昭和からの記憶の旅

わたしが実際に生まれ育った昭和。冬は火鉢が当たり前。子供たちはどんな遊びをしていたのか。アイスクリームが十円だった時代から現在までを振り返ります

第36回 牛の仕事

 漫画等で農村地帯が描かれる場合、軽トラックが道を走っていて、野原で牛がモーッと唸っている情景がよくあります。ここでいう牛は白黒模様のホルスタインを想像する人が多いと思います。誰もが一目で牛だと理解できるおなじみのものです。これは乳を絞るための、つまりわたしたちに牛乳を飲ませてくれる乳牛(ちちうし)です。

 あまりにも分かり易いデザインなので、このパンダの遠縁みたいなホルスタイン牛がのし歩くのが昭和の原風景のように錯覚しそうになりますが、昔から大量にホルスタインがのし歩いていたら、農家では早くから牛乳を飲んでいて、学校給食でも脱脂粉乳を飲まずに済んだかもしれません。

f:id:phorton:20160524024437j:plain

 英国ロック好きの人には、牛というとピンクフロイドのアルバムジャケットを思い出すかもしれません。Atom-heart-mother→原子心母、すごい邦訳ですね。そのまんまです。むかしは洋楽に牛は変だと感じましたが、でもホルスタインは西洋種だから当然のことでした。古き日本とは違うのでした。

 

 高度経済成長期以前の農村地帯ではホルスタインは一般的ではありませんでした。わたしの住む地域では赤茶色の牛が普通だったようで、これを俗に赤牛とよんでました。(東北由来の系統だと思いますが、この記事では赤牛と呼称します。他の地方にも別種で同じ呼称があるとは思います)。

  赤牛は乳を搾るためのものではなくて、農作業に使うための牛でした。高度経済成長期以前は軽トラックも耕運機もなかったので、原動力として赤牛を使うのが農家の関心事だったわけです。荷車を牽引させて物を運ばせたり、耕作させたりと、牛は力仕事の担い手でした。

 この時代まで盛んに牛の売買を手がけていたのが馬喰(ばくろう)といわれる人たちです。

 馬喰は古い時代には馬の鑑定人のような意味合いだったということですが、江戸時代あたりから仲買人のことを言いあらわすようになり、昭和にかけてその呼称が通じていました。

  由来は馬にかかわる者だった馬喰ですが、実際は牛も手がけていました。東北や北海道などの雪国では馬を農耕に使っていたようですが、わたしの住む関東では牛を使うのが一般的だったので、馬喰というと農家に牛を売る人という印象が強くて、馬にはあまり関係ない印象がありました。

 しかし庭に馬頭観音の石碑を置いたり、部屋に立派な馬具を飾ったりして、実情はどうあれ馬喰が馬をステータスにしていたことはたしかです。

f:id:phorton:20160524205106j:plain

 もう半世紀近く前になりますが、家族で東北へ行ったときの写真です。このとき初めて馬に乗りました。右側にわたしの足が写ってます。こちらでは馬が身近なんだなと感じました。

 

 馬喰は貧しい人のついた仕事のように誤解される場合があるようですが、わたしの知る限りまったく逆です。馬喰は元々商人の家系や地域の顔利きです。つまり実力者です。

 農家にとって牛は高い買い物であり、それに大金を払っても満足できる牛が手に入るとも限りませんでした。それでも農作業に使うための牛を、馬喰を介して買っていました。

  しかし馬喰は商人です。牛をプレゼントするわけではありません。一般的に馬喰は自分で牛を育てるわけではなく、畜産家の育てた牛を農家に売って利益を得ます。商売ですから当然そこで値は上がりますが、鋤や鍬や鎌と違って、牛のような大物ではもともと値は高いのですから、安い牛を見つけてきたと言われても、高い買い物であることには変わりません。

 馬喰は牧場を経営してるわけではないので、農家が直接牛を品定めして、これを売ってくれというものではありません。実際に農家の手に入った牛が想像していたようなものだとは限らないわけで、工場で機械的に製造した均一な物と違って、生き物なので、勢いや健康状態などは、実際に手に入れてみないとわかりません。このため馬喰は獣医との関係を持つ場合もありました。

 馬喰は牛を育成する仕事ではありませんが、ぜんぜん育てないというわけでもなく、小牛を安く買ってきて、自分の家ですこし大きくしてから売る馬喰もあり、ボランティアではないので、そこでまた値を上げることはありました。

 場合によって馬喰はかなりの遠地まで牛の売買の交渉にいきますが、自動車がなかった時代は牛車(うしぐるま)で東北地方等へ行きまし た。このようなことは普通の農家にはできませんでした。牛を買うには馬喰に頼る必要があり、ですからどうしても馬喰の立場は強くて、農家には弱みがありま した。

 馬喰はあまり良い印象で語られないことがあります。一般的に商人は負の部分を強調されやすいですが、馬喰の場合は農家の仕事に直接影響があったことが、商店などとは違うところでしょう。

 いったん売った牛を別の小さな牛に交換したりすることもあり、そういった場合でも農家は応じました。その後の事があるからです。また牛が必要になったときは、再び馬喰に頼まなければなりません。馬喰は農家にそれだけの影響力と地位のようなものがありました。

  しかし戦前は農家がどこも牛を使っていたわけではなく、手作業でしていた家も多かったようです。かつて世界的にも有名になった朝の連続ドラマで、主人公の女性が嫁ぎ先で手作業で耕作していたとき腕を怪我して、二度と髪結いの仕事ができなくなった場面がありましたが、実際昔の農作業は大変で、あまりにも働かせる村には嫁にやるな、などと言われていたようです。

