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第六回 現象学(1)

第六回 現象学(1)

 今回は現象学を取り上げます。ただ、まず現象学とはどういったものなのかを知らなければ、それを文芸批評に生かすことはできません。そのため、今回はちょっと哲学しちゃいましょう。主役はフッサール。ドイツ人です。

 フッサールは哲学者です。ならば、「現象学」などといわずに「哲学」といえばいいのですが、彼は他の哲学と、自分の哲学とを区別しようとしました。今までのやり方では、哲学は厳密な、根本的な学問にはならないと考えたからです。

 しかし、哲学がちゃんとした学問ではないなんて、ちょっと不思議な気がしませんか? しかし、よく考えてみて下さい。「哲学」という言葉は、最近、色んなところで使われていませんか? 例えば、「社長であるための哲学」とか、「ファッションの哲学」とか。それらはもう、「人生観」とか「考え方」程度の意味でしか使われてはいません。フッサールは、学問として扱われている「哲学」も、これと同じような状況にあるのではないかと考えました。

 「哲学は、人を感心させたり驚かせるような知識の量や、考え方ではないのではないか? そんなことよりも、物事をありのままに見る能力とか、考え方の筋道をきちんとたどる能力を学ばなければいけないのではないか?」

 そうフッサールは考えました。

 するとどうでしょう、何かに似てきませんか?

 そう、自然学です。「1+1=2」や、「地球は自転している」とかいった、実証できることしか論理の対象にはしないという考え方です。しかし、哲学は目には見えません。そこでフッサールは、こんなことを言いました。

「哲学とは、自然科学よりももっと根源的な、そして普遍的な意識の問題を考えるべきである」

 自然科学よりも根源的な、普遍的な意識とは何でしょう? それを考えるにはどうしたらよいのでしょう? 

 私たちは、「自分たちが生きている世界は、ちゃんとここに存在している」とか、「本で読んだり、誰かに聞いたりした、この世界の情報は、だいたい正しい」と思っています。例えば、「地球は丸い」だとか、「昔は、恐竜がいた」とか。そういう考えは、もう常識のように思っています。フッサールはこういった考えを「自然的な態度」と呼びました。しかし、フッサールはこの「自然的な態度」が問題だと言いました。

「全部捨てちまえ」

 そこまでは言いませんけれど、「いったん横に置いておけ」と言いました。何故、一旦横に置いておかなければならないのか? それを説明していきましょう。

①恋人のことを想像(意識)する時、確かにその恋人は実在します。しかし、死んだ人を意識したところで、その人はもう実在しません。また、「目の代わりにペットボトルのフタがついている男」というものを想像(意識)しても、そんな男は実在しません。意識したものが全て存在するとは限らないのです。

②ある思春期の男の子が、授業中に裸の女性のことを想像(意識)しています。そして、下半身が固くなってきました。

「やばいぞ。おれが今、裸の女を意識したからだ」

 そう思ったといういうことは、「意識したということを意識した」ということになります。また、裸の女を想像したことを恥ずかしいと思ったことを自覚したとしたら、「意識したことを意識したということを意識した」ということになります。

 ①のように、そこにあるものを意識することを、フッサールの師匠、プレンターノの言葉では「外部知覚」といいます。②のように意識しているということを意識することを、同じく、プレンターノの言葉で「内部知覚」といいます。

 ①のように実在しないものを意識できるのは、心の中にそれが実在するからです。死者も、心の中には記憶として残っていますから。

 また、②のように意識するということを意識することができるのも、心の中に「意識したもの」があるからであり、それを意識すれば、「意識したということを意識した」ことになります。

 つまり、①も②も、心の中のものを存在するものとして扱わなければできないことなのです。心理学ですね。

 しかし、これにフッサールは反対しました。心の中は、個人個人で違います。そんなものを基礎にした考え方は、どんどん間違った方向に進んでしまうというわけです。最初を思い出して欲しいのですが、フッサールはこんなことを言っていました。

「哲学とは、自然科学よりももっと根源的な、そして普遍的な意識の問題を考えるべきである」

 では、フッサールのいう「意識」とは何なのか? 

