昧爽起床。雨。
 
昼からお客さんが見える(「いらっしゃる」の地元方言)ので、那加の町の餅信へ和菓子を買いにいく。桜餅と、よくばり大福。ここがおいしいことはよく知られているので、雨のなか朝から、何人もの客がきていた。見ているといろんな和菓子があり、素朴な草餅とか粽(ちまき)もあって、ちょっと心うごかされる。
 
昼。
県営プール。泳ぐのにいい季節になってきたので、いつもより人が多かった。
 
随分前に亡くなった(父方の)祖母に関する手続きで、老父の兄、弟(わたしからすれば伯父、叔父)とその妻(つまりわたしの義理の伯母、叔母)たち四人が、もう何十年ぶりかに愛知県知多市から来訪された。プールから帰ってきて少しお目にかかったが、皆さん元気。今年傘寿の老父はじつに七人兄弟姉妹で、その年齢からすれば七人のひとりも欠けていないのは、すごいと思う。わたしなんか、何年ぶりに会ったのだろう、もしかしたら40年くらい経っているのかも。わたしが皆さんのスマホで集合写真を撮って、少ししゃべったが、楽しかった。まあしかし、家族親戚ってのは、どんどん「古びていく」のだなあと実感する。
 

庭のキリシマツツジ(霧島躑躅)、昨日撮ったもの。

岐阜県美術館で「クロスアート4 ビロンギング」展 / 岩田慶治『道元との対話』

雨。
 
ある方がひたすら自分に呪いをかけて、ロジックによってみずからの不幸を無限に強化していくスパイラル過程に陥っていて見ていてつらい。親鸞がお好きだそうだが、弥陀の本願を信じまいらせてただひたすら「南無阿弥陀仏」の六字の名号を唱えさえすれば救われるという親鸞のいうところを実践されていないようなのは残念である。阿弥陀様は我々凡夫をかならず救ってくださるが、たとえ口先だけでもよい、「南無阿弥陀仏」を唱えるのは本人でなければどうしようもない。たぶんその方は頭がよすぎて、六字の名号の力をお信じになれないのだろうな。例えばわたしのようなバカなら、そうではないのだが。
 というのを、頭のよい現代人は理解しないだろうし、科学的・批判的思考の欠如、宗教への盲信であると非難さえするだろう。しかし、いくら頭のよい現代人にも、どうしようもない泥沼の不幸が訪れることはあるし、それが批判的思考で乗り切れないこともあり得るのだ。親鸞は、そんなことはとうに考え尽くしている。
 

もう牡丹は終わってしまった。これは一昨日撮ったもの。今度は芍薬が咲きそうである。
 
(幸福や不幸の「量」とは何か。我々は「自分の方がこれだけ不幸だ」なんてことをいったり考えたりすることがある。自分はなんて不幸なのか。しかし、それは「比べるものではありませんよ。比べられたくもありません」とお隣の天使様も、周(あまね)君にいっているとおりだ。「自分の方がこれだけ不幸だ」ごっこは、やりたくなる気持ちは強くわかるが、あまりに不毛だとわたしは思う。
 自分の「不幸」は、しかたがない。でも、自分が不幸だと思っている人間は、多くの場合、それを(あるいは無意識のうちに)他人と比較している。でもまあ、それもしかたがないといえば、しかたないのだが。我々は弱いからな。)
(それにしても、やはり現代資本主義的価値観は徹底して我々の中で解体されねばならないな。我々の「不幸感」において、現代資本主義的価値観はきわめて大きな役割を果たしている。しかしそれは解体されるどころか、日々強化されて已まないのだから、若い人たちを始め、特に凡人は救われない。)
 

