VKsturm’s blog

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ツイッターにおける「議論」に関して─アリストテレスとプラトンの論より

ツイッターでは毎日「議論」が行われている。例えば右翼と左翼の対立。原発推進派と反原発派の戦い。他にも私が見たのは「かけ算の順序問題」などもあった。かけ算は交換法則が働くので入れ替えれてもいいはずなのに小学校では順番が強制されているというものだ。

 

これらはほんの一例であり、例えばけもフレなどのアニメ作品でも対立があるし、ほぼ全界隈が日夜敵と大戦争・大議論していると言っていいだろう。

 

これらの議論は見ていると面白い。たいていツイッターの界隈には「ご意見番」がいる。社会学で言えばオピニオンリーダーだ。このご意見番が議論の方針を決めている。これは無意識の行動かもしれない。しかしご意見番に扇動された社会学における「フォロワー(オピニオンリーダーの影響を受ける者)」─皮肉なことにツイッターでもフォロワーという言葉が使われる─がまるでガンダム世界のファンネルのように敵に攻撃(リプライ)していくのだ。

 

ところで、これらのツイッターでの議論を見ていて思うことはないだろうか?なぜ常に議論は平行線で交わらないのか、と。実際毎日行われる議論だが、相手を論理的に論破しても相手の主張を変えさせられたことは見たことがない。例えば右翼が左翼を、左翼が右翼を論破する光景は多く見られるが、それで相手が右翼から左翼に、左翼から右翼になった例はなかなか見たことがない。結果としてこれらの戦いは相互ブロックで終わり、議論は平行線のまま、各人が自らの主張を翻意することはない。

さて、これらについてアリストテレスはこう述べている。

 

議論そのものが人を善良にするのであれば、彼らが多大な報酬を得るのも正当なことだ。(…)しかし現実には、多くの者を高潔さや善良さにいざなうことはできない。(…)どんな議論であれば、そのような人々を更生させることができるのか?長い時間をかけて人格にすりこまれた特性を、議論によって取り去ることは不可能とは言わないまでも困難である。

*1

 つまり、古代ギリシアの偉人アリストテレスが指摘しているように、議論をしても相手を変えさせるのは「不可能とは言わないまでも困難」なのだ。

 

また、プラトン

それでは魂を、一組の翼ある馬たちとその御者との自然な集合体にたとえよう。馬のうち一頭は名誉を重んじ、口頭の指示だけで動く。もう一頭はとんでもないほら吹きで行いが悪く、御者の突き棒にもなかなか屈しない。*2

 

 とも述べている。つまり人間の魂には理性と感情という2つの性質の異なるものがあるということを馬に例えたのだが、我々のこの「とんでもないほら吹きで行いが悪い」馬=感情に振り回されている。プラトンは理性を大事にしろという旨を言ったのだが、近代的理性主義がフロイトなどに否定され、またポストモダンなどでも攻撃されている今、理性をうまく操れる人間はそうはいないのがわかっている(それでも私は理性を重んじていきたいが)。

 

 ツイッターでの議論は感情論が多い。ムカつくから批判する。「キモイ」から叩く。これは先に述べたように、感情に振り回されているからである。アリストテレスが言うように議論は何ももたらさず、またプラトンが言うような感情に、理性が屈服しているのかもしれない。

 

というようにここまで述べてきたが、これがツイッターで議論が成り立たない理由である。アリストテレス的な、そもそも議論で考えを覆すのは難しいこと。プラトン的な、議論が感情任せになること。この2つの理由でツイッターの毎日行われる議論は平行線で決して交わらない。

 

ここまでをみるとツイッターでの議論は無駄なのかもしれない。もちろん、アリストテレスが「不可能とは言わないまでも」というように僅かな可能性だが相手の持論を変えさせることができるかもしれない。しかしツイッターに人生をかけているわけではない我々が、ツイッターに費やす1日1-2時間程度の時間(もしかしたらそれ以下の方も多いと思う)ではなかなか困難だろう。相手が暇人で何時間にも渡って、しかもフォロワーをガンダムのファンネルのように使い、ひどい言葉のリプライを大量にしかけてきたら、我々は論理的に正しくとも屈服してしまうだろう。「もういい!わかった!私の負けだ!」と。下手をしたら精神を病むかもしれない。

 

私が言いたいのは、我々がツイッターで取りうるべきは議論に巻き込まれないようにミュートやブロックを駆使せよということだ。嫌な意見はミュートして見ない。嫌な人からは見られないようにブロックする。シンプルだがこれが最も効果的だと思う。相手の攻撃的な、議論を挑んでくるようなリプライに反応したら負けだ。メンタル不調を起こさないSNSツイッターSNSでないという意見もあるが)の使い方はこれなのである。これを読む諸君もミュートやブロックをうまく使いこなして健全なツイッターライフを送ってほしい。私は切にそう望むのである。

 

…しかし私は(フォロワーならわかるように)日夜議論をしてしまっている。これはまずい。メンタルは痛むし、時間は使うし、いいことがない。この記事はそんな私への自戒を込めて作ったものである。偉そうにみなさんに説教する前に自分を変えなくては…この記事を読むみんな、一緒に議論を避けながら楽しくツイッターをしていきましょう。私、がんばります!絶対ネット論客みたいのにはならない!

 

参考文献

アリストテレス著『ニコマコス倫理学

プラント著『パイドロス

*1:アリストテレス著『ニコマコス倫理学

*2:プラント著『パイドロス

「イキる」ことに対するエッセイ─村社会でのイキりの重要性

インターネットではイキリという言葉がある。

ねとらぼの記事によれば意味は「イキるとは、調子に乗ったりえらぶっていることを表します。」とのことで、実際にそのようにネットでは使われているようだ。

イキるという行為が叩かれるのは、いくつかの理由がある。態度が大きかったり、調子に乗っていたり。これらをまとめると、特に自分の身の程を知らずに「イキる」のが一番叩かれていると思う。

 

例えば、テレビで見るモデルなどと比べて相対的に顔が良くないのにイケメンだとイキって自撮りを上げる。せいぜい偏差値60程度の学力なのに頭が良いとイキって東大卒のインテリに負けるなど、だ。(偏差値と「頭の良さ」の関係は、地頭などの概念と合わさって諸説あるがここでは偏差値=頭が良いと仮定している)

 

なるほど、確かに上には上がいる。それなのに自信満々とイキるのでは好感が得られない。「身の程を知れ」という言葉が似合いそうである。

 

しかし、私はガンガンイキってもいいと思う。みんな自信に満ちあふれてイキるのもいいではないか。

 

そもそも、人間は誕生当時から小規模な集落で暮らしてきたのがわかっている。それが時代が進み、「村」というべき単位となりこれが長年続き、産業革命などで都市の集積化が進み、近代において人々は大勢からなる「群衆」「大衆」となった。

このように時代を振り返ればわかるように、人は小さな単位で暮らしてきた。ダンバー数という「人間が安定的な社会関係を維持できるとされる人数の認知的な上限」というものがある。ここでいう関係とは、ある個人が、各人の事を知っていて、各人が社会的な関係を保てるという意味である。このダンバー数は150程度である。つまり人間は150人程度が社会関係を築ける数なのである。これらは村や部族の単位として文化人類学的に一定の信頼が得られている。

つまり、人間は150人程度の社会関係を築き、その中で生きてきた。その(今から見れば小さな)単位で長年活動を行ってきた。そこで比べられるのは(比較対象になるのは)もちろん村の他の仲間である。そこでは数が少ないために、人間全体から見ればちょっと頭がいいだけでも、「村の天才」と褒め称えられたであろう。ちょっとでも顔が整っていれば「村の美男」として称賛されたであろう。つまりヒトという種族をマクロに見れば「身の程知らずのイキリ」でも許されたのだ。

だが都市化や情報革命はこれを破壊した。都市は人口が多く、比較対象は大勢となった。そこでは村の天才も村の美男もただの凡人になってしまった。ここで個人的経験を話すと、私の高校の同級生は高校一の秀才として東大に進学したが、そこでは日本全国の秀才が集まり、留年はしないものの単位数がギリギリのよくいる落ちこぼれ大学生となってしまった。また同様に顔の良かった同級生は都会の大学(どこかは失念してしまった)に行ったものの、そこで自分以上の美貌を持つ学生を発見し、自分の驕り高ぶりがなくなったという。このように比較対象が多くなれば、村で優れた人でも都市では凡人となってしまう。

情報革命もそうだ。たとえばツイッターはユーザー数が(特に本は)とても多い。この中で、自身が中学校でいくら優秀と称されていようが、上には上がいるのである。そこで彼の「俺は中学校で学年一位だった!天才!」というツイートはイキリとして叩かれ、ネットの別の中学校のより成績の良い生徒に馬鹿にされるだろう。このような現象が常に起こっている。

しかし、繰り返すように人間はそもそも村の中という狭い範囲で比較してきたのだ。そのようにできている。自分を客観視して自分の立ち位置を判断するのは重要だが、かつて人間が、村の中で少しのことでイキったようにイキってもいいではないか。イキるのは自己尊厳を高める効果もある。マズローの欲求五段解説にしても「尊厳欲求(承認欲求)」(他者から認められたい、尊敬されたい)が挙げられている。人間にとってイキることは大切だ。 他者から認められることで安寧を得られる。それこそがメンタルヘルスの不調者が社会問題になるほど増えている中で、心の健康に大事なのだ。…と私は思う。

ということで若者よ、私は大いにイキるといいと思う。もちろんイキる過程で他者をばかにしたり、法に触れたり、迷惑をかけたりするのはご法度だが、そうでない範囲ならば存分に調子に乗るべきだ。それで心の平穏が訪れるならば大いに結構。少なくとも上には上がいる理論で萎縮するよりも有意義だ。

 

…とここまで語ってきたが、このような考えにたどり着いたのは私の加齢があるのだと思う。私ももうアラサーで、大人になった。かつては「イキってるやつきもw」などと思っていたが、今では微笑ましく思える。今イキってるやつを気持ち悪く感じる若者は。アラサーになれば自然と許容できるようになる。もちろん今大学生の若者はこれに納得出来ないかもしれない。イキってるやつはきもいだろ!と。しかし繰り返すが、自然と受容できるようになる。それまではどうかツイッターでイキる「無害な」中学生などには優しくしてあげてほしい。それが私の願いであるし、闇雲にイキリオタクを叩いてきた自分への反省である。