 それは「純粋意識」というものです。つまり、主観などというものはないというのです。

 目の前の人が、長身だったとします。それを見て「ああ、背が高い」と思う。それさえも、それはそう信じているだけだというのです。それは、「原信憑」(人間が誰でも持っている、目に見えるものを信じようとする根本的な力)によるものだ、とフッサールは言いました。だからこそフッサールは、「自然的な態度」は一旦横に置いておけ、と言ったのです。

 全てのことは、一旦カッコでくくって、横においておけ。これが、現象学の第一歩で「判断中止」というものです。

 しかし、「判断中止」をしてしまうと、「これは何々だ」と断言できるものはなくなってしまいませんか? 困りましたね。しかし、フッサールは強いのです。

「その通りだ。確かなことが分かるものなんて何もないんだ」と、まるで失恋した思春期の若者のような無茶を言います。ただ、こうも言っています。

「たとえそうであっても、意識に直接うったえてくるものがあるなら、それがどんなものか分かる筈だ」

 うーん。どうも納得がいきません。「判断中止」してしまえば、何も分かる筈はないのですが…。しかも、「純粋意識」といわれても、意識なんてものは、ごちゃごちゃな筈です。さっきまで考えてていたことも、次の瞬間にはもう形を変えてしまっている筈です。

 しかし、フッサールはやはり強いのです。

「そういう考え方こそが、経験主義に毒された考え方だ!」

 そう言い放って、こうも言うのです。

「いくらとらえどころがなくても、我々に赤い色は見えているし、音も聞こえている。ということは、直感的に色と音との本質的な違いをとらえているのだ!」

 その、直感的にとらえたものが、色や音のイデアやエイドス(両者は、プラトン哲学においては同じものです。性質や種類と考えて下さい)であるというのです。

 要するにこういうことです。

 歴史や場所といった、物事と一緒に想像してしまうようなものは全てとっぱらえ。そうやって、残ったものが純粋意識だ。

 全ての現実は、現実そのものとしてではなく、自分の意識の中にある純粋な現象として扱え(現象学的還元)。

 さて、その後にはどうするか? 

 今度は、一つ一つの物事を、想像力の中で色々に変化させて、最後にその中から、絶対不変のものを見つけるという作業を行います。そうして出てきたものが、さっき言った「イデア」や「エイドス」だというわけです。まあ、「判断中止」しているのに、想像力を使うとは何事だとも思うのですが…。

 絶対不変のものを見つける作業の過程は、文芸批評には関係ないので省きます。フッサールに興味をもたれた方は、中央公論社『世界の名著』第六十二巻を読んで下さい。千三百円です。
 
 では、今回はここまで。次回は、現象学の第二回。文芸批評が、この現象学から、どんな影響を受けたのかを見ていきます。

雨(7) 恋の季節

 高校に通い、授業を受け、友人から借りたエロ本でオナニーをしているだけで、じきに一月が経った。仲間たちが話すことといえば、相も変わらず恋の話。でも、ほとんどの友人にとって、恋=オナニーであり、「あの子が好きなんだ」という科白は、「今日はあの子で抜くよ」という意味に限りなく近かった。

 僕の恋も似たようなもので、スカートから覗く脚や胸のふくらみを見て欲情し、前かがみになって授業をやり過ごしていた。稀にショーツが見えたりしてどうしても我慢できなくなると、僕たちはトイレに駆け込んでオナニーをした。しかし、我慢できなかった者は、授業中、精液が染み出てきたことによる居心地の悪さに襲われることになり、また、青竹のような精液の臭いが梅雨の教室内に漏れやしないか気にするのだった。

 依然として下半身がじめついていても梅雨は終わり、生徒たちは夏服に身を包む。色情狂ことセミが鳴き始め、軽快な服装が気分を浮つかせる。恋の季節が来たのだ。

 しかし、いくら夏が来ても、衣替え以外に僕の高校生活に変化はなかった。

 その反面、僕と同じく照れ屋だった筈のサトシは、人が変わったように積極的になっていた。冬服と一緒に照れを脱ぎ捨てたようだった。彼はあの日の少女を追いかけ、しきりにデートに誘っていた。

