話者ナタン・グラスは60歳の元生命保険セールスマンで、ガンと診断されるが一時的に鎮静状態にあり、早期退職して限りある余生を自分の原点であったブルックリンに戻って過ごすべく、かのニューヨークの一角に移り住んでくる。妻とは離婚し、娘とは時々連絡をとる程度の独り身暮らし。散歩や昼食のレストランなどでこの選ばれた「終生の地」はナタンを魅了していく。残り少ないと仮定された人生は、その若き日の文学趣味を再び呼び起こし、ナタンはこのブルックリンの日々を文字として留めていくことになる。その書き物のタイトルは『人間の狂気の書 Le livre de la follie humaine』と言い、この書のもうひとりの主人公はトム・ウッドという名のナタンの甥である。長い間会っていなかったこの甥は、過去には秀才の文学青年で、今頃は当然成功してどこかの大学教授に納まっているはずであったが、2000年春、彼がいるはずのないニューヨークのブルックリンの古本屋でばったり出会ってしまう。トムは若くて純粋な精神が勝ってしまって、教授職を選択せずに、青春の放浪の末にほとんど無一物でニューヨークに流れ着き、ブルックリンの古本屋に店員として拾われる。この文学好きな二人の再会によって、小説は理想を求める心優しい男たちの奮闘記に一転していく。この男たちのひとりを形成するのが、ハリーという名の古本屋店主である。富豪の娘と不詳不詳結婚させられたホモセクシュアルの男で、画廊で一時は成功するがその成功を維持するために贋作を売り、詐欺罪で監獄を経験したのち、第二の人生としてやり直すべくニューヨークになってきた。
このハリーから、立ち行かなくなった世界の救済場所という、夢のヴィジョンが提案される。この場所は「実存ホテル HOTEL EXISTENCE」と称され、そのドアを開けば外界からどんな被害を被ることもなく、現実世界が効力を失ってしまう場所である。戦乱の地にも、自然災害の地にも、必ずそういうホテルが存在するのだ、と彼は信じている。
小説はマトリョーシカ人形(ロシアこけし)のようにさまざまな人物が次々と現れ、それぞれ固有の小物語が矢継ぎ早に展開される。トムがナイーヴな純愛ごころから近づけないでいる子連れの女性(名付けて)”JMS(至高の若母 Jeune Mère Sublime)"。その夫で名前がジェームス・ジョイス(そういう大作家がいたということも知らない家庭環境で生まれた男)。その母親であるジョイス・マズケリ(夫の姓と母のファーストネームが同じという符合)は小説の終盤ではナタンとの老いらくの恋仲に結ばれる。トムの妹で、ポルノ女優から麻薬中毒者に身を落とし、新興宗教セクトの男に拾われ、そのセクトから抜け出せないでいるロリー。その娘でまだ9歳半のルーシーが家出してきてトムの前に現れる。母親ロリーの居場所は杳として知れない。この一筋縄ではいかない家出少女を連れ立って、トムとナタンの珍道中が展開される。そのロードムーヴィー的展開の道すがら、立ち寄った「チャウダー旅籠」という民宿にトムとナタンはハリーが言っていた「実存ホテル」のこの世の姿に違いないと見てとるのである。地上においてもしも「実存ホテル」があるとすれば、この旅籠のことに違いない、と。
Matia Bazar "Ti Sento"(1985) マティア・バザール「ティ・セント」(1985年)
詞曲:Carlo Marrale - Aldo Stellita - Sergio Cossu
町屋の朝市という意味ではない。マティア・バザールは1975年地中海の港町ジェノヴァで結成されたイタロ・ポップバンドである。オリジナルメンバーは、ピエロ・カッサーノ(kbd)、カルロ・マッラーレ(g,vo)、アルド・ステリータ(b)、ジアンカルロ・ゴルツィ(dms)、そして紅一点ヴォーカルのアントネッラ・ルッジエロであった。1979年にはイタリアを代表してユーロヴィジョン・ソングコンテストに出場し、"Raggio di luna(月の光)"という曲を披露したが、エントリー19曲中、15位という結果に終わっている。イタリアでは70年代からずっと第一線のポップバンドであったろうが、私はずっとフランスにいるのでその活躍のほどはよく知らない。マティア・バザールがフランスで”ヒット”したのは2曲しかない。ひとつは1978年の"Solo Tu(あなただけ)"、そしてもうひとつが1985年の”Ti sento"である。「ティ・セント」はイタリアでシングルチャートNO.1だっただけでなく、ベルギーで1位、オランダで2位、その他西ドイツ(当時)や北欧圏でチャートインし、1985年と86年を通してヨーロッパ中でヒットしたことになっている。そのヒットの国際化に対応してマティア・バザールは「ティ・セント」の英語ヴァージョン"I feel you"も録音している。 