 

参考サイト

books.google.co.jp

装甲(鎧)の歴史─紀元前から近代まで

ブログを放置するものいけないし、でも書く気力がない。ということで大学の生の頃にやっていたブログの一連の記事からの転載です。いろいろと直したいところはあるのですが、若い頃特有の熱意が感じられて青臭く、それが懐かしいということで最小限の訂正や編集だけになっています。ところどころ間違っているとこや当時の下手くそな絵(画力の限界から必ずしも正確とは限らない)もありますが、ご容赦ください。

 

 

1.はじめに

人類の戦争の歴史を振り返ると、古くはフリント(燧石)製の武器に行き当たる。

実際、ベルギーにある世界遺産「スピエンヌの新石器時代の火打石採掘地」では紀元前4000年から紀元前700~800年に至るまで多くのフリントが採掘されていたことが確認されている。

このように、人類は往々にして加工しやすいフリントを使った石器を古代から活用していたが、これはもちろん武器としても転用された。頭部を人為的にかち割られた人骨が発掘されているのだ。

武器の歴史はこのように「遥かに」昔から存在する。というよりも、極論を言えばチンパンジーがグループごとの抗争に用いる「投石」などまで遡れる。しかし「装甲」(「鎧」)の歴史は武器のそれに比べれば短いし、チンパンジーが「装甲」を生み出したという話も(現時点では)聞かない。「装甲」は人類だけのものなのだ。

 

ここではその「装甲」の歴史をかいつまんで説明していきたいと思う。

 

2.紀元前の鎧

装甲の歴史を紐解いてみると、それはスムアブムらが生存していた頃─要は紀元前19~20世紀─に行き当たる。スムアブムは古バビロニア王国の初代王であるが、古バビロニア王国が存在したメソポタミア地方ではこの時期には既に胸部に円盤状の板を装備していたことが明らかになっている。

人間にとって胸部は頭部につぐ「弱点」である。胸部に収められた一部の内臓が失われれる、または損傷するだけで人間は容易に死に至るからだ。よって、古バビロニアの人間が胸部をなんとかして守ろうとしたのは至極当然の結果だったと推測できる。

このような胸だけをとりあえず守るたぐいの装甲(ブレス・プレート)は古代ローマ時代になっても一部の「蛮族」に使用され続けた。理由は至極簡単で、「安くて」「簡単に作れる」からだ。

例えば普遍的な「金属一枚板のブレスプレート」は下記の図のとおりだ。

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ブレスアーマー

ブレスプレートとはこのように「体にフィットする」とか「人間工学」とかそういうような要素は一切存在せず、とりあえず平均的成人男性の胸を覆えればそれでよし!というようなデザインだった。(一部のブレスプレートは高価な装飾と体への負担を軽減させる腰当てなどが付属しているがこれは例外的である)

他に特徴としては、通常ブレスプレートはエンブレムが掘られていた。これは兵士間の結束を高め士気を上げるためであった。加えて、「聖なる紋章」だとか宗教的模様を入れることでお守り的な効果を期待していたと考えられている。日本でいえば千人針みたいなものである。何時の時代も人は変わらない。

かかるブレスプレートは絵にも描いたとおり、ただの金属板なので重く、また塗料も粘土系なので地味である。共和制ローマとサムニウム人との戦争(サムニウム戦争)ではサムニウム人はこのブレスプレートを使用したとされる。ブレスプレートの真骨頂はこのように(ローマ人から見た)「蛮族」でもすぐに生産でき、「とりあえず」の防御能力を与えられるところにあったのだ。

古代ギリシャになるとファランクス戦術が一般的となり、兜、脚甲、胸甲、それに大きな円盾である「ホプロン」を着込んだ非情に有名な「重装歩兵」が一般的となるが、それまで人類の装甲といえば「ブレスプレート」が普通だった事実は忘れてはならない。それに重装歩兵の装甲は豊かな「市民」のみが装備を揃えられる高価なもので、それ以外はブレスプレートが使われていた。

いずにせよ、このような簡素な「金属一枚板」から、「人類最高の鎧」と称された16世紀の「フィールドアーマー」まで幾つもの変遷をたどりながら装甲は進化していく。之以降の歴史、要は16世紀以降のいわゆる「Cuiassir Armor」などは装甲が武器に敗北していく歴史であることはご存知のとおりである。

 

3.古代ギリシアの鎧

さて前項目では古代ギリシア以前の装甲を紹介したのであるが、今回はついに古代ギリシアである。

とはいえ、「古代ギリシア」という語が指す範囲は広い。一般的に「古代ギリシア=重装歩兵」のイメージが強いだろうが、その前段階として「戦車」があった。

戦車は馬が牽引する「戦闘馬車」とでも言うべきもので、多くはポールウェポン(槍などの長物武器)を装備した戦車兵や弩砲(バリスタやレポリス)を載せていた。戦車は馬に牽引され機動するので、鎧の重さが考慮されずに戦車兵の全身を覆うような重装の鎧が主流であった。これはヒッタイトが主に活用した。

時代が下り、馬への騎乗術が発達すると「騎兵」が誕生し機動力に劣り使用条件が厳しい戦車を徐々に駆逐していくことになる。実は重装歩兵や騎兵よりも戦車のほうが誕生は早いのである。

戦車や騎兵の後に誕生した重装歩兵は密集陣形を組み正面への衝撃力と防御能力のみを追求した部隊であった。よく文献で見るように彼らは大きな円盾を持ち、ブレスプレートの時代と違い、足や腕まで装甲に包んでいた。彼らは非情に精強な歩兵であり、マラトンの戦いのようにペルシャ軍を何度も打ち破ったが、弱点も多かった。

まず正面への攻撃力と防御力を追求しすぎたために、側面を完全に無視していた。なので、側面への騎兵等の攻撃で部隊ごと壊滅することも多々あった。実際、レカイオンの戦いでは少数のスパルタ軍の決死の側面攻撃により優勢なアルゴス軍の部隊は壊滅した。

加えて機動力が皆無だった。レウクトラの戦いにおいてエパメイノンダスの斜線陣戦術に遭遇したスパルタ軍は、迂回機動を取ろうとしたがその機動力不足から機動に失敗したのである。

ギリシアが徐々に衰退していく頃になるともはやファランクス戦術を採用する重装歩兵だけでは戦闘を行えないようになっていた。側面は常に敵の軽騎兵に脅かされるようになり、重装歩兵を守るために前面に軽装歩兵、側面に軽騎兵、といったような構成が常識となった。

この軽装歩兵が身に着けていたのがLinen Cuirass(リネン・キュラッサ)と呼ばれた「リネン(麻)の鎧」である(下図参照)

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リネンキュラッサ

この鎧は何より軽いのが特徴だ。リネンを厚く織った集層リネンにより構成されており、防御能力を犠牲に素早い移動を可能にしたのである。このような集層リネンであっても軽装歩兵が遭遇する遠距離兵器(弓矢等)には必要最低限の防御性能があった。軽装歩兵は大抵傭兵であり、敵の軽装歩兵対策を主に担うが(今の対狙撃兵任務につく狙撃兵のように)、彼らは重装歩兵同士の近接戦闘による斬り合いが始まると後方へ撤退(または潰走、逃亡とも言う)するのが常であった。

要はこの鎧にそもそもサリッサ(マケドニア式長槍)などの強力な刺突を防ぎ、ウォーハンマーの劇的な打撃を弾く性能は求められていないのである。それらと遭遇するのは彼らの後ろに控える精鋭部隊である重装歩兵であった。

しかし、皮肉なことに機動力のみを追求したこのリネン・キュラッサは重装歩兵が滅びた後も活用されていくことになる。それは金属製鎧がどうしても抱える「重さ」という欠点を割り切ることで解消した発想の勝利である。リネン・キュラッサが最後に文献に登場するのは古代ローマギリシャ世界を征服しようとしたときに、祖国を守るために絶望的な戦いに投じた「最後のギリシア兵」たちの装備品としてである。それ以降、文献に現れることはなく、また作られても居ないと考えられている。

 

4.ローマの鎧

ヘレニズム期が過ぎ、世界の覇権を握ったのはローマであった。

ローマは最初、紀元前8世紀中ごろにイタリア半島を南下したラテン人の一派がティベリス川のほとりに形成した都市国家であった。この時人口はたった数千人だったと考えられている。

この都市国家は内部でしばしば身分闘争を繰り広げながら、重装歩兵部隊を中核とした市民軍を組織した。紀元前272年にはイタリア半島の諸都市国家を統一、さらに地中海に覇権を伸ばして広大な領域を支配するようになり同盟市戦争を得て「ローマ帝国」としてまとまっていくことになる。

この間、ローマは数多くの戦争を経験した。有名なハンニバルとの第二次ポエニ戦争の他にもカエサルガリア戦争、アルジェリアにあった王国「ヌミディア」とのヌミディア戦争、イベリア半島ケルティベリア人(ケルト系)との長年の戦争。キンブリ人30万人と戦い、キンブリ人を「根絶」させたキンブリ・テウトニ戦争…。

このようにローマは共和制時代にも帝政時代も数多くの戦争を戦い抜いたが、この間使われていた鎧は大きく分けて三種類に分けられる。「Lorica(「ロリカ)」「Lorica Hamata(ロリカ・ハマタ)」「Lorica Segmentata(ロリカ・セグメンタータ)」である。これらの三種類の鎧はいずれも並行して使われた。

Loricaはラテン語で「胸甲」を意味する語である。Hamataは「鉤爪」、Segmentataは「断片」の複数形を意味し、要はプレートアーマーのことであった。ロリカは革製の鎧で共和制ローマでは主に士官が着用した。表面にはたくましい筋肉の彫刻が掘られていた。ロリカ・ハマタは紀元前一世紀に至るまでローマ軍団で使われた鎧で、いわばチェーンメイルである。そして、最も有名なのがロリカ・セグメンタータであろう。

 

 

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ロリカ・セグメンタータ

ロリカ・セグメンタータは数多くの金属製の板を組み合わせた精巧なプレートアーマーである。驚くほどの装飾と凝ったデザインを採用している。ロリカ・セグメンタータは紀元100年頃からローマ軍団に支給されるようになった。(ちなみに正規のローマ軍団でない、いわゆる「同盟軍」は先のロリカやロリカ・ハマタを使用していた。理由はコスト面からであると見られている)

