2023/05/31

原基晶先生の新しい論文「ダンテからルネサンスまで 人文学と翻訳の使命」のまとめと感想

ツィッターで評判になっていた新刊書『イタリアの文化と日本 日本におけるイタリア学の歴史』(ジョヴァンニ・デサンティス、土肥秀行編、イタリア文化会館・大阪監修、松籟社、2023年2月、¥2200)を買った。本を整理しつつある今、新しい本はなるべく買わないように努力しているのだが、知人の原基晶先生が論文を寄稿されているので、買うことにした。とても美しいデザインのハードカバー。映画や美術を主に論じた論文もあるので図版も多数入っており、しかもその一部はカラーという贅沢さ。にもかかわらず、そして学術的な本なのに、2,200円という破格の安さに吃驚させられた。

さて私はまず巻頭の原基晶先生の論文を読んで非常に勉強になり、自分の専門分野へのヒントも大きかったので、このブログでは、自分の学習ノートを兼ねて、この論文の概要と私の感想をまとめておきたい。原先生の論文は巻頭の第1部「文学」の、更にその第1章、「ダンテからルネサンスまで 人文学と翻訳の使命」pp. 15-46。まさにこのタイトルにあるとおり、論文は、ダンテ・アリギエリ(1265-1321)から、ボッカッチョやペトラルカを経て、ルネサンスの詩人ルドヴィコ・アリオスト(1474-1533)に至る古典的な作品が日本でどのように翻訳されてきたか、そして代表的な翻訳の背後にはどのような解釈と思想があったかを分析する。その際、各時代の日本の文化や出版事情がこうした翻訳に色濃く反映されていることを指摘して、日本の翻訳文化論ともなっている。章を更に6つのセクションに分けてあり、更に一部のセクションではその下位区分もある。見出しを拾うだけで論文の構造がわかるので、まずそれを記しておこう。

  1. (イタリア)ルネサンス文学の受容史※

  2. ダンテ

    2.1 明治・大正のダンテ

    2.2 ダンテと帝国日本

    2.3 民主化後のダンテ

    2.4 比較文学的アプローチの終焉

  3. 『デカメロン』

    3.1 明治初期の翻訳に始まって

    3.2 戦後の翻訳

    3.3 現代文学からの視点と比較文学的視点の衝突

  4. ペトラルカ

  5. ルネサンスの文学

  6. 未来の翻訳のために

    ※第1章のタイトルにあるカッコは本文通り。


論文全体のイントロダクションである「(イタリア)ルネサンス文学の受容史」で、筆者は中世・ルネサンス文学の受容と現代文学のそれが大きく異なる点を指摘する。即ち、日本においては「ルネサンスの側面が強調されて大手出版社が発信者となり、その読者である一般的な市民層が受容者となってきた。そこではイタリア史より世界史が意識され、現在の〈世界〉とその主要な動力である西洋が重要視されていることは明白だ。」(p.16)。つまり、日本の教養ある市民にとってイタリアは歴史的に「ルネサンス」という西洋文化の黄金期の中心であったと言う点で重要であり、それ以降の近代後期から現在に至る国民国家としてのイタリアの歴史や文化は、主に幾つかのステレオタイプ(例えば、ファッション、グルメ、映画、戦時中のファシズム、等々)でかろうじて記憶されるに過ぎないというわけだ。これは「ルネサンス」という言葉自体が表しているように、かっての西欧史のギリシャ・ローマ文明中心史観の一端である。「ギリシャ」という国や民族、そしてギリシャ語・ギリシャ文学も、現代のそれはほとんど顧みられず、輝かしい西欧文明の源泉としてもっぱら称揚されて来たことと類似する。大まかには、かって我々日本人の頭に浸透していた西欧の文化史では、ギリシャ・ローマを起点として文明を確立し、それから逸脱したり(中世)、再発見したり(繰り返される大小のルネサンス)してきたことになる。それは例えば、「暗黒の中世」の後にやって来た「華開くイタリア・ルネサンス」といった姿で、今でもテレビなど大衆的な情報メディアで拡散されている。

第2のセクションで、原先生は時代を追ってダンテ、特に『神曲』の翻訳について、その傾向をまとめ、批評する。『神曲』の主要な日本語訳については、彼の名著『ダンテ論 「神曲」と個人の出現』(青土社、2021)でより詳しく論じられたことでもあるが、本書は、明治・大正の翻訳から論じはじめている点が新しい、そして私にとって興味深い視点が含まれている。つまり、「そもそもダンテへの関心は英文学のミルトンとの関係から始まり(日本初の『神曲』翻訳は1903年のミルトン研究で知られる繁野天來『ダンテ神曲物語』)、カーライルの『英雄崇拝論』の影響で広がった」(p. 17)。更に、内村鑑三は「中世キリスト教の厳格な信者というダンテ像を提示」した(pp. 17-18)。内村はダンテやシェイクスピアを、「世界文学」に屹立する西洋の「大文学」の文豪として、称賛した。同様のことは詩人で英文学者の上田敏も言っているようだが、彼らの「論の根底にあったのは、まさに富国強兵と脱亜入欧という思想」であった(p. 18)。もっとも、イタリアは英仏独等と比べ、到底大国とは言いがたい。ということは、これら日本の知識人にとっては、ダンテは、同時代の国家としてのイタリアとは結びついていないのである。私には、ダンテと英文学者の縁が興味深い。上記の英文学者との関係は、更に竹内藻風や生田長江による英訳からの重訳へと続く。私が若い頃、一般読者の多くが読んだ和訳は、英文学者で、ウィリアム・ブレイク研究で博士論文を書いた寿岳文章訳の『神曲』(1974-76)だった。

