らもはだ日記

鮫肌文殊(さめはだ・もんぢゅ)
1965年神戸生まれ。放送作家。
「世界の果てまでイッテQ!」(日テレ)などを担当。
「テレビ裏語録」(毎日新聞)などTV関係のエッセイ連載も多数。
昭和歌謡全般のディープな知識を活かして『決定!レコ歌ベストテン』(毎週木曜20時・中央エフエムにて生放送)パーソナリティや、
レギュラーパーティー
『輝け!日本のレコード大将』(毎月第2金曜・渋谷オルガンバー)
『歌謡曲主義』(毎月第3火曜・恵比寿頭バー)をはじめ、DJとしても神出鬼没に活動中。
関西伝説のパンクバンド捕虜収容所の無冠のボーカリストでもある。

5/30 更新

「中島らものバカヤロー」

「鮫肌、また会ったね!」
まさか、ミーさんにロフトプラスワンの楽屋でそう言われるとは思っていなかった。
2004年9月11日。
トークイベント「らもはだ」最終回。
ガンジー石原が、リハで迷曲「人間はカトリセンコウ」をつっかえつっかえたどたどしく演奏するのをBGMに、松尾貴史、オーケンと「らもはだ」おなじみのメンバーが次々に楽屋入りしてくる。
司会のアトムさんが「なんか緊張するわあ」とウロウロ。
うん、本当にいつもの「らもはだ」の本番前の楽屋風景だ。

5/23 更新

「中島らもとの最後の夜」

かまやつひろしさんとのライブイベント「らも MEETS THE ROCKER」を終えた、らもさん。
大麻での逮捕前後、かなりひどくなっていた躁転状態の中島らもに振り回されっぱなしだった我々。ムッシュとのライブを成功させて満足したのか、ここにきて躁状態が収まってきた。
プロデューサーのダ・ヴィンチ誌のキシモト嬢に「今度のゲストに忌野清志郎、内田裕也を呼べ!」と無茶ぶりを所望したりもしなくなった。
ここからラストまで「らもはだ」は、「知る人ぞ知るいろんなジャンルの専門家」を迎えて、有名どころのゲストとのトークだけではないまた別の展開を見せようとしていた。

5/17 更新

「らも meets THE ROCKER」

らもさんの躁転はまだ続いていた。
キシモト嬢に、らもさんのいないところでこっそり言われた。
「私は、『らもはだ』にロックの人ばかり呼ぶのには反対なんです」
らも逮捕後の「らもはだ」ゲストのテレビタレント中心のポップな人選は、プロデューサーであるキシモト嬢のアイデアであった。

5/9 更新

「面白いこと言わない奴には用はない」

トークイベント「らもはだ」はテレビ的なゲストが続いた。

2004年1月10日のゲストは私にとって放送作家界の大先輩に当たる高田文夫先生。
開演ギリギリの時間に楽屋入りして、いきなりらもさんに「いつ出てきたの?」と、つかみのギャグ。「はじめまして」と挨拶したオレに「兄(あん)ちゃん、オレと会うの初めてだよな!?」。
今までの「らもはだ」ゲストには全くなかったプロの喋り手としてのオーラ全開。放送作家ながら落語の立川流に入門、噺家としての一面もある高田先生。
オレも司会のアトムさんも一気に緊張。「面白いこと言わない奴には用はない」って空気がビンビンに伝わってきて、スタート前から背中にイヤ~な汗が。

5/2 更新

「いま執行猶予中だから」

2003年11月8日。

トークイベント「らもはだ」に、チューヤンがやって来た。
オレが担当していた番組「進ぬ!電波少年」の大ヒット企画「アフリカ・ヨーロッパ大陸縦断ヒッチハイクの旅」に、俳優の伊藤高史と一緒に「朋友(パンヤオ)」というコンビで参加。視聴率30%を叩き出し、一世を風靡した元々は香港出身のタレントだ。
楽屋入りしてくるなり、オレに向かって。
「久しぶり!」