 そして、二人が付き合い始めたという噂が何処からともなく聞こえてきた。僕は大した感慨も嫉妬も覚えなかったが、ある日、二人が茶道部の和室に入っていくのを見てしまった。そこで僕が目にしたのは友人のサトシではなかった。確かにそれはサトシなのだが、僕には彼がただ、一人の男に見えた。

 一人の男が、一人の女を抱いている。僕は卑怯にも、数センチ開けた戸の隙間からその光景を盗み見する。それが友を裏切ることになるとは、思いもしないで。

つづく

雨(6) 友達の好きな人

 教室では誰もが恋に落ちていた。そんな楽しく黄色の声が飛び交うクラスもタンポポの種のようにいろんなところにふわふわと散っていき、ハートで満開の桜並木を歩きながらの新しいクラス。

 そこでも同じだった。いたるところで淡い青色と淡い桃色が交錯し、僕やサトシなどの独り者は、その色をさらに鮮やかにするための緑になる。

 サトシは1年のときからの友達で、運良く2年になっても同じクラスになった。語弊があるがいつも2人一緒にいた。サトシには中学の頃から好きな人がいた。何度彼の思いと思い出と思い込みを聞いただろうか。顔は見たことはなかった。

 彼の思いは一途だった。そしてその一途な思いを聞いていると嫉妬してくる。もちろん彼にではない。人に恋をしているという気持ちに。恋に飢えていた。

  そんな渦中に巻き込まれながらも、どこか違った。僕はそんな渦に巻き込まれたいんじゃない。しかし、どこにも僕を恋に落とす人物なんていなかった。どこかに恋が落ちていなかと探すのが習慣となった。

 なかなか見つけようとも、恋なんてそんじょそこらには落ちてなんかいなかった。僕の目は視力3・0を超えていた。それでも見つからず、コンタクトでも付けようかとサトシと笑っていた。笑っている場合じゃないとも思った。

 ある雨の日サトシと一緒に帰っていると、傘の十六角形から手が威勢良く飛び出し、前を差しながら見たこともない素晴らしい笑顔のサトシがいた。

「あれあれ、あの子だよ。かわいいなあ、しかも性格もいいんだよ、これが。今日はいい日だ。明日も会えるかなぁ。話したいけどなあ。。てかどうだヒデユキ、かわいいだろ?」
 
 そんな声に気づいたのか気づいてないのか、彼女は振り返った。恥ずかしそうに手を振るサトシ。ふわっと空気を持った髪の毛は揺れ、優しい笑顔で細い手を振る。彼女は一瞬僕にも目をやった。そこには音を出しながら渦に巻き込まれる僕がいた。

 台風が来るには早すぎるが雨の多い梅雨の日だった。

つづく

雨(5) あなたが私を殺すから

 毎朝、僕は六時に起きる。六時になると、綺麗な看護婦さんが来てくれる。おはようございます。えっ? うん、最近調子いいよ。

 体温は今日も安定しているみたいだ。よかった。でも看護婦さんがもうすぐ退院だと言うと急に寂しくなる。何故だろう? 隣室のあの子に会えなくなるから? 

 誰か教えてよ。彼女が好きなのに、会うのが怖いのはどうしてなのか。もうすぐ僕は退院してしまうんだ。病気は治っても、あの子と別れるのはいやなんだ。

 今日も病室の前まで行ったのに、足がすくんでしまった。もう足は動くのに。もう熱もないのに。

 部屋に戻ってテレビを見る。でも、下半身がムズムズして、すぐに僕はトイレに駆け込む。

 またやってる。一週間も彼女を見ていないのに、僕は彼女を思い浮かべて右手を動かす。結局、彼女は顔を隠したままだけれど。

 トイレットペーパーに射精した後、僕は自分が汚れてしまったように思えてくる。ねえ、どうして君はいつも顔を隠してしまうの? オナニーする僕が嫌いだから? 

 トイレから出ると、みんなが僕を見ている気がする。

「あいつ、またやってたんだ」

「だから治るのが遅いんだ」

 そんな声が聞こえた気がして、僕は赤くなって部屋に駆け込む。


 あれ? どうして君がいるの?

 だってここ、あたしの部屋よ。

 そうだっけ。でもいいや。僕は君のことが好きなんだ。

 実はここ、あなたの部屋なのよ。

 じゃあどうして君はここにいるの?