ロリカ・セグメンタータは金属製の板を器用に組み合わせたもので、この防御能力は凄まじい。防御範囲は胴体のみに限られるが、その分重量は比較的軽く、機動戦をモットーとするローマ軍団にはうってつけであった。実際、この鎧の防御水準は1000年後の中世十字軍が盛んに使用したチェーンメイルを遥かに上回っているとする意見もある。古代ローマの冶金技術は信じられないほど高い水準にあった。


ロリカ・セグメンタータは真鍮で錆止めがなされた、鉄製の板金でできている。このために槍の刺突で「抜ける」チェーンメイルよりも打撃、刺突の防御にも有効であった。加えて、鎧が細かく分かれている事により体にフィットし、リネン・キュラッサのような機動性を齎すことにも成功している。

さらに、ロリカ・セグメンタータは現在のボディアーマーのようにアレンジが自由で、鎧の装飾に増加の装甲プレートを引っ掛けることで防御能力を向上させる(さながら現代戦車の増加装甲のようだ)ことが「現場レベル」で可能であった。この高性能鎧はローマ軍団の精強さに一役買ったことだろう。

しかし、ロリカ・セグメンタータの欠点は2つあり、まず一にこの鎧を作るのにはとんでもないレベルの冶金技術が必要だった。実際、ローマ以外の冶金技術ではこの鎧を「軍団が装備できる量」を量産するのは不可能であった。古代ローマ時代はこの鎧を大量に制作したが、それが可能だったのは古代ローマの飛び抜けた技術レベルのおかげである。

第二に胴体のみしか守られていないために敵がピルム等(ローマ軍団の投槍。この槍も高い技術力の賜であった)を鹵獲して使用した場合、脚や腕にあたって重症を負うことが合った。加えてイベリアの反ローマ勢力が作った、対ロリカ・セグメンタータ用の特注の「重」投槍であるファラリカなどはピルム以上の脅威となった。

古代ローマにとってコストの弱点はあったものの、性能には変え難かった。この鎧の弱点を克服するために主に「胴体以外の防御能力の向上」が行われ、脚甲や腕甲が配備されるようになったが、脚や腕に鎧をつけることはロリカ・セグメンタータの重要な利点である機動力を削ぐことになったために、使われたのはトラヤヌス帝が行ったトラキア遠征の限られた期間でしかなかった。

結局のところ、ロリカ・セグメンタータは当時の水準を超越した高性能鎧であったが、その技術はローマ滅亡とともに量産技術は失われたとされる。そのため中世ヨーロッパでは「一段劣るが安価で作りやすい」チェーンメイルが使用されていくことになるのである。

 

5.中世の鎧その1

素晴らしい性能を持ったロリカ・セグメンタータも西ローマ帝国消滅とともに失われ、世界は「暗黒時代」へ突入した。ギリシアやローマの技術や知識は散逸され、世界が「退行」してしまった。しかし、進んだ自然科学や社会科学の知識が失われたとしても、決して戦争は亡くならない。

西ローマ帝国の滅亡以降、主流となったのは北方のノルマン人が着込んでいた「ホウバーク(Hauberk)」であった。ホウバークとは古ドイツ語の「hals(首)」と「bergan(防御)」の合成語である。要は「首まで防御できる鎧」という意味だ。これが古フランス語の「Hausberc」となり、現在の「Haubrek」となったと言われている。

ホウバークは簡単に言うと首から脛までを覆う裾の長いチェーンメイルだ。チェーンメイルは金属の輪っかを組み合わせたもので意外に思えるかもしれないが、作るのが簡単である。ローマ軍団に言わせれば「ケルト人は文字を持たないが鎧だけはいっちょまえに作れる!(『ローマ戦史』より)」という具合に、ケルト人のような「野蛮人」でも作ることができた。

が、チェーンメイルなんてのはあらゆるゲームに出ているし解説も大量にされているのでここでは扱わない。問題なのはチェーンメイルと付随して使われた「Cloth Armour(クロスアーマー)」だ。(下図参照)

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クロスアーマー

クロスアーマーはその名の通り「Cloth(布)」で出来ている。布の中に綿を入れた(=キルティング加工)した鎧なのである。キルティング加工自体は古代エジプト王国から行われていた「由緒正しき」技術である。しかし、鎧として使われ始めたのは中世からだとされる。この時代のクロスアーマーはaqueton(エイクトン)だとかgipon(ジポン)だとか言われている。

このキルティング加工が鎧に応用されたのは高性能鎧ロリカ・セグメンタータ製造技術の散逸に関係がある。
打撃・刺突・斬撃・その他あらゆる攻撃を防ぐロリカ・セグメンタータと違い、ホウバークは斬撃には強いが打撃・刺突には滅法弱かった。理由は簡単でただ金属の輪っかを加工しただけだから、槍は貫き通すし、ウォーハンマーで殴られれば金属の輪っかごと内臓器官が「圧壊」することもよくあったのだ。

この対策として使われたのがクロスアーマー(エイクトン)である。キルティング加工により綿を入れたこのアーマーは打撃攻撃に対して衝撃を和らげ、ある程度の防御性能を発揮した。そこで十字軍の騎士たちはしばしばホウバークの下にこのクロスアーマーを着込んで打撃攻撃に対抗しようとした。マンガやゲームの中世騎士はみんなこのクロスアーマーを着込んでいるのである。

このクロスアーマーは、ヨーロッパ史において長い間使われた。皆大好き重装騎兵のフルプレートアーマー、あれの下は実はホウバークであり、更に其の下はこのクロスアーマーだった。もっと時代が下れば「ホウバーク+エイクトン」というべき「padding armour」が登場しフルプレートアーマー下に着る装備として主流になっていく。

しかし…ホウバークとエイクトンを着込んでやっと、中世時代の鎧の水準はロリカ・セグメンタータと同等程度、もしくはそれ以下であったと言われる。ローマ帝国の卓越した技術が「回収」されるのはローマを受け継ぐと自負した十字軍が、異教徒であるイスラム教徒に相見えた時であったことは歴史の皮肉である。

 

6.中世の鎧その2

イスラム文化圏で保管されていたギリシア・ローマの進んだ文化は、皮肉なことに十字軍によって西欧に「再発見」されることになった。

神学的知識、自然・社会科学の見地、歴史書の数々。中世暗黒時代にあった西欧はこれらを急速に「再吸収」し、やっと暗黒時代は終わりを告げつつあった。

この動きは軍事にも現れた。ホウバークのような「簡易的鎧」のひ弱な防御性能に不満を持った十字軍の兵士たちはホウバークの上に多くの「鉄板」を装着し始める。「Coat of Plate」(板金のコート)と呼ばれたこれらの鎧は、その名の通りただの真っ直ぐな鉄板を鋲打ちしただけのものであったが、その防御性能はホウバーク単体の数倍であった。

そしてこの「板金のコート」を十字軍のイスラム文化圏との接触で再回収したローマ式の冶金技術を用いて進化せたのが、「Composite Armor」(合成された鎧)である。

コンポジットアーマーは14世紀~15世紀に亘りあらゆる戦場で使用された。名が示す通り、ホウバークの上から追加の鎧を「合成した」ものであった。(下図参照)

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コンポジットアーマー

兎にも角にもコンポジットアーマー系統の鎧は騎兵向けに特化している。左肩の「Alette」と呼ばれた肩当てはランスによる騎兵突撃の際にランスを支えるのに役立つ。全体を覆う「湾曲した鉄板」はローマのロリカ・セグメンタータの影響を受けているが、これは敵の剣を受け流し、また弓を弾き返す効果がある。頭部まで覆われたこの「重装騎士」はまさに鉄壁であり、彼らを殺すためには、鎧の隙間(関節部)にナイフを差し込み失血死させるしかなかった。コンポジットアーマーは強力なウォーハンマーの打撃でさえ何度も耐えたのである。

コンポジットアーマーはその後「最後の騎士」こと神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン1世により更に改良される。インスブルックの皇帝専用甲冑工房でマクシミリアン式鎧と言われる鎧を作り出したのである。これは鉄板を波型に加工することで薄い鉄板に強度を与え、軽量化を経ったものである。この鎧は「Complete Suit of Armor」、其の名も「完璧な甲冑」などと呼ばれた。

しかし、このような小細工にも限界が合った。体全体を鉄板で覆うなど物理的に重すぎるのである。コンポジットアーマーのような通常のフルプレートアーマーは50kg以上あり、マクシミリアン1世の「完璧な甲冑」でさえ35kgほどあった。近年の研究でこのような重い鎧でも動けることが立証されているが、それでも長距離の行軍などは不可能である。

このように人が装甲化されていくにつれ、重装騎士の乗る馬も装甲化されていったのも当然の流れであった。重装騎士は長い距離を動けないため、馬が死ぬか、馬からはたき落とされれば、戦場から退避できない騎士は嬲り殺しにされることを意味していた。(実際ハルバードは騎兵を馬から叩き落すことを目的としている)

 

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馬用の鎧

 

ということで馬用の鎧(馬鎧)も作られたのだが(イラストに書いたようにちゃんと部位ごとに細かな名称もある)、これは馬にとって多くの負担となった。乗る人間は筋骨隆々の騎士である。体重は90kgはあるだろう。更に彼は40kgの鎧を着ている。加えて重いランスを持っている。載せる重量はざっと140kgだ。これに馬自身の鎧の重量50~70kgが加わる。

要は馬は200kgもの重量を背負って敵陣へ突撃しなければならなかった。これではいくら訓練された馬でも機敏に動くことなど不可能だ。実際この時代の重装騎兵の突撃はs数百m程度走るのがやっとで、走るといっても早足に近いものであった。しかし200kgもの重量の物体が一団となって死に物狂いでやってくるのである。待ち受ける方はたまったものではなかった。重装騎兵の突撃は何れにしても恐ろしいものであった。

16世紀まで甲冑は騎士の象徴であり、着ているものが百戦錬磨の泣く子も黙る精鋭の騎士ということもあって非常に強い存在感を占めていた。クレシーの戦いでイングランド軍がフランスの重装騎士を撃破したというのがあれほど持て囃されるのも重装騎士がそれほど驚異だったことの証明である。