 戦後農地改革で田畑を所有できるようになった農家は、田畑を増やすことに価値観があったことがあり、手作業ではやりきれなくなったところもあるので、牛を使う農家も増えたのではないかと思います。

 実際馬喰は地域の名士であったりします。工業化がすみずみまで行き渡った現在からみれば、馬喰は農産業者の一部のようにくくられてしまうかもしれませんが、馬喰はあくまでも商人です。しかも単なる商人ではない畏怖のようなものがありました。馬喰という呼称は現代的な職業名ではありませんが、この言葉の持つ風格のような響きがかつては通じていました。

  しかし高度経済成長期に入って工業化が進み、農家が耕運機や軽トラックを使うようになると、赤牛を飼う必要はなくなり、馬喰の影響力のあった時代は終わります。そのままたんに家畜の売り買いをする家業として続けていく家もあったのでしょうが、馬喰と呼ばれた勢いは止まり、その存在理由は薄れました。この呼称は正式な職名ではないので、昭和まで名を轟かせた馬喰はこの時代が最後といえるかもしれません。現在ではかつて通していた意味やニュアンスはほとんど忘却されてしまったようです。

 こうして赤牛は農家にいなくなり、白黒のホルスタインが主流になります。トラクターや軽トラを手に入れた農家は牛の労働力を必要としなくなったのですが、今度は乳を絞るために牛を飼う農家が出てきました。

 近所でその場で絞った乳を売ってもらうと、家で鍋で煮立てて殺菌してから飲んだということです。

 近所に収乳所と呼ばれる場所があり、乳牛を入れる大きな缶が置いてあって、そこにホルスタインを飼う農家の乳牛が集められていました。給食の牛乳もそこから出たのかなと思います。

  当時はまだ道端に牛の糞が落ちているのが日常的て、野原や土手で遊べば牛の糞を踏んづけたりしたので、多くの農家がホルスタインを飼っていた印象がありま したが、しかし実際ホルスタインを飼う農家はさほどではなかったようで、母に尋ねると、あそこの家とあそこの家と、というかんじで、数えられるほどでした。広大な地域でない限り、ふつうの農村地帯では、そんなものだったと思います。兼業農家が増えて、実際の収入は外で働きに出て得るのが現実になってました。一般的な農家にとっては、赤牛であれホルスタインであれ必要な時代ではなくなっていきました。

 

 現在うちの地区では牛を見かけませんが、いろいろ探してみると、いるところにはいるようで、これもすでに十年前の撮影なんですが、小屋の近くの草原で、牛たちがのんきそうに食事してました。

f:id:phorton:20160523210729j:plain

 ずっと見ていたら、なぜか夕方になると、誰もいないのに自分たちだけで小屋へ帰っていきました。どうやら一匹でも帰り始めると、みんなついていくみたいなんですね。

f:id:phorton:20160523210818j:plain

f:id:phorton:20160525202947j:plain

 スタンダード時代のビデオから静止画に落としたものなので、分かりにくいですが、牛さんたちの行進でした。

 

 牛のウンコを「まぐそ」と言ってました。まぐそ(馬糞)だからホントは馬のものなんでしょうけど、本来の意味とは関係なく使ってました。あ、まぐそふんづけた、というかんじです。

第35回 菜種油の業者

 天ぷらは日本の代表的料理のひとつといわれています。スーパーの惣菜コーナーにひしめき、調理する専用の鍋や粉まで販売されている現在では、あるのが当たり前のようになっている食べ物です。テレビ放送などでは、芸能人が下町の店舗で気軽に買って、その場で食べてみせる光景なども目にします。しかし天ぷらが昔から庶民の食べ物だったわけではないようです。

 都市や街には田畑がないので、個人で食べ物を自給自足できませんが、商売が盛んなので、食というものは金を払って買うのが普通です。食材を買って調理するのはもちろんですが、飲食店が多数あるので、外食や出前で済ます利便性もあります。油で揚げてしまえば完結した、ひとつの料理になる天ぷらは合理的だったかもしれません。極端に表現すれば、食材と台所を運営する機関のようなものがあり、個人は経費を払えば食べるだけで済むというのが都市部の姿でしょう。

 しかし農村地帯は自給自足の習慣があり、飲食店がなかなか発展せず、外食する契機がなく、天ぷらは都市部ほど身近ではありませんでした。

 農村地帯では庭先でも野菜がとれますが、天ぷらにするのが日常的だったわけではありません。個人で天ぷらを揚げるとなれば当然、大量の油も個人で用意しなければならないので、気楽に「今夜は天ぷらにするか」などとは言えなかったでしょう。特別な大尽の家なら違ったのかもしれませんが。

 むかしは農家が採った菜種を油と交換する職種がありました。

 配給のあった頃は魚の油が配給されていたようで、いずれにしろ大量に配給されるわけではないので、天ぷらに使えませんが、もし天ぷらに使ったとしても臭うので、あまり美味しくなかったでしょう。

 その後、農家が採った菜種を油と交換する業者が地域へまわってくるようになり、菜種と油を一定の比率で、業者に利益がある比率ということですが、交換したということです。1950年代頃はそんなかんじだったようです。

 もともと農家は菜花を食べるために作っていましたが、おまえのところはどうだ、おまえのところもどうだというかんじで業者に言われて、油と交換するために作るようになったということです。