 どうしてもあなたに会いたくて。 

 本当?

 ウソよ。

 どうしてウソをついたの?
 
 私、どうせ死ぬからどうでもいいの。

 どうして分かるの?


 あなたが私を殺すから。 


 その声にハッとなって、いつもここで目が覚める。確かに彼女は、僕が殺したようなものだった。今となってはもう思い出すことも少ないが、この夢を見る度に、僕は罪の意識でやりきれなくなる。

 何故僕はあんな恋をしたのだろう? 

 何度そう思ってみても、それはもう取り返しできないのだ。それに、あの時の僕はああすることしかできなかったのだから。

つづく

雨(4) aime

 「恋」そんな言葉が教室中を飛び交ってた頃が懐かしい。彼は、我こそはとタクシーに向かって降ってくるような雨を見ながらそう思った。「恋」という言葉は大人になっていく過程で少しづつ消えていった。今では周りにあったはずの「恋」という言葉はそれを飛び越して「愛」になってしまった。

 「恋」なんていう甘酸っぱさを含んだ気持ちは最近そう聞かない。人を好きというただそれだけだった「恋」は、知らない間に濃度を増し、深さと汚さを全体にまとわり付け「愛」と化けてしまった。そして彼は後部座席から後ろを見た。無数の雨と無数のヘッドランプが、彼を犯人として捕まえるかのように同じ方向を向いていた。

 確かにあのころ彼らは恋人だった。今降っている雨のように、愛の言葉が時を気にせず、また時が止まることを願いながら降り注いでいた。

 タクシーの運転手が「着きましたよ」と言うまで、この雨以外は思い出の中だった。ロビーの手前で振り返った彼には、上から光が降り注ぐ。タクシーの運転手はすぐにどこかに行った。もう一度あの駅へ行って、彼女を連れてきてくれれば良いのに。

 ホテルの部屋に入り、彼はすぐにベッドに横になるでもなく、シャワーを浴びるでもなく、窓際によっていった。さっきあんなにも見た雨の中に彼女の顔が見える気がした。こっちを見てくれてる気がした。

 彼女の顔は、再びとてもとても美人な顔に再生されていた。後悔の念と思い出が行ったり来たりを繰り返す。「会いに行こうか?」「もう遅い」「まだ彼女はいるかもしれない?」つまらない自問自答に期待を交えながらの夜。あの時と同じだ。

 あの時僕は17歳だった。

つづく

雨(3) 闇に降る雨

 目を開けても、そこには相変わらず雨降りの光景しかなかった。約束の時間はとうに過ぎていた。バスも電車も、車庫で眠る時間だった。彼はタクシーを止め、ホテルに向かう。行き先を告げると、車は不機嫌そうに走り出した。

 車内は雨の匂いがした。彼は雨が嫌いではなかった。梅雨時の闇に降る雨は何とも美しい。それが見えないだけに、余計美しく見える。ただ、雨の降る夜は、何もかもを不安に見せる。たとえそれが、待ちわびた再会だったとしても。

「ヒデユキ?」

 そう尋ねたかつての恋人は、相変わらず美しかった。けれど、会えない時に思い描いた彼女の美しさには遠く及ばなかった。

 闇に降る雨は、見えないが故に美しい。そして、その雨は冷たい。あれほど待ちわびた相手なのに、いざ会うとなると彼は不安を覚えずにはいられなかった。彼は彼女の問いには答えずに逃げ出した。恋に憧れ、その一方で恐れもする高校生のような行動だった。高校生と彼が違うところは、彼が恋を知っているということ。恋を知っているが故に、彼は恋の蘇生を恐れた。この機会を逃せば、もう彼女に会う口実は生まれないというのに。闇に降る雨の冷たさを、直に感じたわけでもないのに。

 彼はタクシーの中で、雨を見詰める。

「よく降りますね」

 運転手の言葉が車内を漂い、消えていった。けれど彼女との思い出は、未だ消えずにここにある。

 あの日、二人は出会ってしまった。それ故、二人は別れた。出会いと別れの間にいる時、二人は確かに恋人だったのに。

つづく

雨(2) 時

 この場からいなくなりたい。しかし彼は待つという行為は嫌いではない。期待と不安が入り混じるこの時間は、暇でも無駄でもない大切な大切な時間だから。彼は決心した。相手を待つことを。どうしようもないのだから。チクタクチクタク雨が降る。

