【続】文系大学教育は仕事の役に立つのか?
文系大学教育は仕事の役に立つのか?
昨今の大学改革絡みの出版物も少なくないが、その中でしばしばやり玉に挙げられる文系の大学教育に関するものとして出版されたのが本書である。
人文・社会科学系の大学教育は仕事に「役立っている」のではないか。「役立ちうる」のではないか。「役立っている」とすれば,どのような「役立ち方」なのか。なぜ「役立たない」と思われているのか。
「文系」として一まとめに語られてしまいがちな人文・社会科学系に含まれる多様な学問分野間の共通性と相違に注目しながら,調査結果に基づいて,さまざまな角度から検討を行う。
という触れ込みで、東大教育学研究科の本田由紀教授を編者として9つの章を編者を含む8人の著者が執筆している。
私自身の立場を明らかにしておくと、私が現在所属しているのはこの本の中でにおいて文系とされる分野である。その点において、昨今の大学改革の影響をまともに受けており、大学改革に関しては全否定もしないが、それほど肯定的には受け止めていない。
また、私自身は教育学を専門とする研究者ではなく、自称社会学者という程度であるので、その分野に関しては素人であり、私の批判が的外れである可能性はあるので、その場合には指摘していただきたい。
本田氏は、これまでも職業と教育のレリバンスに関して、科研のプロジェクトにも継続的に取り組んでおられるので、本書はその成果報告という側面もあるだろう。
本書の目的に掲げられている、役立っているとすればどのような役立ち方なのか?なぜ役立たないと思われているのか?データの分析を通じて示す、という点について、内容を見ていきたいと思う。
続きを読む億りびと科研費の是非
山口二郎氏が研究代表者となっていた科研費が叩かれ続けている。学術創成研究費なので金額も大きい。6億円という話が果たしてどこから出てきたのか定かではないが、学術創成研究費の研究プロジェクトに限って言えば、科研費データベースを見ればわかるように、直接経費が3億6800万、間接経費が7700万となっており、5年間であわせて4億4500万円のプロジェクトであった。
KAKEN — 研究課題をさがす | グローバリゼーション時代におけるガバナンスの変容に関する比較研究 (KAKENHI-PROJECT-14GS0103)
個人的な妬み根性を含めて言えば、随分気前よく出したなというのは正直なところではある。
とは言え、この種の研究プロジェクトとして、特に過大なものであるかと言えば、そんな事はない。
例えば、同じ法学系の京大法で固めた以下の学術創成研究も、5年間で直接経費3億、間接経費9000万となっている。
KAKEN — 研究課題をさがす | ポスト構造改革における市場と社会の新たな秩序形成-自由と共同性の法システム (KAKENHI-PROJECT-19GS0103)
文系でなにに使うんだ⁉︎という指摘ももっともではあるし、好き勝手させてもらったというような不用意な発言に脇の甘さは否めないが、山口科研の参加者であった遠藤氏も書いている(遠藤乾研究室 科学研究費についていくつか)ように、少なくとも4人の若手雇用が含まれており、若手研究者育成のための人件費が含まれていることは考慮に値するだろう。少なくない部分は人件費であっただろうし、海外からの著名な研究者招聘なども考えると、人に対する投資がかなりの部分を占めただろう。成果物として書籍も多く出ているので、研究成果公開のための経費もそれなりにあったと想像される。
関連して、この学術創成研究の特性として、機関に対する補助という側面が少なからずあったであろうことも指摘しておく必要があるだろう。もちろん、複数の研究機関に所属する研究チームによる申請もあるのだが、同一所属機関で固めたプロジェクトもかなり目立つ。この山口科研も全員が北大の研究者であって、北大の法学部・研究科に対する資金援助と考えれば、まあそういうこともあるよね、といったところかもしれない。
ちなみに、山口科研の事後評価の結果は以下のリンク先にある。意見を見ると、成果を概ね高く評価しつつも、分野による成果のばらつきや、国際共同比較研究であるにも関わらず海外のトップジャーナルへのアウトプットがない点には不満が表明されている。妥当な評価と言えそうである。
研究チームの研究者は、毎年100万円単位の比較的自由度の高い研究費が使えたであろうから、成果が出るのは当然であるし、ちょっと多かったんじゃないの?という指摘はあるかもしれないが、なにに使ったのか想像できないほどの金額でもなく、若い人も育って良かったねという話なのだろうと思う。