 
昼飯に桜エビと生姜の炊き込みご飯、あと、旬のエンドウを使った献立。
 
雨あがる、曇。岐阜県美術館へ、「クロスアート4 ビロンギング -新しい居場所と手にしたもの-」展を観に行ってきた。一般1000円。

岐阜県出身の若手アーティストたちの作品展。松山智一、後藤映則、公花、山内祥太、横山奈美。特にいいたいことはないが、とにかく、いつものことながら、現代アートが、こんなことをしていて何の意味があるのか、時間と労力のムダではないかという、むずかしいところにあることを示していた。ほんと、たいへんだなあと思う。陳腐な言い草だが、がんばってねっていうしかない。
 所蔵品展も観る。最後に前田青邨川合玉堂日本画がいくらかあって、わたしは日本画のよし悪しがよくわからないのだが、川合玉堂がわたしごときにもわかりやすくて、おもしろかった。





 
ついでに、隣の岐阜県図書館に寄って、『新潮』誌5月号の、中沢さんと吉本ばななさんの対談を読む。中沢さんの新刊『精神の考古学』と、それから吉本隆明さんについて。『精神の考古学』については、ばななさんが、いまの若い人たちへのすばらしい贈り物、彼らがうらやましいみたいなことをいっていた。
 若い人たちは、脳みそいっぱいにつめこんだ概念、記号にがんじがらめになっていて、身動きがとれなくなっている。そこからできるだけ自由になること。『精神の考古学』は、そのために書かれたのだ。
 吉本さんについては、ずっと基準にしていた「大衆」ってのに、吉本さんはうらぎられてしまったみたいなことを中沢さんがちらっとおっしゃっていて、どういう意味かはっきりしたことはわからないけれど、妙に深く納得してしまった。わたしは、いまの日本の我々「無名の一般大衆」の心がひどいことになっているというのは常々思っていて、それと関係があるのか知らん、とか。
 
すぐ近くのミスタードーナツ バロー市橋ショップに寄る。ポンデ宇治抹茶 和三盆わらびもち+ブレンドコーヒー528円。
 図書館から借りてきた、岩田慶治道元との対話』(文庫版2000)読了。まずは道元をわたしに一気に近づけてくれて、ありがとうといいたい。徹底して主観的な道元の読解であり、まさにこうでなくては。著者独自の「柄」と「地」という二項対立を使ったりして道元を読み込み、著者と道元が渾然一体となっている。そんなすばらしい本だ。以前は『正法眼蔵』とかとても読む気がしなかったのだが、いまは(どーせ理解できないだろうけれど)読んでみてもいいかなと思っている。
 それにしても、よくこんな(文化人類)学者がいたもんである。生粋の東洋的精神。もう、皆んなかしこくなってしまったから、ほとんど誰も理解しまい。

 
夜。
去年10~12月のブログ本を読む。
 
『トモちゃんは女の子!』第9話まで観る。うん、思っていたよりずっと中身の詰まった作品だな。キャロルは天然の変人かと思ったら、みすずも読みまちがえていて、じつは真っ直ぐな女の子だった。雨降って地固まる。みすずとキャロルのやり取りは、見応えがあってちょっと感銘を受けてしまった。ここではトモちゃんは脇役でした。いい作品。

ニルス・レンスホルトを聴いてみる / 詐欺の時代

深夜起床。
 
NML で音楽を聴く。■ベートーヴェン交響曲第二番 op.36 で、指揮はチャールズ・マッケラススコットランド室内管弦楽団NMLCD)。■シューマン交響曲第一番 op.38 で、指揮はヘルベルト・フォン・カラヤンベルリン・フィルハーモニー管弦楽団NMLCD)。聴き始めてすぐ、カラヤンさん、シューマンはそんなに巨大じゃないんですよ、っていいたくなった。遅く大きすぎて鈍重、粘っこいシューマンであり、わたしはもっと軽快でスピーディ、小さなシューマンの方が好きである。あたかも、大きすぎて動きにくい象さんでもあるかのよう。でも、これはシューマンではない、というのも躊躇われる、だって、この演奏から何も得られないどころか、その反対だからだ。これは(皮肉ではなく)シューマンを裏側から照射しており、その「本質」を教えてくれるところがあるのだ。敢て、これもまたシューマンだ、といいたい。
 
