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シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2024年04月18日
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カテゴリ:神秘体験空間
いまの令和から、昭和の思い出を語ると、なぜか、昭和は盛んに「青春」という言葉が氾濫していたようにみえる。青春を謳歌した気などはサラサラないが、わが青春時代に音楽がなければ、無味乾燥な競争生活の日々に、とっくに自殺していたかもしれない。ただ自殺する勇気がなかったし、サッカーなどのスポーツや音楽に没頭できたのが救いだった。勿論、恋愛沙汰などは失恋以外何もなかった。

いまだからこそ、昭和が懐かしくも語られるようだが、戦前や戦中の話と比較すれば遥かにマシだったが、輝かしい高度成長期という標語が煌びやかな体裁で、まるで電通の広告宣伝かのように常に語られ、どんな輩もバブル時代をまるで麻薬中毒患者のように、酒池肉林の幻想幻覚に戯れ、昭和の成長期を謳歌してきたかのような印象をもって語られるのは、なんだか、亀を助けて竜宮城に行って帰ってきて、玉手箱を開けた浦島太郎の老化現象のようで、そんな良い思い出すら皆無の、現実逃避の昔話のように感じられてくる。

もし、この世に音楽がなかったら、私には、昭和は地獄そのものだった。青春時代の、地獄のなかの唯一のオアシスが、音楽だった。当時は、ネアカとネクラのレッテル貼りが、後の勝ち組と負け組のように流行ったが、ネアカの概念が意味不明で、男子校だったので、女子を宇宙人とみなし、宇宙人との交流が、映画ET公開前の火星人襲来の宇宙戦争に染まり切った時代では、いかにも軟派にみえたのもあるが、宇宙に出ていくよりも、防空壕に隠れるような自分は、明らかにネクラ組だったが、当時まだオタクの概念はなく、ネクラの疎開場所もなかった。だから、昭和の青春時代を思い出すと、パニック症候群に罹っていた自分を思い出す。改めて考えてみると、常に弱者組にいたのに気づかされる。

ネクラ - Wikipedia


芸人のアンガール田中氏が、ヤンキーが大嫌いで許せないと唱えているのに酷く共感する、わがネクラ組の青春時代である。昭和はなんだかワルが推奨され、ちょい悪が持て囃される酷く歪んだ時代のようにみえてくる。まさしくカリユガの時代そのものである。その後社会に出てからわかったが、団塊世代が競争原理を持ち込むためにつくったパワハラ原理だったように思える。

悪い奴でも先輩なのでたてないといけない。そいつらはいまでも老害のように自己保身に走っている。例えばナベツネのような偽善な奴だ! 自分の場合、不良に直接虐められる事はなかったが、中途半端な奴に弄られるのはよくあった。昭和とは歴然とした上下関係があり、先輩に可愛がられないと自分の身が危うい時代といえるかもしれない。親方日の丸である。イエスマンでないと生きられなかったシンドイ世界だった。

だから、スポーツと音楽がなければ、わが青春時代は、勿論の如く、恋愛などは、受験勉強の現実を前にして、遊び惚けるわけにはいかない御法度モノなので、無味乾燥でしかなかった。当時の多くの若者が大学時代で、青春時代を取り戻そうとするのも、なんだか、昭和バブルを感じさせて、虚しく白々しいものに思えてくる。恋愛偏差値を向上させる経験は、受験時代には、ましてや男子校では教えられない科目だからで、当時は同じ地球に住む宇宙人との交信だったからである。

タラタラと自経験を吐露してしまったが、自分にとっては、恋愛よりも、音楽が、地獄への救いで、神とのつながりだったのである。最近、巷でも、世代をテーマにして、心に残る音楽を挙げているが、それに倣って、わが青春時代の、心に残る音楽を一つ挙げるなら、ヴァンヘイレンのアルバム「バランス」を選びたい。

バランス (ヴァン・ヘイレンのアルバム) - Wikipedia

Van Halen - Balance (Performed Live) - YouTube

一般的に青春時代といえば、思春期を挙げるだろうが、自分の場合、思春期というよりも、勿論、男子校時代は、レッドツェッペリンやらクイーンなどの曲にハマったが、青春真っ只中というよりも、少し遅れた、青春時代を取り戻そうと、受験戦争後に聴くオアシスとして力を与えてくれた音楽として思い出深い。青春真っ只中といわれれば、ヴァンヘイレンの1984のジャンプだった。