 大量に菜花を育てない限り、気楽に天ぷらに使えるほどの油は手に入りません。普通の農家が菜種を業者に渡したくらいでは、手に入る油の量はたかがしれてます。それでもこういったやりとりが普通におこなわれていたようです。油が貴重なものだったからでしょう。

 農家はみずから菜種を絞らなくても油が手に入り、業者は原料として菜種が手に入る。このような職種を賃下工などと言うらしいのですが、呼称はよく分からないです。農家が業者に渡した菜種を絞ってもらうというより、業者の持っている油と交換するのです。物々交換とは少し違う気もしますが、まあ似てるところもあるかと思います。

 菜種が五合で油が二合くらいの比率での交換だったそうです。菜種をたくさん収穫できれば、天ぷらができないわけでもなかったと思いますが、やたらに油は使えなかったでしょう。

 しかし田舎でも特別な日には天ぷらを揚げました。農村地帯は採れた作物を祝う風習があるので、天ぷらはそのとき揚げたようです。

 ある家が氏神の祭礼の日に天ぷらを揚げたとき、囲炉裏に吊り下げられた鍋がひっくり返って、中に入っている油を子供が被ってしまい、亡くなったということです。それ以後その家では二度と祭礼の日に天ぷらを揚げなかったそうです。昔の話ですが、冥福を祈りたいです。

 希少価値のある食べ物を神仏へお供えする習慣は現在でも広くおこなわれているかと思います。

 わたしの母はお彼岸やお盆で親族が集まる日には、毎年天ぷらを揚げ、仏壇に供えてから食します。若い頃は何も感じませんでしたが、油を普通に買える世の中になったのは案外最近のことなんだなと思ってしまいます。

f:id:phorton:20160322052803j:plain

第34回 昔の給食は美味しくなかったのだろうか?

 小学校へ入学すると、幼稚園時代のお弁当箱に別れを告げて、給食になったわけですが、1960年代後半はまだ料理らしいメニューは未完成の感がありました。

 御飯は出た事がありません。政府間の取り決めでアメリカ産小麦粉を消費しなければならない事情があったようで、パンとソフト麺を基本としたメニューでなければならなかったということです。

 御飯が出ないからなのか、味噌汁、漬物といった伝統的家庭料理は出た事がなかったです。

 一応洋食風なメニューを意識して作られていたように思いますが、実際は、洗練されていない創作料理のようなかんじだったでしょうか。

 

① 牛乳と食パン

 わたしのときはもう脱し粉乳ではなかったです。牛乳は紙パックがまだ無い時代だったのでビンでした。食パンには銀紙に四角く包まれたマーガリンを塗りました。マーガリンのヌルッとした、オロナインのような感触に最初は違和感がありました。わたしはマーガリンを食べた事がなかったか、食べなれていなかったのだと思います。でもじきに慣れたようでしたが。

 食パン以外のパンは出なかったので、わたしはコッペパンを見たことがありませんでした。でも当時、学童用に配付された本を読んでいると、生活の指針のような記載があり、コッペパンを子供が食べる話があったので、一般的にはコッペパンの通りがよかったのかもしれません。

 

② トマトソース?とカレー

 たぶん現在でも給食の定番になっているものの原型です。ソフト麺を絡めて食べるソースです。ミートソースと言いたいところなんですが、やはりあれはミートソースではなかったなと思います。

 玉ねぎの切れ端などが入ってたのは覚えてますが、肉が入ってたようすは記憶にはないです。いくらか目立たない程度には入ってたんじゃないかと思いますが。ケチャップ味の野菜あんかけみたいなかんじでした。

 それでもトマトケチャップは洒落た調味料でした。わたしはちょっと馴染めないかんじがありましたけど。

 戦後進駐軍の米兵が缶詰入りのトマトケチャップのパスタを常食してるのを見た料理人が、野菜をたくさん入れて改良したのが、日本でいうナポリタンの始まりだそうです。(本場イタリアではケチャップを使わないのでコレは違うと主張してるらしいのですが)。

 その流れでソフト麺も開発されて、そういうわけで給食の定番に取り入れられたのは、国家の食料政策みたいなもので、必然だったのでしょう。

 ところでいつからソフト麺は細くなったのでしょうか。わたしのときは太くて、うどんそのものでしたけど。

  カレーはあんまり印象がないです。甘いとか辛いとかの特長のない味だったと思います。

 でも唯一メニューらしいのはこの二つなので、これが洋食風だという所以なのですが。

 

③ 変な煮物

 いろんなものが細切れで入ってる煮物らしきものがよく出ました。人参とか椎茸とか高野豆腐みたいなのとか、肉の切れ端も入ってたと思います。でも味が有るのか無いのか分からないようなもので、それでいてちょっと臭いがあって、わたしは苦手でした。

 煮物といえば醤油味がわたしには常識でしたが、これは醤油を使った形跡がなく、他の調味料を使ってるようでもなく、具材の香りが残ってるかんじでした。

 醤油を使わないのは洋食に合わせようとしたからかもしれません。現在の時点で食べたら、病院食や健康食のように食べられるかなとも思います。

 

④ 魚、日本人なら当然かも

 イワシのような小さめの魚がまるごと出るようなことはなく、切り身だったので、何の魚か分かりませんでしたけど。まあそもそも知識がないので、どっちにしろ分かりませんが。

