インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

青空文庫+物書堂

辞書アプリ「物書堂(ものかきどう)」さんが、毎春恒例の「新学期・新生活応援セール」を実施されています。macOSのユーザ限定ではありますが、さまざまな辞書が普段よりもかなりお安く購入できるので、日本語を学ばれている留学生のみなさんにもぜひおすすめしたいです。

www.monokakido.jp

最近の学生さんはスマートフォンだけですべての課題をこなしてしまうので(なんとプレゼンのスライド資料までスマホで作っちゃう!)、パソコンやタブレットさえ持たないという方も多いです。でももしAppleのパソコンやタブレットをお使いなら、ぜひ「辞書by物書堂」をブラウザの後ろに置いて、調べたい単語をその場でさくさく引いてほしいです。

たとえば青空文庫に入っているさまざまな日本文学を読みながら、単語の上でダブルクリックすればその単語が選択されます。そこで「⌘+C」でコピーすれば、後ろに置いてある「辞書by物書堂」にその言葉が出てきます。これは「クリップボード検索」で、メニューの「その他」 から「設定」にある「クリップボード検索」機能をオンにすることで使えます。

私自身は中国語や英語を学んでいるので、同じような形で「辞書by物書堂」に中国語や英語の辞書も入れて、文章を読むときに使っています。

「辞書by物書堂」はもちろんスマホでも使えるのですが、画面に限りがあるので少なくともiPhoneではパソコンやタブレットを使った上掲のようなマルチ画面にしてさくさく読むのは難しいです。いちいち文章の画面と「辞書by物書堂」の画面を切り替えなきゃならないですし。もっともこれは老眼の私が小さな画面を見るのが苦手だからで、老眼ではなくスマホ操作の熟達度も私とは比較にならないほど高い留学生のみなさんはほとんど気にならないかもしれませんが。

実のところ私は、一覧性にすぐれた紙の辞書を引いてその言語全体の「大局観」みたいなものをつかむのも大切なのではないかと考えている人間です。でも、辞書を引く手間が飛躍的に省けて、かつ複数の辞書が串刺し検索でき、iPhoneMac同士もリアルタイムで連携できる(例えばiPhoneで言葉を引いたら、それがMacbookの画面上でも表示されます)「辞書by物書堂」の便利さにはちょっと、もう、抗えません……。

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黒縁の老眼鏡

老眼がどんどん進んで、これまで使っていた老眼鏡で文字を読むのがいささかつらくなってきたので、新しいものを買い求めました。これまではチェーン店の眼鏡屋さんで格安の老眼鏡を買っていたのですが、ちゃんと検眼してもらったうえで誂えようかなと思い、老舗の眼鏡屋さんに行ってみました。老舗で老眼鏡を買う初老の男。なんとなくポエムです。

検眼してもらって初めて知ったのですが、単に文字を読むだけの老眼鏡とはいえ、いや、いろいろと文字を読むことに特化した老眼鏡だからこそ、細かい検眼とそれに従った調整が必要なんですね。検眼は以前にも経験がありますが、その時よりはるかに長い時間と多い項目でした。しかも左右の目で若干見え方に違いがあることも分かりました。考えてみれば当たり前ですか。

さらに、普段どんな状態で文字を読むことが多いのか、例えば書籍や資料を読むのか、パソコンの画面を見るのか、椅子はどんな感じで、目と文字の距離はどれくらいか、さらにパソコンの画面はひとつなのか複数なのか、つまり一点集中でよいのか幅広い視野が必要なのか……そんなあれこれをかなり時間をかけて聞き取ってくださったうえで、レンズの仕様が決まりました。なるほど、これは既製品の老眼鏡のように、単に「+1.00」「+1.50」「+2.00」……といった大まかな度数では対応できない繊細さです。

そのぶんフレームとレンズを合わせた値段はお高くなりますし、老眼はどんどん進行するでしょうから早晩また買い替える必要があって、ちょっともったいない気もします。でも、毎日かなりの時間を老眼鏡のお世話になっている以上、これくらいの出費は惜しまなくてもいいかなと。ひょっとしたら時々襲われる頭痛の原因は、眼に合っていない老眼鏡にあるのかもしれませんし。

フレームは「ラフォン」というメーカーの太い黒縁を選びました。私としてはとてもいいチョイスだと思ったのですが、家族からは「東海林太郎みたい」と言われ、同僚からは「ミニオンズ」と言われ、オンライン英会話の先生からは、画面がつながるやいなや「わあ、その眼鏡、ファニーだね」と言われました。それも別々の日にお二人の先生から。

移動図書館

けさの新聞に、東京都町田市の移動図書館そよかぜ号」の話題が載っていました。ああ、まだ活躍していたんですね、移動図書館。私が子どもの頃に住んでいた団地の集会所にも、この写真そっくりな移動図書館が定期的にやってきていて、毎回楽しみにしていたことを思い出しました。

その移動図書館で借りた本のことをやけによく覚えています。その後も通常の(?)図書館で借りた本は数しれないのに、なぜか子どもの頃に移動図書館で探して借りた本の数々が強く印象に残っているのです。あの狭い空間に乗り込むことじたいに何かワクワク感があったからなのか、スペースに限りがある移動図書館だけに、司書さんが良書を厳選して載せていたからなのか。おそらくその両方なんでしょう。

とくに『エルマーのぼうけん』シリーズや『ゆかいなホーマーくん』などの海外童話の翻訳版がいまでも印象に残っています。どちらも現在にいたるまで版を重ねているようですから、これはもう定番中の定番ですよね。長じてからホーマーくんの原書である“Homer Price”を買い求めたくらい気に入っていました。