1984 (アルバム) - Wikipedia

「ヴァンヘイレン ジャンプ」の検索結果 - Yahoo!検索


いまでもかなり有名な曲となっているが、当時はジャンプを聴くだけで、元気が出た。競争社会を乗り越える元気を与えてくれた。英語なので、当時はCDの輸入盤で、訳もなく、詩の意味もわからなかったが、ネクラを解放させてくれるツールのような、周囲の無味乾燥な雑踏から生み出される利害関係の波が押し寄せるときの防波堤のような役割を演じてくれた。

将来を悲観しかできない鬱屈したネクラ組に、未来は明るいよ、さぁ、飛び出そうぜ!とイントロのシンセが歓迎してくれているような曲調なんである。どこか未来志向の明るい世界がやってくるような♪トッ、トゥ、トッ、トトッ、トゥ、ト、トゥールルという、まるで未知との遭遇のUFOが宇宙から交信しているようなリフなのである。こんな競争の世界はニセモノなんだ、ホンモノの宇宙へと飛び出そうぜ!と叫んでいるように聴こえる。

ジャンプは全米1位になり、有名になりすぎてしまったが、自分はアルバム「バランス」が好きで、特に、キャントストップラヴィユーと、ノットイナフに共感し、元気をもらった思い出がある。

Van Halen - Can't Stop Lovin' You (Official Music Video HD) - YouTube 

Van Halen - Not Enough (1995) (Music Video) WIDESCREEN 720p - YouTube

何よりこのアルバムのタイトルのバランスがいい。人間の二面性を表わし、そのバランスをとるのが大切だと説く音楽のようである。人間の二面性とは、善と悪で、人智学でいうなら、ルシファーとアーリマンの二大悪のバランスをとるのが、キリストの善であるといえる。人間は愛するが故に、自己陶酔しやすいが、その愛はホンモノの愛なのか、それとも、叶わない愛の憎しみにかわるニセモノの愛憎なのか、自己を超えて自己を確立する美こそ、そのバランスを確立する美こそ、ホンモノの愛で、バランスの欠けた愛は、ニセモノの愛であると、説いているようにみえる。

特に、キャントストップラヴィユーは印象的で、PV映像の最後に罪を犯して刑務所にいた主人公が、出所して待ち望んでいた家族の元に返るシーンは、失楽した人類が再び天国へ帰る未来を想起させる。神は人類を決して見捨てはしないよ、ホンモノの愛は耐え忍ぶ努力のなかに築かれる、と説いているようにもみえる。霊界で、現世を思い出しながら、あんなこともあったね。こんなこともしたな、と最後は一緒に語り合える存在でいたいねと、問いかける曲にみえる。

ノットイナフは、十分に愛せない愛はニセモノで、ホンモノではない、と説いているようにみえる。皆目くらましの、詐欺の、ニセモノの愛に騙されているよ、そんな愛は愛ではなく、欲望だよ、欲望を失わせるほど、愛するには努力がいる。というのも、愛は目には見えないし、目に見えるモノで証をすることもできない、不変で、永遠の、不死だからだ、と説いているようにみえる。

この2曲を代表に、愛にはバランスが必要と音楽で表現しているようにみえる。そして、愛に形はない、男女もない、というのもバランスのとれた完全体で、両性具有で、陰陽の両極性を一つにバランスする一元性だからである。なぜ人類は愛に形を求めるのだろうか?それは人類が愛を信仰していない証ともいえるだろう。

だから、音楽とは、神々の天国とつながる天界からのメッセージで、音楽を慰霊祭などで歌うのは、霊との絆を深め、霊能力を獲得するためともいえるだろう。人間は、実はあの世の存在で、この世のアカウントを貰い産まれてネットワークをして、仮想の自己をつくりあげて、その仮想の自己から、あの世でオフ会をしながら、互いに自己の違いを超えて高めあい、死を乗り越えて、本当の美しい自己をつくりあげている、といえるかもしれない。最近の結婚相手をネットなどでみつけるのは、霊界と物質界との関係そのままネットに反映しているといえる。

さて、前回は、結婚が、本来もつべき人間の両性具有の愛の補完であり、神とのつながりの再結合なのを紹介したが、そもそも、冠婚葬祭が、神とのつながりで、古くは宇宙人との交流であったわけで、霊能力のテレパシーを失うにつれて、人間は神々から離れ、悪の宇宙人でもある堕天使悪魔の誘惑に負け、聖書に書かれた善悪の実を食べることで、自我を私物化し、個人的な自我を手に入れる事が出来たわけだが、この個人的自我は、神々に比べれば赤ん坊のようなものなんである。