フランスは1981年(ミッテラン当選の年)にFM電波が解放され、一般視聴者(特に若いジェネレーション)への音楽情報量が飛躍的に増加し、音楽の”聞かれ方”が革命的に変化した。1984年、フランスはSNEP(全国音楽出版協会)が統計する公式のナショナル・チャート”TOP 50”がスタートし、テレビ(カナル・プリュス)で発表される週間チャートはたいへんな視聴率を上げていたのだよ。日本からは英米ヒットや旧時代のビッグ(アリデイ、サルドゥー、ヴァルタン...)が支配的と思われがちだったフランスのチャート事情の現実はまるで違っていて、この1980年代半ば、この国のチャートやFMは欧州が元気だった。ベルギー、西ドイツ、イタリア。ユーロ・ポップ、ユーロ・ビート。欧州産シンセ・ポップはだいたい英語で歌われるのだが、ベルギーからはフランス語ものも出てくるし、イタリアからはイタリア語ものも堂々と出てくる。当時私はイタロ・ポップのシングル盤たくさん買いましたよ。Righeira "Vamos A La Playa"(1983年)、Finzi Contini "Cha cha cha"(1985年)、Gazebo "I Like Chopin"(1983年)、Ryan Paris "Dolce Vita"(1983年)、Andrea "I'm a lover"(1986年)、Tullio De Piscopo "Stop Bajon"(1984年).... この当時、私は”音楽業界”に入っておらず、一介の音楽リスナーだったが、イタリアが欧州ポップの前衛であることは実感していて(当時の私の知る範囲というのはシングル盤ヒットとFMヒットの領域に限られるものの)、サウンドテクノロジーにおいてもプロダクションの繊細さにおいてもフランス”ヴァリエテ”はイタリアにかなり遅れているという印象があった。Italians do it better。あの頃の私の"遊び場"だったレ・アール地区で、"FIORUCCI"の店がひときわ面白かったのも懐かしい記憶。
La parola non ha 言葉には
Né sapore, né idea 香りも想いもない Ma due occhi invadenti ただ迫りくる二つの眼か Petali d'orchidea 蘭の花びらのようなもの Se non hai その言葉に Anima, ah 魂がなければ
Ti sento わたしはあなたを感じる
La musica si muove appena 音楽はかすかに動いている
Mi accorgo che mi scoppia dentro 私はそれが私の中で爆発するのがわかる
Ti sento わたしはあなたを感じる
Un brivido lungo la schiena 背中に走る戦慄
Un colpo che fa pieno centro 真ん中から突いてくる一撃
Mi ami o no? あなたはわたしを愛しているの?そうじゃないの?
Mi ami o no? あなたはわたしを愛しているの?そうじゃないの?
Mi ami あなたはわたしを愛しているの?
Che mi resta di te あなたにはわたしの何が残っているの?
Della mia poesia わたしのポエジー?
Mentre l'ombra del sonno その愛の影が忍び寄り
Lenta scivola via ゆっくりと去っていく Se non hai もしもわたしのポエジーに
Anima, ah 魂がなければ
テレラマ誌の執筆ライターで自ら映画監督でもあるマリー・ソーヴィオンがそのYouTubeチャンネルの動画の中で、去年7月のヴェネツィア映画祭で初めてこの映画を観たあとで、驚きを隠せない周囲の人たちに「最後のところわかった?」と尋ねると「あまりよくわからない、でもこのミステリアスなエンディングは心にずっと残るだろう」と答えたという話を伝えている。私はこれに膝を叩いて同意する。私が観たパリ6区の映画館では、観客たちは映画の最後に口をポカンと開けながら、エンドクレジットを読むでもなく眺めながら、じっと映写ホールの灯りがともるのを待っていた。わかるもわからぬもなくこれは重く残るのですよ。 映画題『悪は存在しない』は反語であろうし虚言でもあろうが、エリック・ローメール映画の諺・格言のように、それはそれでありがたいものである。映画のトーンは(エコロジックな)寓話のように捉えられようが、この映画で善悪は重要な問題ではない。問題はタクミが言うように「バランス」なのである。それを濱口は(「言葉の人」の才を抑えて)トラヴェリングと音楽と自然音を前面に出して表現したのである。できる映画監督なのだと思う。ことさら山麓の映像は美しい。Pourtant la montagne est belle.
