約束は嘘の味がする

あることに誘われたけどちょっと気乗りがしなくて、その日は大事な予定があると嘘をついて逃れる。嘘をついたから、その日はうっかりインスタに矛盾する内容を投稿するわけにはいかない。他の人に週末の予定を話すときも、嘘をついた相手につながる可能性があるかを考えて慎重に答えないといけない。むしろ実際に大事な予定を作った方が楽な気がしてくる。

嘘は約束とほとんど同じものだと思う。噓がばれないようにするのと、約束を果たすのと、どちらも同じように責任を負うし、失敗すれば信頼を失う。どちらも、世界のあり方へコミットする行為だ。嘘は虚構へのコミット。約束は事実へのコミット。実はたいして変わらない。

むやみに嘘をついてはいけないし、同様にむやみに約束をしてはいけない。すればするほど、自由を失うから。逆に言えば、嘘を絶対につかないというのは、世界の現れ方に対する責任を一切拒否することだ。意思がなく、貫く筋もなく、勝手気ままに漂うだけの態度。何事も約束しない人と同じくらい、一切嘘をつかない人も実は度し難いのだと思う。

別の角度から見ると、この世界に何かを実現していこうという営みは、約束と嘘の両方を必然的に伴う。そして、もし嘘を徹底的に排除しようとする営みがあるのであれば、それは何かを実現するということからも徹底的に遠ざかることになる。これが、ビジネスとサイエンスの埋まらない溝なのだと思う。

特権への罪悪感

地域格差、経済格差、教育格差、文化資本、諸々の生得的属性といった要因がある人々を不利な状況に置き、ある人々には「特権」を与えている。そんな話をネットで見ない日はなかなかない。私自身、困難もあったにせよ、いくつかの面で利益を受けてきた。そうした格差が歴然と存在し、温存されているのは良いことだとは思わない。だから、恵まれた立場にいることを後ろめたく感じている。

けれど、その「後ろめたい」という罪悪感は本当に当を得たものなのだろうか。たぶん、違うと思う。もちろん社会的資源は公平に配分される方がよく、恣意的な偏りが出ているのはよくないことだ。しかし、「私」という個人がその構図の中で恵まれた立場にあることに意味を見出すのは間違っている。たまたまでしかないのだから。その席に座っているのが代わりに「あなた」であっても、「どこかのだれか」であっても、やはり格差が問題であることは変わらない。そうした構造へ本当に目を向けなくてはいけないのに、個人的な立場に対する罪悪感として捉えてしまうと、その席を手放して罪悪感から逃れたい、被害者ポジションに収まって楽な気分でいたいという意識に矮小化されてしまう。その罪悪感はニーチェの言うところのルサンチマン、禁欲的な態度に由来するものだ。そうした態度こそ、構造が温存される原因ではないか。

けっきょく、あなたがその「特権」を手放しても、その存在が消えるわけではない。社会は良くならない。たとえば金融資産のようにその特権が分割可能なものであるのだとしても、それを細かく分けてばら撒いて一文なしになったところで貧困問題、その根本にある搾取の構造の解消には寄与しない。寄与したとしたら、それは効果的に資産を活用したからであって、あなたが貧乏になったからではない。世界はゼロサムではないのだから、社会のためになる事業を立ち上げて、むしろいくばくかの財を築きながら貢献することだってできるかもしれない。ましてたとえば出生地のように分割不可能な特権であれば、自分が持っている→他人が持っている、と変えたところで何が改善するのか? 問題はその偏りを生み出す構造なのであって、たまたま偏りの対象となった個人が悪いわけではない。

「特権を持っている私がいまどうしたら気分が楽になるか」は、善悪や取るべき行動の判断指針にはならない。無知のベールの議論を(ある意味逆向きに)当てはめるなら、いま自分が座っている席に依存した態度を取るのは的外れだ。席を入れ替えたところで意味はない。

だから、ありきたりだけれど、やるべきなのは、自分の生活をしながら世の中がより公正になるようできることをすることだけだ。そのとき、もし持っているものが活用できるならするのがよい。極端な自己犠牲や後ろ向きな自罰的感情の入り込む余地はない。

再始動?

