わたしたちは 火あぶりだったり 八つ裂きだったり
水攻めだったり 無数のやりにつかれたり
石を投げつけられたり
いい加減この肉体を脱がしておくれ
と口の奥でぶつぶつ言っていた
そうしたら 誰か知らない神様みたいな力が
ぴょいっと 南京豆から出すように
わたしたちをどこかへ ぷいっと飛ばした
えー どこへ と思う間もなく
魔女だ 異端だ 同性愛だ ヤマンバだ
狂女だ 呪いだ まじないだ 水子だ
間引きだ 石女だ 人さらいだ 人食いだ
夜鷹だ 売春婦だ スパイだ
なんて声がたくさん聞こえすぎて
なんのことだかわからない
はい はい そうですよ
はい はい そうではないですよ
いえ いえ 思い込みですよ
いえ いえ 好き勝手に言いなさい
ヤリタミサコ「向う見ず女のバラッド」より
始まりがシルビア・フェデリチだったので、このブログでは主として再生産労働における女性の身体の搾取の問題を取り上げてきたのだけれども、そもそも私が関心を持つ女性アナキストの女性解放運動は労働運動の中から生まれたものだ。というわけで、そろそろ生産労働における女性の身体の搾取の問題も取り上げようかと思っていた矢先、石垣りんを発見したのは以前のエントリーに書いた通り。
つまり、最初に古いエッセイ集『ユーモアの鎖国』に手を伸ばしたのも、私の最大の関心は石垣りんの銀行勤め時代の話にあったからで、そこには彼女自身が経験した生産労働における女性の身体の搾取に触れられているに違いないと狙いをつけたのだ。幸か不幸か、私の読みは当たっており、生産労働の現場においても女は一つの階級として存在していた。
一般の会社では、女性はあくまでも使われる者の立場。身分制というものゆるぎなく立ちはだかって、経営者の次に男性という上層があり、その下で働くという、二重の枷がありました。それさえ明確には気づかなかった、というのがほんとうですが。(「事務員として働き続けて」)
そのころ、女性の地位は極端に低かった。封建社会になぞらえるなら武士と町人のへだたり、階級がまるで違う扱い。女性は親睦会に入会することもできなければ、寮の使用もゆるされず職場結婚などもっての外であった。(「よい顔と幸福」)
ひとつ決まったら他の人の邪魔をしない方がいい、と学校の先生は言い、祖父は別の意味で「先に決まった所にしなさい」と言ったあと、付け加えた「あそこの銀行は食べ物の区別をしないから」どこで聞いて知っていたのだろう、といまごろ首をかしげる。(「食扶持のこと」)
こんな感じで、彼女が経験した女性差別の凄まじさ、また、その差別を(彼女自身も含めて)誰もが当然のこととして受け入れていたという事実に、ため息しか出なかった。14歳の少女が自分の身体を労働力として売ろうとを決意した時、生産労働の現場ではその身体は①女性であること②子どもであること、という二重の意味で一人前とされる男性の身体に遥かに劣るもの、それゆえに低賃金で搾取できるものというルールによって値段をつけられた。
自分で稼いだお金で好きなだけ本を買いたいと考えた少女の前に、その行手を遮る階級の壁が立ちはだかったのだ。資本家と労働者という階級のピラミッド構造には、男性労働者、その下に女性や子ども労働者というヒエラルキーが階級の中の階級として存在した。彼女のエッセイには、資本主義と家父長制が築き上げた女性差別的な賃金システムの中で、女性がさらに過酷な搾取を受けるという過酷な実態が克明に記録されていた。
もしかしたら、若い人にしか似合わないユニホームをつくることで、中高年層をいたたまれなくする、また若い人たちにもあまり長居しないほうがよい、と思わせる。そんな計算も含まれているのではないか、と勘繰った。「もちろんそうよ」、同僚のひとりは軽く答えた。(「事務服」)
中でも、私はこの『事務服』というエッセイが気に入った。短いながらも生産労働における女性差別が身体による差別であることが、これ以上ないほど雄弁に説かれていたからだ。入手しやすい中公文庫のエッセイ集に収録されているので、ぜひ読んでみて欲しい。
はずかしながら、働いて三十年余り。私ははじめて頂戴した給金十八円のあふれる喜びと、はじめて最新のユニホームを着せられたときのあふれるかなしみを忘れはしないだろう。(「事務服」)
