メロンダウト

メロンについて考えるよ

『人間はどこまで家畜か』読みました

はてな界隈で知らない人はいない熊代さん(通称:シロクマ先生)の著書『人間はどこまで家畜か』読みました。

進化心理学アナール学派の知見を用いながら文化や環境が社会にどのような変化をもたらし、その環境が人間にたいしどのように作用しうるのかを、精神医学的な分析も交えながら論じたものとなっていて、シロクマさんにしか書けない本ではないだろうか、というのが読み終わった印象だった。

 

 

 

長年、ブログを読んでいるとシロクマさんは適応の問題を常に考えていることがわかる。社会と人間のズレ、その摩擦が起こす不協和音にたいしアンテナをたてて物事を見ている方なのだと思う。鬱病の方のほうが世界を正しく認識していることを「抑うつリアリズム」と呼んだりするけれど、『人間はどこまで家畜か』で書かれているように文化が加速し適応の閾値が高まり続ける社会にあってそれに「ついていけない人のほうがよほど人間的」だったりするのだろう。僕自身、現代社会に平気で適応していることのほうが異常だと時々思うことがある。そうした「感覚」を持ちながら精神科にかかるわけでもなく社会に適応するフリをして生きている人は、思いの外、多いのではないだろうか。近代化や知識社会化の影響でこれまでは問題とされていなかった人にADHDなどの診断名がつくようになったことももちろんそうなのだが、診断名がついていないようなマジョリティーの人々が抱える違和感がこれから顕在化していくのではないかというのが、本書を読んで思った危機感であった。おそらくは誰も「まともには」社会についていけなくなる日がくるのではないだろうかというのが最大の感想で、そうなった時、社会とは誰のためのものかよくわからなくなる。社会が自律的に作動するようになり適応できない人間が弾かれ社会が社会のためのものというトートロジーと化し、家畜化された人々が肉屋を支持する豚のように「誰のためでもなくなった社会」を餌を獲得するために支持し、礼賛する。そんな未来もありうるかもしれない。

 

 

また、本書を読んでいると自己家畜化がどのような経緯で発生しているのかについても考えてしまった。本書では人や動物がどのように家畜化してきたのかが書かれており、生物的な自己家畜化はオオカミが人に飼われる過程を経て愛らしいイヌになるように共生が自己家畜化の機序であると書かれていたり、人間も狩猟採集社会から定住社会へと至る過程でコミュニカティブな能力が発達するように進化してきたと書かれていた。

そうした自己家畜化という視点を現代社会に反映させると文化的な自己家畜化が起きているのではないか、というのが本書の主題であるというふうに読んだのだが、しかして文化的な自己家畜化はいったい何が目的で誰を主人としているのかがいまいち判然としない部分もあった。本書によれば、現代社会は相互協力的なコミュニケーションを必須とする社会で、そうした文化が人間をより愛らしくコミュニカティブに振る舞うように要請し、その主人は資本主義・個人主義功利主義・社会契約といった思想(ミーム)であるという。その思想により我々が家畜化されているのは実際その通りであると思うけれど、ただ、資本主義や個人主義を本当に正しいと考えている人はあまりいないのではないかと読んでいて思ってしまった。資本主義的振る舞いであるコスパやタイパといった概念も一部の人が行っているものであまり一般的とは言えない。つまり資本主義や個人主義を「正しい」と思っている人はマジョリティではないにもかかわらず資本主義や個人主義が我々を家畜化するまでの権力を持っているこの構造はなんなのだろうかと。

おそらくではあるけれど、フィクションが増幅される機能が社会にはあるのではないだろうかというのが個人的な見解だ。たとえば資本主義は、よく言われるようにみながお金に価値があると思っている共同幻想・フィクションによって成り立っている。そのフィクションがありとあらゆるところで増幅されることでリアルと区別がつかなくなる。なにかを購入したり、税金を納め、給与をもらう。そうした反復を繰り返しているとただの紙切れが莫大な価値を持つことを疑いもしなくなる。本来は別にコンビニで物々交換を持ち掛けてもかまわないし、なんならおなかが減っているからパンをくださいと直接的に言ってもかまわないわけだが家畜化された我々はもうそんなことが可能だとすら思っていない。ようするに自明化されたフィクションはリアルと区別がつかなくなる。終いにはフィクションによってリアルが取り換えられるというのが思想(ミーム)が権力になる機序なのだろう。

