてキャラクターの内面の葛藤については一定の収束を見る。

日常の中にホラーテイストを忍ばせたような、独特の味わいの作品だった。
対して本作は、作劇に関してはだいぶストレート。
とは言え、異なる人物の物語が並行に語られ、静かに共鳴し合うという点においてはキープコンセプトと言っていい。

三人の主人公には、それぞれその日のうちに達成したい目標がある。
知珠は、ニュータウンに引っ越してきたらしい友人の家を訪れること。
一日中街を巡り歩くのが仕事の早苗は、写真店を営む恋人の男性とのデート。
夏は亡くなった友だちの残した写真を、現像に出していた写真店で受け取ること。
しかし、これらの目標は結局物語の中で達成されることはない。
知珠が迷いまくって辿り着いた住所には、なぜか友人の姿は無く、仕事を早く終えた早苗の誘いを彼は忙しいからと断る。
夏の持っていた写真の引換券は期限が切れていて、受け取ることが出来ない。
彼女らの願いは明日には叶うかもしれないし、永遠に叶わないかも知れない。
でも、それは描かれることはなく、結果的に彼女たちにとってこの日は、平凡な特別でない日となるのである。

しかし秀逸なタイトル通り、人や街の記憶は普通の日の重なり合いで出来ている。
このことを描くために、清原惟は様々な工夫を凝らし、多摩ニュータウンの時間と空間を描写する。
例えば夏と女友達は多摩ニュータウンで出土した土器や土偶の展示施設を訪れ、ある土偶のユニークなポーズを「風呂上がりみたい」と評する。
また検針のために街を歩いている早苗は、ある老女に呼び止められ、街が若く団地のコミュニティが強固だった時代の話を聞く。
早苗の彼氏の写真店では、数十年前のとある家族のビデオテープをデジタル変換している。
街と人は、映画が写し出す“現在”のずっと以前から、この土地に暮らしてきた者たち、それぞれの物語の積層から出来ている。
早苗が老女にみかんをもらって立ち去ると、カメラは早苗を追うのではなく、老女が洗濯物を干す姿をしばらく写し出すのだが、これも主人公たちの話の枠の外にも、語られていない無数の物語があるということを示唆する工夫だろう。

また三人は、広大な街の中を異なる手段で移動する。
知珠はバスと徒歩で、早苗は徒歩で、夏は自転車で移動を繰り返すので、遊歩道や立体交差の多い計画都市はそれぞれから見える風景も違う。
作者のインタビューを読むまで私も知らなかったのだが、多摩ニュータウンには、セレモニーホールや火葬場といった「死」にまつわる施設が最初から排除されているのだそう。
街は生きている者のためにあり、街の区画から外れると、セレモニーホールや墓地などがある。
この人工の街に、作者は夏の友人の死や、早苗が出会うゆっくりと死に向かう老人のような、過去と未来の喪失のイメージをそっと忍ばせる。
対照的に若い夏が打ち込み、あるシーンで知珠ともシンクロするダンスは、生命の象徴として機能している。
人間の生活する場所に、生と死は必ずセットで存在しているのである。

面白いのは、「わたしたちの家」の並行世界を思わせる要素も、物語に複数仕込まれいることだ。
知珠は葉書の住所に辿り着くが、呼び鈴を押しても反応は無く、隣家によると住人はだいぶ前に引っ越したという。
では彼女に葉書を送った友人は誰なのか?
早苗が付き添った老人は妻が住むというある家にやってくるのだが、ガス会社のデータではその家は空き家。
しかしなぜかガスのメーターは回っていて、人の気配がする。
この家に住んでいるのは一体誰か?
また早苗が彼の作業中に、古いビデオのモニターを眺めながら子供の頃に飼えなかった猫の話をすると、彼は唐突に「その猫と暮らした早苗さんも、どこかにいると思うんだよ」と言う。
これらのちょっと不思議な要素は、記憶と空間の積層と同じく、枝分かれした時間もまた街を形作っているようで、作者の独特の世界観を表しているのかも知れない。

テリングで特筆すべきは飯岡幸子のカメラで、映像は動き続ける登場人物を追うが、ふとした瞬間に予想できない動きをする。
これは何を撮っているのだろう?という時間もあり、曖昧性を持ったもう一人の登場人物の視点のように有機的に街と人を捉え続ける。
映像的な工夫と共に、本作を特徴付けているのは音だ。
鳥の囀りや車や電車の走行音、遠くから聞こえてくる人々の生活音、実際にこの街にいたら、聞こえてくるであろう音が途切れることなく続いている。
音響へのこだわりは「わたしたちの家」でも顕著だったが、冒頭に出演もしている「ジョンのサン」の音楽も、鳴りどころに予測がつかない。
映画音楽は場面に付けるか、キャラクターの感情に付けるかが原則だが、本作の場合はどちらかというとキャラクターのシチュエーション変化だろうか。
二本の長編作品を観て感じるのは、清原惟はストーリーとテリングのバランスが凄くいいと言うことだ。
映画を構成する二つの要素が、お互いをしっかりと支え合っている。
前作は俗っぽくない黒沢清を思わせたが、今回は少し濱口竜介的な味わいも感じさせる。
まだ32歳と若く、どんな作家になってゆくのか、次回作がとても楽しみだ。

多摩ニュータウンは東京西部の四つの市にまたがっているが、今回はその中の一つ八王子の小澤酒造場の「桑乃都 特撰吟醸 」をチョイス。
小澤酒造は、澤乃井の銘柄で知られる青梅の小澤酒造の分家筋。
創業当時の八王子は養蚕が盛んで見渡す限りの桑畑が広がっていたことから、銘柄を桑乃都と名付けたという。
残念ながら、八王子の都市化と水質の悪化で、現在では市内での醸造はしておらず、事務所と店舗機能だけになっているが、八王子の地酒としての誇りは変わらず。
桑乃都はほのかな吟醸香の辛口の酒で、クセはなくどんな食材とも合わせられるが、特に魚介系の淡白な味との相性がいい。
個人的にはぬる燗が好みだ。

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