このブログはもう少し気軽に使っていくようにしたい。思考の断片も、なるべくまとめていかないと忘れていってしまう。

最近はいろいろな書き物、ノート、メモや日記を整理して見通しをよくする仕組み作りをがんばっている。仕組みづくりをがんばるんじゃなくてそれを使って実際に何かを生み出していくことこそをがんばらなくてはいけないのだけど、ある程度まで楽しんでいくのはいいのかなと思う。それによって結果的にたくさん書くことができるだろうし。

矛盾は矛盾じゃない

あれとこれが矛盾してるじゃん! って思うことは珍しくはない。でも、突き詰めていくと何事かが本当に純粋な意味で矛盾していることはないのだと思う。何か前提を置いているから、矛盾していると感じてしまうだけ。その前提を、ちゃんと考え直す必要がある。

「昼食はカレーにしたい。昼食は中華にしたい。」……たぶん矛盾している。でも、昼食をハシゴすれば両方食べられるじゃないか。あるいはどこかには中華カレーもあるかもだけど。

猫大好きだけど猫には絶対近寄らない、それも矛盾じゃない。猫アレルギーなだけ。

スライドの情報量もっと減らせって前回は言われたけど、今回は必要なことはちゃんと書いておけと言われたのは矛盾? それだって、前回と今回じゃ時間や会場や聞き手が違うからであって、あべこべなことを教えているわけではない。


現実の世界は無限に複雑なのだから、あることが正しくて、かつ間違っていることはいくらでもある。時と場合による、というやつだ。昨日と今日で違うことを言ってはいけないとか、あの人とこの人に違うことを言ってはいけないとか、そういうのは外から前提を持ち込んでいるだけだ。

前提は、世界をスライスにする。3次元では交わらない直線も、2次元ではぶつかってしまうのと同じで、たとえば時間軸で言うことが一貫していないといけないという前提を導入するのは、世界の時間方向を消し去るのと同じことで。そのときにはじめて矛盾が生じてくる。

スライスする方向は時間や場所だけじゃない。たとえば「カニを食べたいけどカニを食べたくない」ことだってきっとある。味としては食べたいけど、手間としては食べたくないということ。それが、人の望みは複雑な形をしていてはいけない、一点に収束していないといけない、という前提を入れたときには矛盾になる。あるいは、代わりにあなたがカニの身をほじってくれてもいいけれど。

何でもかんでも相対化したいわけじゃない。たとえば現実的には一人でお昼ご飯を食べるときには一つの定食メニューを選ばないといけない。たとえば住む場所を決めるときには一定のトレードオフの中から選ばないといけない。

でもやっぱり、考えてみればだれかを誘ってごはんを半分こにするって選択肢だってあるのかもしれない。もしかしたら平日と週末で違うところに住むって選択肢もあるのかもしれない。一人、一箇所という前提でスライスしていたから、同時に成立しなくなっていただけ。ただ前提を外せばいいというものではない。必要な前提ももちろんある。だけど、知らないうちに前提にとらわれていてはいけない。わかって選ばなくてはいけない。

他人の矛盾だって同じだ。昨日はこれからはooの時代だって言っていたのに今日はこれからはxxの時代だって言うのだって、別に矛盾ではない。ただ、もしそれが周りの行動を振り回して困らせているのだったら、一緒に何か仕事をする以上は昨日と今日でむやみに違うことを言ってはいけない、という前提が必要だってこと。

お金を節約しなさいとあなたに言っておきながら、その人は浪費している。それだって、その人なりの文脈を考えればきっと矛盾ではない。もしかしたらずいぶん前からほしかったのかもしれない。あるいは、あなたとその人で別扱いなのかもしれない。むかつくにせよ、「あなたと私は同じ基準でお金を使わなくてはいけない」というそもそもの前提があってこその矛盾だ。その前提が正しいのであれば主張すればいいと思うけど、どちらにしても前提があることは意識しておいた方がいい。言い争っているように見える主張ではなくて、考慮から漏れている前提の段階でそもそも食い違っているかもしれないから。