エルマーのぼうけん


ゆかいなホーマーくん

あとなぜか私が利用していた移動図書館には海外の絵本の原書がたくさん積まれていて、『Dr. Seuss's Sleep Book』などはその奇妙な世界観をいまでも覚えています(もちろん英語はぜんぜん読めなかったけど、絵が独特で)。それからアンデルセンの『みにくいアヒルの子』みたいな有名な絵本の原書も借りた覚えがあります。アルファベットのAの上に丸がついた文字(å)とかOに斜めの線が入った文字(ø)とかがあったのが不思議で、かつものすごく外国感満載な感じで。いまから思えばあれはデンマーク語版だったのでしょう。なぜそんな絵本が移動図書館にあったのかは謎ですが、自分の外語へのあこがれは、あの頃に芽生えたのかもしれないと思います。

移動図書館で借りて一番好きだったのが、永井明氏作で長新太氏が挿絵を描いている『ボンボンものがたり チビの一生』です。これは戦争中の日本を背景にした、基本的にはとても悲しいお話なので、幼い私にはショックも大きかったのですが、いまでもよく覚えていますし、思い出すといまでも胸がしめつけられるような気がするくらいです。長新太氏の絵がまたいいんですよね。氏の絵はこの本に限らずどれも大好きです。

もちろんいまでは絶版になっていて、私は古本屋さんなどでかなり探したことがあるのですが、けっきょく見つかりませんでした。それでもあきらめきれなくて、復刊ドットコムでリクエストを出しているほか、日本の古本屋とメルカリで出品があったらお知らせが届く設定にしてありますが、もうかなり長い間まったくヒットしていません。

この作品は児童文学の傑作と位置づけられているようで、図書館ではいまでもけっこう借りることができるみたいですから、遮二無二購入しなくたってよいのですが……どなたか書棚にこの本が眠っていて、もう必要ないという方がおられましたら、ぜひご一報くださいませ。

もしトラ

ワシントン・ポスト』の電子版に、日本の流行語「もしトラ」が紹介されていました。政治的・経済的にはまだしも、外交的にはけっこうなところまで、軍事的にはほぼアメリカの属国、といって悪ければ「51番めの州」ないしは「コモンウェルス自治領)」と化している本邦ですから*1、政財界を中心にアメリカ大統領選の行方を戦々恐々として見守っている、というのがニュースソースになるのでしょう。

The term has inspired spinoffs as Trump has become the presumptive GOP nominee, each term snowballing in intensity as the Japanese public has become increasingly resigned to a Biden-Trump rematch. “Moshi-tora” (what if Trump) became “hobo-tora” (pretty much Trump), then “maji-tora” (it will seriously be Trump), “kaku-tora” (confirmed Trump) and “mou-tora” (already Trump).

www.washingtonpost.com

「もしトラ」のみならず「ほぼトラ」、「マジトラ」、「確トラ」そして「もうトラ」まで紹介されているのがおもしろいですし、その英訳がまた興味深いです。なるほど“it will seriously be”で「マジにそうなるかも(なったらヤバいなあ)」というニュアンスっぽく読めるのかしら。こんど母語話者に聞いてみたいです。

日本でこれだけ「◯◯トラ」が取りざたされているのですから、ひょっとしたらと思って中国語のニュースサイトを探してみたら、果たして『ワシントン・ポスト』紙が「もしトラ」を取り上げたことを紹介した共同通信の記事を翻訳する形の『共同网』記事がありました。

美国总统大选在日本催生出了略带焦虑意味的流行语——“如果特”。《华盛顿邮报》网络版6日刊文称,奉行“美国优先”主义的前总统特朗普再次上台的可能性受到全球关注,“如果特”一词充分体现了日本人对特朗普重新掌权的不安。文章还介绍称,除“如果特朗普再次成为总统”的缩略语“如果特”外,还有代表当选可能性很大的“几乎特”,以及“当真特”、“确定特”等。

china.kyodonews.net

“特朗普*2”が「トランプ」なんですけど、「トラ」だから中国語も略して“特”と。“如果(もし)特”、“几乎(ほぼ)特”、“当真(マジ)特”、“确定(確)特”……「もうトラ」はこの記事にないんですけど、さしづめ“已经特”かなあ。“当真”は「真に受ける」というニュアンスがあるので、「マジ !?」という感じにつながって上手な訳だなあと思いました。

*1:こう書くと日本の方に叱られるかもしれませんが、少なくとも中国やロシアの指導層はそれくらいの認識だと私は思います。

*2:台湾では“川普”の表記が主だと思います。

すべてをゆるそう

自分の心と身体がそれまでとは違う状態に入ったのだなと如実に感じられるようになったのはここ5、6年のことでしょうか。現実の厳しさに比べてやや軽薄な感じがする言葉ですけど、まさに「老いのリアル」みたいなものがひしひしと迫ってくるのを、なかば驚きながら受け止めつつ、それでも往生際悪くあれこれ抗うことを試してきた……そんな感じがします。

そうやっていろいろと試しているうちに、自分と自分を取り巻く人々や社会との関係、というより自分の側からの周囲の人々や社会への捉え方がずいぶん変わったように思います。平均寿命を持ち出すまでもなく、自分がこの世の中にいられるのはおそらくあと20年もありません。それどころか、とりあえず健康で、自分の望むことが自分でひととおりできるという状態を想定するなら、あと10数年あれば「めっけもの」といったところでしょう。

10数年前といえばあなた、つい最近のことですよ。となれば10数年後もすぐに訪れてしまうわけで。そういう時間のスパンの捉え方が、人間関係や社会とのつながりに対する認識に影響を与えているのは明らかです。ありていに申し上げて、もうあれこれの七面倒くさいことにかかずらっているヒマはないんだと。“bucket list”に従って、やりたいことを率先してやり、やりたくないことは極力避けてやらないのです。

eow.alc.co.jp

そう考えて、ここ数年の間に私はさまざまなものから「降りる」選択をしてきました。ネットのSNSからアカウントを削除し、リアルなコミュニティのつきあいから退き、ルーティンに組み込んでいたあれやこれやを意識的に減らしました。いくつかの趣味ーーこれはむしろ「やりたいこと」なのですがーーも体力や気力を考えてお休みしています。