人間の自我が赤ん坊というのは、シュタイナーによれば、土星紀に、人間は物質体の原型で、次の太陽紀に、エーテル体を獲得し、その次の月紀にアストラル体を獲得し、そして、現代の地球紀に、自我を獲得した、いわば人類史の経緯から、高次の宇宙人たちの天使と比べて、宇宙全体のバランス感覚からいえば、低次元すぎるので、そのバランスの統合性や協調性という意味で、我儘で、横暴で、幼稚で赤ん坊というわけなんである。

だから、現代人は、古代人に比べて我儘で、すぐに自己主張して、対立してしまうが、その分、個人的に自由でもある。逆にいえば、古代人には自由がなく、対立の概念などなく、ただ高次の宇宙人の手足にすぎなかったわけで、コンピュータに譬えるなら、メインフレームの端末でしかなく、現代人が操るスマホのような個人用の端末などあり得なかったわけなんである。

だから、冠婚葬祭も上からの命令で、強制参加で、結婚だって、許嫁やお見合いで強制的に決められていたわけなんである。遥か昔に遡るなら、霊能力を保持するために、霊能者同士の同族で結婚したので、同族婚だったわけなんであり、そのような風習が形骸化して、この国の天皇なども、昭和帝までは、貴族同士の同族婚だったわけなんであろう。

この国の芸術の技芸をつくってきた文化風習の素は、詫び寂びの文化からもわかるように、霊能力であるのはいうまでもなく、昨今などは、安倍晴明などが好んで取り上げられるが、当時の人から畏れられ、大宰府に左遷された菅原道真の方が優れていたようにもみえる。

この国の偉人を一人選べといわれたら、迷わず空海を挙げるだろう。もし空海がいなかったら、現在の日本という国があったかどうか疑問に思える。先日NHKだったかで、空海の特集をしていたが、相変わらず唯物論的な現代解釈で人物像を紹介していたが、秘教についての勉強不足が拭えない。

真言宗の真言は、物質界での感覚から捉えられないという意味で、だから、密教の、つまり超感覚力の霊能力で解き明かした世界を教える宗教なわけで、仏とは、宇宙人である神と愛でコンタクトできる、神々や天使とつながれる霊能者の事に他ならない。曼荼羅は、その世界を芸術として描いた教科書みたいなものである。

人智学を学べばわかるが、物質界の奥に感覚を超えた仏の世界、いわゆる霊界がある。それは素粒子を超えた高エネルギーの世界である。我々は、正のエネルギーからできているが、正のエネルギーからみれば、霊界は負のエネルギーにみえる。つまり、負のエネルギーが鏡のように、ゼロ点で反射し、正のエネルギーとして時空のなかで、物質として現れているわけなんである。

だから、人間の霊性の負のエネルギーは、物質の正のエネルギーとして鏡のように外から反射されてはじめて、自己という物質体で認識される。空海さんは、この原理を、真言で説いたのである。勿論、般若心経でも、空即是色と言って説いている。それは負のエネルギーと、正のエネルギーが交わって、自己のような鏡ができる、と言うのと同じだ。

霊がモノをつくっているから、我々は、覚醒意識で、自己を認識できるわけで、それは自己の仮想でしかなく、ホンモノは、潜在意識の眠ったときにある。空海さんが説いた即身成仏とは、現代人の眠っている潜在意識を、起こして覚醒意識に転じて、寝ながらにして、起きているわけで、つまり通常なら、死んでいる状態を覚醒させ、物質体の肉体を失っても、ホンモノの自己を確立しているので、目には見えなくても、心でわかる存在のことである。だから、キリストと同じで、いまでも人間の心のバランスのなかに生きている。

だから、現代人の未開発な覚醒意識では見えないので、空海もキリストも、睡眠中にみているのだが、覚醒意識では見えないので、起きるときに夢としてその面影を似た人に生き映してみるわけなんである。各地に残っている空海の伝説などは、夢のなかで出会って、空海という僧の言う通りに、起きてから、してみたら、その通りになったというので、改めて、信仰心が沸いてきた、というわけなんだろう。