 日本における西洋の巨大な知の源泉としての『神曲』理解からは、キリスト教的観点も中世の、あるいは現代のイタリアの文脈に照らしたダンテ作品という観点も抜け落ちていた。また、イタリア語・イタリア文学の研究が、英仏独文学のように充分になされていなかった日本においては、厳密な文献学的研究・翻訳には至らず、「世界をリードする西洋の〈人間〉概念をしるためには、比較文学的観点からの翻訳が求められたのだ」(p. 21)。ダンテを西洋が生んだ手本と見る観点は、軍国主義の時代にあってはファシズムと結びつき、一部のイタリア文学研究者の積極的なファシズム宣伝活動にまでいたるようだ。

 民主主義国家に変貌したと標榜する第二次大戦後の日本においては、ダンテは民主主義の出発点として理解されていたルネサンスを代表する詩人、という評価になり、「世界・・・的な価値を持ち、それゆえに、世界を構成する〈人間〉を理解するためにも重要だと考えられた」(p. 22)。つまり富国強兵への教本から民主主義の教科書へと衣替えさせられたのである。こうした比較文学/世界文学的な観点に基づいてなされたのが、平川祐弘の口語訳であり、それに続く寿岳文章訳だった。

 しかし、現実世界が多極化し、文学・文化はもちろん、政治経済においても、北米と西ヨーロッパを頂点とした価値体系がかなりの程度崩れた今、古典古代に始まりルネサンスにおいて再興されたとする西欧的教養には昔日の輝きはない。西欧的教養への信頼をベースにした世界文学全集とか、出版社が出す講座ものなどはほとんど消え失せ、文学翻訳の業界自体が急激に縮小してしまったのである。

第3のセクションで、原先生はジョヴァンニ・ボッカッチョ(1313-75)作の『デカメロン』の翻訳を俎上に載せる。この作品の最初の翻訳は明治15年(1882)に大久保勘三郎(経歴等不詳らしい)の訳で出ており、恐らくフランス語からの重訳だそうだ。さらに戯作者としても知られる高瀬羽皐(うこう)が1886-87にやはりフランス語からの重訳で3種類の抄訳を出している。当時の翻訳は江戸の大衆的戯作文学の伝統の延長上にあり、この後、近代小説へと変化する途上だった。この後、『デカメロン』は、大衆通俗小説の系列として広まっていく。ダンテの『神曲』がハイブローで崇高な文学の代表と考えられたとすると、ボッカッチョの『デカメロン』はダンテ作品がカバーしていない民衆のたくましく猥雑な生命力を捉えた作品として印象づけられてきた。

 第2次大戦後、河島英昭による抄訳が講談社の世界文学全集から出たが、これは「現在の翻訳で文献学的に求められる作業をはじめに行った」訳業だった(p. 29)。この翻訳は「世界文学全集」という「比較文学/世界文学」と戦後の西洋的教養主義の枠組を使って出版され、抄訳という不完全な形だったが、イタリア文学の研究という視点から、イタリアの専門家の文献学的な研究に基づいた刊本を基になされた学問的翻訳だったようだ。この流れを受け継ぎ、『デカメロン』の全訳を完成したのが平川祐弘だった。河島訳は当時最先端の知識人であったボッカッチョによる『デカメロン』の、「民衆文化との、ある種の断絶があったことも明らかにしている」のに対し、平川訳は「むしろヨーロッパの散文に流れる民衆的な流れを意識しており、卑猥の問題も民衆文化の力強さの表現とする」(p. 31)。ボッカッチョからも大きな影響を受け、彼の作品を種本に使っているチョーサーについて考えると、この点はよく分かる。チョーサーは都市の富裕な商人の息子で、少年時代から王室に仕え、生涯の多くを高級官僚として過ごしたが、作品においては、宮廷文化やヨーロッパの知的伝統を広く、かつ深く反映していると共に、『カンタベリ物語』では、イングランドの民衆と彼らの日常生活や文化にも細かく目配りをし、それが作品の魅力を飛躍的に高めた。ボッカッチョにもそうした両面があり、翻訳者によってはどちらかの面が強調されるのだろう。

第4セクションではペトラルカ(1304-74)が短く取り上げられているが、ここで原先生が主に書いているのは、日本における「ルネサンス」概念についてである。イタリアでは、そして世界の中世文学研究者にとっても、13世紀後半から14世紀始めにかけて生きたダンテは、どうみても中世の詩人であるが、日本の教育では彼はルネサンスを代表する詩人として扱われてきており、その名残は今も残る。日本におけるルネサンス文学の概念では、教皇庁に支配されたラテン語による中世文明から脱して、民衆の言葉であり、人間性の解放を象徴する俗語による文学の創始者としてダンテが位置づけられる。そうすると、ラテン語作品が重要なペトラルカの作品の中で、俗語の代表作『カンツォニエレ』が特に注目され、しかも「ダンテの恋愛叙情詩のエピゴーネン(模倣)と受け取られてしまう」そうだ(p. 33)。

第5セクションは「ルネサンスの文学」と銘打たれており、次の文で始まる:「イタリア本国であれば、盛期ルネサンス文学の代表といえばアリオストの叙事詩『狂えるオルランド』であろう」(p. 33)。原先生は、彼自身の責任で「盛期ルネサンス文学の代表作は・・・」と言わずに、「イタリア本国であれば」という枕詞を付けている。その前のセクションでも、「イタリアでは中世に分類されるダンテ」という言い回しが使われていた。この論文では、こうしたイタリアにおける中世・ルネサンス概念と、日本におけるそれらとの違いが問題にされているので、こうした言い方が使われるのだろうが、文学史における時代区分は難しい。国や時代における観点の違いに加え、そもそも「中世」という歴史で使う一般的用語と、「ルネサンス」という文化史の用語を混ぜて使う事に矛盾が含まれている。後者の特徴のひとつが古典古代の「文芸復興」だとしたら、中世の間にも何度もそれは行われたし、イタリア半島においては古典古代の文芸の影響は絶えることが無かったと言えるかも知れない。