4/25 更新

「らも容疑者、大麻取締法違反で逮捕」

2003年2月5日。

その日は夕方から「HAMASHO」ってバラエティ番組の定例会議で麻布十番の制作会社にいた。ダウンタウンの浜田雅功さんと笑福亭笑瓶さんの2人がMCで、毎週毎週、アホな企画ばっかりやっていた番組だ。
「あの人はヒマ」
昔、一世を風靡したけど今は人気が無くなって超ヒマな人を訪ねて、記者会見形式でヒマヒマな現状をインタビューするって内容。

4/18 更新

「逮捕23日前」

2003年1月12日。

警察に自宅をガサ入れされてマリファナ所持で逮捕される2週間前。
「らもはだ」今回のゲストは、野坂昭如さん。
この日のらもさんは、尊敬する先輩作家を迎えるに当たって終始狂ったテンションのままだった。

当日、会場のロフトプラスワン入りしたオレは驚いた。

4/11 更新

「ウロウロソワソワ、中島らも~ほんじょへのラブソング」

2001年11月16日。

トークイベント「らもはだ」第七回。ゲストは、女優の本上まなみさん。これまでのサブカル系の濃ゆいゲストと比べてなんと爽やかな。彼女の大ファンのらもさんのリクエストだという。

夕方、歌舞伎町にある会場へ向かって歩いていたら、携帯電話にロフトプラスワンの「らもはだ」担当プロデューサー、サイトウさんから着信。
「何?」
「鮫肌さん、今日のゲストは知ってますよね」
「本上まなみさんでしょ」
「タンバリン持ってきてます?」
「タンバリン?」

4/4 更新

「鮫肌さんにも責任があると思うんです」

2001年秋。

中島らもが長い長い鬱の時期を経て、一気に躁転。凄いテンションで他人に対して攻撃的になっている。
トークイベント「らもはだ」を主宰するダ・ヴィンチ誌のキシモト嬢から電話があったのはそんな時期であった。
ケータイにキシモト嬢からの着信。
見た瞬間に直感した。 
中島らもが何かとんでもないことになっているのでは?

3/28 更新

「だから、かまやつさんに歌ってもらうわけにはいきません」

中島らもとロック。
昔から、中島らもはことロックに関することには本気度が違う。いつもは笑い話で済ますようなこともロックが絡むとややこしい話になる。
らもさんに面と向かって怒られた記憶は数少ないが、そのほとんどがロックに関してであった。

らもさんの家に居候状態だった時に一度こんなことがあった。

3/21 更新

「暴力バーだって、金払えばいいんだろう」

2002年7月13日、「らもはだ」第五回。
前回の井筒監督以上に濃ゆい、らもさんのコピーライター仲間の盟友がやって来た。仲畑貴志さんだ。

まずは、仲畑さんとらもさんの出会いの話から始まった。
2人で名古屋のテレビで生放送の深夜番組に出て、流れで飲みに行ったらしい。仲畑さんが選んだ店がなぜか雑居ビルの中にある怪しいゲイバー。
「仲畑さん、ここ暴力バーかもしれませんよ?」とらもさんが心配して聞いたら仲畑さんはこう返したという。
「暴力バーだって、金払えばいいんだろう。オレ、金持ってるもん!」
らもさん、その物言いのあまりのカッコ良さに痺れてしまったんだと。

3/14 更新

「今日はね、テレビで言えへんことを全部言うよ!」

トークイベント「らもはだ」は、らもさんの古くからの友人を迎えて、さらにカオスを深めていった。

2002年5月11日。

「らもはだ」第四回。ざすが前回、急病で一回休んだだけのことはある。休養充分。らもさん、ここ何回か会った中で一番体調が良さそう。去年の夏、マネージャーのアトムさんに脇を抱えられ、ヨボヨボと歩いていた最悪の状態がウソのようだ。
楽屋で、らもさん、アトムさん、付き人のアキホ君、ダ・ヴィンチ誌のキシモト嬢も交えてバカ話をしていると、外から何やらテレビで聞き覚えのあるダミ声が。