1212年、ラス・ナバス・デ・トロサの戦いでスペイン軍の重装騎兵はミラマモリン率いるムワッヒド朝軍を撃滅し、アンダルスを「レコンキスタ」し、イスラムの勢力をグラナダ王国以外から駆逐した。

1410年タンネンベルクの戦いでフリードリヒ・ヴァレンロットに率いられたドイツ騎士団精鋭重装騎兵は何度も何度もリトアニア軽騎兵を駆逐。その後ヴィトフト大公のポーランド軍歩兵部隊を完膚なきまでに叩き潰し、一時はポーランド軍は右翼・中央を突破される事態に陥った。もしヴィトフト大公が敗走したリトアニア騎兵を集め10時間もの戦いで疲弊したドイツ騎士団の重装騎兵の背後を強撃できなかったのならば、ドイツ騎士団の誇り高き騎士団旗は奪われなかっただろう。

1439年オルレアンの戦いに至ってもジャンヌ・ダルクに鼓舞されたフランス軍重装騎兵は活躍し、サフォーク伯爵率いる軍を撃破した。

1453年、コンスタンティノープルの戦いでは下馬したビザンツ帝国最後の騎士はケルコポルタ門前で皇帝ドラガセスとともに玉砕したが、その戦いぶりはバルトグル大将をも畏怖させる戦いぶりであった。彼らはオスマン軍に頭を切り落とされても戦うことをやめず、体をバラバラにしてやっと動かなくなったと噂されるほど激烈に戦った。

1485年のボスワース、1683年の第二次ウィーン包囲…重装騎兵はあらゆる戦場で活躍し、幾度と無く軽騎兵を駆逐し、何度も歩兵をなぎ倒した。今でも彼らの活躍は多くのメディア作品で見ることができる。

しかし銃の誕生は彼らの息の根を止めることになる。しかし鎧がなくなったわけではない。「鎧」が完全に戦場から追い出されたのはライフル銃の誕生からである。

 

 

7.近世〜近代の鎧

「銃の誕生は騎兵を終焉させた」

一見正しい発言に思えるし、多くの歴史書にも似たようなことが書かれている。なるほど、確かに長篠の戦いでは織田軍は鉄砲隊を率いて武田騎馬軍団を破った。ワーテルローの戦いではネイ将軍の精鋭騎兵隊はイギリス軍のマスケット銃兵の方陣の前に敗れ去った。

「銃は世界史を変えた」。これは事実だ。今でも銃火器は世界各国の軍隊で主力武器として使われている。だがしかし、銃はそれほど優れた武器なのだろうか?少なくとも、銃の登場は「鎧」を消滅させるに至らなかったのは確かだ。

よく知られている通り、1419年から長く続いたフス戦争で初めて「軍事史」に銃が登場する。(世界史的には「銃」は1410年ころには登場する。銃の原型となる火薬兵器は10世紀以前から見られるし、火薬自体は中国が7世紀には発見している)

この際の経緯はあらゆるところで述べられているのでおいておくとして、これ以降西洋史では銃が戦いの主役となっていく。なぜ銃がこれほど普及したかといえば、それは素人でも扱えたからである。当時の戦争で活躍したのは近衛兵など少数の「生粋の戦士」と、傭兵などの大多数の「間に合わせの臨時兵」であった。傭兵は金のために戦う。よって練度が低い。このために練度が低くても使える武器が所望されたのであった。

この当時の銃は、確かに練度が低くても扱えた。が、その性能たるや悲惨なものだった。当時の銃の特徴は以下のとおり

1.重量が極端に重く(15kgほど)、取り回しに劣り、その重さのために専用の発射台(今のカメラ用の単脚のようなもの)に据え付けなければ発射不可能だった。

2.弾を込めるのに2分ほどかかった。更にマッチロック(火縄銃)のために、雨の日は発射が不可能だった。加えて火薬の装填量を間違えると顔の目の前で銃身が破裂し死ぬことになる。しかし、火薬の量が少ないと加速しきれなかった鉛球は十分な威力を発揮できなかった。

3.射程距離も短く、有効射程は50~100mほどが精々。最大射程は350mほどあったが、この距離ではまず命中しなかった。そこで命中率を上げようと密集陣形で撃とうにもマッチロックのためにそれができなかった。

一方、イングランドお得意の「昔ながらの」長弓は

1.曲射弾道を描けるために射程距離が長く、300~500mほどの距離まで投射できた。また発射速度も早く毎分6発の射撃が可能であった。

2.密集陣形で射撃することにより「キルゾーン」を形成することが可能であり、突撃してくる騎兵に非常に有効だった

3.重い矢を、放物線上に放つために、落下の速度も加わりとてつもない威力を発揮した。フランス軍の重装騎兵の装甲を容易に貫徹した。

という風に銃登場当時では長弓のほうが優っていた。

昔の兵士に言わせれば「マスケット銃はお話にならないが、17世紀でも長弓のほうがマシだ」だそうであるし、ジェフリー・リーガンに言わせれば「イングランド内戦でもしもう一方がマスケット銃を使わずに長弓を使っていたら、どの戦いも楽に勝てただろう」とのことである。

しかし長弓は習得に2年以上かかるという弱点があり、なかなか広く運用するのは難しかった。

17世紀のマスケット銃兵にはまだまだ騎兵は勝機があったし、何より彼らの装甲はマスケット銃の鉛球をしばしば弾き返した。この時代まだランスを構えた重装騎兵が戦場で活躍していた。そんな彼らを変えたのが18世紀初頭から広まったフリントロック式のマスケット銃であった。


前置きが長くなったが、18世紀になってやっと鎧に大きな変化が現れ始める。それはマスケット銃が進化し、重装騎兵の装甲では弾き返すことが難しくなったからだ。長弓以上の威力を持つマスケット銃が登場し、それに対向するために鎧を強化しなければならなくなったのであるが、もはや不可能であった。鎧がマスケット銃を弾き返すためには長弓時代の二倍の厚さが必要とされるようになったからである。鎧の厚さが2倍ということは重量が途方もなく大きくなることを意味している。前回述べたように、鎧をこれ以上重くすると馬が走れなくなってしまう。もはやフルプレートアーマーは限界であった。

そこで登場したのがキュイラッサ・アーマー(Cuirassir Armor)である。(下図参照)

 

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キュイラッサ・アーマー

 

キュイラッサ・アーマーは銃火器に対向する装甲厚を確保するために、そして馬が走れるだけの重量に抑えるために、人体の急所となる胴体以外の多くの装甲を取り払っている。このために「胸甲騎兵」などと呼ばれることもある。

キュイラッサ・アーマーの防御効果は胴体、上腕部、腿くらいである。この鎧を装備したのは騎兵であり、騎兵にとって突撃する際に暴露する部分を守るように配慮されている。彼らはピストル、カービン銃、サーベルを主に用い、敵陣に突撃する際にはピストルを乱射し、最終的には「サーベルチャージ」として知られるサーベル突撃を敢行した。イギリス市民戦争ではキュイラッサ・アーマー騎兵がマクシミリアン1世時代のようなランスを構えて突撃したのだが、其の結果は完全な失敗に終わった。ちなみにクロムウェルの「鉄騎隊(アイアンサイド)」はこのキュイラッサ・アーマーの亜種の「アーケバーシル(arquebusier)」を装備していた。

最終的に、キュイラッサ・アーマーはどんどん簡略化が進み、19世紀中頃には一番はじめに書いたようなただのブレストアーマー1枚になる。しかし、まだこの頃には鎧は存在し、戦場で活躍していた。それを終わらせたのが、1841年にプロイセン軍に採用されたドライゼ銃(ニードル銃)である。

ドライゼ銃は14.5mm口径の重い弾丸を初速305m/sまで加速する能力をもった「ライフル銃」の登場と普及である(原始的なライフル銃自体はそれまでも各国で使われていた)。これは今までのような低速なマスケット銃とは全く性能が異なるのである。4条に掘られたライフリングは優れた命中精度をもたらし、その有効射程は600mにまで達した。紙薬莢は装填速度を向上させ、毎分12発までの射撃を可能にした。305m/sまで加速された大口径の弾丸は、その重さから運動エネルギーを保ったまま人体に着弾し、強力な一撃を加える。

このドライゼ銃の射撃の前にはどんな鎧も無意味だった。1864年、第二次シュレスヴィヒ・ホルシュタイン戦争、そして1866年普墺戦争。この二度の戦争でドライゼ銃は猛威を振るった。キュイラッサ・アーマーを着た綺羅びやかなオーストリア軍の騎兵はドライゼ銃の前に無残に散り、近づくことさえできずに平原に屍の山を晒した。彼らの身に着けていた、綺麗に装飾の施されたキュイラッサ・アーマーは無力であった。ドライゼ銃の弾丸は装甲を容易に貫通したし、例え貫通しなくともその強大な運動エネルギーを受けた騎兵は落馬し、死んでいった。オーストリア軍の誇るホワイトコート(オーストリア軍戦列歩兵)は真っ白な軍服を血に染め、地味なプロイセン軍のプルシアンブルーの軍服の前に散っていった。

 

プロイセン軍の活躍を目の当たりにした西洋各国は、すぐさまライフル銃の採用を決定した。そして19世紀末には全ての列強は完全にライフル銃への更新を完了するに至った。これが鎧の終焉であった。西欧鎧はライフル銃の登場によりその命を絶たれたのである。

 

8.終わりに

現在、かつての西洋鎧の残滓ともいうべきボディーアーマーが先進各国に配備されているが、これも多くの場合、セラミックプレートなしでは榴弾の破片を防ぐ程度もので、機関銃弾の直撃を防げるものではない。もちろんセラミックプレートを装填すれば、7.62mmNATO弾の直撃に耐えうるが、これはかつてのフルプレートアーマーのように重く、機動性を削ぐために問題となっている。つまり現在の科学技術でも「鎧」は「銃」に「完璧な勝利」はできていないのだ。

この記事では人用の装甲(鎧)について(当時の私が)述べましたが、戦車や戦艦の装甲の進歩もやりたいですね。気力があったら…

 

 参考資料

三浦権利著『図説 西洋甲冑武器事典』

Arthuer Wise著『The History and Art of Personal Combat』

市川定春著『武器と防具』

 