『ベルヴィル東京』(2011年)のエリーズ・ジラール監督の最新作でイザベル・ユッペール主演で日本で撮られた映画『シドニー、日本で(Sidonie au Japon)』、本日フランス公開、わが町のランドフスキー座13時45分の回で観た。人は結構入っていて、わが町の日本文化ずきとおぼしき年配女性たちがほとんど。桜の季節でもあるし。
2021年晩夏、クリスティーヌ・アンゴはそれまでの作家キャリアで最も評価の高い作品となる『東への旅(Le Voyage dans l'Est)』(同年のゴンクール賞候補にも上り、最終的にはフランスで重要な文学賞であるメディシス賞を獲得することになる)を発表し、その出版社フラマリオンはそのプロモーションにその小説題にあやかりフランスの東部3都市(ナンシー、ストラズブール、ミュルーズ)をめぐるレクチャーとサイン会のツアーを企画した。その中のストラズブールはアンゴには深すぎる因縁の町であり、1999年に他界した実の父ピエール・アンゴがその妻と二人の子供(つまり義弟と義妹)と共に住んでいた町であり、クリスティーヌが13歳の時に始まり長期間にわたって続いた実父による近親相姦の最初の場所であった。2021年の時点でその未亡人エリザベートと義弟と義妹はまだその場所に住んでいる。フラマリオン社がこのフランス東部へのプロモツアーを提案した2021年6月(小説はまだ最終校正段階で誰も読んでいない)、アンゴはこのツアーにヴィデオ撮影班を同行させるというアイディアがひらめく。私の真実はすべてエクリチュールの中にある、だがそれは映像としても提出できるのではないか。シノプシスもシナリオもなくアンゴが撮りたいもの、見せたいものを映像化する。その夏の終わり、アンゴの”東への旅”は二人の撮影スタッフを同行し、”監督”アンゴの指示で自分(+対話者)を撮るカメラは回る。アンゴ流(セルフ)シネマ・ヴェリテである。 父ピエール・アンゴとの文通先の住所、そこが亡き父のストラズブールの邸宅であった。自らの記憶では約35年ぶり、その住所にタクシーで乗りつける。まだそれは残っているのだろうか。半信半疑でタクシーを降り、辺りの風景にかつての痕跡があるか自問するが記憶の答えは確かではない。その白い建物の外門から入り、ポーチの下の玄関扉の横にあるインターフォンの名前を確認する。父の未亡人、すなわちクリスティーヌの義母にあたる人物エリザベートの名前があった。「名前があったわ」とクリスティーヌは撮影スタッフに言う。さあ、どうしよう、何と言おう、門前払いを喰ったらどうしよう、ここまで来てクリスティーヌは極度にナーヴァスになる。その人物とは父の死後面会したい旨の連絡は書簡で何度か試みたが、固定電話の番号は持っているものの相手は受話器を取らず、携帯番号もメールアドレスもない。会う意思があるのかも定かではない。さあどうしたらいいのか。クリスティーヌは意を決して、扉のインターフォンのボタンを押す。応答はあった。インターフォンに向かって言う「私、クリスティーヌよ」。 扉が開き、エリザベートが現れる。門戸開放されたと思われた瞬間、中の女はクリスティーヌの背後にカメラを構えた撮影スタッフ二人の姿を認めたとたん、猛然と三人を押し返し扉を閉めようとする。クリスティーヌはドアの間に足を挟みいれる勢いでドアを再び押し開けエリザベートに「あなたは私たちをここに入れなければならない!」と叫ぶ。エリザベートとクリスティーヌの怒号の応酬による押し問答。あなたひとりならばと思ったけれど、私はカメラを家の中に入れるのは許さない、と言うエリザベート。それに対してクリスティーヌはこう叫ぶ:
J'ai besoin de me sentir soutenue par des gens qui sont de mon côté ! (私は私の側にいる人たちに支えられてると感じていなければならないのよ!)