そうした前提を考えながら家畜として思うのは、家畜になりきらないために「それがフィクションでしかない」ということを頭の片隅に常に置いておくことなのだと思う。

 

家畜として人間に飼われている猫も見様によっては人間を飼いならしている。そんな「見方」もできる。猫がご主人様で自分のことを下僕と称している人は珍しくない。希望的観測だが、思想に飼いならされ家畜化している我々も主人である思想(ミーム)を利用する未来もありうるのではないかと思っている。資本主義が極まり、オートメイションが進んで人が働いても充分な富が得られなくなれば人間が働くインセンティブそのものが失われ資本主義のほうが「猫に媚びる人間」のようになり主従関係が逆転する日がくるかもしれない。いや、もちろん「資本主義の終わりを想像するよりも世界の終わりを想像するほうがたやすい」と言われるように、資本主義が終わるのが考えづらいのも確かではあるものの、家畜であり続けることが人間にできるとは思えないところがあるのだ。今は加速度的に新しい情報なり文化が駆け巡りその速さに眩暈を起こしているだけで、いつかこの「速さ全体」を疑問視する人が多数派になり、そこで人間的主体性みたいなものが復興する可能性もある。いずれにせよ人の適応を上回るスピードで文化や思想が蔓延する今の状況は歴史的に見てもかなり特殊な時代であることは間違いなく、あくまで個人的見解ではあるものの、この特殊な時代はそれほど長くは続かないような気がするのである。

 

個人的には、今の時代、人が家畜化しているように見えるのは社会・経済のスピードが上がったことでその速さに眩暈を覚え、不安になり、怯え、混乱し、大人しくなっているだけなのではないかという気がするのである。これからそのスピードがさらに加速していくのかどうなのかはよくわからないものの、「速さから降りる人」の数は今後増えていくように思う。

 

あまり書評のような感じにならず、なにか「そういう話ではない」と怒られそうな気がするけれど、本書を読んでいて思ったのは「人が家畜になるとはそもそも絶え間ない情報によって麻痺しているのが実情」なのではないかと。感覚を麻痺させられ自分が何をしているのかよくわからなくなるということ自体が家畜に施されるそれではあるのだろうけれど・・・

選択肯定の行方:自由と楽しみのはざまで

はてなブログに「AIタイトルアシスト」という機能が実装されていたので使ってみました。本文を書くと内容から推測して勝手にタイトルをつけてくれる。すごい。もう全部これでいいのでは。10個ぐらい候補が出てきてその中で最もらしいのを選んでみましたがなにか大仰なタイトルになってしまった。内容は別にそんな大した話ではないです。

以下本文です。

 

以前、古市憲寿さんが『絶望の国の幸福な若者たち』の中で「選択縁社会」と書いていたことを思い出した。

選択縁社会というのは、個人主義によってかつてのような地縁・血縁による自明的な繋がりが崩壊した社会にあって、個人の選択によって何を縁とするかをぞれぞれが選択するようになった社会のことを指す。

古市さんが『絶望の国の幸福な若者たち』を書いたのは10年以上前のことで、本の内容は「若者の70%は今の生活に満足している」という調査結果を皮切りにその幸福さを社会の状況と照らし合わせながら批判的に論じるものとなっているが、10年経った今こそクリティカルに読める内容ではないかと思う。

 

僕達の前には常に選択肢が並べられている。何を選択するか、何を選択しないかを、あらゆる情報から判断し、与えられた環境の許す限り最善の選択をしようと試みる。間違った選択をすることもあるだろうけれど、事前に間違いだと判断できるような選択をとることはほとんどない。あったとしてもなんらかの条件付けによってそれを選択せざるを得ないような場合に限る。能動的か受動的かにかかわらず何かしらを選択し、その選択に準ずる形で生きること、それが個人主義が浸透した現代社会において僕達に要請されているものであることは間違いないはずだ。

