海外文学読書録

書評と感想

石原立也『劇場版 響け!ユーフォニアム〜誓いのフィナーレ〜』(2019/日)

★★★

北宇治高校吹奏楽部。黄前久美子(黒沢ともよ)たちは2年生に進級した。新入生がたくさん入部し、低音パートには久石奏(雨宮天)、鈴木美玲(七瀬彩夏)、鈴木さつき(久野美咲)、月永求(土屋神葉)が加わる。ところが、人間関係で様々なトラブルが起きるのだった。吹奏楽部は今年も全国大会を目指す。

原作は武田綾乃の同名小説【Amazon】。

テレビアニメ『響け!ユーフォニアム2』の続編である。このシリーズはスピンオフの『リズと青い鳥』を除くと今までテレビアニメしか見ていなかった。今年の4月から『響け!ユーフォニアム3』が放送中だが、そこでは黄前久美子が3年生になっているうえ、見知らぬ後輩キャラがしれっと登場している。何事かと思って調べたら2年生編は劇場版の本作で済ませたようだった。時系列としては、『響け!ユーフォニアム』、『響け!ユーフォニアム2』、『劇場版 響け!ユーフォニアム〜誓いのフィナーレ〜』、『響け!ユーフォニアム3』の順になる。このままでは訳が分からないため、総集編2編*1を見て復習してから本作に臨むことになった。

北宇治高校吹奏楽部は全国大会を目指す部活だからフェアな実力主義である。たとえ1年生でも3年生より演奏が上手ければコンクールメンバーに選ばれる。しかし、そういう前提はあっても一部の新入生はそのフェアネスを信じられない。久石奏が直面するのもその問題だ。フェアネスが有効なのは結果を出したときだけであり、もし出さなかったら年功序列が良かったということになる。中学時代にそのようなトラウマを経験した彼女は、人間関係を円滑にすることを優先していた。一方、鈴木美玲は自分より下手な鈴木さつきが部員にちやほやされているのが許せない。先輩に取り入っていると思っている。その結果、実力はあるのに部内で孤立することになった。つまり、奏も美玲も実力主義と人間関係の狭間で拗らせているのである。久美子は調整役として彼女たちのケアをするのだった。

部活は同じ目標を共有する運命共同体という意味で企業の縮小再生産である。全国大会で金賞を目指す。その一心で厳しい練習に臨んでいる。その反面、部活内ではコンクールメンバーを決めるための競争があり、先輩も後輩もそこで気を使ってしまう。実力主義とは分かっていても割り切ることはできない。特に3年生はここで選ばれなかったら2度とチャンスはない。高校時代という限られた時間だからこそ実力主義による選別が一層の迫真性を帯びるのである。そういう意味で部活アニメはドラマティックだ。大会で勝つという外側の競争とコンクールメンバーになるという内側の競争が併存しているのだから。この二重の競争が本作の醍醐味であることは間違いない。全国大会を目指す高校の部活は企業の縮小再生産なのだ。せっかくのモラトリアムなのだからもっと楽に生きろよと思うが、しかし、今しかできないことを全力でやることも人生である。別に全国大会に出たところでそれがキャリアになるわけでもない。むしろ、吹奏楽をやらずに勉学に励んだほうが有意義ですらある。ただ、そうと分かっていても人間とは先の見通しを考えるほど賢くない。今やりたいことを全力でやってしまうものだ。人生においてモラトリアム期間は短い。高校の部活なんて社会人になったらやり直すこともできないわけで、ここに全力を注ぐのも十分ありだろう。実力主義の部活は企業の縮小再生産ではあるが、企業にはない青春の煌めき――刹那的な光芒――があり、我々はそこに惹かれるのである。

調整役になった久美子が丸くなったのは成長と捉えるべきだろうか。高坂麗奈(安済知佳)に感化されたテレビアニメ1期、田中あすか(寿美菜子)に翻弄されたテレビアニメ2期に比べるといまいち熱意がない。塚本秀一(石谷春貴)との恋愛もあっさりしていて全体的に掘り下げが足りなかった。久美子は元から一歩引いた主人公だったが、今回はその度合いが強くてあまり印象に残らない。そこが残念である。

*1:『劇場版 響け!ユーフォニアム~北宇治高校吹奏楽部へようこそ~』、『劇場版 響け!ユーフォニアム~届けたいメロディ~』。

エミール・クストリッツァ『黒猫・白猫』(1998/仏=独=ユーゴスラビア)

黒猫・白猫(字幕版)

