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ナムジャイブログ

2024年05月06日

数字が頭に入らない

 このところ、身近なトラブルが相次いだ。まず、使っているスマホの電話がなぜか使うことができなくなった。かけることも、受けることもできない。キャリアの会社のオフィスにもち込んだ。原因はわからず、結局、別の機種に変えることになった。新しい機種になったが、いくつかのアプリは再設定が必要だった。ユーチューブはそのまま新しい機械に移行されたような感じだった。ところが昨日、2週間に1回のライブでトラブルが起きた。はじめのうちは正常に作動していたのだが、途中から接続できなくなった。理由はよくわからない。
 1週間前、いつも乗っている自転車の後ろのタイヤがパンクした。自転車屋にもち込むと、タイヤが裂けていた。もう10年近く乗っている自転車である。
「前のタイヤもそろそろ裂けるかもしれません」
 自転車屋からそういわれた。
 今週、撮った写真がパソコンから消えてしまった。業者にもち込むと、修復はかなり大変……という診断を受けた。そこにはいま、原稿を書いている熊野古道の写真も含まれていた。また撮りにいく? 熊野古道に行くには東京からかなりの時間がかかる。どうしたらいいのか、悩んでいる。
 再設定や修理、修復に出すとき、本人確認のために僕の携帯電話の番号が必要になることが多い。しかし僕は自分の電話番号を覚えていない。
 携帯電話は30年以上前に買った。以来、電話番号は変わっていない。しかし覚えることができない。自分にかけることはないから……といういい訳も、これだけ長く同じ番号を使っていると通用しない。
 僕の頭のなかに入っている電話番号は、自宅と実家の固定電話の番号だけだ。ふたつしか覚えていない。30年以上前に携帯電話番号を取得したが、3番目の番号は脳の記憶細胞に入ってくれないのだ。
 電話番号に限らず、僕は数字を覚えることが極端に苦手だ。暗証番号も覚えられない。ホテルのなかには、入室の際に番号を打ち込むスタイルのところがある。覚えられないからついメモに書き込む。
 これは我が家だけかもしれないが、妻と娘は僕よりはるかに多い番号を覚えている。自分の電話番号を娘に訊くと、たちどころに教えてくれる。
 これは女性と男性の能力の違いだろうか。
 自分の番号記憶力が低いことを棚にあげ、そんなことも考えてみる。
 そういえば、受験のとき、世界史や日本史の年号を覚えるのに苦労した。4桁の数字の暗記は大変だから、年号をひとつ覚え、その何年後、何年前……という方式をとった。桁数が少なければ覚える負担も少ないと思ったからだ。そんな数字の記憶も、受験が終わると、僕の頭のなかからすべて消えた。
 昔、痴ほう症が進んだ人の脳の画像を見たことがある。人の記憶はニューロンという神経細胞と、それをつなぐシナプスで構成される。その画像は、細胞やシナプスがなく、戦争で出現した焼け野原のようだった。数字が記憶されない脳。ときどき、あの画像を思いだしてしまう。

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Posted by 下川裕治 at 14:29Comments(0)