 『狂えるオルランド』は20世紀後半までの翻訳や解説では「宗教的桎梏から人間精神が解放されたルネサンスという空間で可能となった人間の自由な感情を活き活きと表現し、青春の美しさと儚さを謳っていると解釈」されてきたそうである(p. 34)。これはロマン主義に影響を受けた、やはり比較文学的/世界文学的な見方に基づいた翻訳ということなのだろう。しかし、『狂えるオルランド』は当時のローカルな背景、即ちメディチ家の政略結婚など、が色濃く反映されており、ロマン主義的解釈とは正反対のニュアンスが浮かび上がる。従って、この詩は、イタリア半島の政治状況をよく検討した上で翻訳する必要がある、と原先生は詩の一節を選んで試訳を挙げながら論じている。

論文の結論部である第6セクションで、筆者はこれまで論じてきたことを手短にまとめつつ、「日本のルネサンス概念は近・現代日本の非宗教的空間というフィクションを成立させるために形成されたと結論づけることができる」と述べる(p. 38)。つまりイタリアの「当時の社会・政治空間における宗教色」を無視し、戦前であれば富国強兵を目ざす日本から見た西欧の偉人としてダンテ以下のルネサンスの詩人を称揚し、戦後は民主主義と人間中心主義の源泉であるルネサンス詩人として同じくイタリアの詩人たちを翻訳してきたのだろう。こうした傾向は英・独・仏など、他の西欧の国々の大作家についても言えるだろうが、イタリアは国民国家としての成立が遅く、現在でも政治経済における大国とは言いがたく、日本のアカデミアにおける文学・語学の研究者層もあまり厚くない。イタリア研究者が比較的少ない中、地道な文献学的研究に基づいた翻訳がされにくく、また各時代の地域史への注意が不十分だったのだろう。最近までの既訳に見られるこれらの問題点を払拭し、『神曲』をイタリアにおける文献学の基礎に立ち、同時代の政治・社会・宗教の文脈に置いて訳し直したのが、原先生の講談社学術文庫版の翻訳と言えるが、ここに半生をかけて『神曲』新訳に取り組んだ筆者の自負が見える。

本論を読んで、中世英文学を専攻してきた私として最も刺激を受けたのは、イタリアの14-16世紀文学における、そして広く文学史や文化史における、時代区分(periodisation)についての原先生の考えである。既に書いたように、原先生はダンテを中世の詩人であるとか、アリオストをルネサンスの詩人だとか、自分自身の定義としては書かず、「イタリアでは」といった枕詞を付けて形容している。また、第1のセクションのタイトルは、「(イタリア)ルネサンス文学の受容史」となっていて、わざわざ「イタリア」をカッコでくくり、読者に「(イタリア)ルネサンス」の定義について考えるように促している。本論で議論になっているのは、客観的な、あるいは学問的な「中世」とか「ルネサンス」の定義ではなく、日本においてそれらの時代区分が、戦前の国家主義や戦後は特に世界文学/比較文学の枠組で使われ、同時代の、あるいは現代イタリアの文脈とは異なるという事だろう。14世紀初期(1307-21年頃)に書かれた『神曲』は現在では中世の作品と考えるのが妥当であり、またチョーサー(1340年代前半-1400)より大分前に亡くなっているペトラルカやボッカッチョも中世の詩人と見做されることがあるかもしれない。しかし、美術と同様、イタリア・ルネサンスは北方諸国のルネサンスとは異なった時期にやってきたと考える事も出来る。だがそもそもこうした「中世」や「ルネサンス」という用語自体が極めて便宜的であり、そうした定義の根底に揺るぎなく存在するのは、古典古代を起点とする西欧中心史観なのだろう。これらのラベルの曖昧さ、ご都合主義を踏まえて、この時期の文学作品を見る(あるいは専門家は、研究したり、翻訳する)必要があるだろう。更に、この論文で使われた過去の翻訳の分析方法や視点が、中世・ルネサンス文学の他の古典の翻訳を分析する際にもテンプレートになりそうだ。

 多くの情報に溢れた刺激的な一章を読ませていただいた。研究者に限らず、西洋の「中世・ルネサンス文学」に興味を持つ一般読者にとっても大変おもしろい論文だと思うので、是非お勧めしたい。引きつづき、この論集の他の章も読んでいきたい。

(なお、原基晶先生の『ダンテ論 「神曲」と「個人」の出現』についても以前にブログを書きました。

2023/03/23

松田隆美先生の最終講義を聴く。

 3月19日はオンラインで、今年度で慶應義塾大学文学部を退職される松田隆美先生の最終講義を視聴した。残念ながら、私は近年の加齢による聴力低下と頭の働きの衰えによる理解力低下で、充分理解出来たとは言えないが、パワーポイントとハンドアウトの和訳されたテキストのおかげで、大体の流れは追うことが出来た。松田先生の広範にして、高度な研究が1時間ほどの講義時間にぎっしり詰まっていた。

講演の題目は「旅のナラティヴと中世英文学研究」。『カンタベリ物語』、『サー・ガウェインと緑の騎士』、『マージェリー・ケンプの書』、『マンデヴィルの旅』などの旅を扱う中英語作品を取り上げつつ、ラテン文学やイタリア文学を引用して、ヨーロッパ全体の思想や文脈から解説された。実際にでかけた旅と、メタファーとしての旅、魂の巡歴としての旅、書物や地図上の旅(あるいは写本自体の移動)など、創造力の中で様々な方角へ拡大再生産され、飛翔する旅や移動を自由自在に説き起こしておられた。ヨーロッパの文学・思想・歴史などについての松田先生の圧倒的な知識には、お話を聴く度にいつも仰天せざるを得ない。

松田先生の学問の基礎には、若い頃からヨーロッパの諸国語(中世のイタリア語やフランス語、そして特にラテン語と現代西欧諸語)を自由自在に読まれる卓越した語学力、そして、欧米の学会水準で研究・教育を維持される能力と大変な努力があるかと思う。慶應義塾の中世文学研究の伝統を受け継ぎつつ、イングランドでも博士号を取得され、世界的な権威者達と研究交流をされてきた。先生の教え子達も、それを受け継ぎ、皆さん国際的に活躍されている。先生は、講演の中で、現在、中世英語英文学研究のすそ野が縮小し、学会会員数も非常に減少していることを嘆いておられた。これは中世英語英文学だけでなく、人文科学全体に言えるので如何ともしがたいが、そうした環境に抵抗し続けて、優秀な後進を育ててこられた松田先生の努力に敬意を表したい。