黒猫・白猫(字幕版)

  • バイラム・セヴェルジャン
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★★★

ドナウ川のほとり。マトゥコ(バイラム・セヴェルジャン)には父・ザーリェ(ザビット・メフメトフスキー)と息子・ザーレ(フロリアン・アイディーニ)がいるが、放蕩癖のせいで父からは見捨てられている。マトゥコはある計画の失敗によってギャングのダダン(スルジャン・トドロヴィッチ)から多大な借金を負う。借金を棒引きしてもらうため、息子・ザーレをダダンの妹・アフロディタ(サリア・イブライモヴァ)と結婚させることになった。ザーレもアフロディタも嫌がっている。

全体的にテンションが高くてついて行けないところがあった。思えば、尺の大半がお祭り騒ぎだったような気がする。普段の生活も騒がしければ、結婚式はそれ以上に祝祭的だ。アヒル、ヤギ、ブタなど動物が多数登場し、楽団が陽気に音楽を演奏する。村にはなぜか遊園地のような回転遊具があった。ドナウ川では現地民だか観光客だか分からない人たちが呑気に遊泳している。そして、主要人物もとにかく濃い。マトゥコはお調子者の駄目オヤジだし、ダダンはヤク中のせいか何をするのか分からない衝動性がある。ザーリェは一度死んだのに蘇るし、ゴッドファーザーのグルカ(サブリ・スレジマニ)も癖のあるお爺ちゃんだ。総じてオフビートな感じが半端ない。極論を言えば、この村はガルシア=マルケスからマジックリアリズムを抜いたような村なのだ。何をして食っているのかは分からないが、とにかく生活は成り立っている。毎日毎日お祭り騒ぎしている。東欧と南米は地理的に離れているものの、気質的には似た部分がある。まるで世界の辺境を見ているような気分だった。

村は電気も通っているのか怪しい農村共同体だが、いい加減に生きても許されるような鷹揚さがあり、そこは素直に羨ましいと思う。日本より貧困なのに日本より生活に幅があるというか。つまり、自由がある。日本は学校を卒業したら正社員として就職しないと生活が成り立たない。結婚もできないし、子供を持つこともできない。フリーターや派遣社員のままだと将来的には人生が詰んでしまう。特別な才能がない限りはレールに乗った人生を求められるのだ。先進国なのにこんな窮屈な生き方を強いられるなんてどういうことだろう。本作の村は見るからに貧しいが、少なくとも自由はある。レールに乗らなくてもとりあえずは生きていける。人によってはユートピアのように映るのではないか。毎日がお祭り騒ぎで、こういういい加減な生活を送るのも悪くない。農村共同体こそが人間らしい生き方のできる唯一の場とすら思えてくる。

面白いのはこの村に資本主義の工業製品が持ち込まれるところだ。ドラム式洗濯機やポータブルレコードプレーヤー、ハンディクリーナーなど家電製品が目白押しである。そして、電気も通っているのか怪しいのに部屋にテレビのある家庭もあった。ドナウ川では商船が通りかかり、村人はそこから物品を買い込んでいる。牧歌的な生活とは不釣り合いな資本主義の工業製品たち。多数の動物と多数のモノに溢れたごちゃごちゃした世界観がたまらない。人々も場所もとにかく賑やかだった。

もっとも印象的だったシーンは、ザーレとイダ(ブランカ・カティク)がひまわり畑でイチャイチャするシーン。ロケーションとシチュエーションが抜群に噛み合っている。よくこんな場所を見つけたものだと感心した。

立川譲『BLUE GIANT』(2023/日)

BLUE GIANT

BLUE GIANT

  • 山田裕貴
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★★★★

世界一のジャズプレイヤーを目指す宮本大(山田裕貴)が仙台から上京する。彼はサックスを吹いていた。大は故郷の同窓生・玉田(岡山天音)の家に転がり込む。やがてピアニスト・沢辺雪祈(間宮祥太朗)とバンドを組むことに。素人の玉田が志願してドラムを担当する。3人はJASSというバンドを組み、日本最高のステージ「SO BLUE」への出演を目指す。