3/7 更新

「キッチュと申します」

中島らも病欠の中、行われたトークイベント「らもはだ」第3回。オレと大槻ケンヂの急造コンビで、ゲストの作家・室井佑月さんを迎えたのだが、酔っ払って暴走機関車と化した室井さんは誰も止められない。
客で来ていたキッチュこと松尾貴史もステージに上げて応戦するも、しっちゃかめっちゃか。大混乱のうちに幕を閉じた。
しかーし!
室井佑月さんとの「らもはだ」。
ステージでのトークバトルだけでは終わらなかった。

2/29 更新

「どうやってセックスするかまで知ってるの!」

「中島らも、欠席?」
トークイベント「らもはだ」3回目は緊急事態。
テレビの仕事で、タレントの山田まりやとタイ旅行に行ったらもさん。象に乗ったり、タイ料理を食べたり、それはそれは楽しい楽しい旅だったようなのだが、帰国してマネージャーのアトムさんにボソッとひと言。
「足に違和感がある」
そのまま2週間ほどほったらかしにしていたら、右足がどんどん腫れ上がってきて2倍の大きさになった。慌てて病院に駆け込んだところ「炎症を起こしている。2週間経っても治らないのは肝臓が弱っている証拠」との診断。

2/22 更新

「キミ、中島らもの名前を利用したかっただけやろう?」

「らもはだ」第二回が終わっての打ち上げの席。また中島らもお気入りの狗鍋を食わす怪しい中華屋「上海小吃」でくだらないバカ話でさんざん笑って盛り上がり、そろそろ宴会もお開きかというタイミングに。
みんないい感じで酔っ払って、参加者のそれぞれがワイワイと雑談中。

―――――今だ。言うなら今しかない。
オレは、スススとらもさんの隣へ。
今日はひとつ、らもさんに謝っておかねばならないことがあったからだ。

2/15 更新

「前回ゲロを吐いて怒られたから、今回はウンコをします」

2002年1月12日。

年明けすぐに行われたトークイベント「らもはだ」第二回目のゲストが、大槻ケンヂ。自らもロフトプラスワンで「のほほん学校」というイベントを主宰している彼の人気は絶大で、前売りだけで入場券がソールドアウトしてしまったほどであった。
筋肉少女帯のボーカリストである大槻ケンヂ、通称オーケンとオレとは同い年。
以前、『筋肉少女帯3年殺し』というセルビデオの構成をやったことがあり面識はあった。ワハハ本舗の梅垣義明さんがふんどし姿で神輿を担いでただひたすら町を練り歩く映像の合間に、筋少の楽曲のプロモーションビデオが流れる。今考えると相当にシュールな内容のビデオだった。
結局、諸般の事情で実現はしなかったのだが、打ち合わせの席でオーケンと2人で「志茂田景樹に越中ふんどしで神輿を担いでもらおう」と盛り上がった記憶がある。同世代のサブカル好きとして馬が合ったのだ。

2/8 更新

「こいつ、シャブ中や」

2001年11月10日。

2ヶ月前にあったアメリカ同時多発テロ事件で世間がまだまだザワついていた時期。
歌舞伎町ロフトプラスワンで「らもはだ」第一回目が始まった。
歌舞伎町のいかがわしい風俗店満載の雑居ビル。
地下2階への怪しい階段を降りていくと、サブカルを煮しめたような魔境が広がっている。マイクの並んだトークステージを見上げる形で、キャパ100人ほどの椅子席。ここが本日からスタートする「らもはだ」の舞台だ。

2/1 更新

「10年ぶりの中島らもは、3分間フリーズしたまま1ミリも動かなかった」

2001年、夏。中島らもとの再会。
呼び出された新宿のホテルの喫茶店。

らもさんとちゃんと仕事をするのは10年ぶりだ。東京で放送作家としてそれなりにキャリアも重ねて、上京前のダメダメだった自分とは違うという自負もあった。
今なら、中島らもと一緒に出会った頃のような面白いことが出来そうだ。そう考えるとワクワクしてきた。