問題はむしろ、この規模の研究費が使えるのは、非日常的な事態であるということであって、日本の大学を世界のトップに送り込む意思があるのなら、常にこの規模の投資をし続ける覚悟が必要だという認識がないことだろう。
日経新聞に言わせればすべては選択と集中が足りないせいであるが、選択はしても集中はしないのだから成果が上がらないのは当然だろう。
限りなく黒髪にちかいブリーチ
大阪の高校で生まれつきの茶髪に黒染めを強制された件で裁判になって海外でも話題になり、スーパーグローバルハイスクール事業を所轄する文部科学省も国際的な知名度の向上にさぞお喜びのことかと存じます。
このような指導がひろがった背景として、今回は大阪の高校であったことで、維新府政の教育への介入どうこうという論調も見かけますが、正直あまり関係ないと思うのです。まったく無関係であるとも言いませんが。
高校で強制的に黒髪に染められたことに対する訴訟や人権救済の申し立てなどは、橋下府政の登場前の2000年台半ばから出てきています。
以下の例は訴訟についてですが、下部に参考として人権救済の申し立てなどの事例も掲載されています。
こうした司法に訴えられた事例を引くまでもなく、21世紀に入る前の、それこそ我々が高校生であった時代から、茶髪にした生徒が黒く染められたと言った話しはありましたので、何も最近突然出てきた話でもないはずです。
問題は、なぜ最近になって話がややこしくなって来たのかということにあります。
一つは体罰に対する考え方の変化で、昔はしょっちゅう目にしていた体罰も、ほぼ目にしなくなっていますし、ただちに社会問題になります。ここでは無理やり髪を染める行為が体罰であるかどうかという点が争点となり、社会問題として取り上げられやすくなったと言えます。
もう一つ、生徒や保護者の姿勢の変化もあります。
我々が高校生の頃、髪をわざわざ茶髪にするような生徒と言うのは、少数派でかつ(まあ自分も含めて)問題児が多く、あえて茶髪にしているのだから注意されて染めなおすことになっても、逸脱している自覚はあるのでまあしょうがないなと言った雰囲気もあったかと思います。
対して今では髪を明るくすると言うのは、若い女性にとってごく普通の一般的なファッションの一部であって、特に問題児でも問題行動でもなんでもなくなっています。それは高校生と言えど同様です。
そのような状況で、茶髪禁止というのはある意味時代錯誤で実態とかけ離れた規則でもあるわけですが、そこで規則を盾に型に嵌める指導をしようとすると、特に近年は以下のような反応が返って来る傾向にあります。
「なぜ誰々は良いのに私はダメなのか?」という、例外を許さない主張です。そこには、グレーの存在を認められず白黒どちらかでないと理解できない教育の成果がもれなくついて来ます。
本来、髪の色というのは境目のないグラデーションであり、どこから黒でどこから茶色かというのは、区別のしようがありません。すでに白髪染めにお世話になっている世代としては、髪染めの黒にも人工物のようになってしまう本当の真っ黒と自然な黒があることを知っています。自然な黒はほんの少し茶色が入っていますので、厳密には黒ではありません。では、それよりもう一段階明るくすると黒ではないのか?自然な黒は黒と認めるのか?という、誰も答えの出せない問題になってしまいます。
特に、以前とは違って、少し明るくしただけという人が多い時代には、「どこから茶髪なのか問題」は、教師が考えている以上に判断が難しい問題です。明確な境界がない以上、客観的には判断などできないのですから、茶髪を問題にすること自体が馬鹿げています。
やるならばまちなみや広告物の色彩規制のように、厳密な客観的指標に基づく基準を作り、計測して判断するくらいの覚悟が必要です。限りなく黒髪に近いブリーチから、ほとんど金髪のようなものまで、茶髪と一括りにしていては誰も納得できません。
主観的な基準しかないルールを強制するからこそ、なおさら「なぜ誰々は良くて自分だけダメなのか?」と言う話になるのです。生徒たちは、ほとんど黒に見えてもブリーチかけている友人のことくらい知っています。
さらにそこに今のご時世は場合によっては保護者も出て来たりするので、話はさらにややこしくなります。結果として、馬鹿げたルールを守ろうとするがゆえに、なんとか証明書を出すといったさらに馬鹿げたルールができるという、まさに日本のダメ制度の王道を行く仕組みが出来上がるわけです。まるで大学改革のようです。
黒髪の範囲の厳密な定義と、厳格に測定する手段なくしてなくして、茶髪禁止などするべきではありません。そもそも、一人一人異なる髪の色のような問題にルールなど作る必要はないのです。