 

 

どこに住むか、何を食べるか、どこで働くか、何を楽しむか、嗜好品はどの程度で、どこに投資して、誰と付き合うかを、意識的か無意識的かは別にして選択し続けているわけだが、そうした選択のことを自由と呼ぶ代わりに「何故それを選択しているのか」という構造が抜け落ちているような印象を受けることがある。

なにかを選択する際には判断基準が必要で、そうでなければそもそも選択すること自体できない。しかし判断基準は生育環境や人間関係に左右されるため、個々人の基準はバラバラに発散している。判断基準を平準化することはできず、偶然に左右される。そうした意味で「何を選択できるか」は平等ではない。したがって何を選択したのかという判断も主体的な選択のようでありながら偶然や構造といったものに左右されている。

・・・という話が構造主義と呼ばれていたものなのだと思うけれど、構造それ自体を見ることはとんと少なくなっていっているように見えるのだ。よくアニメや漫画で登場人物の背景描写が描かれ過去の出来事から何故いまそのような行動をとるのかについて説明がなされることがあるけれど、なぜ物語にバックストーリーが必要かと言えば、「行動や選択それ自体」を取り出してそれだけで判断してしまうと間違った理解になることがあるからなのだろう。選択それ自体を判断することは留保し、どういった動機や構造をもってしてその選択がなされたかのほうに焦点を当てるほうがキャラクター描写としてもすぐれているし、物語が立体的になるのだと思う。

 

つまり選択の裏には動機があり、構造があり、運があり、物語があって、そのうえで判断するべきだというのが多くの作品で語られていることなのだと思うけれど、翻って現実の社会に目を向けた時に僕達はどこまでそうした構造を見ようと努めているのだろうかと思うことがある。むしろ積極的に選択それ自体で判断することが多くなっているのではないだろうか。

もちろん日本人はアニメや漫画はもとより八百万の神という伝統からもわかるように人に物語を見ることに長けた人々であるし、誰かのバックストーリーが語られれば静かに傾聴する人のほうが多いであろう。問題なのは、バックストーリーが流通しなくなったことにあるように感じている。背景が描かれることなくただ選択それ自体がとめどなく流通していき、個々のバックストーリーを聞く前にまず選択それ自体が提示され、それによって判断(もっぱら肯定)することがもう癖になりつつある。

最近よく聞く「推し文化」もそのひとつで、たとえば誰かがVtuberが好きであると言ったとする。それを聞いた人は趣味のひとつとして肯定するか、もしくはVtuberを好きなんてキモイと言うかもしれない。Vtuberが好きな人に何故好きであるかを聞いても見ていて楽しい、癒されるという定型句しか返ってこない場合がほとんどで、その人がどのような現実的背景を持ってVtuberを好きであるかはほとんど流通せず、また、質問することもタブーとなっている。ただただVtuberが好きであるという選択だけが目の前に提示され、そしてそれを聞いた人はなんだかよくわからないが肯定するという流れ作業的な価値判断がかなり一般的だ。Vtuberが好きなのは現実にパートナーがいないからだという俗説としての背景や心理分析みたいなものは流通するものの、実際にどうなのかという話はよくわからないし、突っ込んで聞くことも無作法なことと考えられている。

ようするに何を好きであるかのみならず何を選択しているかに関してはすべて選択だけが残されていて、背景や構造といった周辺情報はもはや無用の長物となっているのが現状のように見えるのだ。

 

そうした判断を冒頭の選択縁社会にまで広げてみると、10年前と比べてみてありとあらゆることに関して「選択だけが選択されている」ようになっていやしないだろうか。

夫婦別姓の議論にしても、反対する人にたいして「何故、選択可能なことを肯定しないのか」と言う人がほとんどであり、選択できるのであればすべてのことは自由主義にのっとった判断でありすなわち肯定しない理由はない。そう考える人がほとんどであるように思う。

 