アンゴがこの映画全編で求めていたのはまさにこのことだったのだ。クリスティーヌ・アンゴはあまりにも孤独だった。孤立無援だった。たったひとりの反乱だった。近親相姦という世のタブーをオートフィクション小説『近親相姦(L'Inceste)』(1999年)で、「クリスティーヌ」という名の「私」という一人称体の話者で告発して以来、この作家はそのスキャンダル性ばかりを取り沙汰され、世にも重大ながら社会が目をつぶり続ける近親相姦という問題については議論すらされない。そればかりか、(映画の中でその録画映像が挿入されるが)、テレビのトークショー番組(ティエリー・アルディッソンの"Tout le monde en parle" 1999年11月)でコメンテーターと聴衆の嘲笑の対象にされ、屈辱に耐えきれず番組のゲスト席から立ち上がりその場から去っている。だがアンゴはその反乱を止めることなく、父による近親相姦はその後の小説でも繰り返し登場し、書けば書くほどその問題は深化され、アンゴの一生の傷はその度にいよいよその後遺症を増幅させていくのだっt。2021年の小説『東への旅』はアンゴ”近親相姦”年代記のような総括編であり、彼女自身の入魂もすさまじいものであったろうが、文壇の評価もそれまでのアンゴ作品とは全く異なり、ゴンクール賞候補(最終的はメディシス賞受賞)にも上った。これも映画の中に挿入されるのだが、アンゴが自宅のラジオで国営フランス・アンテールの著名な文芸時評番組"Le Masque et la Plume"を聞いているシーンがあり、その番組(2021年放送)の中で文芸批評家アルノー・ヴィヴィアンがこの『東への旅』に触れて、この20年あまり(つまり『近親相姦』発表後)フランス文壇がどれほどクリスティーヌ・アンゴを軽視・蔑視してきたか、と発言している。(この最新小説への手の裏を返したような高評価に)ヴィヴィアンは「クリスティーヌ・アンゴが変わったのではない(アンゴは一貫している)、世の中が変わったのだ」と付け加えている。それはヴァネッサ・スプリンゴラの『合意』(2020年)とカミーユ・クーシュネール『ラ・ファミリア・グランデ』(2021年)という2冊の性犯罪告発の書の大ベストセラーによって市民たちの性犯罪への見方が大きく変わったことを指してのことであろう。確かに世の中は変わったのだが、それでもクリスティーヌ・アンゴはまだまだ”たったひとり”なのである。 映画の始めのシーンに戻ろう。激しい押し問答の末、エリザベートはクリスティーヌと撮影スタッフ二人をサロンに通し、着座する。さあ、話を聞かせて、あなたの亡き夫が私に何をしていたかをあなたは知っているはず。「あなたのことで私は心痛めているわ J'ai de la peine pour toi」というエリザベートの言葉にアンゴは逆上する。あたかもこの義理の娘が未亡人の心を傷つけているかのような。義母はクリスティーヌが”暴力的だ”とも言う。あなたの20年間の沈黙の方がどれほど暴力的なの?とアンゴは抗弁する。生前夫ピエールがあなたに何をしたのかは全く知らなかったが、あなたの小説でそれを知った。でもそれは小説でしょ、事実の部分もあれば創作の部分もあるでしょ(ここでもアンゴは逆上する)。あなたの父は私にとっては最良の夫であり、私の二人の子供にとっても最良の父だった。あなたはそれを破壊しようとしている....。 近親相姦のメカニズムとはまさにここなのである。それを公にすれば、その個人だけでなく家族や属する社会のもろもろを破壊してしまう。被害者であるおまえの被害よりも、告発するおまえが破壊する世界の被害の方が甚大なのである。この方便をもってこの未亡人は亡き夫の被害者たるクリスティーヌを逆に攻撃してくる。おまえさえ忍んで黙っていれば、こんなことにはならなかった...。 この映画の冒頭のストラズブールの故ピエール・アンゴ邸でのエリザベートとクリスティーヌの応酬の映像は10分ほど続いたであろうか。希に見るヴァイオレントなダイアローグが展開されるのだが、およそ”対話”なんてものではない。その生々しさに胸がキリキリする。こうして映画のあたまのストラズブールでクリスティーヌ・アンゴは茫々たる砂漠の孤独をあらためてかみしめることになる。