2024年04月29日

貧しくなった日本人の生きる道

「もう限界なんじゃないかな」
 今年の1月、日本にいるバングラデシュ人にいわれた言葉が突き刺さっている。
 1ドルが158円台にもなる激しい円安のなかでクラウドファンディングをはじめた。
https://camp-fire.jp/projects/view/750052
 僕が運営にかかわっているバングラデシュの小学校の緊急支援である。昨年末、学校が盗難に遭い、電気系統や天井の扇風機が盗まれてしまった。すでにバングラデシュは暑くなっている。早く扇風機ぐらいは……という思いのなかでの緊急クラウドファンディングである。
 この小学校とのかかわりは34年前に遡る。親しいフリーランスのライターがバングラデシュで死んだ。熱帯性マラリアだった。彼は民主化運動への弾圧から逃れてバングラデシュに逃げ込んだミャンマーの学生の取材中にマラリアに罹った。彼はバングラデシュへの援助とは無縁だったが、死後、周囲の友人たちから寄付が集まりはじめた。貧しいバングラデシュ人を助けたい……その額はあっという間に300万円を超えた。その資金を手に僕はバングラデシュに向かった。学校運営はそこからはじまった。
 日本人支援者の声は熱かった。
「援助はするけど、そのなかでどうやって自主性の意識を植えつけるかが鍵だよ」
「日本だって戦後の貧しいなかからいまの教育体制を築いたんだ。それをバングラデシュにどう伝えるか、だな」
 皆、真剣だった。そこにあったのは、アジアのトップグループを走る経済力への自負だったのだろうか。日本の教育レベルを貧しい国とシェアしていこうとする精神だったのだろうか。僕はそれを聞きながら、現地でうまく伝えることができるかどうかと悩んでいたが。
 それからが紆余曲折。本当にいろんなことがあった。月4500タカでスタートした先生たちの給料も9000タカまで増やしていった。
 そのなかでバングラデシュは高度経済成長の波に乗りはじめる。しかし日本は不況の泥沼にはまっていく。方向の違うベクトルが、学校運営の上で交差する。
 バングラデシュの物価は急激にあがった。そして給料もあがる。公立小学校の先生の給料も年を追ってあがり、昨年、また一気にあがって3万タカになった。僕らが運営する私立学校の給与の3倍以上になってしまった。
 10年前ぐらいから、バングラデシュに行くたびに切ない思いを味わっていた。支援者は高齢化し、日本の景気は後退し、円は以前に比べれば半分ほど価値しかない。僕が提示する金額に、先生たちは言葉にこそしないが、「これだけなの?」と心のなかで思っていることは痛いほどわかった。
「もう限界かもしれない」
 長く生きていると、幕引きの役割も受けなくてはいけないのか。34年間、よく頑張りました……。そう自分にいい聞かせて。
 昨年から悩みつづけていた。あるときふと思った。僕らの援助は資金だけの世界だったのか。もっと良質な援助を標ぼうしていたのではないか。それを貧しくなったからといって断ち切っていいのだろうか。日本が豊かだったから援助をしたのだと思われたくなかった。意識は資金ではなく、別のところにあった。これからも僕らの援助額は相対的に細くなっていく可能性が高い。
 しかし伝えなくてはならないものはある。その覚悟……。それは良質な援助をめざした日本人の意地でもある。


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Posted by 下川裕治 at 12:11Comments(0)

2024年04月22日

大谷翔平とボールペンの替え芯

 今回はトークイベントの案内から。
 4月25日に、新刊の「シニアになって、ひとり旅」のトークイベントがある。
http://www.nomad-books.co.jp/
 コロナ禍が明けてはじめての書き下ろしである。新型コロナウイルスが5類になったのが昨年の5月初旬。これで自由に旅に出ることができる……と企画をたてはじめ、編集会議を経て、北海道の苫小牧に向かったのが9月。瀬戸内を吹く冷たい風のなか尾崎放哉が死んだ小豆島を歩いたのが12月。それが1冊分の取材の最後だった。年の瀬から原稿を書きはじめ……今年4月の発売になった。
 いろいろが変わった。以前はカメラマンとのふたり旅が多かったが、コロナ禍明けで予算も少なく、ひとり旅。それがそのままタイトルになった。写真も撮らなくてはならなくなった。そしてトークイベントも、ひとりである。
 歳をとるごとに負担が増えていく。これはいったいどういうことだろうか。本が売れれば、状況が変わるのかもしれないが、まだ販売状況はよくわからない。
 この本の最終のチェックをしている頃、ドジャースの大谷翔平選手がソウルの仁川国際空港に降り立った。後ろに奥さんの姿があった。野球選手として絶頂期に迎えているように映った。渦巻くファンの歓声のなかを前を見据えて歩く姿が、それを物語っていた。
 再び机に向かい、ゲラに視線を落とす。直す部分を書き込もうとすると、緑色のボールペンのインクがかすれてきてしまった。
 本になる前のゲラには、さまざまな色の文字が書き込まれている。校閲担当者の指摘は赤いボールペンで書かれる。編集担当者の疑問などは鉛筆で書き込まれることが多いから黒い。それと区別するために、僕は緑色のボールペンで書き込むことにしている。
 駅前の文具店に自転車を走らせた。見逃してしまいそうな小さな店だが、店内にはさまざまな文具がぎっしり詰まっている。かわいい文具は少ない。
 この店が気に入っているのは、ほしい文具がなくてもすぐとり寄せてくれるからだ。店を切り盛るのは高齢のおばあさんだ。
 僕がほしいのは緑色のボールペンの替え芯だった。おばあさんは、差し出した4色ボールペンを開け、虫眼鏡を手に品番をチェックする。
「う~ん。緑色は欠品ですね。とり寄せますか。少し太いサイズならありますけど」
 すぐに使いたいので、その少し太いサイズにした。81円──。
「太いけど、この方が感触が柔らかいから、すらすら書ける気分で好きって人もいますから」
 そういっておばあさんは少し頬を緩めた。
 自宅に帰り、ゲラに緑色のペンで書き込んでいく。たしかに書き心地が軽い。なんだか幸せな気分になる。
 大谷翔平の世界に比べれば、あまりに小さな幸せかもしれないが、僕はどこか満たされた気分でゲラに向かう。
 彼の通訳が賭博に染まっていた事実が飛び込んでくるのはそれから数日後のことだ。
 次々に届く続報を耳にしながら、大谷翔平という選手を少し身近に感じられるようになった。人生にはいろんなことがある。それを支えるのは大きな幸せではない。日々の小さな幸せ……。
 この本は花巻にあるマルカンビル大食堂からはじまる。日本に残ったデパートの大食堂だ。花巻東高校に通っていた大谷翔平もここに行ったはずだ。そこには高校生の彼の小さな幸せがあった気がする。トークイベントはそんな話からはじめようか。