原作は石塚真一の同名漫画【Amazon】。

10代の輝きをジャズの演奏を通して表現しているところが良かった。大、雪祈、玉田。3人を結びつける動機はストイックかつ情熱的である。世界一のジャズプレイヤーになりたい。日本最高のステージに立ちたい。この3人で演奏をしたい。ロックバンドとは違い、ジャズバンドはすぐに解散する。相手を踏み台にして成り上がっていく。そういったクールさが前提にありながらも、演奏を重ねるうちに3人の絆は深まっていく。今やらなければ後悔する。現在の蜜月はいずれ終わるという意識でバンドに全力投球しているところが眩しかった。思えば、僕が10代の頃は特に打ち込むものもなく、本を読んでバイトをして友達と遊び、ついでに勉強していたくらいである。そこら辺によくいる平凡な大学生だった。だから3人のやっていることには憧れる。一つの物事に時間と労力を注ぎ込む姿に惹かれる。夢に向かってひた走る行動力は若者の特権であり、10代の輝きがとても眩しかった。

原作は漫画だが、音楽を題材にした漫画は映像化によって命が吹き込まれると思う。『けいおん!』や『ぼっち・ざ・ろっく!』【Amazon】、『のだめカンタービレ』【Amazon】など、アニメ化した音楽漫画は枚挙にいとまがない。どれも楽曲や演奏が神がかっており、見ている者を感動の渦に巻き込んでいく。やはり音があるだけで説得力が段違いだ。どんなに言葉を尽くしても、どんなに絵で表現しても、漫画である以上実際の演奏は分からない。ところが、映像作品は音を鳴らすだけでそれがどんなものか一発で分からせてしまう。だから音楽漫画ほどアニメ化と相性がいいものはない。本作の演奏シーンは作画と演奏に迫力があって素晴らしかった。作画は熱量が半端ないし、演奏も個性的で作画に負けてない。世界一を目指すのも伊達ではないと思わせる。

3人の中で素人なのは玉田だけだが、壁にぶち当たるのがキャリア14年の雪祈であるところが面白い。彼は技術力こそトップレベルであるものの、その道のプロに小手先で演奏していると喝破されるのである。ジャズのソロパートは即興だから自分を曝け出すことが要求される。自分を曝け出すゆえにその人に備わっている人間性が演奏に表れる。雪祈がその道のプロに人間性までダメ出しを食らうところが強烈だった。もちろん、徹底的に批判されたからこそ壁を乗り越えたときのカタルシスは最高なのだが、本作はそこから一捻りあるから油断できない。完璧な大よりも、あるいは未完の玉田よりも、大と双璧と思われた雪祈の成長が目を引く。

エンドロール後にエピローグを入れたのは『セッション』との差別化を図るためだろう。本当だったら演奏が終わった瞬間でぶつ切りにしたいが、それだと二番煎じになってしまう。身近に前例があるために最適解を選べないのだ。この辺が後発作品の難しいところである。ともあれ、10代の輝きをジャズの演奏を通して表現しているところは素晴らしかった。

コード・ジェファーソン『アメリカン・フィクション』(2023/米)

★★★

小説家のモンク(ジェフリー・ライト)は作品に黒人らしさが足りないせいで鳴かず飛ばずだった。やがて身内に不幸があり、また、母親を介護するために多額の資金が必要となる。切羽詰まったモンクは冗談で黒人らしさをふんだんに取り入れたジャンク小説を書く。ところが、それがベストセラーになるのだった。

原作はPercival Everett『Erasure』【Amazon】。

『ゲット・アウト』系統のPCを風刺した映画。『ザ・ボーイズ』もそうだったが、このところPCを皮肉った映像作品がアメリカから出てきて面白い。PCは差別を解消するための規範であるが、その規範が行き過ぎて民衆の言動を抑圧してしまう。のみならず、心まで侵食して支配してしまう。冒頭で「人造黒人」の語を不愉快と言って退席した学生はその象徴だろう。彼らはPCに洗脳されている。リベラルの規範を疑いなく信じている。そういう人たちは得てして黒人にステロタイプを抱いていて、彼らをかわいそうランキング上位に位置づけがちだ。黒人と言ったら、ヤク中でラップ好きで父親を射殺する社会の底辺。世間からギャングスターの役割を望まれている。アメリカ社会は多様性を謳っているが、実際は黒人の多様性を認めてない。黒人には黒人の、つまり、かわいそうランキング上位としての役割を求めている。差別を解消しようとする規範が新たに差別的な固定観念を生んでいるのだ。黒人は黒人らしく振る舞わなければならない。それが呪いとして機能している。本作はPCがもたらした歪みを捉えていて面白い。