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一抹の寂しさは残りますけど、そういうある種のあきらめも必要なのだ……と自分に言い聞かせていたら、「おりる」を書名に掲げたこの本に出会いました。飯田朔氏の『「おりる」思想』です。この本では、私たちの社会がやたらに「戦え」「サヴァイブしろ」「生き残れ」と迫ってくることへの違和感を「おりる」という言葉で相対化しようという試みが論じられています。


「おりる」思想 無駄にしんどい世の中だから

基本的には、飯田氏が師事された加藤典洋氏にならって映画や小説から同時代の問題を読み解こうとする手法で、文芸評論という側面があり、その意味では同じようなテーマを論じたニート論やひきこもり論、あるいはマインドフルネス方面の書籍とはかなり違う読書感です。でも私はこの本で提示されている「サヴァイヴ」でも「戦って生き残る」でもなく、「一度死んで、生き直す」という自己肯定に興味を持ちました。

「◯◯しないと、将来大変なことになる」という恐怖感ないしは自己暗示から離れて、「もう『大変なこと』は起きてしまったあとなのだ」という諦観を抱きつつ生きていくというのは、傾聴すべきアイデアだと思いました。これは中国語の“躺平(寝そべり)”や、あるいは英語の“Quiet Quitting(静かな退職)”とも通底するマインドなのかもしれません。

思い返せば、私は若い頃に語学業界の末席に連なってからというもの、つねにキリキリと競っていたような気がします。そういう姿勢がそれなりに奏功したこともあったとは思いますし、それを悔いてもいないけれど、自分の凡庸さをじゅうぶんに理解したいまに至ってみれば、あそこまで競わなくてもよかった、あるいはもっと違う心の持ちようがあったのではないかとも感じているのです。

しかし、そういった思考と実践が若いときにはできないというのがまた、凡庸なる者の凡庸たる由縁でして。だから飯田氏のようなお若い方(1989年のお生まれだそうです)が模索するこうした生き方に惹かれるのかしら。……と、突然ですけど、ピーター・シェーファーの有名な戯曲(映画にもなりました)『アマデウス』の幕切れで、老境にいたったサリエリが言うこの台詞を思い出しました。

Mediocrities everywhere - now and to come - I absolve you all. Amen!


凡庸なる全ての人々よーー今いる者も、やがて生まれくる者もーー私はお前たち全てを赦そう。アーメン!(翻訳:江守徹

私は大学生の時にこのお芝居を初めて見て、戯曲も読んだときに、この「赦し」を老いてようやく自らの凡庸さを抱きしめることができるようになったサリエリの、自己救済の言葉として受け止めました。つまりサリエリは自分で自分を「赦す」ことができるようになったのだと。

その解釈はいまでもあまり変わりませんが、ただ、そこにはかつて感じていたような悲劇性はほとんどなく、むしろ福音とも呼べるようなニュアンスで満たされているような気がするのです。“absolve”はキリスト教的な原罪への赦しという意味があり、その原義はラテン語の“absolvere(解放する・無罪とする)”だそうですし。

「年をとるといろいろ楽になる」というのはホントだなと思います。もっとも「一度死んで、生き直す」のが、そして自分の「すべてをゆるす」のがもっと若いときにできていればそれに越したことはないわけですけど。

マウントフルな人生

「マウントおじさん」という言葉があります。あるいは「マウンティングおじさん」とも言うでしょうか。自分が他人よりも優れていることを見せつけようとする男性のことを指し、とくに、自分の経験や知識や能力などを誇示して、相手を見下ろそうとする行動をとる人がそうカテゴライズされます。

マウンティング(mounting)とはもともと動物行動学の用語だそうで、手元の国語辞書には「サルがほかのサルの尻に乗り、交尾の姿勢をとること。霊長類に見られ、雌雄に関係なく行われる。順序確認の行為で、一方は優位を誇示し他方は無抵抗を示して、攻撃を抑止したり社会的関係を調停したりする」とありました。ここから比喩的に「人間関係の中で、自分の優位性を誇示すること」をも表すようになったわけですね。さらには「マウントを取る」などという言い方もよくされるのはご承知のとおりです。

こうした使い方はいわゆる「和製英語」に属するものだそうですから、英語でこの意味を表そうとしてそのまま“mount”や“mounting”を使うと奇妙な印象を与えそうです。いっぽうで英語の比較的新しい言葉には“mansplaining”があります。“man(男性)”+“explain(説明する)”からの造語で、これも国語辞書によれば(すでにこの言葉が載っています)「男性が女性や年少者に対して、見下した態度で説明する行為」です。

きょうび性別を云々するのはあまり意味がないのかもしれませんが、いずれにしても主に男性がこういうことをやらかすんですね。しかもそこでは「おじさん」、つまり中高年の男性が強くイメージされています。私がまさしくその中高年男性なので、気をつけなきゃいけないなあと思っています。

語学業界というのはこの「マウント」がとても行われやすい環境のようでして、以前このブログにも書いたことがある「威張り系」や「昔取った杵柄系」の方々も、マウントおじさんの一亜種と申し上げてよいでしょう。先日も、とある語学学校の公開講座で話しておりましたところ、講座の内容とはほとんど関係のないところで「◯◯は✕✕ですよね」、「他にも△△という言い方がありますよね」としきりにご自分の知識を披露してマウントを取ってこられようとする中高年男性に遭遇しました。