 

 

行動経済学からみる東京オリンピックボランティア問題について

1.はじめに

2020年の東京オリンピックが近づく中、オリンピックボランティアが話題になっている。大金をかけたオリンピックで、無給で働けというのだから批判が出るのは当然である。また、大学に働きかけてオリンピックボランティアを単位として認めさせようという動きがあるなどまさしく「カオス」の一言である。このようなカオスの結果、ボランティアに日給を少額払うという動きも出てきている。

ところで、このような状況の東京オリンピックだが、行動経済学の視点から見ると無給のオリンピックボランティアは必ずしも「悪手」とは言えないのである。今回のブログはダン・アエリー(行動経済学の第一人者でデューク大学教授)の著書『予想どおりに不合理』をもとに説明していきたい。

 

2.社会規範と市場規範

この話題を語る前に社会規範と市場規範を前提として知っていなければならない。少し長いが引用しよう

・社会規範:「社会規範には友達同士の頼み事が含まれる。ソファーを運ぶから手伝ってくれない?タイヤ交換をするから手伝ってくれない?社会規範はわたしたちの社交性や共同体の必要性と切っても切れない関係にある。たいていほのぼのしている。即座にお返しをする必要はない。あなたが隣人のソファーを運ぶのを手伝ったとしても、ただちに隣人がやってきてあなたのソファーを運ばなければならないわけではない。ちょうど他人のためにドアを開けるようなものだ。どちらもいい気分になり、すぐにお返しをする必要はない。」つまり、社会的なつながりを基にした価値判断である。

・市場規範:「市場規範に支配された世界は(社会規範と)全くちがう。賃金、価格、賃貸料、利息、費用便益など、やりとりはシビアだ。このような市場のかかわりあいが必ずしも悪いとか卑劣だというわけではない。市場規範には、独立独歩、独創性、個人主義も含まれるが、対等な利益や迅速な支払いという意味合いもある。市場規範の中にはいるときは、支払った分に見合うものが手に入る。そういうものだ。」つまり、金銭的なつながりを基にした価値判断である。

この社会規範と市場規範に関して著者は実験を行っている。コンピュータを使った実験である。コンピュータのモニタの左側に円が表示され、右側に四角が表示される。マウスを使って、円を四角までドラッグする。四角までドラッグすると、画面から円が消えて、最初の位置にまた新しい円が現れる。それをまた四角までドラッグして・・・というのを繰り返す。

この実験が社会規範と市場規範の解明にどう役立つのか。実験協力者の一部はこの短い実験に参加して5ドルを受け取った。実験協力者が実験室に入ってきた時点でお金をわたし、5分後にコンピュータが課題の終わりを告げたらかえっていいと伝えた。労力に対してお金が支払われるため、実験協力者がこの状況に市場規範を適用し、それに沿って行動するだろうと予測した。

次のグループにも基本的には同じ指示と課題を与えたが、報酬は遥かに少なくした(ひとつの実験では5セント、別の実験では10セントだった)。この場合も実験協力者は市場規範を適用し、それに沿って行動するだろうと予測した。

最後に、三番目のグループには、社会的な頼みごととして課題を提示した。このグループの実験協力者には何も具体的な見返りを渡さず、お金の話もしなかった。力を貸してくれないかと頼んだだけだ。私達は実験協力者がこの状況に社会規範を適用し、それに沿って行動するだろうと予測した。

結果として、

・一番目のグループ(5ドル受け取ったグループ):平均195個の円をドラッグした

・二番目のグループ(50セント受け取ったグループ):平均101個の円をドラッグした

・三番目のグループ(無償のグループ):平均168個の円をドラッグした

ということになった。

つまり、お金を受け取っていないにもかかわらず、無償のグループは50セントのグループよりも熱心に働いたと言える。

この実験結果を補強する例がある。

例えば数年前、全米退職者協会は複数の弁護士に声をかけ、一時間あたり30ドル程度の低価格で、困窮している退職者の相談に乗ってくれないかと依頼した。弁護士たちは断った。しかしその後、全米退職者協会のプログラム責任者はすばらしいアイデアを思いついた。困窮している退職者の相談に無報酬で乗ってくれないかと依頼したのだ。すると、圧倒的多数の弁護士が引き受けると答えた。

どういうことだろうか、無償(0ドル)のほうが30ドルより魅力的だと言うのだろうか。実はお金の話が出たとき、弁護士たちは市場規範を適用したため、市場の収入に比べてこの提示金額では足りないと考えた。ところが、お金の話抜きで頼まれると、社会規範を適用し、進んで自分の時間を割く気になった。30ドルもらってするボランティアと考えてもよかったはずなのに、なぜ30ドルでは承知しなかったのだろう。それは考えのなかに一旦市場規範が入り込むと、社会規範が消えてしまうからだ。

とすれば、先程の実験で50セントを受け取った人は当然、「これはいい。研究者の手助けもできるし、おまけにお金も稼げる」とは考えなかっただろうし、そう考えて報酬なしの人たちよりも熱心に働くこともなかったはずだ。市場規範に気持ちを切り替えて、50セントは少なすぎると判断し、気乗りもしないまま作業したのだろう。つまり市場規範が実験室に入り込んで。社会規範が押し出されたのだ。

ではお金ではなくプレゼントはどうだろう。著者はまたここで新しい実験を行った。先ほどと同じ実験で、お金の代わりにプレゼントを渡した。50セントの補修をスニッカーズのチョコバー(約50セント相当)に、5ドルの報酬をゴディバのチョコレート(約5ドル相当)に差し替えた。無償のグループはそのままだ。この際、実験協力者にはスニッカーズゴディバの値段を告げなかった。

この結果、

スニッカーズをもらったグループ:平均162個をドラッグした

ゴディバをもらったグループ:平均169個をドラッグした

・無償のグループ:平均168個をドラッグした

となった。つまりどのグループも特に変わらない結果だった。値段を提示しないプレゼントは社会規範に人を留め、金銭と違って市場規範を適用することはない、という結論となった。

では、2つの規範の合図(お金とプレゼント)を混同したらどうなるだろう。市場規範と社会規範を合わせると何が起こるのか。「50セントのスニッカーズ」や「5ドルのゴディバ」と値段を明かして渡したら実験協力者はどう振る舞うのだろう。

この結果、値段を明かした「50セントのスニッカーズ」を貰っても実験協力者のやる気は高まらないことがわかった。実験協力者が課題に費やした労力は、50セントが支払われたときと同じだった。値段を明かしたプレゼントに対する反応は、現金に対して示された反応と全く変わらず、値段の話が出た時点で、プレゼントは市場規範の領域へ移ってしまったのだ。

その後、著者たちは、通りすがりの人にトラックからソファーを降ろすのを手伝ってくれないかと依頼する再現実験を行った。結果はやはり同じだった。人々は無料でなら喜んで働くし、相応の賃金が出ても働く。ところが、ほんの少額支払うと申し出ると、そのまま立ち去ってしまう。このソファーの実験ではプレゼントも効果があった。プレゼントをわたすと、たとえたいしたものでなくとも十分に人々を手伝う気にさせられる。だが、そのプレゼントがいくらしたか口にした途端、相手はあっという間に立ち去っていく。

こうした結果から、市場規範が台頭するには、お金のことを口にするだけで(お金のやりとりがまったくなくても)十分なことがわかる。しかし、市場規範はもちろん労力のみの問題ではない。自律性、人助け、個人主義的なふるまいをはじめ、さまざまな行動にもかかわっている。

というわけで、私達は2つの世界に住んでいる。一方は社会的交流の特徴をもち、もう一方は市場的交流の特徴をもつ。これまで見てきたように、社会的交流に市場規範を導入すると、社会規範を逸脱し、人間関係を損ねることになる。

 

3.行動経済学東京オリンピックのボランティア募集に当てはめる

ここまで読んでいただいた諸君は勘付いたかもしれないが、東京オリンピックの無償ボランティアは社会規範に訴えかけるものである。十分な賃金を払えないならば、社会規範に訴えて無償でボランティアを採用するほうが彼らのやる気は増し、高い成果を残せるだろう。

だが、東京オリンピックの動向を追うと、とても少ない額だが賃金を出すと言っている。これでは市場規範が導入されることになり、多くの者はボランティアに参加しなくなるだろうし、参加したとしてもやる気は落ち、成果は減るだろう。

中途半端な給与を出すのは市場規範が適用されて非常にまずい。十分な給与を出すか、それが無理ならばボランティアの報酬は値段を明かさないプレゼントなどに留めておくのが正解だ。 このままボランティアに低い額を出すという選択肢を進めていくと、ボランティアがまったく集まらない事態も起こりうる。それが考える上での最悪の結末である。

 

4.終わりに

行動経済学の社会規範と市場規範の概念を当てはめて東京オリンピックのボランティアを見ると、ボランティア(=無償)というのは正解だろう。高い給与を出せないのならば、社会規範に頼るのが最善手である。もちろん本当は、コンピュータの実験結果のように十分な給与を出すのが最も成果が上がるのであるが、財政的にそれは難しいだろう。

余談であるが、ブラック企業が「アットホームな職場」と盛んに訴えるのは低い給与を社会規範で覆い隠そうとしているからだろう。もし、うまく行けばだが社会規範に訴えることができれば低い給与でも社員は必死に働くだろう。だが、先に述べたようにお金の話がでれば人は社会規範に移っていく、となれば給与が絡む労働という場面ではなかなか社会規範に訴求するのは難しいと思われる。

とにかく・・・結論としてはボランティアを無償で頼るのは行動経済学から見ると正しいということがこの記事の結論である。

 

参考文献

ダン・アエリー著『予想どおりに不合理 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」』(当記事はこの本の引用です。興味があったら買おう!)