あの世に時空間などはなく、こちらが覚醒意識による正のエネルギーの囚われをなくせば、つまり物質的な感覚を捨て去れば、魂自体は、皆が同じなので、快川和尚が説いたように、心頭滅却すれば火もまた涼しのごとく、死者も生きているかのごとく、みえるわけなんである。魂を、日本語では、たましいと玉や球に譬えて呼んでいるのも、全ては宇宙の球体の意識、バランスの自我意識に帰するということなんだろう。

地球人がやるべきことは、愛を深め合うことなんである。物質は生きている動的な愛を、死んだ静的な私物化して捉えた感覚でしかない。我々地球人は、地球で生きる事で、愛を外から感知するが、それは見かけの光でしかなく、本当は、内からの愛の光を感知できなくてはならない。シュタイナーは、人間は生きているときに、外の大自然から生かされていると感じるが、死ぬと、人間は自分の内に神々の視線を感じ、宇宙の彼方から、全てが見通されている、と感じると述べている。

この内と外の違いは、プラトンのイデア論、洞窟論でもわかるかもしれない。プラトンのイデアとは現代風にいうなら、負のエネルギーで、肉体的に感知する正のエネルギーは、その似姿でしかない。

イデア論 - Wikipedia

洞窟の比喩 - Wikipedia


 神々の愛のメッセージを読み解くために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。

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 この魂の奥底に眠る、潜在意識下の力の、外の物質界での名前をいくつか知っているが、あまりに漠然としすぎていて比較にならない。というのも、これらの名前は複雑な関係性を仄めかすだけで、覚醒意識には決して到達しないからである。

 そこで、この力の、良く知られた現象を取り上げてみる。それは、生まれた町に暮らす場合には現れてこない、「ホームシック」と呼ばれる感情である。ホームシックを探求すれば、各人で異なるのがわかる。

 ある人には特別な感情として現れるが、また別の人には、別の感情として現れ、多種多様である。家にいるときに知った、懐かしく親しみのある物語などに憧れるが、心の底では、家そのものを恋しがっている。そのように、個人の魂のなかには、とりとめのない憧れや、当てのない望みが生きている。

 また他には故郷の山、もしくは小波を見たときに、よく遊んだ川などを思い出し、憧れる。これらの憧れ、望みは、魂のなかで、しばしば無意識に働くが、総じて「ホームシック」という言葉で括れる。そして、ホームシックは各人で異なり、何千もの形で演じられるが、まとめると「憧れ」の類として表現できる。

 更に漠然としているのが「切望」だが、これは多分に、人生において人を最も苦しめる。魂の奥底にある憧れとの関係に、人は全く気づかないが、この切望は憧れの一種である。とはいえ、 この憧れとは何か? 

 犠牲を捧げるのを望みながら、犠牲を諦めざるを得なかった存在たちの気配に、憧れを関連づければ、憧れが、意志と関係するのを、以前示唆した。そして、この憧れを検証すれば常に、意志から起こるのがわかる。けれども、この憧れとは一体、意志がどうなったものなのか?

 それは、成就しない意志(意図)なのである。というのも、もし、それが成就したなら、もはや憧れにはならないからである。憧れは、実現されない意志なのである。憧れをこのように定義しなければならない。

 なので、犠牲が拒絶された存在たちの魂の気配について、次のように記述すれば、多少とも特徴づけられる。現代人の、魂の深みに感じ取れる「憧れ」とは、これまで述べてきた、太古の時代から受け継がれ、魂の奥底にとどまる、ある未発達な意志なのである。

 それは丁度、「憧れ」とは、時間という性質を、太古の土星から太陽への進化の遺産として受け取ったのと同じように、古「月」の進化から 受け取るのは、魂の深みに見つけられる「憧れ」、未成就の意志、もしくは抑圧された意志なのである。

 この進化期に捧げられた犠牲が拒絶され、抑制され、阻止された意志を持つ存在たちが創造された。この天使たちは、意志を抑制し、抑圧された意志を、自身で保持するしかなかった為に、非常に特別な状況に置かれた。

 もし、これらの事柄を感じ取り、経験したいなら、自身の魂のなかに身を置かなければならない。というのも、思考だけでは、これらの状態に浸透するには、不十分だからである。

 意志を捧げ、受け取られた存在は、ある意味、犠牲を捧げた相手と1つに結ばれる。この成就も、つまり、犠牲を捧げた存在のなかで、共に生き、生を織りなし、犠牲を捧げた存在と共に生きることで、充足感と幸福を感じるのを、人生のなかで感じ取れる。





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Last updated  2024年04月18日 23時05分34秒
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