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通訳者をしていたころも、シンポジウムなどの質疑応答の時間になるときまって「質疑」ではなく「マウント」あるいはご自分の考えを延々と開陳され(その結果、質疑応答の時間を大幅に消費してしまう)る御仁が出没して、会場の方々はもちろん、通訳者一同も鼻白む……というようなことがよくありました。

なぜ人はマウントを取ろうとするのか。その機微に深く切り込んだ『人生が整うマウンティング大全』を読みました。著者のお名前がマウンティングポリス氏なら、この本が書かれた目的も「『マウンティング地獄』から脱出し、「マウントフルネス」を謳歌するためのノウハウを余すことなくお伝え」することだそうです。


人生が整うマウンティング大全

お読みになればわかると思いますが、全篇これマウントの分析に貫かれている同書は、つまり一種のパロディです。ただ著者のマウンティングポリス氏は徹頭徹尾、マウントという行動を分析しつくすという姿勢から少しもブレることがありません。「(笑)」や「なんちゃって」などで自己ウケなりネタばらしなども行われず、巻末の「おわりに」にいたるまでパロディや諧謔であることを一切明かしません。

そういうマウントネタの数々を最初は爆笑しながら読んでいたのですが、ほどなくときどき冷や汗が流れるようになり、ページによってはかなり悶え苦しむ羽目に陥りました。そう、この本にはまるで自分のことを指摘されているのではないかと思えるネタが多いのです。そう言われてよく考えてみれば、私のこのブログのあの文章もこの文章も、ほとんどマウントではないかと。

そもそもが私的な日記を堂々と公開しちゃうブログというものは(SNS全般がそういうものですが)、その成り立ちからしてかなり「倒錯」した代物なんですよね(はてなブログも、もとは「はてなダイアリー」でした)。きょうのこの文章だって、こんな本を読んでいるオレって面白いだろというマウントである可能性は高い、あ、そういえば上段で書いた「通訳者をしていたころ」というのもマウントかも、英語の“mansplaining”を解説しているくだりも、昨日のYチェアの文章も、その前の『日の名残り』も……そう考えはじめると、もはやネット上では何も書けなくなってしまいまいそうです。

マウンティングポリス氏に指摘されるまでもなく、自分もすでにしてマウントフルな人生を送っているのでありました。

チルドレン・Yチェア

中近東の織物・キリムや北欧家具を専門に扱っているROGOBA(ロゴバ)というお店があります。お店というよりもショールームに近くて、個人が立ち寄って購入するというよりは企業なり団体なりがインテリアを調達するといった感じのお店ではないかと思われます。

www.rogobagroup.com

というわけで私はこちらのお店でなにかを購入したことはないのですが、以前フィン・ユールのペリカンチェアに興味を持っていたとき、職場近くにこのお店があったので一度「見学」に行きました。その際にメールアドレスを登録したら、お知らせを送ってくださるようになりました。ペリカンチェア自体は非常に高価でとても手が出ないのであきらめましたが。

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そのROGOBAさんから先日、新しいメールが届きました。デンマークの家具デザイナーであるハンス・J・ウェグナーの代表作で、1949年にデザインされて以来現在まで販売され続けている「Yチェア」。その椅子に「3歳のお子様からお使いいただけるサイズ」が登場したのだとか。その名も「チルドレン・Yチェア」だそうです。写真が添付されていましたが、おおお、これはカワイイ!

メールによれば、このミニYチェア、「椅子の本来の外観を保ちながら完璧なプロポーションに仕上げるためには、パーツを単純に同じ比率で縮小するわけにはいかず、個々のパーツの寸法を改めて割り出すことで実現に至りました」とのこと。なるほど、素人目には単なる縮小版に見えても、じつはかなり繊細な工芸的手法が用いられているのですね。

若い頃、私はこのYチェアに魅せられて、結婚したばかりの貧乏サラリーマンだったくせにローンを組んで4脚も購入してしまったことがあります。もっともその後離婚して、留学準備のために会社も辞めて家賃12000円の激安激狭アパートへ引っ越ししたときに、とても部屋に入り切らないので同僚に3脚ゆずりました、残りの1脚はそのまま使い続けていまに至っています。

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ずっとのちに再婚してからあらためてもう1脚買い足し、この2脚は座面のペーパーコードを張り替えながら長年使ってきました。とはいえ現在は腰痛予防のために自宅の食卓でもバランスボールに使っているので、私はもうほとんど座ることがないのですが。正直に申し上げてYチェアの「座り心地」はそれほどよいというわけでもなく(おそらく欧州の方の体型に合わせているからではないかと思うのですが)、シートやクッションなどに工夫が必要です。でもこのデザインは見ているだけで、なんだか心なごむんですよね。

日の名残り

およそ20年ぶりくらいで、カズオ・イシグロ氏の『日の名残り』を読み返しました。私は2001年発行のハヤカワepi文庫版を持っていて、かつて読んだときにとても感動したことだけは覚えていました。でも今回、ふと書棚から手にとって読みだしたら、おおまかなプロットはともかく、細かい内容をほとんど覚えていなかったことに驚きました。


日の名残り

ですから、まあ、もう一度この小説を楽しむことができてよかったわけですが、20年ほどでこんなにも内容を忘れちゃうものかなあと。というよりこれは、20年前の自分ではじゅうぶんに読み解けなかった、味わい尽くせなかった部分が多かったということなのでしょう。事実、今回は読み終わってさらに深く心を動かされました。とりもなおさずこれは、自分がこの作品の主人公であるスティーブンスと同じ年代にいたったからなのかもしれません。

ティーブンスの年齢は作中で明らかにされてはいません。しかし、語られている過去が主に1920年代からの執事としてのさまざまな体験であること、その少し前からスティーブンスが執事としての職業人生を開始したことなどを考えあわせれば、ひとり語りをしている「いま」である1956年においてはおそらく還暦前後ではないかと考えられます。