作家なんて売れたくて売れたくて仕方のない人種なのに、モンクは自作を正当に評価されたいと願っているのだから捻くれている。冗談で書いたジャンク小説が世間に受けているのがたまらなく許せないのだ。自分は人種を超越した文学作品で評価されたい。ところが、世間は黒人らしさを詰め込んだ退廃的なゴミを望んでいる。このギャップに苦しむ様子が本作の見所であるが、正直言ってかなり胡散臭い。冗談で書いた小説とはいえ、ベストセラーになったら大金が手に入る。モンクは母親の介護費用が入り用だから本音では嬉しいはずだ。背に腹は代えられないものである。とはいえ、昔からこの種の悩みはよく聞く。本当は純文学を書きたいのに生活のために泣く泣く娯楽小説を書くようになった、と。結局、金というのはやりたくないことをやるから手に入るのであり、正当に評価されたいと願うのはおこがましいのである。ジャンク小説を軽蔑するモンクは贅沢ではなかろうか。資本主義社会において純粋な芸術家など存在しない。芸術家は同時に労働者でもある。労働者は顧客のニーズを満たさなければならない。我々は人生のままならなさを受け入れる必要がある。

本作はオチが不満だ。すべては茶番だと主張したいのだろうが、入れ子構造にすることで本筋から逃げているように見える。やっていることは昔ながらの夢オチに近い。途中まで面白かったのに最後で台無しになってしまった。

スティーブン・スピルバーグ『ウエスト・サイド・ストーリー』(2021/米)

★★★

マンハッタン。当地では2つの不良少年団が対立していた。1つはポーランド系アメリカ人のジェッツ。もう1つはプエルトリコ系アメリカ人のシャークス。ジェッツのボスはリフ(マイク・ファイスト)、シャークスのボスはベルナルド(デヴィッド・アルヴァレス)である。ある日、リフは親友のトニー(アンセル・エルゴート)をダンスパーティーに誘う。そこにはベルナルドの妹マリア(レイチェル・ゼグラー)も来ていた。トニーとマリアは互いに一目惚れする。

ロバート・ワイズ版(邦題『ウエスト・サイド物語』)のほうが圧倒的にいい。スティーブン・スピルバーグという天才ですら先行する映画を超えられなかったのは悲しいものがある。まあ、そもそも後発作品は先発作品の批評という形でしか存在し得ないから分が悪い。それは理解できる。だから人種問題を前面に出したリアリズム重視の内容になったわけだが、いくら差別化を図るとはいえ、今更そんなアレンジをしてどうするのか疑問である。確かに新鮮と言えば新鮮だ。しかし、代わりに華を失った。いくらブロードウェイの名作とはいえ、再映画化の意義がいまいちよく分からない。

ナタリー・ウッドやジョージ・チャキリスに匹敵する名優がいないのが敗因だろう。キャスティングは総じて政治的に正しい配慮がされていて、今回のマリア役はしっかりラテン系である。前回のような掟破りの配役はできなかった。当然、ジョージ・チャキリスのような輝きを持った俳優もいない。みんなモブのようである。一方、リチャード・ベイマーとアンセル・エルゴートは同格といった感じで、主役のわりに影が薄いところが共通している。全体的に本作の俳優はパッとしない。そこが引っ掛かった。

人種問題についてはかなり突っ込んでいる。ジェッツとシャークスは同じ移民集団であるが、ジェッツがポーランド系で白人なのに対し、シャークスはプエルトリコ系で有色人種なのである。この差を明確にしたところが印象的だった。ジェッツは自分たちを本流のアメリカ人と信じていて差別意識が強いし、シャークスはそんなジェッツに反発しつつよそ者という意識を強くしている。同じ移民でも白人と有色人種の共存は困難だった。面白いのは、ジェッツのメンバーがシャークスに差別的な言葉を投げつけているところだ。これが見ていて胸くそが悪くなるくらい侮辱的なのである。僕はこのシーンを見て思った。実はスピルバーグが一番やりたかったのは反PC的な描写なのではないか、と。つまり、PCを口実にして反PC的な描写をする。このような構造は『プライベート・ライアン』や『シンドラーのリスト』でも見られた。全体としては戦争や暴力に反対しつつ、細部では恐ろしくリアルな(スナッフ・フィルムのような)暴力を描いている。反PC的な描写にはこちらをぎょっとさせるような衝撃があるわけで、その衝撃をスピルバーグは観客に与えたかったのだろう。こういうところは食えない監督だと思う。

一番良かったシーンはトニーとマリアが一目惚れしたシーン。2人は軽く踊って話し合う。マリアのほうがキスを持ちかけ、いったんトニーが身を引いた後に2人はキスをする。一連の流れが芸術的だった。