私は先生に2,3度ご挨拶したことがある程度で、お話をしたことはほぼないと言える。しかし、松田先生は記憶しておられないかもしれないが、一度だけ学会発表の司会をしていただいたことがある。感謝すると共に、大学者に司会をしていただき、私にとって良い思い出となっている。

2022/05/03

C.J. Sansom, "Tombland"に描かれた巡回裁判(assize)に見られる論点

 前回のブログで感想を書いたC.J.サンソムの"Tombland"には、チューダー朝期の巡回裁判(assize)の描写がある。私は中世・初期近代の法に関すること全般に関心があるが、特に裁判については強い興味を持っており、この作品の裁判の場面を面白く読んだ。そもそも主人公で探偵役のマシュー・シャードレイクは上級法廷弁護士(serjeant-at-law)のようである。この作品ではほとんどの場合、単にlawyerと呼ばれているが、巡回裁判で同業のフラワーデュー弁護士に会ったときに、相手から"Serjeant Shardlake?" (Pan Books edition, p. 217) と呼び止められているところを見ると、"serjeant-at-law"(上級法廷弁護士)のようだ。こうした法廷弁護士の主な仕事場は、少なくとも中世末期においては、ロンドンのウェストミンスター・ホールにあった王室裁判所のはずであるが、ウェストミンスターの裁判所が休廷している期間には地方を巡回する裁判で裁判官などを務めることもあった。チョーサーの『カンタベリ物語』の冒頭で紹介されるカンタベリに赴く巡礼のひとりも上級法廷弁護士である。彼は「たびたび巡回裁判の判事を勤めたが、それも/開封勅許状と全権委任状によるものだった」(Justice he was ful often in assise, / By patente and by plein commissioun.)とあり、裁判官として巡回裁判を取り仕切っていたことが分かる(和訳は『カンタベリ物語』共同新訳版、p. 23、原文はペンギンブックス版、ed. Jill Mann, ll. 314-15)。

 この部分に付けられた訳注は「上級法廷弁護士」を次のように説明している:「国王裁判所(法廷)で従事する特別の弁護士集団で、民事高等裁判所 Court of Common Pleas で弁護を行った」とある。また、"assise"(「巡回裁判」)に付けられている注は、「州の裁判法廷で、ある一定期間、民事訴訟を扱った。巡回裁判判事は王室訓令による」と書かれている。ジル・マンによるペンギン版の新しいエディションにもやや詳しいが大体において同じような内容の注がついており、参考文献が付記されている(pp. 810-11)。

 これらの注を見、更に "Tombland" をふり返って見ると、幾らか分からない点が出てくる。まず、serjeant-at-lawがCourt of Common Pleasで弁論を行った法廷弁護士とすると、他のウェストミンスー法廷、つまり王座裁判所(King's Bench)とか、大法官庁(the Chancery)で活動した法律家はどういった人々か、やはりserjeants-at-lawなのだろうか?更に、注によると assizes では民事事件を扱ったとあるが、1972年まで続いた長い巡回裁判の歴史では、民事と刑事の両方を扱ったのが原則のようである。"Tombland"でも、巡回裁判が数日開かれるが、最初は民事を扱い、最後に刑事事件を扱っている。作者のサンソムは、前回のブログでも書いたように暦史学の博士号を持ち、事務弁護士としてのキャリアも長いので、このあたりの事実は確認した上で描いているだろう。巻末の参考文献には、裁判の記述については、J.S. Cockburn, "A History of English Assizes 1558-1714" (Cambridge UP, 1972) が特に参考になったとある(p. 866)。J.S. コックバーンはイングランド初期近代の法制史における大家で、2010年に亡くなられたが、彼の何冊かの本は今もスタンダード・ワークとして参照されていると思う。私もこの本は持っていて、博士論文を書いた時に一部参照したが、通読はしてないので、一度熟読したいと思っている。中世後期、assizesとは別に、刑事裁判のためには、oyer and terminer と、gaol delibery という2つの特別法廷が各地を巡回していたが、これらは assizes を開く裁判官により開かれるようになったらしい。近代初期にはおそらく assizes において民事も刑事も扱われるようになったのではないか(J.H. Baker, "An Introduction to English Legal History", 4th ed. [Butterworths, 2002], pp. 20-22 参照)。

 "Tombland" の裁判と関係する場面(pp. 210-11)を読んで、2,3面白い点に気づいた。巡回裁判の裁判官や助手などの一行がノリッジの街に入る場面もそのひとつ。騎馬の一行は、裁判官を筆頭に黒服に身を包んだ助手、書記官など。そして彼らの後には地元のジェントリや王室の役人が、それぞれ数名のお付きの者と共に、やってくる。総勢約50人ほどの行列(procession)である。町の中心のギルドホール(市庁舎にあたる)まで来ると、市長やその他ノリッジの有力商人達が出迎え、晩餐会などが開かれる。王族や大貴族の都市入場のように、王室の裁判官の到来は、地方の都市にとって大きな行事であり、地方の人々にとって王権の発揚を直接目にする機会でもある。そしてもちろん、町の人々も多く集まってこれらの行列を出迎えたことだろう。ドラマティックな一種のパフォーマンスとして興味深い行事だ。この巡回裁判判事(assize judges)の到着時における演劇的とも言える歓迎ぶりについては、上記コックバーンの著書が記しているが、鐘の音や音楽、そして時によってはラテン語の式辞、などで出迎えられたとあり(pp. 65-66)、サンソムをこれを参考にして書いたのだろう。