 「時間を守れ」と誰かが言っていた。また他の誰かが「なんでもタイミングが大切だ」と言っていた。時は誰もが同じように持っているが、誰も持つことはできない。時は、時には攻撃に時には防御に時には仲間に時には敵に、時には時としてすべてのものになる。チクタクチクタク雨が降る。

 ここに来たのは5年前、この相手と最後に会ったとき以来だった。時が経てば変わっていく。すべてが時とともに動いていく。それ以来会っていなかった。いや、もうこの人にとって彼とは再会ではなく初対面となるのだろう。時が経ってしまったのだから。チクタクチクタク雨が降る。

 それでも相手は彼との再会と思ってくれているのかもしれない。彼には分からない。何をしているかも分からなくなる。それほどに彼の中にはいろんな思いが募る。しかし、、それはすべて過去である。しかし、、過去は時が流れただけのこと。思い出という言葉こそ過去のようだが、思いは現在である。チクタクチクタク雨が降る。

 彼は相手を信じて目を閉じた。そのまぶたの裏には、はるかなる思い出の道を通ってきた相手への思いが見える。相手を待つ間は、時と相手への思いとともに過ごすことにした。そう、だから彼は今一人ではない。チクタクチクタク雨が降る。

 時には逆らえない。というより、時に馴染んでいく。しかし彼の思いが時に馴染むことはない。また、時は彼の思いを左右に揺さぶることさえもできない。そう彼は必死に信じていた。絶対に変わってはいない。時なんて関係はない。この雨が降り続けているのと同じ様に。チクタクチクタク雨が降る。

 どれくらい経ったのだろう。チクタクチクタク雨が降る。チクタクチクタクチクタク彼は話しかけられた。雨なのか、それとも時なのか、彼は目を開けた。

つづく

昭和の息吹

 三島由紀夫『不道徳教育講座』を読んでいる。実は、三島由紀夫はユーモアたっぷりの、とっつきやすい人物だ。これはエッセイだが、やっていることは上質のスラップスティックなのであり、純文学ではやれなかった鬱憤を晴らしているのではないかと思えてくる。

 これを読んで、即刻「いいこと言うなあ」と感心するのはバカの所業である。何重もの鏡を用意して、逆さに映しては元に戻すという作業を行わなければ、三島が言わんとする真意は読み取れないのであって、深読みに限りなく近付いてしまうほどの注意深さによって、逆説の逆説の逆説までをも読み取り…。

 とまあ、こんなことはしなくてもよろしい。注目して欲しいのは、時代性である。

 とりとめもない会話の一例として、こんな科白が提示されている。

「君たちは何をやってたんだい」

「よっかかって来る難破船をおしのけおしのけ歩いて来たんだわ」

 前者は三島の、そして後者は頭の少し弱い、遊んでばかりいる少女の科白である。「文化は日々進歩している」などと吹聴する番組などは、一笑に付したくなる。いま、渋谷の街をうろついているバカの内、何人がこんな味のある科白を吐けるだろう?

「うぜーオトコがしつっこいからさあ、どけよって感じでー。あははー、死ねよ」

 せいぜいこんなことしか言えはしないのだろう。

 勿論、今と昔は違う。けれど、敗戦後の日本にも誇るべきものはあったのではないか。

 かつて、三輪明宏がこんな話をしていた。

 付き合ってはいないが、仲のよい女学生と男子学生がいた。女学生の方は、早く交際を始めたい。なのに、男子学生はなかなか言い出してくれない。

 するとある日、女学生は男装をして、男を待ち伏せてこう言うのだ。

「君、今夜あたり僕を奪いに来たまえよ」

 別にこの科白に関して、どうのこうの言うつもりはない。けれど、西洋文化を飲み込み、日本流に改めてしまった日本文化の息吹を感じることはできるように思える。男装した女学生はこの上なくキュートだし、この科白のあと、照れるに違いないということも分かる。

