内なる神に感謝!!! どうもありがとうございます!!!! 風水術「太陽と満月」愛 感謝 調和 悟り 喜び 豊かさ 幸福 赦し
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今日はアセンション館通信のメルマガからちょっと気になるメッセージを皆様へお伝えいたします。 アセンション館通信メールマガジン http://www.mag2.com/m/0000126287.htm …………○…………○…………○………… 前号に続いて、ハイアーセルフ33さんからの連続投稿です。 今回は、すごく長いみたい。(@_@) ---------------------------------------------------- *技法と明け渡し 「存在とひとつに」(市民出版社p51-60)より・・和尚ラジニーシ講話 (質問) 技法というのは近道であり革命的なものだそうですが、もしそうならば、< 道(タオ)>やスワバーヴァや自然に反しているのではないでしょうか。 (和尚) その通り。技法というものは、<道(タオ)>に反し、スワバーヴァに反している。いかなる努力も、スワバーヴァや<道>に反している。努力それ自体が<道>に反している。もしすべてを、スワバーヴァに、<道>に、自然にゆだねることができたら、何の技法もいらない。これこそが究極の技法だ。 もしすべてを<道>にゆだねることができたら、それより深い明け渡しは存在しない。それは、自分自身の明け渡しであり、自分の未来、自分の可能性の明け渡しだ。 それはまさに時間の明け渡しであり、あらゆる努力の明け渡しだ。それが意味するものは、無限の忍耐であり、待機だ。 もしすべてを自然に対して明け渡せたら、もはや努力はない。何もせず、ただ浮かんでいるだけだ。それは深いゆだねだ。物事はあなたに起こる。あなたはそれに対し何の努力もしていない。 追求すらしない。もし物事が起こるならそれでいいし、起こらないならそれでいい。 そこに選択はない。何であれ起こるものは起こる。そこに期待はない。もちろん挫折もない。 生は流れ、あなたはその中に流れ込む。到達点も、目的地も、理想もない。 達成すべき物は何もない。いっさいは明け渡されている。 明け渡しをすると、今この瞬間に、すべてはあなたに起こる。努力は時間を必要とするが、明け渡しに時間はいらない。技法には時間が必要だが、明け渡しに時間はいらない。 だからこそ私は、それを究極の技法と呼ぶのだ。それは非技法だ。それは実践できない。明け渡しは実践できない。もし実践したら、それは明け渡しではない。 実践するということ、それは自分自身に頼るということだ。あなたは全面的に無力ではなく、何かをしようとしている。たとえそれが明け渡しであっても、依然それは行為だ。すると技法が現れる。そして技法とともに、未来が現れる。 明け渡しとは非時間的なものだ。時間を超えている。明け渡せば、その瞬間、あなたは時間の外に出る。そして起こり得るものすべてが起こる。しかしそのとき、それに対する追求はない。探究も、貪欲もない。それに対する心配はいっさいない。それが起ころうと起こるまいと、あなたにとってはまったく同じだ。 <道>とは明け渡しを意味する。スワバーヴァヘの、自然への、明け渡しだ。そしてあなたはいなくなる。 タントラやヨガは技法だ。それを通じてあなたはスワバーヴァに到達する。 でもそれは長い道程だ。どの技法によっても、究極的には明け渡すことになる。しかし技法の場合、明け渡しは最後にやってくる。 <道>の場合、それが始めにやってくる。もし今この瞬間、明け渡せるのであれば、何の技法もいらない。しかし、それができなかったら、そして私に「どうやって明け渡すのか」と尋ねるようなら、そのときには技法が必要となる。 稀に、何百万にひとり、「どうやって」と尋ねることなく明け渡しできる人がいる。「どうやって」と尋ねるようであれば、あなたは明け渡しできるタイプの人間ではない。「どうやって」と尋ねることは、技法を求めることだ。 こうした技法は、この「どうやって」を捨て去れない人間のためにある。こうした技法は、「どうやって」というこの根本的な懸念を捨て去るためにある。 「どうやって」と尋ねることなく明け渡せるならば、何の技法もいらない。 でもそんな人間は私のもとにやって来ない。そんな人間はいつでも明け渡しできる。明け渡しに教師はいらない。教師には技法しか教えられない。 そもそも探求というのは、つねに技法の探求だ。どんな探求も技法の探求だ。誰かのもとへ行って何かを尋ねることは、技法や方法を求めることだ。 さもなければどこへ行く必要もない。そもそも探求するということが、技法に対する深い要求を示している。こうした技法はあなたのためにある。 だからといって、技法なしでは起こらないというわけではない。技法なしでも起こる。しかしごく少数の人々にしか起こらない。こうした少数の人々もじつはまれな人間だというわけではない。過去生で技法と格闘してきたのだ。 格闘してきたからこそ、それにうんざりし、飽き飽きしている。いつか飽和点というものがやって来る。繰り返し「どうやって、どうやって」と尋ねていると、究極的に、その「どうやって」は落ちる。すると明け渡しができるようになる。 どんな道においても、技法は必要だ。クリシュナムルティのような人間なら「技法はいらない」とも言えるだろう。ただし、今生が彼の最初の生だというわけではない。 彼もまた過去生では、そんなふうには言えなかったはずだ。また今生でも、いろいろな技法が彼に与えられ、彼はそれを実賎してきた。 技法によって、ある点に達すると、明け渡しができるようになる――いっさいの技法を捨て去り、「ただ在る」ことができるようになる。しかしそれも技法によってだ。 