英国の、それもあの時代の英国における一般的な隠退年齢がどれくらいだったのかはわかりませんが、それくらいの歳にいたれば誰だって己の来し方行く末を、それまでとは違うレベルの切実さで考えざるを得ません。そんな心境のときに読んだものですから、この小説の最終盤に出てくる「おそらく六十代も後半と思われる太りぎみの男」との会話は、とりわけ心にしみたのでした。

この作品の翻訳は、土屋政雄氏による、丸谷才一氏をして「見事なもの」と言わしめた名訳です。でも英語の原文でこの邂逅部分はどう書かれているのだろうと興味を持って、Kindle版の“The remains of the day”も購入してみました(以下、引用があります。ネタバレにご注意を)。




'Now, look, mate, I'm not sure I follow everything you're saying. But if you ask me, your attitude's all wrong, see? Don't keep looking back all the time, you're bound to get depressed. And all right, you can't do your job as well as you used to. But it's the same for all of us, see? We've all got to put our feet up at some point. Look at me. Been happy as a lark since the day I retired. All right, so neither of us are exactly in our first flush of youth, but you've got to keep looking forward.' And I believe it was then that he said: 'You've got to enjoy yourself. The evening's the best part of the day. You've done your day's work. Now you can put your feet up and enjoy it. That's how I look at it. Ask anybody, they'll all tell you. The evening's the best part of the day.'*1


「なあ、あんた、わしはあんたの言うことが全部理解できているかどうかわからん。だが、わしに言わせれば、あんたの態度は間違っとるよ。いいかい、いつも後ろを振り向いていちゃいかんのだ。後ろばかり向いているから、気が滅入るんだよ。何だって? 昔ほどうまく仕事ができない? みんな同じさ。いつかは休むときが来るんだよ。わしを見てごらん。隠退してから、楽しくて仕方がない。そりゃ、あんたもわしも、必ずしももう若いとは言えんが、それでも前を向き続けなくちゃいかん」そして、そのときだったと存じます。男がこう言ったのはーー「人生、楽しまなくっちゃ。夕方が一日でいちばんいい時間なんだ。脚を伸ばして、のんびりするのさ。夕方がいちばんいい。わしはそう思う。みんなにも尋ねてごらんよ。夕方が一日でいちばんいい時間だって言うよ」

日の名残り』の原題にある“remains”は、まずは文字通り「残り」「残り物」「名残り」……ということで、そこにこの男性が言うところの「夕方」と、あと「人生の黄昏時」が含意されているのでしょうし、そこには大英帝国と英国貴族の黄昏もがオーバーラップされていることは明らかです。

でもそれだけではなく、特にミス・ケントンとの関係やダーリントン卿に心服しきっていたという道徳的な判断の上で、スティーブンスが何を成しとげ・何を失ったかを熟考するために、彼の人生に残された時間を意味するのですね。それが「前を向き続け、楽しむ」ことなのだと。若い頃の私にはそれがはっきりとは分からなかったのです。でも定年を間近に控えた私にはとてもよく分かります。「夕方が一日でいちばんいい時間なんだ」と。これからの時間こそがより充実した時間になるのだと。

カズオ・イシグロがこの『日の名残り』を書いてブッカー賞を受賞したのは、35歳のときだったそうです。どうしてその歳で、すでにここまである意味老成した人生の哲理にたどり着けるのか、その点にもとても驚かされます。

*1:“friend”じゃなくて“mate”というのがイギリス英語らしい雰囲気ですよね。同僚の英語教師によれば、カズオ・イシグロ氏の文章はとても「エレガント」なんだそうです。私にはそこまで感じる力がありませんが。

台湾は三分の一が……

『天下雜誌』のポッドキャストを聞いていたら、艾爾科技(L Labs)CEOの林宜敬氏がこんなことをおっしゃっていました。

我一直認為說台灣的文化基本上是三分之一中華文化、三分之一日本文化、三分之一的美國文化。只是我們台灣人自己可能不覺得,但是像我這樣經常在國外這樣到處跑的,我就會很深的感受,其實台灣就是這三種文化的融合。


私はつねづね、台湾の文化は基本的に三分の一が中国文化、三分の一が日本文化、三分の一がアメリカ文化だと考えています。台湾人自身は気づいていないかもしれませんが、海外へよく行く私のような人間にとっては、台湾は実は三つの文化が融合した国なのだとしみじみ感じられるのです。



www.youtube.com

私は華人ではありませんので、国家や政体についてどうこう、ましてやどうあるべきかということには踏み込みません。ただ、林氏がおっしゃっていることはとてもよくわかる気がしました。私自身、仕事や旅行などでつねづね似たようなことを感じていたからです。

もちろんこれは基本的には台湾の都会の、それもいわゆる“知識分子(インテリ)”と呼ばれるような人たちを取り巻く文化や環境については、というただし書きがつきます。それにひとくちに文化といっても、中国も日本もアメリカも多様ですから、これは林氏のフィールドであるビジネスにおける文化や環境について、とさらに範囲を限定すべきかもしれません。

ただ、先日ご紹介した台湾発の大学生限定SNS“Dcard(狄卡)”のYoutubeチャンネル“Dcard Video”に登場するお若い方々の発言や振る舞いなどを見ていても、また自分の職場で出会う台湾人留学生に接していても、同じような感覚を抱くことがあります。それで林氏の発言を聞き、あらためて自分の感覚を再確認したというわけです。

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台湾の長く複雑な歴史を雑駁にまとめて語ることはしたくありませんが、少なくとも近代以降の歩みとしては半世紀にわたる日本統治時代、その後の国民党政府時代、さらに1970年代における国連からの「追放」にともなう日米との断交……と、ここまででもかなり特殊な歴史がありました。