 泣きたくなるほど、嫌悪感を持つものが出たときがあります。味醂づけの悪くなったような味で、わたしはとうとう食べられませんでした。 

 わたしの居住区は内陸なので、魚等の場合、輸送の関係の問題があったかもしれません。海の近くの学校では新鮮な魚が食べられたのはないかなと思うのですが、どうなのでしょうか。

 鯨のたったあげがよく話題になりますが、わたしはよく覚えてません。出た事はあったかもしれませんが、特別にインパクトのあるものとして記憶には残ってません。硬めの魚が出たような覚えがある程度で、それが鯨だから魚ではないなんて子供は考えなかったと思います。

 

⑤ ちくわ

 もろに個人的な好みの問題なのですが、わたしは大嫌いだったと記憶してます。

  海産物の練り物は昔から内陸では貴重だったようです。しかしわたしはあの香りが駄目でした。これは自分には食べられない、天敵のようなものだと拒絶反応が出たらしくて、あの棒状のものを机の中に知らん振りして放り込みました。で、そのまま机内の端っこに、ほったらかしにしておくという、しょうもない子供でした。

 それからしばらくして親子参観のおり、母親がわたしの机の中を片付けたときに、 すでに真っ黒に変色したこのちくわが見つかってしまい、ちょっと怒られはしたものの、母親がすみやかに始末したのですが、隣の席の子がこれを目撃していて、後年の後々になっても思い出したように、机の中にちくわが入っていたと言われたものです。衛生上にもよくないし、机さん、ごめんなさいと遅かれしながら言いたいです。

f:id:phorton:20160222053037j:plain

 トットちゃんの机は蓋を開けられると中身が露わになってしまうのだ。危険物はモジモジしてないで片付けましょうね。

 

◆ 美味しくなかったのだろうか?

 

 昔の給食は美味しくなかったという話を聞かれることがあるかと思います。しかしろくな食べ物がなかったから案外美味しかったなんて意見もあります。給食の献立を食べられる店なんてものもあるようですが、タイムスリップして実際に当時のホンモノを食べてみないことにはなんともいえません。

 ここでは視点を緩くして、なぜ昔の給食は美味しく感じられなかったのか、ということにして、そういったことを考えてみました。

 

A 当時の給食は美食ではなかったということです。

 まだ大した調味料がなかったし、香りの良いスパイスやハーブなど入手できなかったでしょうから、当然でしょう。肉や魚などの臭みを消す手段がどうだったのか、よく分かりません。

 物が豊富になってからは、あまりにも懲りすぎてかえって不味くなったという場合があるようですが、当時は凝るも何も、材料がなかったのですから。

 つまり美食でないから美味しく感じられなかったということになってしまいますが。しかし当時の子供が(大人もですが)美食なんて分かったのかなんて突っ込まれると、困るのですが。

 

B 家庭で食べる味と違うからということです。

  給食は栄養になるものを児童に提供するのが最優先課題だったと思います。牛乳を飲んで、パンとソフト麺を食べて、肉まじりの煮物と魚を食べれば栄養がとれるだろうという感じだったでしょう。たしかにそうなんですが、当時の家庭はそんなに栄養を考えた食生活をしていなくて、家庭料理は単純なものでした。

 農村地帯は自給自足の生活が基盤にあったので、白菜の漬物を山ほど食べるとか、里芋だけで腹いっぱいになるとか、そんなかんじでした。

 醤油かけ御飯が大好物といった同級生もいました。なかにはマヨネーズで御飯を食べる当時としては変わり者もいましたが、ふつうは味噌か醤油の味で食べられるものを食べるので、田舎煮のようなものがデフォルトです。

 給食の味とはかなりの隔たりがあったと思います。ゆえに違和感があったかもしれません。当時の給食は栄養源ではありましたが、伝統的な家庭の味とは違う方向を向いていました。家庭の味はまだ保守的でした。

 

C 食に国民的な統一性がなかったということです。

 現在は豚肉を常食するのは普通ですが、1960年代はそうでもなかったと思います。農家は自給自足の生活基盤があるので、わざわざ豚肉を買わなくても食べるものはありました。都市部では常食する傾向があったかもしれませんが。つまり誰もが豚肉を食べなれていたとは限らない。

 で昔の豚肉は与える餌によっては、臭かった可能性があります。だから給食で豚肉を使った調理をすれば臭かった場合があるのではないかと。そういったことは配慮されてなかったと思うのです。

 カレーに入れてしまえば分からないといわれそうですが、でもカレー自体、そもそも子供がみんな喜んで食べたかというのは疑問です。カールのカレー味とかカレーパンが広まる以前は、さほど馴染みのあるものではなかったと思います。

 魚類にしても、内陸では川魚のほうが親しみがあり、海のものは苦手という人もいました。友達宅では投網でフナなどを捕って、甘露煮にしてましたから。それもまた自給自足なんですが。(反対にわたしの父は海育ちだったからなのか川魚が嫌いでした)。

 

◆ しかし給食を食べたおかげて栄養のバランスがとれた面はあるかと思います。そもそも子供には食べにくいものがあり、家庭でも人参を食べないなんてこともあるので、給食だけをあげつらうわけにもいきません。(昔のままの人参をときどき近所の農家で貰うのですが、現在の改良された品種と違って、香りがすごく強く、子供にはキツイかなと思う)。

 

 70年代に入り、わたしが六年生くらいになると、給食が革新的になってきて、プリンとか出たことがあったのですが、特に感動はありませんでした。その頃はもう巷に嗜好品の類が溢れるのが普通の世になってましたから。でもちょっとは驚きました。時代が変わった、と子供ながらに意識したような気がします。

