フジロックの小沢健二
雨が降りしきるホワイトステージ。明らかに入場制限がかけられているであろう満員の観客エリア。それまで流れていたSEの音楽が止まり、客電が消える。その瞬間、大歓声が上がる。カウントダウンが終わるとステージの真ん中に小沢健二の姿が見える。僕がいた場所はステージ左側の少し後ろだったから、そのステージに誰がいるかは正確にはわからなかった。でも音楽が鳴ったとき、「もしかしたら」と思った。約20年以上前から何百回も聞いているあの曲のイントロのコード進行と、今鳴っている音楽のコード進行が一致しているような気がしたからだ。そしてホワイトステージ上方のスクリーンにその曲の題名が映し出され、大きな歓声がまた上がる。「今夜はブギーバック」今となってはJ-POPクラシックナンバーとなってしまった曲だ。だけど僕はそれをリアルタイムで知っている。そしてそこに大きな何かを託してしまっている。今でも昨日のことのように思い出せる。その曲がリリースされたときの空気感、時代、そして自分がまだ20代だった時の苦しくて甘くて切ない思い。ダンスフロアに華やかな光僕らを包むようなハーモニーブギーバック シェイキラップ夜の半ばには 甘い甘い ミルク アンド ハニー会場では大合唱が始まっている。スクリーンには「ブギーバック」の歌詞が映し出されている。素晴らしい舞台効果。シンプルだけど、これ以上はないと言っていいくらいの舞台効果。観客の大合唱はものすごく、小沢の声が全く聞こえないくらいだった。1,2,3を待たずに 16小節の旅の始まりブーツでドアをドカーっと蹴ってルカーと叫んで ドカドカいってスチャダラパーのラップもだいたいは覚えている。それくらいこの曲は僕の心の中にしみこんでいる。「今夜はブギーバック」は基本的にパーティーソングだ。だけど底抜けな明るさはなく、どこか憂いを持っている。小沢健二が歌うパートの歌詞はダンスフロアで会った「最高のファンキーガール」との馴れ初め。それは例えばクラブでナンパしてワンナイトスタンドを楽しんだというような軽薄さがない。そして聞く人に大きなインパクトを与えるスチャダラパーのラップは本当に刹那だ。今ここでしか体験できない感覚を信じ、このメンバーこのやり方で自分たちはロックし続けるのだ。という宣言。それは、今が必ず過去になり、そのときは信じられた何かもそのうち信じられなくなるかもしれないという、そんな不安を乗り切るためにどうしても吐き出さざるを得なかった言葉だ。そんな内容のこの曲は単に能天気なパーティーソングで終わることを許されなかった。その結果「ブギーバック」はある種のクラシックソングとしてj歴史に残されてしまった。2曲目の「僕らが旅に出る理由」も僕らの周りでは大合唱が続いていた。興奮は全く冷めなかった。このまま最後まで小沢の声が聴けないのではないかとすら思った。次に演奏した新曲で観客の空気もクールダウンした。多分「魔法的」ツアーで聞いた曲だと思う。だから今回で聞くのは二回目の曲だから、さすがに歌うことはできない。次の「ラブリー」でまた会場は盛り上がりを見せる。名作として知られる「LIFE」というアルバムの2曲目に入っている曲だ。それで Life is coming back僕らを待つ Oh babyラブリー ラブリーこんな無敵なデイズ恋する二人には何も恐れることはなく、何も曇りもなく、この先には幸せ以外何もない。そんな「恋の絶頂」を歌った曲。個人的な話ではあるけど、小沢健二の「LIFE」というアルバムが発表された1994年に僕は失恋をしていた。だからこのアルバムで表現されている恋の最絶頂期の多幸感に完全にノックアウトされてしまった。だから「LIFE」というアルバムは僕の心の中のもっとも深いレベルに共鳴している。「ラブリー」を聴くと色々なものが色鮮やかによみがえってくる。1994年。カートコバーンの死。暑かった夏。松本サリン事件。残忍な殺人事件の数々。岡崎京子の「リバーズエッジ」。連立内閣。ブリットポップ。援助交際女子高生。「制服少女の選択」。渋谷の街並みのにおい。