 

 

本当に男性には犯罪者が多いのか?─アメリカ司法省の統計より

ツイッターを見ていたら、ほぼ毎日のことであるが男性は犯罪者だ(犯罪者になる人が多い)!/いやそうじゃない!と、男女による激しい対立が行われていた。では実際に男性はどうなのか。手元にちょうどよい本(『あなたの知らない脳 意識は傍観者である』)があったのでその本の内容を簡潔に紹介したい。

 

以下その本の引用である。

「あなたがどんな人間になる可能性があるかは、幼少期よりもずっと前、胎児のときに始まっている。もしあなたがある特定の遺伝子セットをもっていたら、凶悪犯になる可能性が882%も上昇するのだ。ここにアメリカ司法省が出している統計を、2つのグループに分けたものがある。この特定の遺伝子セットをもっている集団ともっていない集団の犯罪件数の比較である。

・その遺伝子をもつ

加重暴行:3,419,000件

殺人:141,96件

強盗:2,051,000件

強姦442,000件

・その遺伝子をもたない

加重暴行43,500件

殺人:1,468件

強盗157,000件

強盗10,000件

 

言い換えると、もしあなたがこの遺伝子をもっていたら、加重暴行を犯す可能性は8倍、殺人を犯す可能性は10倍、強盗を犯す可能性は13倍、そして強姦を起こす可能性は44倍高くなるのだ。

人間のおよそ半分がこの遺伝子をもっていて、残りの半分はもっていないので、もっている半分のほうがはるかに危険である。比べ物にならない。囚人の圧倒的多数がこの遺伝子をもっていて、死刑囚の98.4%がもっている。もっている人はちがうタイプの行動をとる傾向が強いことは明らかなようだ─そしてこの統計だけでも、動因や行動について言えば、誰もが平等なものを身につけてゲームに参加しているとは見なせないことがわかる。(…)

ところで、例の危険な遺伝子セットのことだが、あなたも聞き覚えがあるだろう。それはまとめてY染色体と呼ばれ、それをもっている人は男性と呼ばれる。

 

要するに、男性は女性より犯罪を起こしやすいのは(少なくともアメリカにおいては)事実なのである。その差は先に上げたように数十倍にもなっている。ツイッターにおける「男性は犯罪者論」は正直データに則って語っているようには見えないが、客観的事実としてアメリカでは男性の方が犯罪者が多いのは確かである。

もちろん、この統計だけを見て、男性は全員犯罪者だ!とは言えない。傾向があるだけだ。善良な男性はたくさんいるし、そもそも女性の方だって犯罪を犯しているのは先に引用した文章のとおりである。しかしながら、議論の何らかの手助けになると思い、このような記事(記事というより引用文であるが)を書いてみた次第である。

最後になるが、この『あなたの知らない脳』はとても面白い本なのでぜひ読んでもらいたい。我々の意識が如何に脳の活動の一部にすぎないかが明瞭に語られる。とても楽しくなる本であった。

 

参考文献:

デヴィッド・イーグルマン著『あなたの知らない脳 意識は傍観者である』

 

 

 

 

なぜネットで「在日認定」が行われるのか─ステレオタイプ論と群衆心理から

 1.はじめに

2018年現在、ネット内では現在右翼と左翼が活発に戦っている。ツイッターや5chを見たことがある方は経験した、あるいは目にしたことがあると思われる。そんな中、右翼側の「一部」が国内で何か事件が起こるたびに根拠なく犯人を在日韓国・朝鮮人と認定する行為(在日認定)がたくさん見られる。この記事では在日認定がなぜ行われるかを考えていきたい。繰り返すがあくまで右派の「一部」が行っている行為であり、右派全員がこのような差別的言動を行っているわけではないとご了承願いたい

 

2.「在日」というステレオタイプ─W.リップマンの『世論』から

初めに結論を言うと在日認定は一種のステレオタイプの「防御」である。ステレオタイプに関しては政治学者・社会学者のW.リップマンが著書『世論』で解き明かしているのでそれを元に論及していきたいと思う。ステレオタイプとは、北海道大学教授の山口二郎の言葉を引用すると

様々な情報が氾濫する今日、人はメディアを通してしか事物を知ることはできない。そして、普通の市民は事物について多様な情報を吟味し、正しく事物を知るだけの余裕を持たない。メディアが伝えるイメージが固定化し、人は思考を省略してそのようなイメージに基づいて認識、判断を行うようになる。そのような固定化されたイメージをステレオタイプと呼ぶ。

とのことである。

この固定化されたイメージ=ステレオタイプは誰にでも持っているものであり、特段に右翼が〜とか左翼が〜とかの話ではない。例えば台湾は親日である、というのもステレオタイプの一つである。台湾人の中にも日本の支配を憎んでいた人もいる。日本のゲームはグラフィックが劣る、というのもこれもまたステレオタイプである。大金をかけて作られた美麗なグラフィックのゲームも存在するからである。

では、なぜステレオタイプは生まれるのだろうか。リップマンは『世論』でこう説明する。

われわれは一定の観念を通して外界の光景を観察する。当然、このような観念と外界の光景を結びつける何かがある。例えば、急進派の会合には長髪の男性や断髪の女性が一部いるとするというような場合である。しかし、時間に追われる観測者には、観念と外界にほんの少し関連があれば充分である。こうした会合には断髪を好む人達が集まるということを予め知っている記者にとっては、断髪が二人、ひげ面が四人もいれば、断髪とひげの聴衆だったと報告するだろう。

このような事情には経済性という問題が絡んでくる。あらゆる物事を類型や一般性としてでなく、新鮮な目で細部まで見ようとすれば非常に骨が折れる。まして諸事に忙殺されていればなおさらであるし、現代社会は多忙を極めている。このリップマンのあげた例によれば、急進派の会合における観測者は僅かな事例(断髪とひげ面)をもって、全体を把握しようとした。例外的な事例を元に全体を捉えるのは「思考」という労力の節約になる。もし細部まで捉えようと思えば観測者の思考の労力は極限にまで達し、その思考のために長い時間も要する。しかしリップマンが言うように現代社会はそんな時間もないし、労力を傾ける余裕もない。そこで、ステレオタイプを使うのである。

もう一つ例をあげよう。国内である事件が起きた際に、被害者や犯人のことをイチから知ろうと思えばその労力は大変なものになる。そのときに我々は自分のよく知っている類型を指し示す特徴を現実世界から見つけ出し、ステレオタイプを使って、現実世界を理解するのである。そう、「犯人は在日だ」というように。この論理には、実際に在日韓国・朝鮮人が犯罪を犯したという過去の実例も使われる。つまり、先のリップマンの引用によれば、過去に在日韓国・朝鮮人が犯罪を犯した、という事例を用いて、在日=全員犯罪者と拡大解釈してるのである。詳しくはこちらの記事も参考にしてほしい。

peoplesstorm.hatenablog.com

更にリップマンはこうも述べる。

ステレオタイプの体系は、秩序正しい、ともかく矛盾のない世界像であり、われわれの習慣、趣味、能力、慰め、希望はそれに適応してきた。それはこの世界を完全に描ききってはいないかもしれないが、一つのありうる世界を描いておりわれわれはそれに順応している。そうした世界では、人も物も納得の行く場所を占め、期待通りのことをする。この世界にいれば心安んじ、違和感がない。(…)こうした状態であるから。ちょっとでもステレオタイプに混乱が生じると、宇宙の基盤が襲撃されたように思えるのも不思議な事ではない。

現実の社会は非常に騒々しいものだ。毎日何らかの重大な事件が起きる。交通事故の死亡者数を見ると、我々は交通事故で今日死ぬかもわからない。だがそんなことを考えもせず平穏に一日を送れるのはステレオタイプのおかげなのである。この場合のステレオタイプとは「日本は安全な国だ、私は犯罪にあわない、まさか交通事故で死ぬなんてありえない云々」というものである。このステレオタイプのおかげで我々は「寝ているときにいつ強盗に襲われるか」とか「いつ後ろを歩いている通行人に刺殺されるか」などを気にしなくても生きていけるのである。一部の右翼による在日認定はまさにこれに依拠している。彼らの思い描く日本には「絶対的に正しい国だ、安全な国だ、日本人は他民族(特に朝鮮人)より優れているからそんな凶悪な犯罪事件などを起こすことはない。」というステレオタイプがある。そんな彼らにとって日本国内で日本人による犯罪が起きるのは不都合なことである。ステレオタイプに反するものだからだ。そうしたときに現れるのが犯人の在日認定なのである。つまり、在日韓国・朝鮮人を犯人とすることで、先に述べた日本という国に対しての己のステレオタイプを「防御」するのである。そうさえすれば、彼らは自分の思い描く「日本」というイメージを壊さずに済み、安寧に暮らしていける。

さて、リップマンによれば、もし現実の経験がステレオタイプと矛盾するときは、2つのうちいずれかが起こるという。一つには自分のもっているステレオタイプを再編成するのがきわめて不都合な場合、その矛先を「例外」であると鼻であしらい、証人を疑い、どこかに欠陥を見つけ、その矛盾を忘れようとする。もう一つには、新しい経験を柔軟に脳に取り組み、ステレオタイプの再編成を図る。例えばツイッターなどでは「元ネトウヨです。在日認定などはもうしません」という方もたくさんいるし、私も中学生の時は過激なネトウヨであった。このような人たちは後者のステレオタイプの再編成を図った者たちである。一方、在日認定をする者たちは前者であり、彼らは事件の犯人が日本人だったとしても「それは例外である」として彼らのステレオタイプは「防御」されるのである。このステレオタイプの防御は日本の右翼だけが用いるのではない。アメリカの白人至上主義者たちは事件が起こると、犯人は確かに見た目は白人だが黒人の血を引いているに「違いない」と言って、彼らのステレオタイプ=白人は優秀で犯罪も犯さない、を守ろうとするのである。世界中のあらゆる人達がそれぞれのステレオタイプをもって日常生活を送っている。韓国人の中にも日本も含めた世界の優れた人物は実は朝鮮民族の血を引いている、と唱える集団がいる。これも韓国人=優秀というステレオタイプを用いているのだろう。

もし我々がある物事を真実であるはずだと信じているならば、それが真実であるという例証か、でなれければ真実にきまっていると思っている人間をほとんどかならず見つけ出す。また、具体的な真実がある希望を意味しているときは、この真実を正当に評価することは極めて難しい。在日韓国・朝鮮人=犯罪者という「真実」を捉える者がその例証を見出し、同じように真実だと思っている人をツイッターで見出すのは実に容易い。右翼同士のコミュニティで在日韓国・朝鮮人=犯罪者という「真実」は彼らのやりとりの中で徐々に増幅され、いつしか決定的な真実として扱われるのである。『世論』ではこう述べられている。