1/25 更新

「死ぬ前にもう一回だけ冥土の土産にSEXしたい老婆募集」

1990年11月。

松尾貴史の誘いで上京し、古舘プロジェクトに入って本格的に放送作家の修行を始めた。
松尾さんの口説き文句は「放送作家をやれば3日で食えるから」。
事務所に行くなりチーフマネージャーに制作会社に連れて行かれた。

1/18 更新

「うちの事務所に来て、放送作家やれへんか?」

1988年から1年半。

いくら待ってもライターとしての原稿の依頼が来ないのでバイトをしていた。
日雇いの清掃のバイト。
朝8時、住んでいた幸福荘から歩いて10分のアパートの一室にあった清掃会社の事務所に集合する。
前夜、しこたま酒を飲んで二日酔い。酒臭い息で用意された作業着に着替える。集まって来ているのはオレと同じくらいの年齢のフリーターたち。
今日の人員はオレを含めて3名。
「ほな、行こか」

1/11 更新

「お題目じいさん、幸福荘に現わる」

1987年10月。

「絶対に就職したほうがええよ」
来春に大学を卒業する段になって、らもさんに強くすすめられた。
フリーの物書きになるのは、いったん会社に入って理不尽な目にあって人生経験を積んでからでも遅くないと、ありがたいアドバイスをしてくれていたのである。
「就職かぁ」
アホなオレは、らもさんの忠告を無視。就職なんて全く考えていなかった。

1/4 更新

「入院して、ひとつビックリしたことがあるんよ」

1987年7月。

笑殺軍団リリパット・アーミーを結成した翌年、大阪の北浜にある古い古いビルの一室に、らもさんが個人事務所を構えた。
「(有)中島らも事務所」。
スパッとOLを辞めたふっこさんが初代マネージャー兼秘書に収まった。
勤めていた広告代理店、日広エージェンシーに顔を出すことで、かろうじてサラリーマンしていたらもさん。さすがの中島らもも会社に行っている間は飲んでなかったのである。それが晴れてフリーになり、完全に飲酒のたがが外れた。
一日中、のべつ幕なしに飲むようになったのだ。

12/28 更新

「金はある奴が出したらええねん」

1985年も終わろうとしていた頃。
中島らもは書き下ろしの小説を執筆中であった。

「キミ、昨日の晩、ホテルの一階の植え込みの木を引き抜いて部屋まで持って入ったやろ」
いつものようにオカマのヒコちゃんのバー「DO」で飲んでいる時に、らもさんに言われた。昨夜の記憶がフラッシュバック。

12/21 更新

「舞台やったら何のタブーもないやろ」

1986年4月。

らもさんが、劇団「笑殺軍団リリパット・アーミー」を立ち上げた。「なげやり倶楽部」でテレビの中の表現の不自由さにほとほと愛想がつきた中島らもが「舞台やったら何のタブーもないやろ」とおっ始めたのだ。
まず最初の顔合わせ。
らもさんの知りあいの広告代理店の会議室を借りて。
メンバーは、らもさんが「顔が面白い」って理由のみで選んだ人たち。

12/14 更新

「こんなとこでオメコする気ィか?」

1985年12月、暮れも押し詰まって。

童貞を失ったのは「なげやり倶楽部」の打ち切りが決まったハタチのころだった。
奥手だったので、まだ経験がなかったオレ。
当時、投稿者の住所を掲載していたビックリハウス。自宅に山ほど届いていたファンレター。

12/07 更新

伝説の「なげやり倶楽部」の

1985年10月から翌年の1月まで。

わずか12回、ワンクールもたずに打ち切りになった伝説の番組「なげやり倶楽部」。
この番組、トークやライブのゲストも尖っていたが、それ以上に尖っていたのがコントコーナー。今考えても超豪華。
竹中直人、いとうせいこう、中村ゆうじ(現・中村有志)、シティボーイズというラジカル・ガジベリビンバ・システムの面々が、中島らも書き下ろしの新作コントを毎週毎週演じていたのだ。