曇。
■ニルス・レンスホルト(1978-)の「感情と経験の保管庫 第一巻 - 鳥たち」で、ピアノはレニオ・リアツー(NML)。まったく知らない現代音楽作曲家であるが、あるブログで強く勧められていたので、聴いてみた。しかし、NML で検索してみると、どれも曲が長い。これも 40分を超える長さで、正直いって現代音楽でこの長さは、たいていめっちゃしんどいのである。
 恐る恐る聴いてみたのだが、じつに、これが聴きやすいのだ。断片的であり、また現代音楽の「病的な」ところが感じられなくて、たくさんの氷柱(つらら)に乱反射する日光の燦めきというか、また「鳥たち」の囀りといってもいいが、そしてメシアンの「鳥たち」とちがうのは、その聴きやすさである。42分間、楽に聴けた、けれども、退屈ではない、独創的なのだ。たいそう感心した。
 ただ、懸念があるとすれば、あまりにも清潔で、(わたしには)おしゃれすぎるかも知れない。土くささがまったくないのだ。悪い意味で、ある種のおしゃれなモダンアートに親和性があり、疲れた都会人の「癒し」として、消費されてしまうようなところがあるのは否めない。都心のセレブでおしゃれなタワマンの、超モダンな一室の BGM としていかにも合いそう、とか。
 まあしかし、それでもいいではないかと思う。独創的で聴きやすいんだから。ニルス・レンスホルトはデンマークの作曲家で、ラスムッセンとセアンセンに師事。サウンド・アーティストでもあるという。

 

 
スーパー。半田めんに添える天ぷら(えび天、イカ天)を買わなかったので、安く済んだ。あれが結構高いんだよなあ。
 
コメダ珈琲店各務原那加住吉店にて昼食。いつものミックストースト+ブレンドコーヒー1160円。おなかいっぱい。
 
夕方まで Ruby で遊んだり、Qiita をチェックしたり、YouTube をだらだら観たりなどして、怠惰に過ごす。つい民放のニュース動画をいろいろ観て、フェイスブックでの投資詐欺広告(LINE に誘導し、ホリエモンなど、有名人の声を偽造した音声ファイルを聞かせたりして、騙すのである)の話だとか、ネット・サブスク詐欺(いまは服のレンタルのサブスクとか、ホテルに安く泊るサブスクだとか、いろんなのがあるのだな)についてだとか、まあ詳しくなったのだが、こんなこと詳しくなってどうするって感じでもあり、普段こういうのはあまり観ないようにしているのだが……我ながら現代人の罠にハマっているぞ。
 それにしても、わたしはよく知らないのではあるが、現代において詐欺は(特に国際通信網やインターネットと結びついて)一大産業になっている感があるな。現代の資本主義が、ありもしないところに欲望を「捏造」し続けていくという点で、そもそも詐欺みたいなものだから、それと親和性が高いのである。
 高度資本主義と広告的欲望。ラカンじゃないが、欲望とは他者の欲望である、まさにそれそのままじゃないか。ってまあ、そんなこと、とうに言われ古しているけれどね。
 いまは詐欺が「最先端」なのかも知れないな。国家ぐるみで詐欺まがいのこと(あるいは詐欺そのもの)をやっている国もあるし。日本は、そうじゃないといえるか?
 ネトウヨじゃないけれど、思想も詐欺みたいになっている時代だよ、いまは。新書本なんか、何らかの点で「詐欺」を含まないそれ(特に哲学、社会科学関係)なんか、めったにないだろう。それがいけないというわけじゃない、というか、それが時代に求められているのだから、仕方がないのだろうが。いや、わたしごときが、いいすぎ?
 
#
 
夜。
How to hug girls properly - YouTube
ワロタ。高評価が2万を超えてるんですけど。コメント欄もクッソ笑える、海外ニキたち。
 
『お兄ちゃんはおしまい!』を観返しながら寝落ちする。

「Winny」(2023)を観る

日曜日。曇。
 
NML で音楽を聴く。■ブルーノ・マントヴァーニの「一声で」で、演奏はトリオ・ヴァンダラー、「アッルンガレーセ」で、ヴァイオリンはジャン=マルク・フィリップス=ヴァルジャベディアン、ピアノはクレール・デゼール(NMLCD)。■シュトックハウゼンピアノ曲 V, VII, VIII で、ピアノはデイヴィッド・チューダー(NMLCD)。1959年の録音。■ヨゼフ・スークのセレナード op.6 で、演奏はオルフェウス室内管弦楽団NMLCD)。よい。■ヴィヴァルディのフルート協奏曲 ヘ長調 op.10-1 で、フルートはパトリック・ガロワ、オルフェウス室内管弦楽団NML)。