それは<道>に反している。それはあなたが<道>に反しているからだ。だからあなたには矯正が必要だ。<道>の中にいる人間に技法はいらない。健康な人間に薬はいらない。薬はすべて健康に反している。でもあなたは病気だ。だから薬がいる。 この薬はあなたの病気を殺す。薬が健康をもたらすわけではない。病気が除去されれば、あなたに健康が起こる。どんな薬も健康をもたらしはしない。 基本的に、薬はすべて毒だ。しかし毒をためこんでいる人間には、何らかの解毒剤が必要だ。それによってバランスがとれ、健康になれる。 だからべつに、技法によって神性がもたらされるわけでも、自然がもたらされるわけでもない。そうではなく、自己の「自然」のまわりに掻き集められたものが破壊されるのだ。それは条件づけの解除だ。 あなたは条件づけられている。だから今すぐには明け渡しの中に飛び込めない。もし飛び込めたら問題ないが、実際、あなたは飛び込めない。あなたの条件づけは「どうやって」と尋ねる。それで技法が役に立つ。 <道>に生きている人間には、ヨガも、タントラも、宗教もまったくいらない。完璧に健康な人間には、何の薬もいらない。宗教とはすべて医薬的なものだ。世界が全面的に<道>に生きるとき、宗教は消え失せる。どんな教師も、どんなブッダも、どんなイエスもいらない。なぜなら誰もが一個のブッダとなり、イエスとなるからだ。 しかし今現在のあなたには、技法が必要だ。こうした技法は解毒剤だ。あなたは自分のまわりに複雑なマインドを作り出している。それであなたは、聞いたことや、与えられたことを、なんでも複雑なものにしてしまう――より複雑なもの、より難しいものにしてしまう。 例えば私が「明け渡しなさい」と言えば、あなたは「どうやって」と尋ねる。また「技法を使いなさい」と言えば、「技法だって?技法は<道>に反するではないか」と尋ねる。あるいは「何の技法もいらない。ただ明け渡しなさい、そうすれば神はあなたに起こる」と言えば、すぐさま「どうやって」と尋ねる。これがあなたのマインドだ。 もし私が「<道>とはまさに今・ここだ。何も実践しなくていい。ただひと飛びに明け渡しなさい」と言えば、あなたは「どうやって、どうしたら明け渡せるのか」と尋ねる。そこで私が技法を与え、その「どうやって」に答えようとすると、あなたのマインドは言う、 「でも方法や技法というものは、スワバーヴァに、<道>に反するではないか。もし神性が私の本性であるならば、どうしてそれが技法を通じて達成されるだろう。もしそれがすでに存在しているなら、技法は無益で無用だ。なぜ技法で時間を無駄にするのか」……。 このマインドをごらん! かつてこんなことがあった。ある娘の父親が、作曲家のレオポルド・ゴドウスキーを家に招待し、娘のピアノを見てくれるよう頼んだ。そこでゴドウスキーはその家を訪ねた。そして辛抱強く娘の演奏を聞いた。娘が弾き終わると、父親は顔を輝かせ、嬉しさに涙を流しながら、「どうです、すばらしいもんでしょう」とゴドウスキーに尋ねた。 ゴドウスキーはこう言ったそうだ、「まったくすばらしい。驚くべき技巧をお持ちです。今だかつて、こんなに簡単な曲をこんなに難しく弾く人には、お目にかかったことがない。まったく驚くべき技巧だ。こんなに簡単な曲をこんなに難しく弾くなんて!」 これこそあなたのマインドにいつも起こっていることだ。ごく簡単なものでも難しくしてしまう。自分自身で難しくする。そしてこれはひとつの防御手段だ。なぜなら、困難なものにしてしまえば、する必要がなくなるからだ。 つまり、まずその問題の解決が先決であり、実行は後まわしにされる。 もし私が「明け渡しなさい」と言えば、あなたは「どうやって」と尋ねる。 私がその「どうやって」に答えなければ、どうして明け渡しできるだろう……。 また、私が技法を与えたら、あなたのマインドはすぐに新たな問題を作り出す。「なぜ技法が必要なのか。スワバーヴァが、<道>があるではないか。 神は私の内にある。だとしたら、なぜそんな努力が必要なのか」。このことに答えが与えられないかぎり、何もする必要はない、というわけだ。 こういう問題は、いつまでもいつまでも続けていられる。だから、どこかでそれを断ち切り、そこから出てくることだ。決断をもって実行する。どちらの道を通っても、きっと明け渡しは起こる。もし今この瞬間、明け渡せるのなら、それでいい。もしできなかったら、技法を通って行く。その訓練が必要だ。 それが必要なのは、あなたのためだ。スワバーヴァのためでも、<道>のためでもない。<道>に訓練はいらない。訓練が必要なのはあなたのためだ。 そして技法はあなたを破壊する。技法によって、あなたは死ぬ。そして最奥の本性は進化する。あなたに必要なのは、完全に粉砕されることだ。 もしひと飛びに粉砕できるなら、明け渡すことだ。もしできなかったら、少しずつやる。技法を通じて働きかける。よく言っておくが、マインドは問題を作り出す。それは策略だ――決断を延ばそうとする策略だ。マインドが納得していなければ、延ばしても後ろめたく感じない 「どうしようもないではないか。隅から隅までハッキリしていないかぎり、私に何ができるだろう」。マインドはあなたのまわりに雲を作り出す。そしてマインドは決してはっきりさせない-あなたが決断しないかぎり。 決断とともに雲は消え去る。マインドはとても駆け引き上手だ。マインドは政治的だ。絶えずあなたをめぐって策を弄している。マインドはとても絞滑で抜け目ない。(続く) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
February 25, 2005 04:21:11 AM
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