一つのことを激しく憎悪するとき、われわれはそれを原因、あるいは結果として、自分たちが激しく憎んだり恐れたりしているほかのほとんどのものに直ちに結びつけてしまう。そうした物事同士は、天然痘と酒場、相対性理論とボルシェヴィズムがまったく関係がないのと同じように無関係である。それにもかかわらず同じ感情を呼び起こすという点で結び付けられている。

感情次第で何でもが他の何でもと関連付けられる。在日韓国・朝鮮人を憎む者はそのとき、全く関係ない「犯罪者」というイメージを呼び起こす。犯罪者と在日韓国・朝鮮人は全く関係がない。それは犯罪者と日本人が関係ないのと同じである。しかしそれにも関わらず、犯罪者も在日韓国・朝鮮人も悪という感情を呼び起こすからといって、結びつけてしまう。*1リップマン曰く─「真の空間、真の時間、真の数、真の関係、真の重さは失われている。出来事はその展望も面も削り取られて、ステレオタイプのなかで凍結させられている」─と。結局のところ、我々は一切は悪いことばかりの体系、さもなければ善いものばかりの体系の中に織り込まれてしまっている。在日韓国・朝鮮人は全くの悪だと捉える体系、逆に在日朝鮮人は全くの善だと捉える体系。これらの体系から抜け出し、真実の在日韓国・朝鮮人を見るというのは非常に労力を使い困難である。些細な出来事がすぐに全体と結び付けられて真実とされる。

ここまでをまとめると、在日韓国・朝鮮人が特に犯罪を犯すというイメージはステレオタイプである。右翼の一部はこれらの在日=悪というステレオタイプを使い、日本=絶対的に安全かつ優れた国というステレオタイプを守っている(防御している)。ステレオタイプは誰でももっているものであり、現代社会という極めて複雑かつ多忙な社会では必要不可欠なものとなっている。くわえてステレオタイプは人種差別や性差別に使われやすい。しかし、我々はステレオタイプがあるからこそ、色々なことに思考の労力を取られず生きていけるのである。在日朝鮮人が犯罪者という一部の者が信奉する「真実」は、ツイッターや5ch内の同じような意見を持つ者の中で純粋培養され、いつしか(彼らには)絶対的な真実として捉えられる。このような働きの中で、右翼の一部内で在日=悪という彼らにとっての「真実」は永劫不滅のものとして君臨するに至ったのである。もちろん、これらのステレオタイプは「南京事件はなかった」とか「731部隊はでっちあげ」などとしても用いられる。人はみな自らのステレオタイプ─それが良くも悪くも─の中で生きる生物なのである。

 

3.「群衆」としての右翼─ル・ボンの『群衆心理』から

前章ではリップマンのステレオタイプ論から在日認定を説明した。この章ではギュスターヴ・ル・ボンの『群衆心理』から在日認定を説明したい。

群衆とは任意の個人の集合を指していて、その国籍や職業や性別の如何を問わない、また個人の集合する機会の如何を問わない。ル・ボンは言う。

ある一定の状況において、かつこのような状況においてのみ、人間の集団は、それを構成する各個人の性質とは非常に異なる新たな性質を具える。すなわち、意識的な個性が消え失せて、あらゆる個人の感情や観念が同一の方向に向けられるのである。(…)その時この集団は、ほかにもっと適当な言い方がないので、組織された群衆、いや何なら、心理的群衆とでも名付けよう。

更にル・ボンによれば、心理的群衆の示す最も際立った事実は、次のようなことである。すなわち、それを構成する個人の如何を問わず、その生活様式、職業、性格あるいは知力の類似や相違を問わず、単にその個人が群衆になり変わったという事実だけで、その個人に一種の集団精神が与えられるようになる。 

在日認定を行う右翼達は一種の心理的群衆なのではないかと私は考えている。右翼(もちろんこれは左翼などの他の集団も同じであるが)という群衆にあっては、もう自分の行為を意識しなくなる。ある暗示を受けると、それにかられて、抑えがたい性急さで

ある種の行為を遂行しようとする。ル・ボンによれば下記のとおりである。

(群衆は)暗示と感染による感情や観念の同一方向への転換、暗示された観念をただちに行為に移そうとする傾向、これらが群衆中の個人の主要な特性である。群衆の中の個人は、もはや彼自身ではなくて、自分の意志をもって自分を導く力のなくなった一箇の自動人形となる。

つまり、孤立していたときは恐らく教養のある人であったろうが、ツイッターの「◯◯クラスタ」という(インターネット的)群衆にいざ加わってしまうと、ル・ボンが言うように「本能的な人間、従って野蛮人と化してしまうのだ(…)熱狂的な行動や英雄的な行動に出る」のである。言葉や心象(イマージュ)によって動かされやすく、自身の極めて明白な利益をもそこなう行為に扇動されやすくなる。

ツイッターでは人種差別や外国人排斥を公然と唱える者が後を絶たない。これはある面ではインターネットの匿名性によるものだろうが、もう一つの側面にはル・ボンが言うような心理的群衆の効果があるのだと考える。つまるところ、ひとりひとりは温和な市民でも、それが集合して群衆(例えばネトウヨクラスタ、など)になると、数人の指導者(ネトウヨクラスタ内のアルファツイッタラー、または保◯速報のような極右的まとめサイト)に影響されて、外国人を差別したり、在日認定をしたりといったことをするようになるのである。歴史的な事例をあげれば、フランス革命時の熱狂的な群衆があげられるだろう。ひとりひとりはごく平凡な下層市民でも集まれば=群衆となれば、革命を起こす要因の一つまでになった。群衆の特徴は興奮しやすく、推理する力のないこと、判断力および批判精神を欠いていること、感情の誇張的であることなどが『群衆心理』のなかであげられているが、これらはインターネット上でよく見られるものだろう。繰り返すが、このような行動や状況は右翼に限ったものではなく、左翼もそうだし、色々な◯◯クラスタにも大いに当てはまると考えるべきだ。フォローやリツイートといった機能を持ちなおかつ匿名性のあるツイッターというツール自体が群衆を結成させやすいと考えることもできるだろう。

右翼的な群衆の中では在日が事件を起こすという「神話」が流布されている。それ故に事件が起こったときに安易に「あの犯人は実は在日」などと在日認定を行うのであるが、ル・ボンはこのような神話は集合した個人の想像力によって、事件が驚くべき変形を受ける結果としている。極めて単純な事件でも、群衆の目に触れると、たちまち歪められてしまう。群衆を構成するひとびとの気質が多種多様であるから、群衆がその目撃する何らかの事件に対する見方はまちまちであると思うのは早計である。群衆内の「感染」*2の結果、事件を歪めてみるという行為や意識は同じ性質、同じ意味になる。これをル・ボンは「集団的錯覚」と呼んでおり、この集団的錯覚は、正確に物を見る働きが失われ、かつ現実の事象が歪められるのだが、これはインテリにも当てはまる。インテリでさえ専門外のこととなるや、群衆の性質を帯びる、とされる。各自の有する観察と批判精神とが消え失せてしまうのだ。

ここまでを約言すると、インターネットは一種の心理的群衆 を作り出した。ツイッター内などで◯◯クラスタとして集まった者たちはある種の群衆的性格を持っている。今回の記事のテーマの「在日認定」に関しては、集団的錯覚、すなわち右翼の一部のクラスタが集まったり、またはその指導者であるアルファツイッタラー達やまとめサイトが現実の事件を歪めてそれを見て拡散し、群衆の中にそのような見方(在日差別など)=神話を「感染」させる。群衆は興奮しやすく、判断力などを欠いている。これは個人の特性のせいではなく、群衆という集団的なものに帰する。いくら温和なツイッタラーでも「右派」という群衆となれば平然と在日認定を行い、在日韓国・朝鮮人を差別するのである。何度も重ねていうが、この群衆的作用は右翼だけではなく、左翼などのあらゆるクラスタに関係があることである。この点をご理解願いたい。

 

4.終わりに

ツイッターや5ch内の在日認定について2つの点から今回は考察した。1つ目にリップマンのステレオタイプ、2つ目にル・ボンの群衆心理からである。どちらもおよそ100年以上前の、いわゆる「古典的名著」であるが、現代社会を解き明かす一つの道標になるのではないかと考えている。今回のテーマは「在日認定」のために必然的に右翼、または右翼的なものに批判的になったが、ステレオタイプ論は左翼、はてはヘヴィメタルクラスタなどにも当てはまるし、群衆心理にしても同じである。

ここで考察した2点だが、これはリップマンとル・ボンの著作をかいつまんでいるのであり、彼らの論理はもっと複雑かつ含蓄のある内容である。ブログの都合上(長くなりすぎると読んでもらえない等)、彼らの著作の重要箇所をピックアップし、引用した。もしこれらの論理が気になる方がいたら本を買ってみるのもいいだろう。どちらも文庫で簡単に手に入るのでおすすめである。

 

「私が一個の掟であるのは、ただ私に所属する者たちだけだ、私は万人にとっての掟ではない。」by ニーチェ著『ツァラトゥストラ

 万人のためではない、所属する者たちだけのための一個の掟。そうそれこそがまさにネット内で見られるステレオタイプなのだろう。

5.参考文献

W.リップマン著『世論(上)』・『世論(下)』

ギュスターヴ・ル・ボン著『群衆心理』

塩川伸明著『民族とネイション―ナショナリズムという難問』

  

 

以下駄文

内容的に右派を批判したが、個人的な意見では、右派がいうように国家に愛国心は必要であると考えている。生まれた国を愛するのがなぜ悪いのだろう、自然なことである。(もっともこれが近代の『国民国家』的思想であるのは留意すべきだが)

しかし在日認定や外国人排斥を訴えるのは愛国心ではなくレイシズムであり、それには同意できない。加えて右派の唱える新自由主義的な政策、または過激な反フェミニズム的言論にも全く同意できないが、かといって左派にも傾倒しきれない。これは良く言えば中道、悪く言えば宙ぶらりん・中途半端…。

 

 

 

 