ヴィヴァルディ:フルート協奏曲集

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イチゴ初物。

 

 
昼。雨。
『Winny』の金子勇さんの失われたED法を求めて...いたら見つかりました - Qiita
金子勇さんのED法を実装してMNISTを学習させてみた - Qiita
Qiita の記事で天才プログラマー・故・金子勇(1970-2013)さんのことをひさしぶりに思い出し、U-NEXT で映画『Winny』(2023)を観てみた。もう、半分くらいは泣いていたし、最後は号泣してしまったが、そんな風に感情的に観るべき映画ではないだろう。
 金子勇さんのことは知らなくても、P2Pファイル共有ソフトWinny」のことを知っている人は少なくないだろう。このソフトを使って「著作権侵害行為」が行われたり、PC がウィルスに感染して公的な情報が一般に流出したりして、最後は「Winny」の作者である金子さんが逮捕される(2004)など、社会的な事件になった。この映画は、その発端から地裁裁判までを描いたものである。事件が詳しく扱われているので、それに関しては映画を観られたい。その価値のある映画だと思う。
 「Winny事件」の本質は、映画の中でも出てきたが、例えばナイフで殺人が行われた場合、ナイフの製作者を罪に問えるのか、というものだ。わたしはこの事件のことをそこまで詳しくは知らなかったのだが、映画によると、コンピュータ技術のことをよく知らない警察が、世間の「空気」や警察(あるいは国家)の内部事情などで、金子さんを逮捕したようである(そのあたりのことは、もちろんはっきりとはわからない)。日本でよくある「出る杭は打たれる」であり、また日本人によくある強い「世間の嫉妬心」もあったことだろう。勤務先の東京大学も、金子さんを切り捨てた。
 「Winny」は当時の最先端技術であったが、P2P型ネットワーク技術は、いまでも進歩中であり(例えば「ビットコイン」などのブロックチェーン技術)、金子さんの逮捕で、日本のソフトウェア技術の発展がどれほど阻害されたか、計り知れないともいう。
 そして最高裁で無罪が確定してほどなく、金子さんは42歳の若さで亡くなる。個人的な話だが、映画で描かれた金子さんの子供時代は、田舎で最先端のコンピュータ雑誌を見ながら、電気店でパソコン(当時は「マイコン」といっていた)をいじるというもので、まさにわたしも岐阜のそういう小学生だった。『ASCII』とか『I/O』などの雑誌が田舎の本屋に並んでいる映像はわたしの記憶と同じで、なつかしすぎてたまらない。金子さんは、わたしと同世代だった、その中の突出した存在だったのだ。
 監督・脚本は松本優作、主演は東出昌大。126分。 
夜。
寝ころがって iPad mini でバッハのイタリア協奏曲を聴く(NML)。マルティノヴァのこの演奏は 1.23 に聴いた。
 もう一度聴く。強引なところはあるが、活きのいい演奏。
 
バシュラールを読んで早寝。

イタロ・カルヴィーノ『柔かい月』

深夜いったん目覚める。また眠り、朝七時起床。結局、九時間以上寝たか。
気取った中年の細身のおっさんが踊る夢、口にバラでも咥えていそう。場末の小さな喫茶店、でもないな、白っぽい板張りの、小さなスペース。レコードで音楽が流れる。
曇。いや、黄砂か。
 
アニメ「トニカクカワイイ(シーズン2 )」ノンテロップED - YouTube
夜のかたすみ - YouTube
アニソンが頭の中でぐるぐる回っているバカで幼稚なわたくし。
 
