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売り場に学ぼう by 太田伸之

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Nobuyuki Ota

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2024.04.25
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あれは1994年2月後半でした。パリコレ取材に出かける直前、毎日新聞社でファッションデザインやワインなどを担当していた市倉浩二郎編集委員が珍しくきちんとアポを取り、カメラマンを伴って南青山5丁目にあったCFD(東京ファッションデザイナー協議会)事務局に来たのは。


毎日新聞社編集委員だった市倉浩二郎さん

CFD事務局には正面口と玄関口の2つドアがあり、いつも彼は勝手口からチャイムも鳴らさず入ってきてキッチンの冷蔵庫をゴソゴソ、ビールを見つけると議長室のソファにドカッと座って勝手にビールを飲んでいました。が、その日は事前にアポを取り、カメラマン同伴の正式な取材、正面口からやって来ました。取材中は友人であっても丁寧な言葉遣い、ちゃんと取材者として一定の距離を保ってくれる本物のジャーナリストでしたが、この日もジャーナリストの顔でした。

取材が終わって雑談になると言葉遣いはガラリ変わっていつも通り友達言葉に。これから出かけるパリコレを自分としては最後にしようと思う。今後パリコレ取材は後輩記者か外部の専門家に任せ、自分は国内繊維産地を回ってデザイナーの背後にいる技術者やテキスタイルメーカーを取材して本を書きたい。「おまえ詳しいだろうから手伝え」。

長く編集委員の職にあり、一般記者と違って自由になんでも取材できる立場、書こうと思えば何冊も本を書けたはずなのにこれまでワインやスコッチ、日本酒の専門家に遠慮して本を一冊も書かなかった男、それがやっとファッションデザイナーの背後にいる技術者の本を書きたいと言うのです。私は快く「いいよ」と返しました。

3月23日、毎日ファッション大賞選考委員長だった鯨岡阿美子さんのご主人でエッセイストの古波蔵保好さんが銀座のフレンチ有名店マキシム・ド・パリに大勢の仲間を招待、数え85歳のお誕生会を開いたとき(沖縄では長寿をお祝いされる側が好きな人を招いて大宴会するとご本人から伺いました)、市倉さん、私も招待されました。鯨岡さん急逝の1年後毎日ファッション大賞に鯨岡阿美子賞を設立するため奔走した二人だから招待されたのでしょう。このとき、市倉さんはちょっと疲れた表情でした。

そして4月1日、CFD主催の東京コレクション開幕。初日最終ショーのユキトリイに行こうと西武百貨店渋谷店の脇を通りかかったら、間口の狭いカフェで市倉夫妻や帽子デザイナー平田暁夫夫妻らを見かけて合流。ここで私は当時ブームになりつつあった「有機栽培野菜スープ」の効能を説明、市倉さんにも「あんたも健康に注意しろ、野菜スープ飲め」と勧めたら「あんな不味いもの飲めるか」と一笑。私の勧めですぐ飲み始めた平田先生とは大違いの反応でした。

みんなでカフェから歩いてショー会場へ移動しユキトリイの新作コレクションを拝見。あとでわかったことですが、このショー終了後に市倉さんは奥様に「ちょっと寒気がする」と漏らし、鳥居さんの打ち上げパーティーには参加せずそのまま帰宅したそうです。


市倉さんと私

翌4月2日羽田空港整備場でのコムデギャルソン、どういうわけか市倉さんは現れませんでした。パリコレですでにコムデギャルソンのコレクションを取材しているはず、都心から遠いので今日は来ないのかなと思いました。ところが、ちょうどその頃、市倉さんは意識不明で救急搬送されていたのです。

4月4日、美登子夫人から電話がありました。市倉さんがパリコレ取材で書いてたはずの原稿が見当たらない、これからデザイナーをインタビューして書き上げなくてはならないタイアップ企画は誰かと交代しなくてはならない、もし新聞社から連絡があったら助けてあげてと頼まれました。容体に変化なく未だ意識不明とこの電話で初めて深刻な状態だと知りました。

東コレ終了後の週明け、入院先の西国分寺にある府中病院に飛んで行きました。集中治療室の前には毎日新聞OBや同僚、仕事仲間が集まり、治療室から出てくる看護師に取材しては私たちに状況を教えてくれる方もいました。府中病院の中庭には立派な八重桜があり、私たちは喫煙所でその桜を眺めながら花が全部散る前になんとか眼を覚ましてほしいと願いました。

4月23日、美登子夫人から許可が出たので私は初めて集中治療室に。鼻から口からたくさん管を入れられ全く動けない市倉さんを見てショックでしたが、彼の名前を連呼し、脚を摩って励ましました。すると市倉さんの目から涙が溢れ出ました。「おまえが来たことはわかってるぞ」というサインだったのでしょう。

午前中に何か食べるものを差し入れし、夕方には病院に戻って奥様を励ます、連日このパターンを繰り返しました。そして425日、寿司屋で握ってもらった寿司を持って病院に到着するやいなや看護師から救急治療室に入るよう促されました。まるでドラマのワンシーンのように血圧計の数値が急降下、ゼロになったところでドクターからご臨終の宣告。人の死に立ち会ったのは生まれて初めて、ショックでした。今日であれからちょうど30年、早いです。


2代目CFD議長を引き受けてくれた久田尚子さんと市倉さん

パリコレ取材で疲れたからでしょうか風邪の菌がなぜか脳に入ってしまい、ドクターはその菌の特定がなかなかできないために処方できず、最後の最後まで原因不明のまま亡くなりました。山登りが趣味の頑丈な男があまりに呆気ない、享年52歳は若すぎます。やっと本を書こうと準備を始める寸前に倒れ、結局1冊の本を書く時間すら残されていなかった、誰にも人生にTHE ENDはあると教えてくれました。

控え室で美登子夫人が言いました。「イッちゃんが、太田は本当はやりたいことがあるからやらせてあげたいといつも言ってたわ」と。ひとまわり年少の私を弟のようにかわいがってくれた友は私のことを心配してくれていたと奥様から聞いて嬉しかったです。そして、友の死で私は決断しました。やりたいことをやらずには死ねない、CFD議長を退任してアメリカで学んだマーチャンダイジングの仕事をやろう、と。

縁あって百貨店でもアパレル企業でもマーチャンダイジングを指揮し、数百人の社員たちにゼミ形式でマーチャンダイジングを教えました。最近は中国のファッション業界人にマーチャンダイジングを講義する機会が増えました。学生時代からやりたかったマーチャンダイジングの仕事を30年間続けたきっかけは、大親友との別れで人生観が変わったからです。

救急治療室で意識不明ながら涙を浮かべて応えてくれた友の姿、一生忘れられません。毎年やってくる4月25日、私にとっては特別な日。合掌。






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Last updated  2024.04.26 00:12:47


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