 サンソムの描く裁判シーンで(本書のpp. 265-92)もう一点興味深いのは、巡回裁判にかけられた被告のジョン・ブーリンのために被告側弁護人が弁論をふるうことはなく、被告本人のブーリンが自分で弁論をする点である。彼の裁判場面では、従って、彼自身が証言すると共に、現在であれば弁護人がするはずの、証人に対する質問もする。ブーリンは社会的地位のあるジェントルマンで地主であり、文字が読め、知識人ではないにしてもある程度の教育を受けていると考えられるから、たまに短気を起こして我を忘れることがあるが、弁護士のようにしっかりした質問もする。またそのために前もってシャードレイク弁護士から色々と指導を受けている。イギリスのテレビ・ドラマや映画で、法廷弁護士達の激論を見慣れた私たちには不思議なのだが、刑事裁判において被告側弁護人が登場するのは18世紀の前半に過ぎない。それまでは被告は自分自身で弁護をしなければならなかった。その余裕のある裕福な被告は、この小説でのように、法律家を雇って前もってどう弁論すべきかアドバイスを受けたと思うが、慎ましい平民などは法律家の助言を得る費用もなく、ろくに何も言えないまま沈黙したのではなかろうか。この小説にも、シャードレイクが裁判の前に被告にアドバイスを与える場面がある(pp. 256-57)。ジョン・ブーリンが「私は裁判でどういう行動をしたら良いだろうか」("... how should I conduct myself at the trial?")と尋ねると、シャードレイクは言う:「刑事案件は短時間で審理が終わります。30分以上続くことはないでしょう。裁判官の質問に正しく、正直に答えなさい。検屍官が死体の発見についての証拠を述べ、その後、ミッドナイトの納屋で斧とブーツを見つけた巡査が(証言するでしょう)」("Criminal cases are short, it should not last more than half an hour. Answer the judge's questions truthfully and honestly. The coroner will give evidence about finding the body, then the constable who discovered the axe and the boots in Midnight's stable", p. 256)。そして、p. 270以降で実際に裁判の場面が描かれるが、裁判の冒頭で、レインバード裁判官は弁護士であるシャードレイクが出席しているのを見て、彼の顔を見ながら念を押す、「強調しておかねばならないが、君は証人として証言することが出来るだけで、被告側弁護人として行動することはできないからね」("I must stress you can only give evidence as a witness, not act as counsel for the accused", p. 271)。

 この小説の描写で見る限り、被告側弁護人が登場しないだけでなく、告発側の法律家、つまり検察官にあたる人物もいない。裁判は、裁判官の差配の下で、まず裁判所書記(the clerk of the court)が告発状を読み上げ、それにより事件の概要が明らかにされる。次に、検視官(the coroner)が検屍法廷(the coroner's court)での審判の結果、告発状をにあるようにエディス・ブーリンが夫ジョンに殺害されたと認める、と証言する。その後、巡査(the constable)が証拠物件等に関する細かな事実を証言し、また証拠物件のハンマーとブーツが陪審員に提示される。それから、裁判長により予め決められている証人が順に証言し、裁判長が質問、また被告のジョン・ブーリンも、今であれば弁護士がするような反対尋問をする。ジョン・ブーリンを支援しているシャードレイク弁護士は、エディスの父親ガウェン・レイノルズの証言が納得出来ず、立ち上がって発言する、「裁判長、反論します。今の発言は証言ではなく、推論に過ぎません」("I must object, my Lord. This is speculation, not evidence")。しかし、レインバード裁判長はその発言をすぐに押しとどめる、「シャードレイク弁護士、君に警告しておいたはずだが、君はここでは被告側弁護士ではないのだよ」("I warned you, Serjeant Shardlake, you are not here as counsel", p. 273)。但、レインバードはシャードレイクの疑義に促されるように、レイノルズに疑問点を質すことになる。こういう具合で、裁判長、色々な証人、そして被告が発言しつつ裁判は進行する。

 なお、この裁判は1549年、チューダー朝中期に行われたので、裁判における言語も英語が使われていたと思うが、中世における裁判だと、文書だけでなく、口頭弁論もフランス語、特に Law French と呼ばれるやや特殊な専門的フランス語、が使用された。陪審員が議事を理解する必要があり、特に刑事裁判においては、被告も弁論を行うよう強いられているので、実際にどのくらい仏語やラテン語が使われたかは疑問も付されている。少なくとも、常時翻訳されつつ進行する必要があるだろう。このあたりは、中世の裁判を考える上で大変興味深い論点であり、英語史研究の上でも問題となるのではないか。(堀田隆一先生の英語史ブログ参照)。

 これはあくまで現代の作家がフィクションとして描いた16世紀半ばの裁判場面であるから、当時の実際の裁判とはかなり違っているかも知れないが、色々と考える機縁にはなり、興味深かった。専門外の私には分からない事が多いので、ブログ読者のコメントや訂正などあればありがたい。

2022/04/30

【イギリスの小説】 C.J. Sansom, "Tombland" (2018)

 C.J. Sansom, "Tombland" (2018; Pan Books, 2019) 866 pages

評価:☆☆☆☆☆ / 5

 C.J. サンソムによるチューダー朝ミステリ、法廷弁護士マシュー・シャードレイク(Matthew Shardlake)シリーズの7冊目で、最新刊(とは言っても2018年刊)。私はこのシリーズは全部読んでおり(ブログで感想も書いている)、この作品も随分前にペーパーバックスを買ってあったのだが、何しろ、小説本文で約800頁、解説も含めると866頁という大冊で、英語になると一層読むのが遅い私には、なかなかな手が出ず、読み始めてから約40日かけてやっと読了した。それだけ長くかかると、最初に読んだ辺りは段々忘れてきて、放り出しそうになることが多いが、この小説は一貫して面白くて、ゆっくりとだが着実に読み進み、最後は読み終えるのが残念に思ったくらいだった。