NML で音楽を聴く。■ハイドンピアノ三重奏曲第二十一番 Hob.XV:21 で、演奏はトリオ・ヴァンダラー(NMLCD)。なかなかチャーミングな曲。
 
 
1~3月の自分のブログ本を読む。
昼飯のエンドウと玉ねぎの味噌汁がうまかった。あと鯛みそ。
 
老母が市民講演会を聴きにいくので、産業文化センターまで送っていく。
帰りに肉屋、カレー肉やラーメン用焼豚など。
新緑のいちょう通りをポニテの女の子が大胆にヘソを出した格好で歩いていた。田舎だけれど、おしゃれしてるんだなあ。曇っているのに、外気27℃。
 
裏庭。

山吹。

シャガ。
 
「ぐるぐるライブ」畑 健二郎先生描きおろしミュージックビデオ - YouTube
 
夕方、老母を迎えにいく。
ドラッグストアへ寄る。どこもセルフレジ化が進んでいるな。
 
 
イタロ・カルヴィーノ『柔かい月』(元本1971、文庫版2003)を読み始める。脇功訳。モダニズム、軽さ、ナンセンス。
 何か読もうと積ん読の中からテキトーに引っぱり出した。カルヴィーノ、ひさしぶりに読むな。澁澤龍彦カルヴィーノ、好きだったのを思い出す。いまでも読まれているのか知ら。
 
夜。
イタロ・カルヴィーノ『柔かい月』読了。ナンセンス。しかし、わたしが例えば数論幾何の専門書を読んでも、ある人には意味のあるそれが、わたしには同じくナンセンスである。そしてそのようなナンセンスは、読書においてわたしの常態だ。

はてなブログタグで「イタロ・カルヴィーノ」を検索していろんなブログを覗いてみたが、まったく「文学」好きには多くうんざりさせられるね。わたしは「文学」というものがわからないが。でも、カルヴィーノみたいなのは、決してきらいでない。
 
『トモちゃんは女の子!』(2023)第5話まで観る。おもしろい! トモちゃんは「女の子として見られてない!」って思ってるけど、全然そんなことないよね。また、トモちゃんの友だちがいい。癖が強いけれど、みすずもキャロルもちゃんと親友してる。続きが楽しみ。

ベアトリーチェ・ラナというピアニストを聴く

昧爽起床。晴。黄砂飛ぶ。
 
NML で音楽を聴く。■ショパンのピアノ・ソナタ第二番 op.35 で、ピアノはベアトリーチェ・ラナ(NML)。昨日この曲をつまみぐいしたので、全曲聴きたくなって NML で適当に選んで聴いてみた。このピアニストについては何も知らない。強引で乱暴な、いわば荒削りな演奏だが、大きさと深みがあってじつにおもしろい。よい意味で野蛮な演奏。ベアトリーチェ・ラナ(1993-)はイタリア出身で、ヴァン・クライバーン・コンクールで銀賞その他の受賞歴があるが、これがコンクールで評価されたとはちょっと驚く。ま、大きなダイヤの原石といえ、それが評価されたのだろうな。すっくと直立する世界軸 axis mundi には素直に感心した。音はきれいとはいえない。

■同じディスクにベートーヴェンの「ハンマークラヴィーア・ソナタ」が収録されている。正直いってこのソナタは長くてしんどいので、頻繁に聴くわけにはいかないが、一枚のディスクに若手がショパンベートーヴェンの大曲を収めるとはなかなかにナマイキ(?)なので、ちょっと聴いてみた(NML)。結論からいうと、ショパンと同じようにスケールの大きな演奏だが、(わたしには)あまりおもしろくない、あちこちつまみぐいしただけで終わった。晩年のベートーヴェンを演奏するには、まだまだ人生経験が足りない、とでもいった感じ(本当に彼女の人生経験が浅いといっているわけではありませんよ、たんなる比喩です)。
 なお、検索していると彼女のディスク、「ゴルトベルク変奏曲」の録音の記事が結構ある。へー、大曲を好んで演奏するのかな、ナマイキだ(笑)。ちなみに「ゴルトベルク変奏曲」を録音するピアニストはいまはとても多くて、このしんどい曲を、いちいち聴いていられない。ほんと、グレン・グールドの影響はすごいな、ってなる。
 