アンゴのシネマ・ヴェリテは、"les gens qui sont de mon côté (私の側にいる人々)"は本当に存在して、私の孤独に手を差し伸べてくれたのだろうか、という問いを”身内”を通じて確かめようとする。登場するのは母ラシェル・シュワルツ(二部のパートで現れる)、最初の夫クロード・シャスタニェ(アンゴの一人娘レオノールの父)、2000年代の伴侶だったミュージシャンのシャルリー・クロヴィス(マルティニック系黒人)、そして娘のレオノール・シャスタニェ(1992年生れ、彫刻家/造形アーチスト、↑写真)。 映画公開時のラジオなどでのインタヴューで、アンゴが最もしんどかったのは母ラシェルの2回に分けたインタヴューだったと述懐している。母のことはアンゴの小説『ある不可能な愛(Un amour impossible)』(2015年、のちに2018年ヴィルジニー・エフィラ主演で映画化)にくわしく書かれているのあが、ピエール・アンゴはラシェルとの熱烈な恋愛にも関わらず、もろに属する社会階層の違い(ブルジョワと貧乏人)とラシェルのユダヤ人の血を理由に結婚を拒否し、二人の子クリスティーヌ誕生にもかかわらず、ストラズブールでドイツ系上流階級の女エリザベートと結婚し家庭を持った。しかしラシェルとの不倫関係はその後も続いていて、仕事出張を装ってラシェルと逢瀬を重ねていた。しかしクリスティーヌが少女の年頃になり、このインテリ博識のパパに惹かれるクリスティーヌをラシェル抜きで連れ出すようになった時から、ラシェルはクリスティーヌに嫉妬するようになるのである。妙な三角関係。そのピエールによるクリスティーヌの連れ出しが、13歳の時から近親相姦関係になっていったことをラシェルは知らない。そしてこのことをクリスティーヌが母ラシェルに告白できなかったのは、娘が母をプロテクトするためだった、と。映画は上のような説明は一切ない状態で、ラシェルが、母が娘を守らなければならなかったはずなのに、あの13歳の時から娘が母を守って犠牲になっていたことを後悔して涙するシーンがある。この不幸な”三角関係”と言うべきか、母ラシェルは娘がその男の性犯罪の犠牲になっていたの知ってからもなお、ピエールとの”愛”の思い出にしがみつこうとすることに、クリスティーヌとラシェルを分つものがあるというのがこのシネマ・ヴェリテに見えてしまうというのが....。
西村カリンは在東京のフランス人ジャーナリストである。私はリベラシオン紙の読者であり、公共放送ラジオ・フランス(France Inter、France Info等)のリスナーであるから、彼女の記事やラジオ報道レポートの声にはずいぶん前から親しんでいると思う(多々参考にしていただいている、多謝)。ジャーナリスト活動は日本語とフランス語の両方で行っていて、日本のメディアにも登場しているので、知る人も多いはずである。著作も日本語で日本で発表しているものと、フランス語でフランスで発表しているものがある。フランスでの近著では2023年10月にエッセイ『日本 - 完璧さの裏側(La face cachée de la perfection)』(Editions Taillandier刊)があり、書名が示すように表面的に完璧を装うことができる国日本の議会制民主主義の”半独裁”状態や、報道の自由の大メディア側からの”自主規制”など、日本の「反権力」不在の状態について詳説している(是非とも日本語訳出してもらわないと)。 さてこの本は上述の著からわずか4ヶ月後に発表された西村カリンの初の小説作品である。フィクションであるが、"Presque tout est vrai"(ほぼすべてが真実)と序文と裏表紙に強調されている。小説の話者「私」は日本に長年駐在しているフランス人ジャーナリストであり、日本で二人の子を産み育ててもいる”日本生活者”である。作者自身を投影させたような設定ではあるが、建前はフィクションの人物である。事件は2017年の東京、ヤマダ・ミドリという名の20代の女性が5歳になる娘を自宅で殺害し、バラバラに切断した遺体を自宅で発見された状態で逮捕され、犯行を自供した。さらに、その前に起こっていた双子の嬰児殺害+コインロッカー遺棄事件の容疑がかかり、DNA鑑定の結果ミドリと一致してその犯行も自供した。自分の幼子を3人惨殺した風俗系の職業のごく若い女、事件は連日のワイドショーねたとなり、その出演タレントたちの情緒的なコメントで全国のお茶の間の犯人バッシングの大波を形成していく(というような”日本的特殊事情”を話者はフランス読者に説明しなければならない)。バッシングの矛先は家族に及び、全国ネットテレビのカメラの前に母親が引き摺り出され、深々と頭を下げて娘の凶行を全国民にお詫びすることになる(これも”日本的事情”)。そして、このような稀に見る非道な凶悪犯罪には「当然死刑でしょ」という一般市民のオピニオンがすぐに出来上がってしまう。 話者はここで日本が世界の時流に逆らうように死刑を頑なに固持している国であり、しかもその刑の執行が確実に行われているという事情を示す。OECD加盟38か国のうち、今なお死刑を執行している国は日本だけ。日本で死刑廃止を求めて運動している市民たちはいる。しかし世論調査をすれば死刑存続賛成が大多数になってしまう。この世論の支持を担保にするかのように、日本の司法は死刑基準(話者は”永山スタンダードという言葉で説明する)に相当すると判断するや躊躇なく死刑判決を下している。