 今までの作品の評判を見ても、イギリスの中世・初期近代歴史ミステリ・シリーズの中でも、このシリーズは最も評価が高いのではないだろうか。ミステリとしての筋書きの面白さと共に、歴史小説としても充分に楽しめ、歴史的な背景の記述も正確と言われている。作者のサンソムは、歴史学で博士号も取っており、また事務弁護士としてのキャリアも長いので、法律にも詳しいはず。今回は、特に歴史小説としての面が強く、私は非常に満足した。一方、ミステリとはあまり関係ない部分も長くて、主にそうした面を期待する読者にはやや不満かも知れない。

 今回、物語が起こるのは1549年、まだ12才にしかならないエドワード6世の治世。但、実権を握るのは護国卿、サマセット公エドワード・シーモア。マシューは、当時16才で、後に女王となるエリザベス・チューダーの屋敷に呼び出される。エリザベスの母方の遠縁の親類、ノーフォークの地主ジョン・ブーリン(John Boleyn)の長く行く方不明だった妻エディスの惨殺死体が見つかった。エリザベスは信頼するマシューにこの殺人事件の真相を解明するよう命じる。マシューは弁護士見習いの助手ニコラス・オヴァートン(Nicholas Overton)と、事件のあったノーフォークの主要都市(当時、イングランド第2の都市)ノリッジへと向かう。その頃、以前マシューの助手を務めていたジャック・バラク(Jack Barak)も巡回裁判(assize court)関連の仕事でノリッジに滞在していて、マシューと再会し、事件の解明に協力する。題名の"Tombland"はノリッジの中心部、マシュー達が宿を取った街区の地名である。しかし、その後描かれる血なまぐさい動乱を象徴する様なタイトルでもある。

 この年、ノリッジとその近郊では「ケットの乱」(Kett's Rebellion)と呼ばれる民衆の大反乱が起こり、ノリッジも反乱軍に占領される。マシュー達も否応なくこの反乱に巻き込まれる。彼は反乱の首謀者ロバード・ケットに拘束され、反乱軍の法律顧問としての仕事を強要される。護国卿サマセット公は2度に渡り軍を送って、反乱を鎮圧しようとし、激しい戦闘となる。そうした戦乱の中でもマシューは粘り強くエディス・ブーリンの殺人捜査を続ける。

 巻末に60頁にわたってケットの乱についての解説があり、またその後にかなり詳しい文献の説明もあって、作者が相当深くリサーチをした上で書いた事が分かる。チューダー朝史の一コマを描いた啓蒙的な歴史書としても読める一冊だ。特に後半のケットの乱を描いた部分は力が入っていて、本筋の殺人事件を忘れるほど。マシューは法廷弁護士という知的エリートで、生まれながらの貴族とかジェントルマンという上流階層ではないが、新興の"middling class"と呼ばれる豊かなエリート層。また助手のニコラスは、親の命令に逆らって勘当されているので今は財産は全くないが、元々ジェントルマン階層の家の生まれ。この、完全な庶民でもなく、また伝統的なジェントルマンとも言えない2人が、反乱軍の人々と彼らと敵対する政府やジェントルマン階層との間に挟まれて思い悩む様子が大きな見どころ。

 巻末の解説を読むと、ケットの乱がノーフォークにおける孤立した民衆反乱ではなく、1540年代に起こった様々の社会問題によりイングランドの多くの庶民の不満が沸騰点に達して、起こるべくして起こった反乱であったことが理解出来る。主要な原因としては、「コモン」と呼ばれる共有地の、大地主たちによる一方的占拠(「囲い込み、enclosure」と呼ばれる)による農民の生活苦がある。更に、天候不順による不作、スコットランドでの不毛で不人気な戦争の戦費を賄うための増税、不良な貨幣の乱発に端を発したインフレ、政府による急進的なプロテスタント政策の押しつけ等々、他の要素も重なった。そして、これらの問題はノーフォークでだけでなく、特に南部や中部の多くの地方で共通していたので、反乱も各地で起こっていた。こうしたことも、作品に取り入れられているので重厚さが増しており、また歴史の勉強にもなった。ミステリとしてはもちろん、歴史小説の好きな方にもお勧めしたい本。

 なおこのシリーズは集英社文庫で翻訳出版が進んでおり、既に3作品の翻訳が出ているので、この作品もやがて日本語で読めることになると思う。是非より多くの方に読んで欲しい。

2022/04/02

退職者の新年度

 今日は2022年4月2日。昨日、新聞やテレビでは新入社員関連の記事とかニュースなどが伝えられている。新年度と言っても無職の私には何の変化もなく暮らしているだけなので、せめてブログで今年度何をするか(あるいは、しないか)について書いて気分を変えることにした。

 私にとって今年度の大きな変化としては、先日のブログでも書いたように、1科目だけやっていた非常勤講師職がなくなったことだ。教員生活の完全な終わりということで感慨深かった。一昨年の前期以来、コロナウィルス流行のおかげでほとんどがオンライン授業であり、また昨年度後期は担当科目の履修登録者がゼロだったので、この2年はキャンパスに行くことは少なかったが、それでも非常勤講師としての所属があり、図書館やオンライン資料が利用できること、そして少額とは言え毎月一定のお小遣いが入って年金を補えたことは大きかった。これからは図書館で内外の学術書を借りたり、他大学から論文のコピーを取り寄せてもらったり、オンラインの有料データベースや辞書、オンライン・ジャーナルなどを閲覧したりも出来なくなるので、実験などが不要な文学研究とは言え、研究活動は事実上難しくなる。非常勤先大学の紀要という論文出版の手段もなくなる。大した業績はあげていない、否はっきり言って最底レベルの研究者でしかない私だが、研究を取るとほとんど何も残らない人生を送ってきたので、これはかなり辛い状態だ。勉強する事以外に趣味も乏しく、大学や学会でつきあってきた人を除き、友だちはいない。しかも、留学するために早めに退職したので、職場や研究上での知人・友人とはもう通信もほぼなくなった。ここで、頭を切り替えて、新しく人生を始めるつもりで頑張らないといけないと思っている。とは言ってもこれから新たな趣味を見つけて打ち込むような才覚も体力もないので、今までやってきたことの中から好きなことを育てていこうと思っている。