第33回 トットちゃんの机

 わたしが一年生当時の教室の原風景として思い出すのは、机にトランクのような蓋が付いていたことです。黒柳徹子さんの自伝小説で知られる窓際の トットちゃんが、小学校を退学になるきっかけになったものと同じです。彼女は喜んで蓋の開け閉めを繰り返していたということですが、わたしの学校で使っていたのはあんまりカワイクなくて、黒っぽくて、道具箱みたいでした。

 それに現在の感覚からすると、使いにくいように思えてしまいます。

  蓋を開け、教科書、ノート、筆箱などを外に取り出してから、蓋を閉めてその上に置きます。

 現在の机と違って、ものをそのまま取り出して机上にポンと置くことができないので、手順が面倒くさそうです。

 さらに再び何かを取り出すとしたら、机の上の物はどうするのでしょうか。そのまま蓋を開けたら、すでに出してあったものは落ちてしまいそうです。

 実は机上の板が全部開くのではなく、前のほうはいくらか板を打ち付けてあり、途中から開くようになっていたので、筆箱程度ならそのまま置いておくことができるかんじでしたが、教科書やノートを置くのにはちょっと狭かったと思います。

 ものを気軽に出し入れするのに適した造りではありませんでしたが、当時はなんの不便さも感じなかったんでしょうね。

 こんな事を考えてしまうのは、モノが溢れている生活に慣れきったからだと思いますが、もう一度あの簡素なスタイルに戻ったら、再びあの風景を感じることができるでしょうか。

  わたしの学校ではこの机は二つが繋がっていました。木製であり、結構重いので、教室の掃除で移動させるとき、机を持ち上げずに引きずって、机の脚で床をガーガーと擦ったものです。まだ幼時のいたらなさでしたが、あの音が懐かしいです。 一応二人で持ち上げて運ぶように指導されていたんじゃないかと思いますが、あんまり言うことをきかなかったというか、先生もそんなにうるさくなかったです。

 しかしこの机はいつまでも使っていませんでした。勇退の時期だったのでしょう。大阪万博の三年前のことです。

 母の小学生時代は戦中なのですが、机は蓋付きではなかったそうで、東京の一回り年長のイトコに尋ねますと、彼は戦後ですが、やはり蓋付きの机ではなかったと言います。昔だからすべてが蓋付きの机だったわけではないのでしょう。たまたまうちの小学校ではそうだっただけかもしれません。みなさんもお父さんやお母さんに尋ねてみたらいかがでしょうか。

f:id:phorton:20151022195707j:plain

つまりこんなかんじです。前の方に板がすこし打ち付けてあるのは、物の置き場所というよりは、制作上の都合というか補強のためでしょうか。大工さんに聞いてみたい。

 

第32回 小学一年生の行動範囲

 前回話しましたように、集団登校によって、自分が字に属することを意識するようになったわけですが、登校してしまえば学年ごとに分かれてしまうので、同級生の集団に入ります。当然あちこちの字の子が教室にいました。

 字は十五ほどあり、1クラス三十人程度なので、均等に考えれば、ひとつの教室に同じ字の子は二人で、同性は自分だけ、ということになります。 男女のペアが15組集まったのと同じです。

  ()×15の字=30人=1クラス

 実際はこんなに都合よく均等にならないので、当然偏りがあり、ひとつの教室に同じ字の子が数人いる場合もありました。

 ですが各字一人、二人しかいない場合も多かったので、全体的にみれば、教室内の生徒たちが字ごとに分かれて固まってしまうようなことはなく、あちこちからの子供たちの集まりになりました。

 

  当時の一教室のクラスメイトを、字ごとに示した地図を作ってみました。かなり簡素化した地図ですが、わたしの住む地区はこんなかんじです。だいたい四、五キロの範囲に広がっています。

 青丸印が男子、赤丸印が女子、白い部分が字です。大字と小字を合わせて正確には十六ありましたが、現在はこのなかの字のひとつが廃止されています。

f:id:phorton:20150918093426j:plain

 前回話しましたように、小字だから地理的に狭いとは限らず、小字よりも狭いくらいの大字もあります。というか大きめの小字もあるというべきでしょうか。

 例えば地図の左端に丸印がないところが一箇所ありますが(つまりこの教室にこの字の子はいない)、これは大字です。青丸印が五つあるところは(男の子が五人)、小字です。その上方に丸印が一つのところがいくつかありますが、これも小字です。

 

 字の集団登校が子供の近所付き合いとすれば、学校での同級生との生活は、あちこちの字の子と交わる機会でした。ひとつの教室で毎日六時間以上ともに過ごすのですから、家の遠い子との繋がりも強くなります。

 しかし学校の外で、離れた字まで遊びに行くことは、一年生ではほとんどなかったと思います。 字はだいたい一キロ前後の範囲におさまりますが、一年生が一人で行けるのはせいぜい隣の字くらいまでです。

 それ以上歩けないわけではなかったです。学校から家まで二、三キロくらいの道程がある子はざらにいたし、通学時に毎日それだけの距離を歩いているのですから。

 しかし集団登校だから長距離を歩けたのであり、一人で出歩くとなると、一年生では親が心配することもあったでしょうから、近場どまりでした。

 統計によると、人が普段の生活で歩いて行ける範囲は、約一キロであり、年齢の違いはあまり関係ないそうです。(ちなみに自転車は約三キロ)。わたしが一年生のとき1人で歩いた覚えがあるのは七百メートルくらいの範囲でした。