 どうして、演じるということが一般生活から離れてしまったのだろう。本音だけがいいものではないのだ。本音を隠すための、あるいは照れ隠すための演じるという行為は、生活に味を加えてくれる筈なのに。

いい小説とは? 第五回 ロシア・フォルマリズム(2)

第五回 ロシア・フォルマリズム(2)  

 では、ロシア・フォルマリズムの弱点を見ていきましょう。

 どんな考えもそうなんですが、やはりロシア・フォルマリズムも極端になっていきます。「文学を作っているのは言葉であり、言葉による技法なのだから、作家が何を言おうとしているかなどは関係ない」というところまで行ってしまいます。

 ここまでいくと、やはり少し問題がありますよね。政府を批判した小説などは、技法よりも内容を重視すべきでしょう(そういった小説は、どうも好きになれませんが)。例えば、小林多喜二『蟹工船』は、共産主義を濃く、こぉーく反映させた小説です。「内容は関係ない」なんて言ったら、小林さんがこの小説を書いた意味がなくなってしまいます。

 また、もう一つ疑問がわいてきませんか? 前回、私はこう書きました。

「こういったテクニックのない作品は、とんとんと話は進みますが、どこか物足りないと感じるものです(最近、そういう小説増えていませんか? まあ、ライトノベルならばいいでしょうが、仮にも「純文学における最大の名誉」というならば、芥川賞はもっと考えて受賞者を選んで欲しいものです)」

 疑問とは、「では、日常言語だけで小説を書いてはいけないのか?」ということです。これは、決して先ほどの言葉と矛盾する疑問ではありません。では、この疑問を晴らすために、こんな言葉を見てみましょう。

「おくれてどうも失敬。それでは早速、来月の実施事業の相談にかかります」  

「何だ、自動化された言葉だなあ」と思いませんか? 確かに日常的な言葉だし、今日も日本中で使われている言葉でしょう。しかし、これは文学的な文章ではないとはいえないのです。これはあの文豪、三島由紀夫『潮騒』に出てくる言葉なのです。

「三島の文章ならば、絶対に文学的なのか?」

 そうではありません。そういった権威主義に私は染まってはいません。つまり、こういうことです。

 「異化」された言葉ばかりを使っていては、読者は疲れ果ててしまうし、「異化」された言葉に慣れてしまい、逆に「異化効果」は薄れてしまう。だから、日常言語の間に「異化」された言葉を挟み込むこんだ方が、「異化」の効果は高まるのです。つまり、「日常言語」と「異化された言葉」のセットこそが「文学的な文章」ということです。「異化効果がある」とこちらに示してくれるのは、実は「文脈(コンテクスト)」なのです。だからこそ、先ほどの三島の文章も、文学的な文章であるといえるのです。

 コンテクストをとらえてこそ、さっきの三島の言葉も、「ああ、田舎で標準語を操れる人間はこういうふうに見えるのか」ということを読者に教えてくれる技法の一部になるのです。

 だから、「異化」こそ全てであると主張したロシア・フォルマリズムとは、やはり詩のための方法論なんですね。詩ならば短いので、全てを「異化」させることが必須になりますから。

 さて、ややこしい説明を、ややこしい言葉(異化された言葉)で説明しようとすれば、理解不能という結果が待っています。ややこしい内容は、やはり日常言語を使った方がいいのです。しかし、ロシア・フォルマリズムをかじった人は、そういった場所で日常言語を使った場合でも非難してしまっています。例えば、「読者の誤読の自由を奪ってしまっている」などと。確かにこうはいえます。「全ては誤読」であると。

 これは確かです。全ての解釈は誤っている、つまり、全てが正解だというわけです。これは、読者に様々な解釈を許容してくれる、非常に貴重な言葉です。しかし、先ほどのように、ややこしい内容を日常的な言葉で説明することを禁じてしまっては、誤読だらけになってしまいます。「誤読」というのは、ちゃんと内容を理解し、解釈した上で行わなければなりません。「深読み」というのは、センター試験以外で行えば非常に尊いものです(センター試験は、その「解釈」を試す場所なんですね)。けれど、解釈できていないのに誤読はできません。それは「勘違い」になってしまいます。