世界を平面ではなく立体で、立体ではなくもっと高次なものとして、とらえていけば、矛盾しているように思えるのは実際には単に別々の場合に過ぎないとわかるようになる。その上で、この面で切ったらたしかに矛盾だ、と認められるとなおよい。矛盾だけの話じゃないけれど、そうやって世界をどう捉えるか、どう切るかに柔軟になること、自覚的になることは、人間の精神的な成長のうち大きな部分を占めていると思う。

日本に留学しよう

親戚の葬儀に出る。地元の名士とでも言うべき人物で、ずいぶんたくさんの人々が参列していた。代々檀家をしている寺で、一族に顔なじみらしい僧侶が読経をはじめる。その声が響き渡る本堂で、そっと薄眼を開けながら考えることがある。わたしは一生のうちに、このような文化体験を、どこか日本以外でできるだろうか。観光客向けによそゆきのラッピングされていない、内側にいる人たちだけのための儀式を目撃することがあるだろうか。あるいは、もしわたしが日本に生まれなかったら、この場に入り込む方法はあっただろうかと。


「国際的」な人間になりたい人たちが、一部にはたくさんいる。わたしは別に国粋主義者でも保守主義者ではないと思うし、かつて、あるいは今でもそういう「グローバル」な人々に共鳴するところも少なからずある。ただ、最近になって、その手の考え方に底知れない軽薄さを感じるようになってきた。そこには、どこまでも希釈され、どこまでもコモディティ化された記号としてしか、もはや文化の形は残っていないではないか。土地や歴史、何よりそこに暮らした人間に根ざした生き方は損なわれてしまった。代わりに、博物館に展示されているかわいい動物の剥製に成り果てた「文化」がそこにはある。もう血が流れていない。唯一「文化」の血が臭うのは、その文化が西欧的な、あるいは「グローバル」な標準化との間で摩擦を起こすとき。そこでは人間の生き様の最後のあがきを目にすることができる。

あるいは少し違う人たちに目を向ける。「世界で活躍するためにはまず日本の文化を学ばなきゃね」というおきまりの文句がある。で、どんな文化? 茶道? 生け花? 趣味としては面白いと思うけど、それは死体だ。だってもう解剖が済んでいるから。きわめてきれいに整えられて、解釈がなされて、ストーリーが付与されている。それが文化の死体処理。そうして今や剥製としてガラスケースの中に展示されている「文化」という名の商品にすぎない。ツアー旅行を企画したいならそれでもいい。海外で博物館を巡って「先住民の伝統の舞踏」みたいなものの実演を見て、ミュージアムショップでそれらしきグッズを買って、それで何か深いことを知った気分になれるならそれでもいい。

本当に興味をそそるのは、世俗の人々のリアリティのある暮らしではないか。社会における光と陰ではないか。どのような規範があって、暗黙のタブーがあって、身分や階級はどのように構成されて、あるいはそこでどのように儀式が意味をなしているかではないか。そういうものをすべて漂白して資本主義の枠組みで再構成し直したあとに残るのは、いったい何だろうか。


思い出すべきは、わたしたちはすでに「日本にやってきている」ということだ。たまたま、この島国でインサイダーの顔をするための潜入作戦に成功している。他の国では話されていない独自の言語も理解できる。だったら、ここでフィールドワークをやる以外ないではないか。どこか遠くの小さな島国への留学をする機会を得たら、そのくらいのことをしようとは思うだろう。

もしそんな気分にならないのだとしたら、それは逆説的にあなたがあまり「グローバル」な視点を持っていないからだ。日本人であることに染まりすぎて、それを当たり前だと感じてしまっているからだ。いったん出自を忘れれば、この国の人々のありかたはいろいろと興味深いだろう。冒頭に挙げたような葬式は、たぶんもうすぐ見られなくなってしまう。今のうちに観察しておかなければならない。だって、こういうのは「文化」という商品として保存されることはなさそうだから。ほかにも、社会の輝かしくない側面は、文化が商品に変換されるときにぜんぶ抹消されるから、今のうちに見ておかなければならない。けっきょく、いまここでフィールドワークして馴染めないし興味も持てないなら、よそに行っても表面的な社会しか見ないで終わるだろう。