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Posted by 下川裕治 at 11:55Comments(0)

2024年04月16日

【イベント告知】新刊『シニアになって、ひとり旅』発売記念

下川裕治(共著)の新刊『シニアになって、ひとり旅』発売を記念して、トークイベントを開催いたします。

詳細は以下です。ぜひ、ご参加ください!

◆下川裕治さん  トークイベント◆

「シニアになって、ひとり旅」(朝日文庫)
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新刊『シニアになって、ひとり旅』(朝日文庫)の発売を記念して、旅行作家の下川裕治さんをお招きして、一人で巡るシニア旅の楽しみ方についてスライドを眺めながらたっぷりと語っていただきます。

前作『旅する桃源郷』では、ラオスのルアンパバーン、パキスタンのフンザ、ウズベキスタンのサマルカンド、チベットのラサなど、それらの地がなぜ桃源郷なのかを自身の人生を重ねながら綴っていた下川さん。

新刊は、花巻のデパート大食堂に行ったり、小湊鉄道のキハ車両に乗って子供のころの記憶を辿ったり、苫小牧発仙台行きフェリーや東京の路線バスの旅に出たり、尾崎放哉の足跡を追って小豆島のお遍路を訪れるなど、シニアならではの国内旅を紹介した紀行エッセイになっています。

70歳間近になった今も精力的に旅を続ける下川さんだけに、シニアならではの旅の楽しみ方についての貴重なお話が聞けるはずです。下川ファンの方はもちろん、ひとり旅に興味のある方や国内の旅が好きな方はぜひご参加ください!

ご予約はお早めにお願いします。

※トーク終了後、ご希望の方には著作へのサインも行います。



下川裕治 (著)
シニアになって、ひとり旅

朝日文庫刊


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●下川裕治(しもかわゆうじ)

1954年長野県松本市生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。新聞社勤務を経てフリーに。アジアを中心に海外を歩き、『12万円で世界を歩く』(朝日新聞社)でデビュー。以降、おもにアジア、沖縄をフィールドに、バックパッカースタイルでの旅を書き続けている。

『「生き場」を探す日本人』『シニアひとり旅バックパッカーのすすめ アジア編』(ともに平凡社新書)、『ディープすぎるシルクロード中央アジアの旅』(中経の文庫)、『日本の外からコロナを語る』(メディアパル)など著書多数。  

◆下川裕治さんブログ「たそがれ色のオデッセイ」
http://odyssey.namjai.cc/

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【開催日時】 
4月25日(木)
19:30 ~ (開場19:00)