 勿論、解釈を拒否して、勘違いしようと思えばいくらでもできます。例えばこんな文章。

「非常の際は、この座席の下の赤いコックを九十度、右へ回し、手でドアを開けてください」

 よく電車に書いてありますよね。では、勘違いをしていきましょう。

 「非常の際」とはいつなのか? きっと小便がしたい時だ。ならば、ドアを開けて放尿しなければならない。

 いや、「非常の際」とは電車事故の時に決まっている。だから、たとえ電車が暴走していても飛び降りなければならない。

 「九十度、右へまわせ」と書いてある。九十回も回さなきゃならんのか。

 そう勘違いしないように、「90゜」と書いたところで、今度は九百回回す恐れがある。

 このように、日常言語でも、「異化効果がある」といえなくもないのです。しかし、そんなことをしても、ギャグにしかなりません。


 また、「異化」させようとして、「ざらついた質感」とか、「無機質な色彩」とかいった言葉を多用する人がいます。これらは過去において「異化効果」を持っていましたが、もう使い古されて、「自動化」されてしまった言葉です。こういう言葉を多用したところで、読者は不安になるどころか、「またか」と思うだけです。やはり、新たに自分で作り出してこそ、「異化」は生まれるのです。それを生み出すヒントを、尊敬する島田雅彦が明かしてくれています。これを見て最後にしましょう。

「戦略的に次のことに注意しています。

 一、構想の段階で仮想した結末を裏切ること。これは結果的に読者を煙に巻くことであり、同時に作者である自分をも欺くことです」

 これは、ストーリーを作るレベルにおいての「異化」といえます。

「二、日本語としては不自然な表現を意識的に用いて、作者が予想もできなかった方向に作品を追いやること」(以上、『夢遊王国のための音楽』あとがきより)

 これを実現するために、島田雅彦は突飛な比喩を用いることを選びました。また、他にも日本語の文法を破壊しにいきました。

「黄色い声援が飛んだ」

 この言葉は、もう自動化してしまっていて、面白くない。そこで、英語を直訳したような文章にするわけです。

「その声援は黄色だった」

 言葉自体は自動化していますが、順序を入れ替えることで「異化」されたわけですね。

 今回は、小説を書くにあたってのかなりのヒントになった筈です。では、次回は「現象学」を取り上げます。これは少し難しいのですが、がんばって説明したいと思います。

 では、感想、疑問など、何でもお待ちしています。

孕み女

 正親町天皇の御世、西暦千五百年頃、福井は三国に、絶世の美女がいた。その美しさは氷のように冷たく、また、刃物のように鋭利だった。近付けば凍えてしまいそうで、また、刺されたような痛みを感じるほどだった。

 氷のような彼女の目だが、決して澄んではいない。殺人鬼の妻のような、影のある目だった。

 彼女の幼い頃を、誰も知らなかった。何処で生まれたのか、親は誰なのか、名は何というのか。誰一人として知る者はいなかった。

「墓場から出てきたようだ」

 誰かがそんなことを言った。そんなことはある筈がないが、そうであっても不思議ではないほど、彼女の美しさは人間離れしていた。

 その美しさは、城下でも評判になり、越前領主、朝倉義景が一目見たいと言い出した。家臣は、名も知らぬ娘を城内に立ち入らせることなどできぬとして、諦めさせようとしたが、義景は「ならばわしが名を付ければよいことではないか」と言って引き下がろうとはしない。このあたり、遊芸を好んだ義景らしい。

 雪の降る昼時、娘は城内に連れてこられた。町娘である筈が、城内に入っても全く臆することなく、悠然と振舞っている。義景が名を尋ねても、「存じません」としか言わない。しかし、この態度に義景は逆に興味をそそられる。

「お前は遊女か」

「違いますが、貴方が望むなら遊女にもなりましょう」

「では、遊女になれ。それも、わしだけの遊女にな」

 その日から、娘は義景の側室になり、沙華と名付けられた。しかし実際は、正室よりも上等の扱いを受けることになった。高価な茶、興趣にとんだ香、色鮮やかな着物。しかし、どれを与えても、沙華はにこりともしなかった。