いまあなたが異郷の文化に興味を持っているのは、それが新鮮で非日常だからにすぎない。でも、これからの数十年で、日本という土地はきっと大きく変わっていくだろう。たくさんのものが、消えていってしまうと思う。もしかしたら、あなたもわたしも故郷を捨てて移民してしまうかもしれない。だったら、せめて限りある「日本留学」の期間、この夕暮れ時のきらめきをよく目に焼き付けておくのが一番有意義なことだと思う。

不在の在

よい教育は、卒業して終わるものではなくて、むしろ卒業を始まりにして一生続くもの。それが、「学び方を学ぶ、学ぶ姿勢を学ぶ」という言葉の意味。

よい本は、読み終わって情報を得ておしまいではなくて、むしろその後の人生で経験することの意味を変える。そうすることで一生影響を及ぼす。

よい人間は、出会って別れることが、その人との出会いの始まりにすぎない人間。「不在の在」その人がいないところでも、よい影響を受け続けられる、関係性がさらに育っていく、そんな人間のこと。

Out of sight, out of mindは避けられない運命かもしれない。でも記憶はなくなっても、それでもきっと人生に影響している。だから、関係性が持続することはそんなに重要ではない。本を再読するように、たまにまた会えたらうれしいけど。

想像力の先へ

社会で他人が不愉快な振る舞いなんかをしていたときに「とてもつらいことがあったり、特別な事情があったのかもしれないじゃん。そういう想像力が大事だよ。」みたいな言説、とてもよくあるもの。昔は好きだったけどなんだか浅く感じる。子どもだましでしかない。

そこで言う「想像力」がどうにも薄っぺらい。自分が持っている感性の尺度そのものは手つかずで、外部的な条件だけ変更する想像力でしかないから。根本的な思考の枠組みそのものを疑ってはいないから。「子供叱るな来た道じゃ。年寄り笑うな行く道じゃ」はたしかに有意義な人生訓であるにせよ、どこまでも「自分の延長の他人」でしかない。だから、自分が経験する可能性のある事情とか、直接経験する可能性はなくても理解の範疇に収まることしか考えられない。

その「想像力」は、動物にセリフを当ててしまうたぐいの「想像力」だ。異質な他者を怖がる気持ちを根本的には問い直すことなく、大きくて無根拠な同質性を土台に据えて安心しようとしている。差異に意識を向けようと言いながら、表面的で偶発的な差異だけに矮小化している。

だいたい、電車に乗る列に割り込んでくる無礼な人間にきっとそんな極端な事情はないじゃないか。育った文化圏だって多くは同じだ。そうじゃなくて、そもそもの考え方が違う。それは人生の中で一つ一つは取るに足らない小さなできごとの積み重ねでできている。根本的なところから、たとえ同じ世界に住んでいても経験はまったく異なるという事実を見つめないといけない。

他者との間で根底に同質性そのものが存在しないと言いたいわけじゃない。ただそれは、この世界のありかた、身体的存在のしかた、備える感覚のつくり、そういったものを一つ一つ吟味して、むやみに同じだと思っていないか注意深く疑いながら積み上げていかなくてはいけないもの。

けっきょく、安易に極端な事情を持ち出したって他人の振る舞いを説明することなんかできない。わけのわからない他人、あるいは他の生き物すべてそう。雑な「同じなはず」から出発して同じじゃないことに驚くのははなから間違っている。けっきょく、他人なんて解剖してみないかぎり人間なのかロボットなのか宇宙人なのかすらわかったものじゃないじゃないか。何も知らないのに、どうして当然のように自分と同じだと思っているのか。一度まっさらにして考えると、むしろ驚くべきなのは気味がわるいほど感情や思考が似通っていることのほう。

そうやって考えれば、想像力なんていらない。あるいはもっともっと大きな想像力こそが必要なのかもしれない。