■上でショパンがおもしろかったので、練習曲集 op.25 を同じベアトリーチェ・ラナのピアノで聴いてみる(NML)。一般的にショパンの練習曲集 op.25 は op.10 に比べ、落ち着いていて詩的、そんな風にいわれることが多いと思うが、なるほど、ラナのショパンの抒情的な表現は見事なもので、じっくり聴かせる第7曲が、この曲集のラナのベスト演奏なのかも知れないなと感じた。こういう表現もできるんだな。しかし、最後の二曲のようなバリバリとちょっと強引に弾いていく魅力もあって、このピアニストの大きさと(特に)深さはやっぱりめったにないもの。うん、ラナにショパンは合っていると思う。 

 
スーパー。火曜日にプリペイドカードをチャージすると10,000円につき 50ポイントくれる、ってのがあったのだが、そのサービスはもう終了した筈だったんだよね。でも、知らぬ間に延長されていて、今日(金曜日)チャージして 200ポイント分損した笑。
今日は液体物をやたら買って重かったー。
 
昼寝。
ハッピーターンとクランキーチョコとむぎ茶で休む。

 
クララ・シューマン(1819-1896)のピアノ協奏曲 op.7 で、ピアノはベアトリーチェ・ラナ、指揮はヤニック・ネゼ=セガン、ヨーロッパ室内管弦楽団NML)。クラシック音楽の歴史の中で女性の作曲家はきわめて少なく、クララ・シューマンはその中で大物なので、最近はいろんな曲が掘り起こされ、次々と録音されている。わたしは怠惰なのでクララはあまり聴いたことがなく、聴いてもピンときたことがなかったが、これはおもしろかった。クララ・シューマンが独創的な作曲家だったことを初めて実感した。
 この曲はクララがまだ14歳のときの作品で、オーケストレーションなど、ロベルト・シューマンが手を貸して作曲されたそうである。初期ロマン派の清新なロマンティシズムを感じる。 

 

庭のアマドコロ。
 
夕食にエンドウの卵とじ、その他野菜中心の献立を食べる。
 
丸岡章『概説 人工知能』(2024)にざっと目を通す。副題「ディープラーニングから生成AIへ」。 
早寝。

「僕は友達が少ない NEXT」(2013)を観る

昧爽起床。曇。
よく寝た。
 
昨日アップしたのとはちがう色の牡丹が咲いた。こんな色の、前からあったっけ?

フランス菊が咲き出した。ネモフィラは丈夫だな、長いこと元気に咲いている。
 
小説、映画、ドラマ、マンガ、アニメ、音楽、ゲームなどのコンテンツにおける暴力表現の氾濫を見ると、我々が(少なくとも想像力における)暴力を好んでいる、望んでいることは明らかだ。これは現在が管理社会で、安全・安心をほとんど「強制」されることに対する(動物的な)対抗措置なのであろうか。それとも、人間は本質的に暴力を好むといえるのか。
 スポーツをしたり、スポーツを見ることの愛好も、暴力の代替措置であるとも考えられる。
 
Bruce Liu spielt Rameau, Chopin & Liszt | ORF-Radiothek
ブルース・リウの 2024.2.24 東京コンサートの期間限定配信から、ショパンのピアノ・ソナタ第二番 op.35 をつまみぐいして聴く。特に驚きのない演奏。ブルース・リウは 2021年のショパン・コンクール優勝者であるが、いまはポリーニアルゲリッチのようにはいかないなと痛感する。
 同じコンサートより、ラモーの「クラヴサン小曲集」「新クラヴサン組曲集」からを聴く。これは惹き込まれた。ラモーはそれほど聴いたことがないので、よい演奏はありがたい。才能ある若手が、往年の大ピアニストがあまり演奏しなかった曲をやってくれるというのは、いいな。ほんと、ラモーなんかはそれにぴったりだと思う。全部でほぼ20分。
 なお、ブルース・リウは CD でラモーを録音しているが(NML)、この演奏会の方がいきいきしていてずっといいと思う。同じ曲で比較してみるとよくわかる。この録音は NML でかつてちょっとだけ聴いたが(2023.11.22)、やっぱり、それのみで演奏家の才能を判定するのはムリだな。演奏家が、時によってちがう演奏をするのは当たり前なのだから。
 でもまあ、「才能」って何だかよくわかんないもんだけどね。例えばアルゲリッチの才能を疑う人はいないだろうが、じゃあアルゲリッチがいつもすばらしい演奏をするかというと、そうとは限らないわけだし。
 