その後台湾が「国際的な孤児」となりながらも懸命に独自の模索を続け、アジアで最も民主的な国となった*1ことはご承知のとおりです。そんな台湾が経てきた歴史ならではの「三つの文化の融合」という自己認識には、それなりに説得力があります。

もっとも日本人の私としては、そんな台湾に日本文化が三分の一も寄与していると言われるのは、植民地統治の歴史も踏まえればかなり忸怩たる思いがありますし、むしろ日本があちらの文化なりビジネスのやり方なりに学ぶところも多いのではないかと思うことがありますが。

林氏は、だから台湾人はビジネスにおいて、日本人の考え方もアメリカ人の考え方もよく分かっている、それが我々のアドバンテージだとおっしゃりたいのでしょう。ここから私たちがくみ取るべきは、では日本人は台湾人の考え方やアメリカ人の考え方、さらに加えていえば華人といってもこれまた異なる中国人*2の考え方をも理解する努力をしているだろうか、ということになろうかと思います。

*1:イギリス『Economist』誌の調査部門Economist Intelligence Unit(EIU)による最新の民主主義指数(Democracy Index)で台湾は10位になっています(日本は16位、アメリカは29位)。

*2:「中国人」とはそもどんなカテゴリーなのかを語りだすとキリがないので、ここでは雑駁さを承知で中華人民共和国の人々、なかんずくその政府やビジネスパーソンと限定しておきます。「日本人」や「アメリカ人」についても同様です。

チケット詐欺

エイプリルフールを念頭に置かれてか、けさの東京新聞『筆洗』欄にこんなことが書かれていました。

四十数年前の春、上京後数日にして、新宿でインチキな映画券を売りつけられた

ありましたね、そういう詐欺。私も実はそのインチキな映画券を売りつけられたひとりです。場所はたしか有楽町だったと思います。アンケートに答えるというような形の声かけから始まり、最終的には映画チケットの回数券みたいなものを買わされるというものでした。

いまだったら声かけ即無視、ですが、こちらも四十年近く前はそうとうに世間知らずでうぶだったのです。そうやってだまされてからしばらくは、繁華街を歩くときにだまされないようわざと「こわもて」を作って歩いたりなどしておりました。そしたら今度は自衛隊の勧誘に遭うようになっちゃったんですけど。

ネットで検索してみたら、現在でもSNSを利用したチケット詐欺などがけっこう横行しているようです。みなさまどうぞお気をつけて。

ATOKの亡霊

5年以上使い続けてきたMacbook Airを買い替えました。ちょうどM3チップ搭載のMacbook Airが登場したばかりで惹かれたものの、結局自分の仕事内容などをあれこれ勘案したすえにMacbook Proへ乗り換えることにしました。メモリなど増設するとけっこうな価格になるので、オンラインで注文するときはかなり緊張しました。

Macうしの旧機から新機への移行は、専用のユーティリティ「移行アシスタント」があるのできわめて簡単に終了……するはずでしたが、これがそうは行きませんでした。最終段階にいたって、日本語と英語の入力がまったくできない状態に陥ったのです。入力システムはほかに中国語とフィンランド語が入っていて、こちらはなんの問題もないのに。

かなり時間をかけてネットをあちこち検索してみるも原因がわからないので、Appleのサポートに電話をして助けてもらうことにしました。電話口のサポートスタッフさんはきわめてていねいに、時にリモートで画面を共有しながら、いろいろとアドバイスをしてくださいました。結局のところ原因は、以前旧機に入れて使っていた日本語入力システムのATOKにあるようでした。

私はパソコンの黎明期からATOKのお世話になっていて、とても愛着のある入力システムでした。日本発のシステムを応援したいという気持ちもこもっていたと思います。ところが定額制サービスの「ATOK Passport」に移行しはじめた頃からユーザーサポートの複雑さや冷淡さが目立つようになり、いろいろと疑念をつのらせたあげく「Google日本語入力」に乗り換えてしまいました。

そのときにATOK関連のファイルはすべてアンインストールしたはずだったのですが、今回新しいMacbookを立ち上げてみると、システム設定のキーボードにある入力ソースの日本語と英語が明らかにおかしく、いったん削除してもういちど設定しても日本語入力の名称がなぜかATOKになってしまい、依然入力がまったくできない状態のままなのです。

Appleのサポートスタッフさんによれば「実は同じようなケースを比較的多く承っております。おそらくシステムの深いところに残っているATOK関連のファイルが何らかの『悪さ』をしているものと推測されます」とのことでした。おおお、手を切ったはずのATOKが何年もの時を経てこうして亡霊のように災いをもたらしているのですね。「捨てられた恨み晴らさでおくべきか」と。能『船弁慶』に出てくる平知盛の怨霊みたい。


▲後ろの人物が薙刀を振りかざした平知盛になっててくれたらよかったんですけど。

サポートスタッフさんは「ATOKが原因ということになりますと、私どもではなんともしがたく……」と逃げ腰になりはじめたのでちょっと絶望しかけました。が、「ほかに何か方法は」とすがる私に、最終手段として工場出荷状態に戻すという手がありますとのことで、結局それを選びました。Office for Macなどいくつかのアプリケーションが引き継げないのは痛かったですが、すべてのファイルはクラウドに置いてあるのでそこまで大きな損害にはいたらずにすみました。

というわけで、数珠を揉んで怨霊を祈り伏せた武蔵坊弁慶のようなサポートスタッフさんには感謝しかありません。ただ「同じようなケースを比較的多く承っております」おっしゃりながらも途中で船を降りかけ、もとい「私どもではなんともしがたく……」と逃げの姿勢を示されたのだけがAppleさんのサポートらしからず、ちょっぴり残念ではありましたが。