 まずは勉強。論文の投稿や研究発表は出来なくても、そして新しい研究資料は手に入らなくても、自分で勉強する事は出来る。幸い、読んでいない研究書や中世の文学作品のテキストが沢山積んであるので、それらを丁寧に読むだけで充分余生を送れそうだ。チョーサーもラングランドもガワーも中世劇やインタールードも読んでいない作品や詳しく勉強していない作品だらけだ。研究資料としては古すぎる本でも、私個人の勉強のためには充分だ。

 私は学部生時代は大変な映画ファンだった。3年生の時には大学の授業をさぼって映画に行ってばかりいて、沢山単位を落としてしまい、4年生で大忙しになったくらいだ。今やシニア料金が利用できるので、どんどん映画に行こうと思う。毎月、2,3本、あるいはもっと多く、見たい。

 このブログでも特に留学中にはよく感想を書いていたように、演劇も大好きだ。特に英米演劇は専門とも近いので、劇のチケットは高価なので費用は結構痛いけれども、たまには出かけたい。

 その他、専門外の読書(特に英米の小説やミステリ、歴史書など)、ラテン語初等文法の復習、海外ドラマ(妻がNetflixに入っているので利用させてもらう)などもある。もちろん、生活全体で言えば、家事や病院通い、日々の買い物など必要な用事もあるので、老後生活、けして暇ではない。ボケ防止のためにも、だらだらせず、また体に無理をせず、そして、(フルタイムの職を早く退職したので少ない)私の年金に見合ったレベルで、できるだけ楽しく充実した生活を送りたい。

 

2022/03/15

傭兵としての『カンタベリ物語』の騎士

 ロシアによるウクライナの侵略戦争にシリアやチェチェンの傭兵が狩り出されるようだ。また、ウクライナ側にも多国籍の志願兵や軍事専門家が集まっている。こうした事を聞いて、『カンタベリ物語』の序歌に出てくる騎士を思いだした。序歌ではこの騎士の広範囲にわたる戦歴を次のように紹介している:


 . . . キリスト教国はもとより異教の国においても

彼[チョーサーの騎士]ほど遠方まで侵攻した者はおらず、

その武勇の故につねに尊敬されていた。

アレクサンドリア攻略戦のときも参戦していた。

プロシアでは、諸国の騎士を差し置いて

たびたび宴会では上席を与えられた。

リトアニアやロシアの遠征にも加わったが、

同じ階級のキリスト教徒で彼ほど幾度も転戦した者はいない。

グラナダではアルヘシラス城攻囲戦に参加、

ベンマリンにも攻め入った。

アヤスとアッタリアを占領した折にも

現地にいたのだ。東地中海では

名高い上陸作戦にしばしば加わった。

死を賭した大激戦に赴くこと十五回、

トレムセンではキリスト教信仰のため

三度も一騎打ちをし、いずれも敵を倒した。

あるときは、この勇敢な騎士は

パラティアの領主に加担して

トルコの異教徒と戦ったこともあった。

(『カンタベリ物語 共同新訳版』[悠書館、2021]pp. 8-9


 彼は北アフリカ(アレクサンドリア、ベンマリン、トレムセン)、小アジア(アッタリア、パラティア)、東欧(リトアニア)、ロシア、イベリア半島(グラナダ)、西アジア(アヤス)その他の戦地を転戦した百戦錬磨の職業軍人だった。シリアからウクライナの戦地にやってくる傭兵や、ウクライナ軍の顧問として働く西側の軍事アドバイザーなどを思いださせる。人は(大抵は、「男」は)、いつの時代も不毛な戦いで名声を競う。しかし彼らは宗教と正義の旗印の下で戦う。チョーサーは書く:


こうして彼はいつも大いに声望をあげたのだった。

剛勇なひとであったが、思慮分別に富み、

物腰はまるで乙女のようにおだやかだった。

これまでどんな類の人に対しても

無礼な言葉を使ったことはなかった。

彼こそ誠の気高い最高の騎士であった。(前掲書、pp. 9-10)。


 上記のテキストの後半部分を見る限り、詩人はこの騎士を理想の騎士像として讃えているように見えるが、皮肉なチョーサーの事だから、文字通りに受け取るべきか判断が難しい。また、騎士が従事したのは14世紀、各地で行われた十字軍だが、この頃には、十字軍が始まった頃の聖地エルサレム奪回という目的ではなくなっており、キリスト教国の君主による周辺の異教徒(ムスリム教徒や東欧・ロシアのスラブ人など)を相手にした戦いで、現代の視点から見ると帝国主義的な戦争と言って良いかも知れない。また、一人の騎士が長期間にわたってこれだけの戦歴を積むことはあり得ないという見方もある。彼は現実に存在した騎士のリアリスティックなポートレイトではなく、当時の騎士のひとつの理想像を示す寓意的な(アレゴリカルな)人物と言って良いだろう。但、そのアレゴリーには、チョーサー独特のひねりが加えられている可能性もある。理想化しているように見えて、皮肉な視点がまったくないと言えるだろうか。


 しかし、今回私が関心を持っているのは、チョーサーがこの騎士を理想として描いているかどうかではなく、彼が傭兵(a mercenary)か否かであり、その点では彼の転戦ぶりから見て、やはり傭兵として描かれていると私は思う。『カンタベリ物語』の序歌で描かれた騎士を契約で戦う傭兵と見て、理想化された騎士の像とは違うという視点を提案したのは、映画「モンティ・パイソン」シリーズで知られる故テリー・ジョーンズの著書『チョーサーの騎士:中世における傭兵の肖像』 "Chaucer's Knight: The Portrait of Medieval Mercenary" (Methuen, 1980) だった。彼は大学には属していなかったが、この本は大変良く出来たアカデミックな本として未だに読まれている。但、チョーサーのテキストを過度にうがった読み方をしているとして反発も大きかった。"The Oxford Companion to Chaucer" (2003) において、中世英文学の権威、ダグラス・グレイは、ジョーンズのような解釈に対して、「このような見方を裏付ける歴史的な証拠には説得力がない」("The historical evidence for this last view is not convincing . . . .") (p. 270)と書いている。しかし、今ではジョーンズの本は少なくとも新しい解釈をもたらした重要な研究という評価は定着しているだろう。