 

 ここは現在すでに廃止になっている字です。迂回しないと辿り着けない場所にあるので、学校までの道のりが四キロほどあります。そのためかマラソンに強い子がいました。

f:id:phorton:20150917122359j:plain

 

   そういうわけで低学年の頃は自分の字とその周辺が主な活動範囲であり、上級生と遊ぶことも多かったです。遊ぶといっても、上級生にくっついていき、面倒を見てもらうわけですが、親はそれで安心できたのだと思います。

 字によっては同年齢の子が多人数いる場合もありましたが、教室が別だったり家がすぐ傍でないと、行き来しないこともありました。

 字はあくまでも地域の付き合いなので、学校とは反対に年齢があまり関係なくて、同年齢だから遊ぶとか、年が違うから相手にしないとかいうものではなかったです。

  ただし字が違う上級生と係わる場合には年齢の上下が表面化することがありました。実際にわたしが経験したことです。違う字ですが幼稚園が同じだった一つ年上の上級生がいて、入学後に学校の廊下で顔を合わせたとき気楽に話しかけたら、隣にいた別の上級生に、おまえ生意気だ!みたいなことを言われ凄まれて、驚いたものでした。年齢が接近していたこともあったのでしょう。

 これが普通だったわけではありませんが、字が違えばこういう事は起こりえたと思います。

 低学年のときに他の字へあまり行かないのは、そういう異質な世界のイメージがあることが理由のひとつかもしれません。上級生同士が行き来していれば、年上とも顔見知りになれる機会があるのですが。要するに子供でも顔合わせは必要なのです。

 

 先程の地図ともう一つのクラスの地図をならべてみました。同学年は全部で約六十人で、二クラスでした。

 こうして見比べると、クラス編成の際に多少は字を振り分けているようにも見えます。つまり同じ字の子が一方の教室にできるだけ偏らないようにするということですが、ちょっと微妙でしょうか。

f:id:phorton:20150919125119j:plain

 中央やや左に、丸印のやけに多い字がありますが、ここは引越してきた子が多かった事情によります。

 現在は人口の流入のあるところと無いところの差がもっと極端になっていて、ちょっと資料を調べてみました。

 最近の調査結果によると、最も世帯数の少ない大字が40世帯前後で、住宅地が出来たようなところでは数百世帯になります。小字単位の集計は、正式な資料がないですが、だいたい似たようなものです。

 2000世帯を超える大字もあり、いくらなんでも差がありすぎると思うかもしれませんが、これには理由があります。そもそも面積に違いがあります。地図では小字のだいたいの境界をわたしが線引きしていますが、正式な地図にはその境界はなく、一つの広い大字です。しかも大規模な高層住宅ができたので、合計するとそのくらいになるわけです。

 人口流入の少ない字を参考にして推察すると、わたしが一年生の頃は100世帯を下るくらいから150世帯くらいの字が多かったと思います。

 

 字のほうが教室よりも絆が強いかとかいうと、ちょっと違います。

 字の人間関係は与えられたものであり、自然物のようなものです。友達関係とは性質が違い、好き嫌いで選り好みできるものではなく、その場の力のようなもので成立しているものです。

 教室の人間関係は自分で選ぶものであり、仲良くなったり離れていったり、自由にできるものですが、友達として付き合うなら、大げさに聞こえるかもしれませんが、相手の性格の問題なども個人の責任で引き受けなければならないものです。

 低学年だと友達付き合いがうまく出来ない場合もあるので、字の上級生に面倒をみてもらって埋め合わせる事ができましたが、それでまた学校へ行って、教室でいろいろな過程を経ているうちに、いつのまにか字とは無関係に友達付き合いをするようになっていたと思います。

 字と教室には役割分担があり、どちらが大事というわけではなく、一方に偏らなかったので、無理な強制や過剰な集団行動はありませんでした。字であっても教室であっても自分のことは自分で決めました。

 下校時は個人の自由でした。前回集団登校は男女別々だったと言いましたが、下校時は家の方向が同じなら男女が一緒に帰ることもありました。1960年代後半に男女が並んで歩いてはいけないという風潮があったわけではありません。今と たいして変わらないです。

 

 ※ 前回説明した理由により、単に字と言う場合は、大字と小字を同じようなものとして扱っています。必要がある場合には、大字小字の言い分けをしています。

第31回 大字と小字の世界

 家を新築して年が明けた春に、わたしは地元A地区の小学校へ入学しました。通学は同じ字の子供たちがみんなで揃って行く集団登校でした。それまでは、親が行き来してる家の子だけが顔見知りだったのですが、集団登校によって、字という単位での人間関係が始まったわけです。

 

 幼稚園の通園は各家庭の自由でした。わたしは市街地区の幼稚園へ通っていたのですが、字でまとまって行くことはなかったです。そもそも同じ字で同じ幼稚園へ通う子がいませんでした。

 A地区にはバス停が四箇所あって、あちこちの字から市街地区の幼稚園へ通う子が同じ路線バスに乗るので、通園時に一緒になりましたが、字が違えば家がけっこう離れているので、各自バラバラにきていたかんじでした。幼稚園の近くのバス停で降りると先生が待っていたので、あとは引率されていけばよかったのです。

 これら地元の同園生が最も古い馴染みで、別の幼稚園に通っていた子、保育園出身の子、どちらにも行かなかった子が合わさって小学校の同級生になりました。

 