結婚するかしないかも選択、子供をつくることも、仕事を頑張るかもなにもかも選択の俎上に載せられすべてを選択できる状態にすることをみなで肯定している。

しかしながら多くの作品で語られるように選択それ自体にたいした意味はない。重要なのは何故その選択をしたのかという背景のほうにある。にもかかわらず選択を過剰に肯定し、かつ誰も背景を語らないようになり流通しなくなると、選択それ自体がほとんど無手で肯定されるようになり背景を見るまでもなく選択は尊重されるべきものとして扱われることになる。

 

逆説的に言えば、家族や地域も選択へと回収された選択縁社会の中にあってノイズとして残ったのが出生である。すべてを選択できるようにデザインしようとする社会にあって唯一選択できないものとしてフィーチャーされるようになったのが親である。つまり選択ですべてを包摂しようという社会の趨勢の中で選択できないものを指してガチャと呼ばれているのであろう。

 

 

もちろん、すべてが選択可能ですべてが構造に支えられているという考え自体がフィクションのそれであり、実際は偶然に左右されるのがほとんどだと思う。偶然という名の必然みたいな言葉もあるように偶然なのか必然なのかそれを主体的に選択したのかさせられたのかと、そんなこと考えてもしょうがないのはしょうがないのだけれど、ただ、どのように社会を捉えるかという視座に関して言えば、以前よりも選択をただただ肯定する人が増えたように感じている。

 

批評が廃れたみたいな話にも通じるところがあると思うけれど、みな何をどう判断するかの前にまずその選択を尊重し肯定しようと努める。そしてその先には踏み込まない。人との距離感を大事にする。それがあるべきコミュニケーションだといろいろなところで言われている。それ自体は確かに適切な振る舞いだと僕自身そう思うけれど、それが作法や主義にまで昇華すると選択は尊重すべきだという定型句に思考が閉ざされ、物事を考えなくなり盲目的になるのではないかと、そんな気がしているのだ。Vtuberが好きならただただその選択を肯定する。そうした態度は正しい態度であると同時に「楽をしている」だけなのではないだろうかよ。

 

とはいえ、実際にみんながみんな突っ込んで話を聞こうとすることもまた問題ではあるので、あちらを立てればこちらが立たず的なあまり意味のない話でした。

 

まとめ的ななにか

・規範を取り払った社会にあって個人は選択しなければならなくなる

・選択それ自体がイデオロギーになりとにかく選択を肯定しようとする

・「選択できることの何が悪いのか」という定型句はその定型性ゆえに個々の背景を二次情報に繰り下げる。

・選択だけを肯定するとその先を考えないで済むため、楽である

若者が出稼ぎに行っている件と横丁の蕎麦屋について

若者が海外に出稼ぎに行っている件

www.nikkei.com

 

オーストラリアは実際に住むとなると住宅価格や医療費が日本より高いため単純比較することはしないほうが良いと思うけれど、ワーホリと同じような労働形態で言えば日本では自動車の製造ラインに従事するいわゆる期間工がそれにあたり、調べたところTOYOTAが出している期間工の給与が30万前後であるため、福利厚生を考慮したとしてもやはりオーストラリアとは格差があることになる。最近だと熊本の半導体工場の求人が時給3000円と話題になっているけれどTSMCが台湾の会社であることを考えると実質的には海外で働いているのとあまり変わらない。北海道のニセコもバブルになっているもののいまやほぼ外国化しているため、日本が豊かになっているというわけではない。

また、東京のタワーマンションの価格が暴騰し続けているみたいでその原因が主に中国人に買われているからというニュースも最近あった。さらにはインバウンドの影響でビジネスホテルの価格が釣り上がっているというニュースもある。

しかし実質賃金は22か月連続で下落し続けているうえ、最近では実質消費も落ち込んでいるようであり、ようするに株価は上がりインバウンドも戻ってきて市場全体で見れば外貨も稼いでいるのに日本国民の手元にはお金がないというおかしな事態になっている。

 

なぜ日本の労働所得が安いのかと言えば、単純に経済が落ち込んだからという理由もある。しかしもっと構造的な問題があるのではないだろうか。その筆頭が下請け構造だ。たとえば東日本大震災の時の原発事故がわかりやすい。当時、原発がどのような状況かわからないという大変危険な状況で作業員が募集されていたけれど労働市場に降りてくる時には日給9000円という信じられない価格になっていた。以下記事によると8次請けにまでなっていたようである。