 比較的最近の研究で私の手許にあるものとしては、『歴史学者が見るチョーサー:「カンタベリ物語」の序歌』"Historians on Chaucer: The 'General Prologue' to the Canterbury Tales", ed. by Stephn H. Rigby with the assistance of Alastair J. Minnis  (Oxford UP, 2014) の第3章で、編者自身の筆による "The Knight" がある。リグビーはマンチェスター大学の歴史学名誉教授で、著名な中世史学者であり、本書のように、文学についても重要な論考を出している。彼はチョーサーによるこの理想的な騎士像に皮肉を読み取るのは難しいと考えており、こうした騎士像は14世紀末においても理想として通用していたという考えだ (pp. 61-62)。一方でこの騎士のように各地の十字軍に参加したイングランドの騎士が多くいたことも確認しており、特にリトアニアなどバルト海沿岸地方の戦争には、イングランドを代表する大貴族達が参戦している。1390年の(つまり『カンタベリ物語』執筆の少し前頃の)リトアニアでの戦争には、後にヘンリー4世となるダービー伯、ヘンリー・ボリングブルックも加わっていた (p. 59)。リグビー教授の指摘のうち特に興味深いのは、チョーサーの騎士が「パラティアの領主に加担して/トルコの異教徒と戦ったこともあった」ことだ。この場合、騎士の仕えた主人も敵方も共に異教徒であり、キリスト教を守る十字軍とは言いがたい。リグビーは、騎士の戦った相手がキリスト教徒ではないので、当時の人々から見ると異教徒に仕えて他の異教徒と戦うのは問題なかった、と考えている (pp, 56-58)。但、現在の私たちの感覚から言うと、これは傭兵以外の何ものでもないだろう。その観点から見ると、14世紀末の騎士であるにも関わらず、彼が百年戦争に出征したという記述はまったくなく、フランスや低地諸国の地名も一切出てこないのは注目すべきだろう。つまり彼はキリスト教徒とは一度も戦っておらず、これは歴戦の勇者としては不自然なくらいである。この点は、彼の後に紹介される騎士見習い(The Squire)が百年戦争の各地を転戦していたのとは大きく異なる。このことからも、「序歌」の騎士が寓意的人物と言って良い程に理想化されていることがうかがえるだろう。既に述べたように、彼は常にキリスト教と正義の旗印の下で戦った「誠の気高い最高の騎士」だったのである。


 さて、現在進行中のウクライナ侵略戦争に話を戻すと、ウクライナのネット・メディアによれば、ロシアが募っているとされるシリアの義勇兵として、既に登録を済ませた人が4万人いるそうだ。シリアは長年の戦争で破壊され、疲弊した全体主義の国だ。そんな破壊され尽くしたような国から、他の民主主義国を破壊するために4万人もの人(ほぼ全員男だろう)がやってくると思うと背筋が寒くなる。


2022/03/11

非常勤講師としても退職しました。

 昨日3月10日、今年度まで非常勤講師として1科目だけ教えてきた大学の講師室に行って、メール・ボックスを片付けてきました。電話をかけて講師室付きの職員さんに頼むことも出来たかも知れませんが、職員さんに余計な作業を頼むのも気が引けましたし、事務書類や残っている教材プリントに加え、個人宛郵便物などももしかしたらあるかも知れないので、念のために出かけました。

 この学校には4年間勤めました。ちょっと古風な雰囲気のある大学でしたが、事務職員さんは丁寧で親切だし、大学のサイズの割には図書館は大変充実しているし、教室やキャンパス全体はきれいだし、教室のAV機器も充実しているし、その他、全体的に大変素晴らしい大学で、私が今まで常勤・非常勤で勤めた大学のなかでも一番快適に仕事ができたと思います。でも非常勤講師の定年まであと2年間を残して退職することにしました。ひとつは、昨年の冬から春にかけてかなり腰痛があり、通勤や授業に苦労したことです(腰痛はその後大体おさまっています)。またそれ以前から、往復で3時間かかる通勤時間は、体力のない私にはかなり辛くて、非常勤のあと3日間くらいは疲れが残ってごろごろしていました。それでも、もうひとつのことがなければ続けたと思うのですが、それは履修者がいなくなったことです。私の科目は選択科目でしたが、今学期は履修者ゼロで、開講されませんでした。その前の学期は2名の履修者でした。昨年度以前も履修者は5名程度でしかも学期中に授業を放棄する学生が多かったです。教室に行っても電灯が付いてなくて誰もいない、という日も複数回あり、実に情けない思いをしました。私の昔の専任校もそうでしたが、履修者が5〜10人程度の選択科目は、その年度は休講となり、それ以降は科目がなくなって、担当の非常勤講師もその科目だけなら辞めて貰うか、他の科目を担当してもらう事が多いです。この学校はその点とても親切で、そういうルールは無いようなんですが、しかし学生から全く興味を持ってもらえない科目を教えるのは辛いし、学校にも申し訳なく感じていたので、今年度で辞めることにしました。

 若い頃なら、授業のやり方を色々と変えて試してみて、学生の反応を見たと思いますが、教員の仕事もあと2年、しかも体に無理して遠くまで通う元気もなく、これが潮時と思いました。英米文学専攻の学部学科ではなかったので、私の授業内容が学生の興味とずれており、また、専門外の学生の興味を引きつけるには教師としての力量が足りなかったのだと思います。

 今学期は履修者はいなかったので、結局、実質的な業務の上での退職は昨年の夏でした。しかし、それ以後も今月まで、オンラインの辞書やジャーナルなどの図書館の資料は利用でき、大学に籍を置いていることで勉強の上では助けられました。今月でそれもなくなってしまうかと思うと残念ですが、今まで良くしていただいた大学に感謝しています。