【参加費】  
1000円(会場参加)
※当日、会場にてお支払い下さい

1000円(オンライン配信) 
※下記のサイトからお支払い下さい
https://twitcasting.tv/nomad_books/shopcart/249241

【会場】
旅の本屋のまど店内
 
【申込み方法】
お電話、e-mail、または直接ご来店の上、お申し込みください。
TEL&FAX:03-5310-2627
e-mail :info@nomad-books.co.jp
(お名前、お電話番号、参加人数を明記してください)
 
※定員になり次第締め切らせていただきます。

【お問い合わせ先】
旅の本屋のまど 
TEL:03-5310-2627 
(定休日:水曜日)

東京都杉並区西荻北3-12-10 司ビル1F
http://www.nomad-books.co.jp

主催:旅の本屋のまど 
協力:朝日新聞出版
  

Posted by 下川裕治 at 09:49Comments(0)

2024年04月16日

髪の毛はあるだけでいい

 久々に理髪店に行った。このブログでも伝えたが、昨年の1月あたりから一気に頭髪が抜けはじめた。2ヵ月ほどで、髪の毛の7~8割はなくなってしまった。皮膚科のクリニックでは対応ができず、大学病院へ。円形脱毛症の全頭版と診断された。
 病理は自己免疫疾患説が有力だ。ある種の白血球であるTリンパ球が毛根を異物と誤認し、攻撃してしまうことで起きる……。頭皮を軽くかぶれさせるという治療を受けた。それを治すために白血球が集まってくる。かぶれが治ると白血球は去っていくが、その際、Tリンパ球を道連れにするというカラクリを、医師は図を書きながら説明してくれた。
 その方法に効果があったのかはよくわからない。昨年の秋ぐらいには、なんとなく髪の毛が生えてきたような感覚があった。昨年暮れには、頭髪が戻ってきたことを実感した。
 しかし理髪店に行くほどの髪の毛の長さではなかった。髪の毛はその後ものびたが、やがてなんとも不揃いな髪型になった。髪の長さは均一なのだ。髪の毛が更地から芽を出した雑草のように一斉に生えてきたわけだから当然だった。男性は、ときどき理髪店に出向いてそろえてもらう。つまり髪の毛の長さに長短があって、一応、髪型になる。その髪型がない状態だったのだ。
 そろそろ行くか……。1年5ヵ月ぶりの理髪店だった。
 髪の毛がなくなっていくつかの発見があった。炎天の日射しがきつく、パラッときた雨に敏感になった。そして電車でよく席を譲られるようになった。髪の毛がないと、やはり老けて見えるものらしい。髪の存在が与える印象というものがあるようだ。
 僕は隔週で、「旅の本屋のまど」からライブを配信している。ときどき新刊のトークイベントも行っている。4月25日には、新刊の「シニアになって、ひとり旅」のトークイベントもある。
http://www.nomad-books.co.jp/
 ライブをよく観る人やイベントに参加してくれた方は、髪がなくなると変わる印象に気づいていたのかもしれない。
 しかし……。
 3月の下旬、沖縄にいた。鹿児島からフェリーに乗って那覇に行く取材だった。那覇では栄町市場にある「おとん」という店のカウンターに座っていることが多い。しばらく沖縄に行く機会がなかった。1年半ぶり? ということは僕の髪がほとんどなくなったことを知らない。僕はようやく髪が生えてきた話を伝えた。そして、
「なんだか髪が不揃いで、そろそろ理髪店に行こうかと思ってるんだけど」
 と伝えると、こういわれた。
「前と変わらないじゃない?」
 これでも一応、髪型を気にしていた身には肩の力が抜けるような言葉が返ってきた。
 そういうことなのか。
 髪がなくなると、一気に老けた印象を与える。しかし髪が生えてくると、その髪型を周りの人は気にしない……。つまり髪の毛は、あればそれでいいということなのか。髪型は自己満足にすぎなくなる。理髪店の存在が全否定されてしまうではないか。いや、これは髪型をあまり気にしない僕だけの話なのだろうか。髪の毛はあるだけでいい……。僕は少し悩んでいる。

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