牛軋餅

台湾のおみやげとして喜ばれるものはいろいろとありますが、私は“牛軋糖(ヌガー)”が大好きで、よく買って帰ります。今回はいつも購入しているものとは違うお店を開拓しようと思って、Googleマップで探していたら、クチコミで“沒有傳統牛軋糖偏硬、咬不動的缺點,年紀大的人也可以吃(これまでのヌガーのように硬くて噛みにくいということはなく、お年寄りでも食べられる)”と書かれているお店を見つけました。しかも多種多様なフレーバーがあって、とてもおいしそうです。

場所は新北市蘆洲区、MRT中和新蘆線の終点・蘆洲駅から歩いて10分くらいのところです。ええ〜、見たところは商店街でもないようですし、こんなところに本当にお店があるのかなと思いつつも向かってみましたが……悪い予感が的中しました。そこにはこの牛軋糖製造元の本社があるだけで、販売自体はネットのみというお店なのでした。

ちゃんと確認しなかった私が悪いのです。がっかりしながら戻る途中、スマートフォンで検索していたら途中のMRT中和新蘆線・大橋頭駅近くに、もうひとつ評判のよいお店があるのを見つけました。ここのヌガーはクラッカーでサンドしているタイプで、いわゆる“牛軋餅(ヌガークラッカー)”というやつです。台湾観光局のこちらのページに「あまじょっぱくてクセになる」と書かれていますが、確かに。それでこちらのヌガーを家族や同僚へのお土産にすることにしました。

go-taiwan.net

“牛軋餅”といえば、永康街の“甜滿”というお店が韓国人観光客に大人気で、朝6時や7時から並ぶとか、お客さんの9割以上が韓国人とかというニュースに接したことがあります。アイドルグループSUPER JUNIORのイトゥク氏をはじめとするスターがお気に入りだそうで、それでファンを中心に人気が拡散したようです。


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なので大橋頭のこのお店も、ものすごい行列だったらどうしようと思いながら向かったのですが、そのときは誰も並んでおらず、すぐに買うことができました。お店の方によれば、やはり韓国の方が多く訪れるそうで、お店に掲げられたメニュー表にはすべてハングルが併記されていました。「韓国人はヌガー、日本人はパイナップルケーキが好きみたい」とおっしゃっていました。

いろいろな味の牛軋餅があったのですが、4種類のアソート“四喜”を何箱か買い求めました。ミルク・抹茶・コーヒー・クランベリーの詰め合わせです。日本に戻ってから家族と食べましたが、これは、か・な・り、おいしいです。朝早くから並ばなくてもいいですし、今度からはこちらを定番のおみやげにしようかなと思います。

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FOMO

台湾発のSNSで、基本的には大学生専用のプラットフォームとして人気のある「Dcard」(日本でも「Dtto」という名前でサービスが提供されています)。そのDcardのYoutubeチャンネル「Dcard Video」*1の動画で「FOMO」という言葉を知りました(14:00〜)。


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FOMOは“fear of missing out(取り残されることへの恐れ)”の略で、ウィキペディアにはこんな解説が載っていました。

「自分が居ない間に他人が有益な体験をしているかもしれない」、と言う不安に襲われることを指す言葉である。 また、「自分が知らない間に何か楽しいことがあったのではないか」、「大きなニュースを見逃しているのではないか」と気になって落ち着かない状態も指すことから、 「見逃しの恐怖」とも言う。社会的関係がもたらすこの不安は、「他人がやっている事と絶え間なくつながっていたい欲求」と言う点で特徴づけられる。
FOMO - Wikipedia

もう20年以上も前からある言葉らしいので、いまさらながらに知って己の不明を恥じているところです。これはまさにSNSに耽溺していた頃の私をそのまま表しているような言葉だと思いました。ここ数年の間に私はSNSのような「常につながる」状態の仕組みから降り続けて今に至っていますが、それはそのままFOMOを乗り越えるための努力だったと言えるのかもしれません。

qianchong.hatenablog.com

FOMOの対義語で「JOMO(joy of missing out)」という言葉もあるそうです。ネットを検索してみると、ものすごくたくさんの方がFOMOあるいはJOMOについて論じています。私はこうした言葉をまったく知らずにいて、SNSから降りるのにかなりのエネルギーを使いましたが、ここまできちんと言語化された概念をもっとはやく知っていたら……と思ったのでした。

ideasforgood.jp


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*1:ちなみにこのチャンネルの動画で繰り広げられている、台湾のお若い方々の華語はとても聴きごたえがあります。

大肚腩

旅行における楽しみは人それぞれだと思いますが、私の場合は食べ歩きです。いえ「でした」と言うべきでしょうか。年を取って、若いときのように片っ端からおいしいもの、めずらしいものを食べてまわるということができなくなりました。ほんの少し食べただけでお腹いっぱいになってしまうのです。

これでも筋トレなどしていますから(旅行中もゲスト利用できるジムを探して行っています)、同年代の方に比べればまだ食べるほうかもしれません。それでもせっかく見知らぬ土地へきたのだから朝ご飯はこれ、昼ご飯にはこちらへ行って、夕飯はこんな感じで、あと甘いものもあれこれ……と考えていても、その半分も達成できないという体たらくです。

雲田はるこ氏と福田里香氏の『R先生のおやつ』というマンガ兼レシピ本があって、そのなかに初老のR先生の助手であるKくんという二十歳の学生が出てきます。この二人は最終章で食材を仕入れに台北まで出かけるのですが、そこでKくんは大食漢ぶりを発揮して同行のフォトグラファーがげんなりするほどに食い倒れるのです。あああ、同じ初老の私も、Kくんみたいな助手がほしいです。そしたらあれこれ少しずつご相伴に預かれるのに。あ、もちろん食事代は私が持ちますから。