 庭の桜の木です。花の咲き始めですが、三月末の青空は澄み切ってました。春の夜はベランダで一人花見をします。小学校へ入学したころ植えたものです。

f:id:phorton:20150806122856j:plain

 小学生になると、集団登校による字の人間関係と、同級生の人間関係の二つができたので、子供ながらに少々ややこしく感じたと思います。

 字の最上級生の一人が黄色い交通の旗を持ち、それが班長の証しでした。

 登校時間より早く集まって、ちょっとした鬼ごっこのようなゲームをしながら、全員が完全に揃ってから登校しました。子供ながら組織だっていたと思います。

 たとえ家が近所でも字が違えば登校は別です。あまりにも子供の数が少ない字の場合は、複数の字が一緒になることもあったようです。

 男女は登校が別々でした。ですから歌にあるような、一年生の男女がお手手つないで一緒に学校へ通うことはないのが普通でした。

 

 字とは何かと考える場合、現在は本来の意味からずれた使われ方をしている事を念頭に置いてください。

 現在住所にある大字というのは、本来の意味でいう字ではありません。大字は昔話でいう村だったところです。昔話の村なので、歩いて畑仕事へ行ける程度の範囲です。

 わたしの居住地は大字A上というところですが、明治初期はA上村と呼ばれていました。周囲には他にも同じような小さな村がいくつもありました。それらが合併してある程度広がりのあるA村になりました。もとあった小さな村々はそれぞれの村名を引き継いだ大字になりました。A村はそれ以上大きな村へなることはなく、やがて隣接した〇市に合併されて、A地区になりました。

f:id:phorton:20150805192839j:plain

 近所に残っている石碑には、〇〇上村とあり、『上』の文字があるので、大字に呼称変更される前からあった石碑であることが分かる。現在の大字A上のことである。

 

 大字は江戸時代に村だったところを、明治になると行政の都合で、大字と言い換えただけです。ですから本来の意味で字ではありません。現在は呼称が廃止されている地域もあると思いますが、かつて村社会を経た地域であれば、たいていは大字だったはずです。

 

 今度は先ほどと逆に考えてみます。

 わたしは〇県〇市のA地区に住んでいます。A地区は九つの大字に分かれています。詳細な地図を見れば大字の境界が記載されていて、どこまでがどの大字の領域なのかが分かります。

 このうちわたしの住む大字A上だけが七つの小字に分かれています。しかしこれは地図に載っていません。小字の境界の記載はありません。地名そのものが記載されてないのです。地図上で小字という地域は存在しません。

 このため小字の情報だけを頼りに知らない土地へ行くと、目的地がさっぱり分からないことがあります。わたしも隣の地区の小字は分かりません。実際にそこに住んでいる人に尋ねないと、小字の場所は分からないでしょう。でも小字の公民館なら地図に載っているので、だいたいそのあたりだと見当がつきます。

 このように小字は外部の人からみると漠然としたものなのですが、本来の字は小字のことだと言われています。区画整備された現代では結果的に、大字をさらに細かく分けたもののように残っているか、消滅しているかでしょう。

 

 小学校一年生で手紙の書き方を習い、同級生で年賀状を出しあったのですが、住所欄の書き方では、大字A上の子はそれぞれの小字まで書きました。他の子は小字がないので、大字どまりでした。

 《〇市 大字A上 小字a4274》 《〇市 大字B764》というぐあいです。ただし郵便物として小字は必要なく、慣習として書いていたわけです。

 小字が特殊なものだという感覚はありませんでした。大字も小字も同じようなものと認識してました。 

 実際大字と小字はまったく同じ次元のものとして機能してました。

 集団登校ですが、七つの小字はそれぞれ別々に登校してました。他の大字が別々に登校するのと同じです。小字といってもそれぞれの範囲が狭いわけではなく、小さくかたまっているわけではないので、人数の少ない同士で隣接した小字と大字が一緒に登校する場合もあったようです。

 字対抗の球技大会のときも、大字A上として他の大字と競うのではなく、七つの小字すべてが別々に出ました。

 A地区は地図上では九つの大字に分かれてますが、実際は八つの大字と七つの小字が分立しているので、結局は十五の字があります。

 十五の字にはそれぞれ自治会があり公民館があります。地区の運動会のときは十五のテントが校庭の端に並びます。

 地区での会議のときも全ての字の代表が集まります。七つの小字の代表として大字A上が出席するのではありません。

 地区の役目を選出するときも、十五の字からそれぞれ二人ずつというぐあいに決められた人数を選出します。

 大字と小字は対等です。七つの小字だけがまとまって大字A上として、別の大字と対峙することはありません。

 しかし風習になると少々事情が違います。七つの小字は同じ氏神に属します。七月半ばに神社の祭礼があるのですが、それは大字A上だけのものです。この日は小字だけになります。

 神社から二つの獅子を廻すのですが、七つの小字が順番に獅子を受け取り、小字内の家を廻ります。頭にかぶりつき、厄を取ってもらうという、あれですね。

 ひとつの小字が終われば次の小字へと獅子を受け渡します。受け渡し場所には住民が集まります。太鼓を叩きながら受け渡し場所へ行くので、それがだいたいの合図です。

 九月には別の大字で、古い祭礼がおこなわれます。その大字の子供は毎年順繰りで、伝統的ないでたちや巫女さんのなりで参列します。祭りというより儀式に近いものです。その大字の子供だけの慣習です。親戚縁者を招いた結婚式に近いようなものだといいます。