日当9000円――なぜ原発で働く人の賃金は安いのか(1/4 ページ) - ITmedia ビジネスオンライン

福島原発作業員が東電提訴、危険手当など未払いで約6200万円請求 | ロイター

 

同様の事態は東京五輪でもあった。

資本主義がもともとそういうものだと言えばそうなのかもしれないけれど、マルクス剰余価値率を考えると日本の労働者は提供するサービスや生産力に比して搾取されている率が高いのではないか。雇用者に搾取されている率で言えばおそらくそれほど高いわけではないが、中抜き構造がある場合、雇用者が複数になるため、雇用者それぞれが抜く価格が低くても労働所得への影響は大きい。これが労働分配率を下げ、経済が回らなくなっている一因だと考えられる。

 

 

経済的に考えると日本にいることの価値は日々失われていっているが、それよりも重要なのが「街」を見渡していると「ここにいることの意味」のようなものが失われていっている感じがしている。

東京近郊の千葉・埼玉あたりの国道沿いを車で走っていると街並みががほとんど同じであることに気が付く。スシロー、サイゼリヤ、ベルク、セブンイレブンイオンモール、エニタイムフィットネス、ドン・キホーテマクドナルドなどなど大手チェーンが並んでいて、どこを走っていても同じ景色が続く。国道から逸れて市道に入っていくとフランチャイズのから揚げ屋、歯医者、ドラッグストアなどが点々と建っていて生活を支えているのがわかる。しかしながら地域に根差した八百屋、お団子屋、魚店、駄菓子屋などは軒並みなくなっている。地方の中核都市も似たような風景になっていて資本淘汰が進みつつある。地方色が残っているのは駅前がメインでそれ以外の場所はもうどこにいてもたいして変わらない。どこにいてもたいして変わらないのであれば「ここにいることの意味」がもうない。ゆえに住んでいる街にたいする愛着や郷愁といった地縁を持つ人も少なくなっていく。地縁が少なくなっていけば必然、便利な地域に移住するようになり、東京や大阪に人口が集中する。

東京に人口が集中すれば「東京という田舎」の論理が大手を振るうようになる。人が多すぎるがゆえに様々なルールやマナーを採用しなければならないのが東京である。たとえば青森のローカル線の電車に僕と全裸で踊っている人がいたとしても何も問題はない。ややもすると一緒に踊りだすだけである。しかし何百人と同じ車両に乗る電車の中では全裸で踊ることはもちろん私語ですら躊躇する空間になる。しかしそのルールは東京というローカルな場所において必要に駆られてできたものに過ぎない。原理的に言えば電車で踊ろうが酒盛りしようがどうでもいいのである。

つまり地方の土着性や地縁が資本によって軒並み解体された結果、東京のローカルルールだけが残り、そのルールを地方へ敷衍し、地縁がなくなったと同時に自治もなくなった地方がそれを丸飲みしているのが今の状況と見ることもできる。

 

 

労働所得の低さ、資本淘汰による「どこにいても同じ」だという感覚、それによる地縁の消滅、地縁の消滅による東京のローカルルールの拡大

そうした環境の中で日本にいることの意味で上げられるのもと言えば治安が良くご飯がおいしいといった具体的なものに限られ、価値や意味といった土着的で抽象的なものは資本によってより快適なものへリプレイスされ漂白されていった。それで良かったかと言われればよくわからないけれど、結果としてこうなったのだからみんなどうでもよくはあったのだろう。僕もそのうちの一人で、なんだかよくわからないままいつのまにかこうなっていた。

横丁のソバ屋も、育ってきた景色も消えていき、スターバックスラテだけが残るなんて、そんなこと、少なくとも望んではいなかったはずなんだけどな・・・

 

Mr.Children 「ランニングハイ」DOME TOUR 2005 "I ♥ U" 〜FINAL IN TOKYO DOME〜 - YouTube

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