 能を見せても、沙華は顔色一つ変えずに、ただ舞台を見詰めるだけ。義景もさすがに不安になってきた。どうしてこの娘は笑わぬのだろう、と。

「おい、能は楽しいか」

「いいえ、こんなものが面白いということがありますでしょうか?」

 義景は、沙華を笑わせようと躍起になり始める。家臣にも沙華を笑わせるよう命じ、成功したものには褒美を出すことにした。

 そんなある日、一人の家臣が大急ぎで義景の許にやって来た。

「おい、無礼ではないか」

「お許し下さい。じ、じ、じじ実は今、沙華様がお笑いになられたのです」

「なんじゃと。何を見て笑ったのだ?」

「…これが、何とも酷いことなのですが…」

「よい、申してみよ」

「は、はあ。実は、屠殺場で沙華様がけたけたとお笑いになっていた、とか…」

「何故沙華がそんな汚らわしいところにいるのだ」

「それは存じませんが、部落の者がそう申しておりました。猫の死骸の山を見て、大いに笑っていた、と」

 義景は身震いした。しかし、もう次の瞬間には「猫を用意せよ」と叫んでいた。

 その日から毎晩、沙華のために猫が一匹ずつ殺されていった。沙華は、腹を裂く瞬間に最も笑った。

 しかし、二週間もすると沙華は飽きてしまった。そのため、対象は猫から牛になり、人になるのにさほど時間はかからなかった。

 そうすると、沙華のために人を殺しまでするのは行き過ぎではないかという声が家臣からあがり始める。しかし、沙華の美しさにもはや狂ってしまった義景は、反感を持つ家臣から順に、夜の宴の肴にした。

「義景さま」 

 寝室で、沙華は義景に話しかける。もはや、亡霊に憑かれたとしかいえない状態である。

「何じゃ、何でも申してみよ」

「色んなはらわたを見てきましたが、私はまだ物足りませぬ。孕み女から、赤子を取り出すところが見とうございます」

「それは面白い。早速、今晩の宴に饗そうではないか」

 そして、夜。

 一人の妊婦が、酒宴の席に連れてこられた。彼女は半ば狂った表情で泣きわめき、命乞いをするが、二人の方が狂っているのだからどうしようもない。

「やれ」

 その声で、雇われた部落民が腹に刃を添わせ、手前に引いた。その刹那、血がほとばしり、悲鳴は絶叫に変わる。

「あっははは」

 沙華が笑い始める。それを横目で見て、義景も同じように笑う。

 次に、刀が深く刺さる。最後まで決して殺しはしない。沙華の愉悦が薄まるからだ。

 刃が腹部をえぐり、血だけではなく内臓もこぼれてくる。義景はさすがに目をそらすが、沙華はけたけたと笑い続けている。

「手を! 手を入れよ! 赤子を引きずり出せ!」 

 沙華が嬉々として叫んだ。その声に、渋々と男は手を差し込み、まだ手のひらに乗ってしまうほどの大きさしかない赤子を引きずり出した。

 妊婦はこの世ならぬ声で叫んだ。その声は天をも震わせ、その日、終わりのないと思われるほどの雨を降らせた。

 沙華はといえば、狂気じみた笑い声を上げながらのた打ち回り、その場で数十分も笑い続けた。 

 この噂は、城内はおろか、そこかしこに広まり、妊婦の一部は恐れのあまり流産した。そして、沙華は再びあの宴を求めた。

 その日から、妊婦を集める旨の立て札が立てられた。そこで、妊婦のいる家族は一斉に逃げ出し、義景の目の届かぬ某所に引っ越してしまった。

 そのため、現在その土地に住む者の祖先をたどっていくと、ほとんどが逃げ出した孕み女たちに行き着くということである。

 その後、天正元年は八月、義景は戦において北近江から撤退したが、信長がこれを追撃し一乗谷に乱入し、義景は、一族の景鏡の裏切りに会い、八月二十日、六坊賢松寺に囲まれ、自刃した。それによって、越前の名家、朝倉家もついに滅んだ。

 しかし、その後、沙華がどうなったかは、誰も知らない。ただ、自らの腹を裂き、笑いながら死んだという話だけが今でも残っている。

<了>