*1:実際G.W.オルポートから、ステレオタイプは人種差別につながりやすいという指摘もある。

*2:ル・ボン曰く「群衆の思想、感情、感動、信念などは細菌のそれにひとしい激烈な感染力を備えている」と。

なぜユダヤ教・イスラム教で豚肉は禁止されるのか─ハリスの説から

 1.はじめに

世界各国の宗教には色々なタブーがある。例えばユダヤ教イスラム教では豚が禁じられた食材となっている。このようなタブーについてインターネット上では「豚は寄生虫繊毛虫)がいるので食べてはならないと定められた」という言説が見られる。一方人類学者のマーヴィン・ハリスは全く別の理由で食べないのだとその著書で述べている。ここではハリスの意見を簡単に紹介し、豚のタブーについて説明していきたい。

 

2.豚について

豚は飼うのに実に合理的な生き物である。豚は餌に含まれるエネルギーの35%を肉に変えることができる。一方羊は13%、牛に至ってはわずか6.5%である。雌牛は一頭の仔牛を産むのに九ヶ月の妊娠期間が必要であり、また仔牛は400ポンド(180kg)に達するのに四ヶ月かかる、つまり合計13ヶ月かかる。一方雌豚は受胎後四ヶ月で8匹以上の子豚を産め、その後六ヶ月間で400ポンドを超える─つまり10ヶ月間で達することが可能である。明らかに豚というものは人間のために肉を生産する存在なのである。

 

3.宗教的戒律と豚

この豚に対して、聖書とコーランではどのような扱いになっているだろうか。紹介すると

「その肉(豚肉)をお前たちは食べてはならない。またその死体に触れてはならない。それらはお前たちにとって不浄のものである。(レビ記11・24)」

「次のものについては神がお前たちに禁じた。すなわち、豚の死体、血、肉。(コーラン2・168)」

となっている。

豚のタブーについて、いくつか説明を試みた者たちがいた。例えば11世紀のエジプトイスラム王朝サラディン王に仕えた宮廷医ラビ・モーゼス・マイモニデスは「律法が豚肉を禁じている第一の理由は、その習性と食べるものがきたなく不潔であるという豚の生態にある」と説明した。彼に言わせれば、豚を飼うことを許可すればカイロの街はヨーロッパの街のように不潔になるというのである。なぜなら、豚の口はその糞とおなじくらいきたないからだと。しかし、それは一面的な説明にすぎない。豚が人糞を食らうのは、悪しき本性からではなく他に食べるのものがないからだ。*1豚は本来穀物やナッツなどの種実類を好むし、ヨーロッパでは村の近くの森に豚を放って実際そのように飼育していた。同様に、豚が汚いところで転げ回るのも身体を涼しく保つためで、本当は尿や糞で汚れた泥より、きれいで清潔な場所のほうが好きなのだ。

また、豚だけが糞を食べるのではない。例えば鶏やヤギも糞を食べることがある。犬も糞を食べることが知られている。だが神は犬の肉も、犬に触れることも禁じなかった。

近代に入ると豚肉のタブーを「寄生虫」に結びつける考え方が現れ始めた。1859年、寄生虫繊毛虫と生の豚肉の関係が医学的に実証された。この発見は神学者や科学者を熱狂させることになった。合理的に科学的に豚のタブーを説明できたからだ。

ハリスはこの豚肉が禁止されているのは寄生虫理論では豚のタブーは説明できないとする。なぜなら、豚肉だけが特別に食べるのが危険な食材ではないのだ。例えば、生煮えの牛肉は、サナダムシをうつす危険がある。サナダムシは人間の消化器の中で非常に大型になり、ひどい貧血を起こさせ、免疫力を低下させる。牛、ヤギ、羊は炭疽病を伝染する。これは非常に恐ろしい病気で、1881年にパストゥールがワクチンを開発するまで、世界中で猛威を奮った。豚の繊毛虫の場合、感染した場合でも大多数は発病しないが、炭疽病の場合、初めにできものができ、きわめて短時間で死んでしまう。

もし、豚肉のタブーを繊毛虫に求めるならば、同様に他の動物についてもタブーを作らねければならないはずだ。生煮えの豚肉は危険というならば、それは牛や羊、ヤギにも毛刻しなければならない。だが神はこれらを禁止しなかった。

 

4.反芻動物と豚

ここでもう一度聖書に立ち返ってみよう。レビ記ではこうある。

「動物のうち、すべて蹄のわかれた、偶蹄のもの、そして反芻するもの、それは食べることができる(レビ記11・1)」

まず神はなぜ食用可能な動物は反芻動物であってほしかったのかを考える必要がある。古代イスラエルで飼われていた動物の中には三種類の反芻動物がいた。牛、羊、ヤギである。これらは古代の中東ではもっとも重要な食料生産動物であった。牛、羊、ヤギは反芻することができる。つまり高セルロース質食物の餌─ワラ、干し草、木の葉─など人間が食べられないものを食べることができる。人間と動物の間で食べ物を取り合わなくて済む。人間はどんなによく煮ても、高セルロース質食物は食べることができないのである。これらの動物は人間が食べないものを食べると同時に、糞は肥料になるし、鋤を引く労働力にもなった。これによって更に農業の効率は高まった。まさにWin-Winの関係であった。

ここで私は最初に豚は効率の良い太り方をする合理的な動物だと言ったが、豚は小麦やトウモロコシ、じゃがいも、大豆その他人間が食べられる低セルロース質の食物で育て場合のみ、奇跡的な体重増加を示すのである。もし、牛などと同じようにワラや干し草しか与えられなかったら豚は体重を減らしてしまうのである。

豚は雑食動物だが反芻動物ではない。ヨーロッパにおいては広大な森のなかで豚を放し飼いにできたが、中東ではそうはいかなかった。豚を育てる場合は自らの食事を差し出すしかなかった。また、中東で豚が禁じられたのはもう一つの理由があった。豚は中東の気候にあってないのである。豚の祖先は水の豊かな谷間や川岸の木陰を住処としていた。豚の体温調節機能は中東の熱くて、日差しであぶられるような環境には全く適していない。熱帯種の牛、羊、ヤギは水なしで長期間の間生きられ、発汗作用によって余分な熱を放出することも、明るい色の短い毛の生えた外皮によって身を守ることができた。*2豚は汗をかけない。汗腺を持っていないからである。豚は涼しくいるためには泥の中で転げ回り、冷たい地面からの伝導作用で熱を発散するしかない。体温が30度を超えると、きれいな泥たまりを取り上げられた豚は、熱にやられるのを回避しようと自分の糞便や尿の中で転げ回り始める。豚は身体が大きくなるほど、熱に耐えられなくなる。

したがって、中東で豚を飼うのは反芻動物を飼う以上にコストがかかることであった。豚を飼うには人工的に影を作ったり、転げ回る用の泥たまりを用意してやらねばならなかった。またその餌は人間自身が食べられる穀物その他の植物性食物を与えてやらばならなかった。

 

5.中東で豚を飼うベネフィット

こうして考えてみると、豚は反芻動物に比べてベネフィットが少ない。豚は農耕に使えず(鋤が引けない)、その毛は繊維や布にむかず、乳用にも適さない。「豚は、肉以外ほとんど役立たない唯一の大型家畜である」*3

中東のような環境では豚を飼うことは難しい。どんなに食べたいと願ってもほとんど食べられなかったはずだ。そのような歴史的経緯から豚を慣れ親しまない食べ物として忌み嫌う伝統が作られ、それが宗教的タブーにも取り入れられたとハリスは考える。宗教的タブーは新たなタブーを創るのではなく、元から民族にあったタブーを取り入れているのだ。

しかし、中東で全く豚が飼われていなかったとするのも間違いである。ヨルダンのイェリコ、イラクのジャルモからは飼育された豚の骨が出土している。聖書にも豚が登場する。しかし、当初から飼われていた豚の数は少なかったとハリスは言う。しかもその規模は(おそらく先に述べた飼育の難しさから)どんどん縮小していったと考えられている。

カールトン・クーンによれば、豚飼育の全般的衰退は森の減少だとした。新石器時代のはじめには、豚はカシとブナの森で餌を漁って生きられた。それらの森は食べ物だけではなく日陰をも提供してくれる場所だった。しかし人口密度が増えるに従って、農耕地が拡大し、森は農耕地として伐採され、その結果豚の住処が奪われた。例えばアナトリアでは紀元前5000年から最近までに森林は全面積の70%から13%に減少したという。一方ヨーロッパでは深い森は近世に入るまで保たれたため、豚を森で飼育することができた。

豚はヨーロッパでも中東でも肉のためだけに生産された。農耕には役立たないため、どうしても欲しいということはなくなる。それならば、森林地域の減少と共に豚を飼うのが難しくなると─森林破壊、土地の侵食、砂漠化─豚は無用どころか、触るのも、目にするのも汚らわしい動物、最低最悪な動物となった。

豚のタブーがユダヤ教徒だけではなく、中東の異なる文化(イスラム教)で行われていることがこの説明を裏付ける。中東では豚を飼育するベネフィットは少ないが、牛や羊やヤギを飼育するベネフィットがあった。そのために、イスラム教のタブー成立の前に豚を忌避する傾向が既にあったのだ。豚のタブーは中東においては経済学的に正しい決定を示すのである。もし豚を意地でも中東で飼育していたら、得られる肉の量や農耕としての労働力は減少し、今よりも発展が望めなかっただろう。イスラム教のような厳格な宗教でも、神の定めた戒律をただ振りかざすだけでは豚を禁止することができない。豚を経済学的に考えて飼育していなかったからこそ、宗教的戒律を受け入れることができたのだ。宗教的タブーは実は経済学的ベネフィットに基いており、だからこそ受け入れることも可能なのである。

 

6.終わりに

ハリスは豚のタブーについて生産のコスト・ベネフィットから説明を試みている。宗教的タブーは闇雲に設定されたのではなく、その地に生きる者にとっては合理的なタブーでもあったのだ。私がここまで述べてきた内容は、ハリスの『食と文化の謎』からの引用であり、興味があったらぜひ全文を読んでもらいたい。豚のタブー以外にもインドにおける牛のタブーも扱っており、大変面白い内容である。文庫本で入手も容易なのでぜひどうぞ。

 

参考文献

マーヴィン・ハリス著『食と文化の謎』

 

 

 

*1:当時、豚に人糞を食わせて飼育する方法があったのである

*2:熱を貯める構造の多量の毛じゃ寒冷地種の動物の特徴である

*3:マーヴィン・ハリス著『食と文化の謎』