時代が大反転する直前の軋みが徐々に表れ、それでもまだ今までのニッポンを信じることができた最後の年。1994年。そんな時代に彼は「LIFE」という名作を発表した。その完成度の高さと、またファーストとの断絶に多くのファンは戸惑った。でもその戸惑いにも関わらず、僕らは「LIFE」というアルバムをそれこそCDの溝が擦り切れるくらい聴き、そしてそんな小沢健二を支持した。僕は今になってこんな大げさなことを思う。「LIFE」というアルバムはまさに時代の大反転を目の前にした1994年の集合的な無意識を代弁したアルバムだった。僕らはがこのアルバムを支持し、深く聴いたのは、そんな無意識レベルの何かに心を揺さぶられたからではないだろうか。と。次の新曲のあとは3曲ほど懐かしい曲が聴けた。「強い気持ち 強い愛」も聞くことができた。筒美京平の作曲も素晴らしいけど、小沢健二による歌詞も最高だと思う。強い気持ち 強い愛心をギュッとつなぐいくつもの 悲しみも残らず捧げあう今のこの気持ち ホントだよねこの曲も恋愛絶頂系の曲に見える。だけど注意してみるそれだけの曲ではないことに気づかされる。もし「強い気持ち 強い愛」を盲目のように信じられるのであれば、最後に「ホントだよね」と問いかける必要はない。本当は「オレ」は気づいている。どれほど強い気持ち 強い愛で僕らがつながっていたとしても、それは明日には壊れてしまいかねないくらい儚いものであることを。それでも「オレ」は今を信じる。今のこの気持ちを信じたい。そんな「今」という時間へのアット的な肯定感。この曲はもともとアルバム未収録シングルとして発表されたそして2000年代にコンピレーションアルバムに収録された。そのコンピレーションアルバムには「刹那」という題名がつけられた。1996年当時の小沢健二のモードをそのアルバム名は語っていると最近は感じるようになってきた。次に演奏した曲は「流動体について」。かなり話題になった復帰シングル作品だ。この曲だけを聴くと素晴らしい曲だと思うけれど、例えば「ブギーバック」や「ラブリー」といった彼のまさにアーティストとしてのピークだった20代の頃に比べると考え込んでしまう曲だ。「流動体について」という曲に対する批判は非常によくわかるけれど、一ファンとしてこの曲を擁護するとこんな感じになると思う。確かに「ブギーバック」を超える曲だとは思わないけれど、40代後半になり、家庭を持ち、帰らなければならない場所ができた彼を正直に反映した誠実な曲ではないのか。だからたとえライブ会場が静かになっても「流動体について」という曲はよい曲ではないかと思う。ライブは終わりに近づいてくる。そしてあの名曲が演奏される。今となっては「僕ら」世代のアンセムの一つとなってしまった「愛し愛されて生きるのさ」いつだっておかしいほど誰もが誰か 愛し愛されて生きるのさそれだけが僕らを 悩める時にも未来の世界へ かけてく僕はその歌詞をかみしめながら小沢と一緒に歌っていた。1994年当時、本当に僕の祈りに似た悲願だった「愛し愛されて生きる」こと。少子高齢化社会。生涯未婚者が5人に1人。そんな時代が二十数年後に待っているとは思わなかった。普通に生きていれば普通にそんなチャンスが来て、結婚できるものだと思い込んでいた。でも、少なくとも僕にはそれは甘い考えでしかなかった。「愛し愛されて生きる」にはそれこそ血を吐くような努力をしなければ達成できない。そんな困難に満ちた奇蹟に近いような出来事であると今になって知らされた。僕のようなコミュニケーション能力の低い人間については。だからこそ明るくカジュアルに「愛し愛されて生きる」ことを宣言したこの曲は逆に僕には輝かしく見える。それがたとえ4分間で終わるポップソングであるとしても。9月に発表された「フクロウの声が聞こえる」でライブは終わった。僕の心に残ったのは会場の大合唱と興奮だった。それは多分90年代ノスタルジアが混じった年寄りの思い込みかもしれない。だとしても。その時代に自分が涙や汗と一緒に託した何かを思い出させてくれた、素晴らしいライブだった。