11/30 更新

「ホントに豆腐10丁食べられるね?」

1985年11月。

日広エージェンシーに入社してコピーライターを始める前、無職時代のらもさんの家には、有象無象のヤバい友人たちが「ここなら雨露もしのげるし、なんならクスリもある」とワラワラと集まってきていた。
仲間内では通称「ヘルハウス」と呼ばれ、夜ごと酒池肉林の狂宴を繰り広げていたらしい。

11/23 更新

「もう少しで殺人犯になるところだった」

1985年11月。

中島らもと知り合ってから、全然飲めなかったオレの酒とバラの日々が本格的にスタートした。
例えばこんな一日。

朝、らもさんの家で目を覚ます。前夜の深酒による二日酔いで頭が痛い。
起き抜けのブロンを一気飲みでキメたらもさんがオレに言う。
「行こか」

11/16 更新

「たまに喋る置物、中島らも」

1985年10月19日。

土曜日の夕方5時30分、読売テレビにて、中島らもさんにブレーンとして呼ばれた番組「なげやり倶楽部」のオンエアが、ついに始まった。

この番組、総合演出のツジさんの指揮のもと、ゲストを迎えてのトークコーナーに、東京で人気のアーティストのライヴ、その合間にシュールなコントがバスバス挟まるオムニバス形式って内容で落ち着いた。

11/09 更新

「これでブロン買うてきてくれへんか」

1985年10月。

毎週毎週「なげやり倶楽部」の会議が終わった後、会議に参加していたスタッフで飲みに行く流れが定番になっていた。
会議が終わるのは土曜の夕方、行く店も決まって梅田の「ぜんべろ居酒屋」正宗屋。
酒を飲んでは、食った以上にゲロを吐くオレはみんなから、いつしか「ゲロ吐き文殊」と呼ばれるようになっていた。
金魚のフンのように毎日毎日、らもさんの後ろにくっついて回ってタダ酒をあおる日々。
帰れないので、結局、らもさんの家がゴール。

11/02 更新

「キミの胃袋はクラインの壺やな」

1985年9月。

初めて行くテレビ局。
兵庫県高砂市牛谷に住んでいたパンク少年鮫肌は舞い上がっていた。
らもさんに呼ばれて、番組のブレーンとして足を踏み入れた読売テレビ。
「ここがテレビ局か」
広いロビーがすべて光り輝いて見えた。
受付で「鮫肌」を名乗ると「聞いております。2階の会議室Aにお越しください」
キレイな受付のお姉さんの案内を聞いて、すぐに2階の会議室へ向かう。

10/26 更新

「番組のブレーンになってくれへんかな」

1985年8月。

中島らもとの最初の出会い。
高校時代、70年代伝説の読者投稿雑誌「ビックリハウス」に投稿。「エンピツ賞」って小説の賞と、「カートゥーン大賞」ってマンガの賞を立て続けに受賞した。そのせいで兵庫県高砂市の牛谷なんていうド田舎に住んでいた少年が、サブカルの狭い世界とはいえ、なんだかいきなり全国的に注目されることとなった。

個人情報にうるさい今では信じられないが、当時の投稿雑誌には採用者の名前と一緒に住所も掲載されていたのである。
そのためファンレターが一日に100通届いたこともあった。田舎の夢見がちなサブカル少年は完全に浮かれていた。
さらにミラクルは続く。ビックリハウスでの評判を聞きつけた大阪の長征社という小さな出版社から連絡があり「君の本を出さないか?」と打診があったのだ。

10/19 更新

「らもさんが、死んだ」

「らもさんが、死んだ」

2004年7月27日。

番組の構成会議の最中に鳴った携帯電話。
着信「キッチュ」。
悪い予感がしたが、すぐに出た。

電話口の向こうで一呼吸置く気配がして、松尾貴史のよく通る声が、中島らもが逝ってしまったという事実を一番簡潔な形で伝えた。