 
昼食のパスタに自家製パセリと初物タマネギ。うまい。
 
ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。カスタードクリーム+ブレンドコーヒー462円。
 岩田慶治道元との対話』の続きを読む。道元ってきわめて厳しい人で、『正法眼蔵』なんてとてもわたしには読めないだろうと敬して遠ざけてきたのだが、本書を読むと、わからないなりに読んでいいんじゃないかと思い始めた。道元からの引用を読んでいると、そんな感じ、架蔵して眠っている岩波文庫本にでも、目を通してみるか。
 しかし、岩田慶治という人、こんな東洋的精神のかたまりのような人が、かつてはまがりなりにもアカデミズムの中に存在できたなんて、驚きである。いまでは不可能なのではないか、知らんけど。もっとも、アカデミズムの中で、当時でもたぶんまったくの異端、傍流の人だったろうが。
 
ひさしぶりにカルコス。2.13 以来か、本当に行かなくなってしまった。無くなったら困る本屋なのだから、もっと行かないととは思うけれど、本はあまり買っていけないことになっているしなあ。
 今日の釣果。ちくま学芸文庫で『概説 人工知能』(2024)。西野嘉章チェコアヴァンギャルド』(平凡社ライブラリー2024)。岩波文庫でカントの『人倫の形而上学 第一部』(文庫2024)、ゲルツェン『ロシアの革命思想』(文庫2024)。「これは欲しい」と思う本だけ買ったが、文庫本4冊で6000円超えかよ、きびしいなあ。
 ちくま学芸文庫で『資本論』の新訳が刊行され始めたが、最初はレジにもっていこうとしていたのだけれど、あやうく思いとどまった。
 新書本も何か買おうと思っていたが、いろいろ見ても気が滅入るばかり。いや、こちらの感性がにぶっているだけでしょうけれどね。
 

 
道元との対話』を第三章まで読む。わたしごときに本書がわかるとはいえないんだけれど。そもそも、テキトーに眺めているだけで、読んでいるとはいえない(わたしはどんな本でもそんなものだ)。でもまあ、わかんないともいえない。ただ、わたしは余計な知的にむずかしすぎる本を読み過ぎで(どーせ、よくわかっていないのだ)、それらを解体し尽くしていないということは確か。って、たんに未熟なだけなんだけど。
 
夜。
夕飯に蕗(フキ)とじゃこの当座煮。蕗は採れたてのせいか、やわらかくてクセもなく、みるみる減っていった。
 
僕は友達が少ない NEXT』(2013)第12話(最終話)まで観る。2期はラブコメ成分多い。やー、最後までぬるま湯で終わると思っていたので、修羅場展開はちょっと驚いた。まあしかし、またうやむやなのかな、そこはよくわからなかった。でも、このダブルヒロイン、選べないでしょ、原作はどうなってるのかな。
 どうでもいいが、うすうすそうじゃないかと思ってたけど、これ、聖地は岐阜とか名古屋だよね。各務原と犬山の間の犬山橋とか、名鉄でえっと思い、JR名古屋駅構内で確信した。いわれてみれば、JR岐阜駅のホーム待合室もそうだ。岐阜市内の長良公園は知らなかったが。てか、買い物で名古屋へ行くってんだから、舞台は(いちおう)岐阜ってことかな(群馬も混じっているらしい)。岐阜はアニメの聖地、かなり多くてうれしい。って俺バカ?

調べてみると、なるほどー、原作の舞台ははっきりと岐阜や名古屋がモデルになってるのね。アニメでは関東が混じっているというわけか。また、原作の終わり方も調べた。まーこれはどう終わっても不満が出るよねー、仕方がないと思う。