黒髪の集団でなければ教室の秩序を維持できないような教師は、もともと教師としての能力に問題があるでしょう。問題があるからこそ地毛証明書のような解決策を編み出すという話もあります。ひとりひとりの違いに向き合ったきめ細かな教育などというのは、現実問題としては夢のまた夢です。
いわゆる教育困難校では、ルールを力で強制しなければ秩序を維持できないという現実もあることは理解しています。しかし、そのような学校であればなおさら、髪の色のような教育環境を維持する上でほとんど意味のないルールは廃止して、少数の本当に守るべきルールを守らせるところに注力すべきでしょう。もちろん、髪の色が変わると、周りの何も知らない大人たちには荒れていた学校があたかも改善したように見えるのは大きなメリットなのかもしれませんが、取り組むことの優先順位が間違っています。
高等教育無償化は可能か
なぜか憲法改正に絡んで想定外の方向から高等教育無償化の話が浮上してきた。現実問題として、財政的にそれは可能だろうか?公平性をどう担保するか?今回はそういった点を考えてみることにする。
まず、国家予算の大枠を見ておく。総額は約100兆円弱。このうち、社会保障費が30兆円強あり、文教科学技術振興費は概ね5兆円規模である。
これを前提とすることなく議論しても意味がない。
次に学生数の概況について。高等教育機関で学ぶ学生数は概ね360万人程度、そのうち1/5にあたる約60万人が国立大学に在籍している。残りは私立での大学や短大、専修学校である。
国立大学の授業料収入は総額は約3700億円となっている。国の予算の0.4%であり、これを無償化するのは充分可能であると言えるだろう。しかし、国立大学に通うのは、高等教育機関で学ぶ学生の2割に過ぎない。
高校の無償化と同じ方式で、私立の大学・短大・専修学校に通う学生に国立大学の授業料相当分を支援するとすると、1.8兆円を超える予算が必要となる。うち1.5兆円が私立向けであり、なかなか厳しい金額であろう。
ところで、無償化より奨学金をチャラにしたほうが効果があるのではという指摘があり、それはなかなか興味深いと思う。
悪いこと言わん、大学無償化とか何とかガタガタ言う前に、これやっとけ(´・ω・)つ
— king-biscuit (@kingbiscuitSIU) 2017年5月7日
奨 学 金 チ ャ ラ
予想斜め上に支持率あがるとおも。
学生支援機構で見てみると、貸出残高は10兆円に届くかどうかというところのようであり、毎年1兆円強が貸し出されている。
1兆円強というのは国立大学の運営費交付金とほぼ同じ規模である。
貸出残高をチャラにするための10兆円は一度限りの財政出動であり、それが解消してしまえば、あとは年間1兆円程度で給付型の奨学金を運用できるということになる。
給付型奨学金の実現と、高等教育の無償化を両立することはなかなか難しいであろうし、現実的ではないだろう。実際問題、高等教育を無償で受けられることになれば、奨学金のニーズもかなり減ることだろう。
ここで、一つの考え方として、国立の高等教育機関における授業料は無償化し、公立ならびに私立の高等教育機関向けに給付型の奨学金を創設するという選択があり得るだろう。
私立大学向けに関しては実質的な所得制限であると考えればよい。1.5兆円かかるところ、1兆円でカバーできるところまでは給付型奨学金で支援し、それ以上の高所得者層は自己負担という構図となる。
公立については、必要に応じて、設置者となっている自治体ごとに住民向けの措置がとられれば良いだろう。
概ね妥当かつ現実的な仕組みではないだろうか。
国立の高等教育機関の無償化に4000億円、給付型の奨学金に1.1兆円、あわせて1.5兆円で高等教育の「擬似的な」無償化が実現する。
国の予算の1.5%である。
一度限りの10兆円をどうするか、という問題の解決は簡単ではなく、ハードルは高いが、その気になれば実現は夢物語とも言えないと思うが、いかがだろうか。
もちろん、なぜ、私立の高等教育機関だけ所得制限がかかるのか、という指摘はあるだろう。しかし、まったく同様の支援を求めるということになれば、もはや私立大学としての存在意義はない。高等教育機関はすべて国立あるいは公立にしてしまえということになる。それはそれでひとつの方法であるとは思う。経営判断として、また、多様な支援の獲得も見据えて、公立への移管が進むならそれも良いだろう。だが、筆者の立場としては、基本的には高等教育機関としての多様性の確保を優先したいと思う。
【追記】
高等学校の無償化と同様に、4年を超えて在学する場合や、すでに学士を持っていて二つ目の学士を取得するために入学といったケースでは、無償化の対象とせず自己負担とするのは当然だろう。そうでなければ高学歴層が殺到することは目に見えている。
相応の待遇