R先生のおやつ

そんなよしなしごとを考えつつ、旅行中はすぐにいっぱいになるお腹をさすってため息をつくのです。少ししか食べられないくせに、中年ないしは初老にふさわしくポッコリとしたお腹を。ホント、お若い方々は、お若いうちにできるだけあちこちへ旅行したほうがいいです。どなたかにお金を借りてでも。年を取ってお金も時間も多少余裕ができてから思う存分……などと思っていても、体力(と、それにともなう「健啖」力)に余裕がなくなるのですから。

ことほどさように、中年になり、初老と呼ばれる年に差しかかって初めて分かるリアルというものがあるわけで。マレーシア系華人のシンガーソングライター阿牛(陳慶祥)に『大肚腩』という懐かしい曲があって、こう歌われています。

如果有一天我有了大肚腩 你對我是否意興闌珊
如果有一天你成了黃臉婆 我是否會嫌你又老又囉嗦


いつかぼくがポッコリお腹のオジサンになったら きみはぼくに見向きもしなくなるだろうか
いつかきみが化粧っ気のないオバサンになったら ぼくはきみを面倒なやつだと思うだろうか



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この歌はいつまでも一緒にいようねという気持ちを吐露する、きわめてお若いふたりの恋愛ソングですけど、どこか老成しているような雰囲気があります。いつかはぼくも太鼓腹になっちゃうんだろうなあという一種の諦念みたいなものが感じられるんです。その意味ではアイドルソングとして異色でした。いっぽうその「いつか」がやってきて、まさにその“大肚腩”になりつつある私としては、むかし聴いていた頃よりさらに好きになりました。

余談ですけど、阿牛には“對面的女孩看過來”という大ヒット曲があって、台湾の歌手・任賢齊リッチー・レン)にも提供されていました。彼らが出演した“夏日的麼麼茶”という映画があったのですが、ふたりが20年ぶりに映画のロケ地を再訪するという番組を、先日偶然Youtubeで見つけました。現在、阿牛氏は47歳、任賢齊氏にいたっては57歳だって。でもおふたりともあんまり変わっておらず、いまだ“大肚腩”でもないような(この番組自体は2020年の制作だそうです)。歲月“無”不饒人。びっくりしました。


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この映画のテーマソングである“浪花一朵朵”も、なかなか可愛くて楽しい曲です。


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三寶

中国語圏で“三寶(三宝)”という言葉が頭についているB級グルメのメニューがあります。三寶飯とか三寶牛肉麵とか、三種類の具材を盛り合わせてご飯や麺の上にのせました的なもので、三種類が一度に味わえるのでとても豪華で(しかしそこはB級グルメなので、お財布にやさしく)幸せな気分になれます。

街で見かける三寶飯は香港式の焼き物を盛り合わせたものが多いようで、たいていは鶏肉(油雞)、豚肉(叉燒)、鴨肉というかアヒル肉(燒鴨)の三種類がのっています。鶏肉が鹽水雞だったり、いずれかのかわりにソーセージ(臘腸)が入っていたりなどバリエーションもあるでしょうか。店頭のショーウインドウに吊るされた褐色に輝く肉たちが大きな包丁でばんばん切られてご飯にのっけられて……うおお、あと私はそこに煮卵(滷蛋)も加えたい。

三寶、つまり「三つの宝」というのはもともと仏教用語で、仏教徒が崇拝すべき三つの要素、仏(ブッダ)と法(ダルマ)と僧(サンガ)のことなんだそうです。敬虔な仏教徒ほど素食者、つまり肉を食べないベジタリアンであるというのに、あえてのこのネーミングもいい根性をしていますが、まあこれは「三大◯◯」と同義で、要するにいちばんおいしいところを三種類ということなのでしょう。

台北に戻ってきて、台北駅近くの民泊へいったん落ち着いたあと、近くの食堂へ牛肉麺を食べに行きました。ここにはお店イチオシの“三寶牛肉麵”があって、牛肉・牛筋・牛肚(ハチノス)がどっさり乘っています。好きなだけ取っていい高菜漬けも乗せて食べると至福の味です。ここの牛肉麺は、手打ちのうどんみたいなちょっと不規則な形の麺で、これがまたスープによくからんでおいしいんです。特に私はハチノスが大好きで、イタリア料理のトリッパもすばらしいですけど、台湾の滷味や三寶牛肉麵で食べるコレも、それにまさるとも劣らぬ口福です。


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三宝は仏教だけでなく、日本の神道にも登場します。神様への供え物をのせる台が「三宝(または三方)」と呼ばれるんです。お正月の鏡餅をのせる台としてもおなじみです。私は子供の頃、母親の影響でとある新興宗教の価値観の中で育ち、この宗教は神道系の儀式をベースにしていたので暮らしの中に三宝の存在が当たり前にありました。私自身は大学生の時に自力で洗脳を解いたので、それからは縁のない世界ですが、それでもいまだに「三宝」という文字を見聞きするたびにちょっと複雑な気持ちになります。

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あと台湾で“三寶”にはもうひとつ別の意味があります。交通ルールを守らない人々を指す言葉です。もともと「女性・お年寄りの女性と男性」の交通事故が多かったというところから来ているそうで、そののち例えば「酒駕、屁孩、老人」つまり酒に酔っている人、年端のいかない子供(というより行動が幼児的みたいな含意)、お年寄りのように、交通の妨げになる人々という意味合いで使われます。つまり交通事故に遭いやすい「交通弱者」というよりは、交通ルールを守らない、あるいは交通ルールをよく理解していない「邪魔者」みたいな語感ですよね、たぶん。

三寶という仏教用語を用いて、対象を持ち上げるように見せかけながらその実貶めているという一種の言葉遊びみたいなものなんですが、だいたい言葉のもともとの発祥からしミソジニーの気が濃厚ですし、現代の感覚からすればもはや差別用語ですので、我たち外国人は使わないほうが無難だと思います。