 大字が違うと、もともと別の村だったわけですから、同じ地元だと言い切れない面を、年とともに感じるようになりました。

 しかし長い間隣接してきた地域同士なので、秋には十五の字の住民が、地区の八幡さまに初穂料を納めます。

 

 大字小字という言い方を自分たちではしません。単に、字と言います。実はわたしが子供の頃は字とも言わず、別の言い方をしてました。誤解をまねく呼称なので現在の若い世代は言いませんが、高齢の人は今でも言います。 

 

 実はわたしの属する小字はさらに二つに分かれています。ここまでくると完全に内々の世界でしょうね。

第30回 お井戸さまは何を思うのか

 幼稚園の二年目に新築した家に引越したわけですが、もといた二軒長屋の敷地内であり、すぐ裏地なので、暮らす部屋が違った程度の印象でした。当初の事ですぐに思い当たるのは、ウルトラマンは新居で見たかなというかんじです。ちょうどウルトラQからウルトラマンへ放送が変わる時期でした。1966年のことです。

 二軒長屋はそのまま物置として使い続け、遊び場としても行ったりきたりしていました。

 

 火鉢です。庭に出したまま何十年も放っておいたのですが、洗ってみたら綺麗になりました。砂と藁を燃やしたものを底に敷いてから使うそうです。

f:id:phorton:20150712190350j:plain

 他所の土地へ移り住んだわけではないので、引越しにともなう生活への影響は感じませんでしたが、実はひとつだけ大きな変化がありました。それは水道が入ったことです。

 新居に入るまでは井戸しかなかったのです。M78星雲から初めてウルトラマンがやってきたときは、水回りという小怪獣がまだ生存してました。当時水道はまださほど一般的ではなかったと思います。

 長屋と新居の中間の東側に井戸があり、引越してからも井戸水を飲んだ覚えがありますが、水道水と違い、冷凍室のような香りがしたと思います。

 井戸の傍に手押しポンプがあって、水がどーっと出てくるかんじが面白かったです。

 母によれば、井戸屋さんが長い棒を入れて、数人で、よーこらえーこらと掛け声を上げながら掘ったそうです。あまり古い時代に掘った井戸ではないので、最初から手押しポンプ式でした。

 

 今でも田んぼには手押しポンプが結構残っている。使ってないと思うのだが。

 当時はこのようなポンプがうちの井戸にもあった。

f:id:phorton:20150712190431j:plain

 懐かしの風景などで語られる滑車つきの釣瓶の井戸は、大家の屋敷でないと無かったようです。古い井戸でも一般的には、桶に縄を付けただけのものを井戸に投げ入れて汲み上げるものが多かったようです。

   大家では流れ井戸がある場合もあり、溢れ出た水が流れっぱなしだったそうです。流れ井戸というと山のものかもしれませんが、うちの近所は水源が豊富だったらしくて、掘れば水が出たようです。地域によってはなかなか水が出ないことからすると、恵まれていたのでしょう。

 母は近くにある田んぼの傍の流れ井戸で洗濯することがあったそうです。どんどん流れていくので、うちの井戸よりも楽だからだったということです。よその家のものですが、田んぼにあるので普段は誰もいないし、知らぬ家ではないので、平気で無断で使っていたそうです。

 豊かになった途端に洗濯機にいきなり変わったように思われがちですが、水道が入ってないと、洗濯機まで水を桶でわざわざ運ばなければならないので、少量ならば井戸のそばで洗ったほうが簡単な場合もあったのです。

 実際わが家では水道が入る前は洗濯機がありませんでした。それに昔の洗濯機は洗うだけのものだったので、大所帯ならともかく、少人数の場合は水汲みをしてまで使うほど便利なものだとは、わたしの母は思ってなかったようです。

 

 昔の洗濯機にはこのようなものが付いていて、ローラーのハンドルを手で回して水気を絞った。これが脱水だった。子供心に面白いと思いながら見ていたのだが、本当に使いやすかったかどうかはよく分からない。

f:id:phorton:20150712190549j:plain

 しかし風呂は、井戸のそばで水浴びというわけにはいかないので、井戸水を桶で汲んでは風呂場へ運んでいき、それを繰り返したのです。現在ではちょっとそんな生活は考えられませんが、昔はそれをやっていました。

 母の若いころは、風呂がなければ川で水浴びということもあったようです。

 新居に移ってから、洗濯機も購入して、蛇口をひねるだけで水で風呂がいっぱいになる便利な生活になっていきました。

 

 わたしは井戸を覗き込んだ記憶がありません。親が注意して目を光らせていたのか、まだ小さかったので覗けなかったのか、分かりませんが、いつのまにか手押しポンプはなくなり、井戸は平らになっていました。

 子供が落ちると危ないから、井戸の側面の石は近所の人が持っていき、代わりに蓋を持ってきて閉じてもらったそうです。井戸には闇のなかで眠りについてもらいました。そしていつのまにか井戸のあったことも忘れていきました。

f:id:phorton:20150712190624j:plain

  しかし水のパイプラインが止まるような事があれば、とんでもないことになるでしょう。わが家の井戸に蓋をして、もう用済みにしてほぼ半世紀たった今、この蓋を開けるとどうなっているのかと最近思います。再び恵みの水を供給してくれるのでしょうか。それとも長年の忘恩に怒りが噴出してくるのでしょうか。

 

 蓋はコンクリートで張り付けてしまったらしい。

 洗濯は右側の四角い流し台?でしていた。

f:id:phorton:20150712190915j:plain