今回の話題は、国立大学に所属する教員の待遇に関するものであり、その意味でいつにも増して完全なるポジショントークである。そのことを事前にお知らせしておく。
先日、一橋大学から香港科技大学に移籍する方が話題となった。年収は倍増。ファカルティハウスなど、生活面での待遇も良いようだ。
それに対して、日本では頭脳流出の危惧とともに、特に国立大学の教員の年収について、いろいろと議論が交わされている。
個人的には、今の年収は特に少ないとは思っていない。昔の国立大学に比較すれば、担当コマ数や雑務が大幅に増えたとはいえ、働き方も真っ黒な民間企業に比べればまだまだ緩やかである。総合的に考えて、多いとも言わないし、もっともらえるならありがたくいただきたいとは思うが、少なくて不満だということはない。
現在の境遇が不満だと思う方はどんどん海外に出れば良いと思う。外に出て競争するだけの能力もないのに給料が少なくて不満だという残念な方も少なくないと思うが、そのような方々には早く大学を辞めていただくことが後進のためである。
むしろ、現状に対する不満があるとすれば、給与以外の扱いに関する部分にある。
現状、その最たるものが出張である。
一般に、出張時の宿泊費については一律に金額が決められている。実費精算であれば良いかもしれないが、実費精算ではない大学の方が多数なのではないかと思われる。定額支給であれば、安い宿に泊まれば小遣いが浮いて良いと考える人もいるかもしれないが、現実的には東京や大阪のような大都市や、あるいは京都のような観光都市では、ビジネスホテルでさえ規定の宿泊費で賄うことができなくなっている。もはやカプセルホテルかゲストハウスかといった状況であり、大学の教員の扱いとしてそれで良いのか?とは思う。結局のところ、差額分は自腹で支出してそれなりの宿泊施設に泊まるということになるわけだが、少なくとも外部資金に関しては、基本的に実費精算として、現状の規定の1.5倍から都市によっては2倍程度までは支出できるようにしてもらいたい。
何もスイートルームに宿泊させろと要求しているわけではないし、予算の残額をにらみながら妥当と思われる選択をするに過ぎない。
また、研究発表等で海外に出張する場合にはより深刻で、基本的にはエコノミークラスにしか乗ることができない大学も多い。これもまた先日のニュースでみなさん良く理解されたとは思うが、エコノミークラスの乗客というのは、航空会社からはそれほど人間扱いされてはいないのが実態である。エコノミーに乗るくらいならLCCを選べと言わんばかりのサービスになって来ている。昨今は家族全員でビジネスクラスという姿も普通に見られるようになっており、ビジネスクラスとエコノミークラスの座席数を比較しても、ビジネスクラスで渡航するというのは、十数年くらい前までのように特別なことではなくなった。LLCでない一般のエアラインとしては、エコノミークラスは無くて良いというのが正直なところであろう。
そのような状況をふまえて、大学の研究者が業務として研究成果の発表に行く際には、ビジネスクラスを選択することを共通ルールとして許容してもらいたいと思う。もちろん、予算には限りがあるわけで、自らの判断でエコノミーに乗るのはもちろんそれで構わない。これもホテルと同様、ファーストクラスに乗せろと要求しているのではなく、選択肢を持てるようにしてもらいたいということである。また、飛行機に関してはホテルとは異なり、差額を自腹を出してビジネスクラスで行くということが難しかったりするので、なおさらである。
また、こうした宿泊費や航空券のクラスの制約というのは、われわれ当事者のポジショントークという側面もさることながら、日本の大学全体の評価にも関わる問題でもあったりする。
恐ろしいことに、こうした規定は、海外からゲストを呼ぶ場合にも同じ条件が課せられたりする。従って、海外からゲストを招聘しようにも、下手をすると、飛行機はエコノミークラスで、宿泊先はアパホテルや東横インクラスということにもなりかねない。悪い冗談のようにしか聞こえないが、現実である。そのような条件で一体どのようなゲストがわざわざ来てくれるというのだろうか。当然、そのような扱いでお呼びできるわけもないことから、実際にはできる手立てを駆使して失礼のないようなかたちでお招きするのだが、最初から正規の手続きで相応の待遇を提供できる方が良いに決まっている。日本の大学は、世界と競走する舞台に立とうにも、すでにスタートラインがはるか後方にある。
もちろん、雑務が減ることも重要なのだが、自分自身に関していえば、このあたりの運用が改善されると、不満感はかなり軽減されると思う。給料は上がらなくても構わないが、このあたりの運用の改善は望みたい。