石垣りんの銀行員時代を確認してから、塩沢美代子と島田とみ子の共著『ひとり暮しの戦後史: 戦中世代の婦人たち』 (岩波新書)を再び手に取った。石垣りんと同じように、丸の内の銀行に勤める女性が出てきたことが、記憶の端っこに残っていたからだった。7番目に「敗戦の混乱や生活苦の時期を、一家の働き手のひとりとして勤勉に勤務しているうちに、いわゆる適齢期はいつの間にか過ぎていた」Iさんが登場する。
しらずしらずのうちに勤続年数を重ねてくると、同じような仕事をしていたり職種は違っていても、銀行への貢献度は変わらないはずなのに、男女の賃金格差、昇格昇進のチャンスの不平等などがいやでも自覚されてくる。(中略)こうした身のまわりの矛盾、つまり女性差別に、疑問と不満を持ち始めてから、彼女は急速に社会問題、政治問題へと開眼する。そうして、女性差別の問題でもたんなる婦人問題ではない、もっと根の深い、資本主義それ自体のもつ矛盾であると捉えるようになる。いいかたをかえれば、イデオロギーに目覚めたということなのだろう。
まさに、ここが女性の労働権を巡って家父長制と資本主義の利益と思惑が交差するところだ。あの手この手で女性を労働市場から締め出して、資本主義社会を生き延びるためには身体しか売り物がない状況に追い込み、女性の身体を生殖と性欲という男性のニーズに応えるモノにしておきたい家父長制も、女性を男性よりも低賃金で搾取が可能な階級とすることで労働力全体の価格を引き下げたい資本主義も、女性を労働市場から排除することで大きな利益を得るのだから。
自分自身を振り返っても、学生の頃は無邪気に男女平等という建前を信じていたので、女性差別を実感するようになったのは労働市場で売買される労働力となってからだ。もし、人生のどこかの段階で賃労働をやめていたら、おそらく資本主義、家父長制、植民地主義に関して今のような考えは持っていなかっただろうし、新自由主義への興味から翻訳を始めることも、ブログを書くこともなかっただろう。そう考えると、今の私を生み出したのは賃労働者として扱われる経験であるとも言えそうだ。
再読していたら、独身婦人連盟について調べてみようと思っていたことを思い出したので、この機会に古庄弘枝著『どくふれん: 独身婦人連盟』(ジュリアン出版)を入手した。茨木のり子の『わたしが一番きれいだったとき』の引用に続く、「はじめに」には次のような一文がある。
それら戦争を原因とする「戦争独身」とでもいうべき女性たちは、良妻賢母教育を受け、「女は結婚し、子どもを産むのが当たり前」とされた社会のなかで、ひとりで働いて生きてきた。彼女らは老親、特に老いた母親を抱えて働き続ける人も多かった。そんな女性たちを世間は「オールド・ミス」「売れ残り」「行かず後家」と揶揄した。
ここを読んだ時に、ふと気がついたのだ。かつて日本で用いられていた「お局」という表現は、職場、すなわち生産労働の場での「魔女化」の手法であったことに。女性差別を体験して「イデオロギーに目覚めた」女性に、「お局=魔女」のレッテルを貼ることで、他の女性労働者が警戒心を抱くように仕向けて孤立させる。これはどこからどう見ても、あの有名な「分断して統治する」というやつで、階級闘争を妨害するための常套手段である。「お局化=魔女化」によって職場での女性の連帯を妨げることで、男性労働者の下に位置する女性労働者という階級が構築されるのを拒んできたというわけだ。
思い返せば、1971年生まれの私の世代は、多かれ少なかれ「女の子はいずれ結婚して家庭に入り子どもを産み育てるもの」という社会規範にどっぷり浸かった大人に囲まれていた。女の子に対しては「賃金労働者としての将来」が想定されていなかったから、親に「女の子は短大で十分」とか「女の子は浪人してまで四大に行くことはない」とか言われて、優秀な成績を収めていたにもかかわらず、四年制大学への進学を諦めた同級生も少なくない。
そして、私が働き始めた1990年代は、まだ職場に30オーバーの女性は珍しかった。女性は「30までに結婚する」ものだったから、就職しても数年で結婚を決めて「寿退社」するルートが存在していて、そういう女性を指す「腰掛けOL」という言葉もあった。結局のところ、「30までに結婚する」という社会規範の下で通例となっていた「寿退社」というのは一種の「予防的魔女狩り」で、数年後には魔女化して賃金格差に異議を唱えるなど、女性労働者としての階級意識に目覚めて正当な権利を主張し始める「お局予備軍」を労働市場から排除する手法だったんだね。
それから、数十年が経過して、私はとっくに魔女にカウントされる年代になったけれど、職場でお局と呼ばれることもなく、同年代の女性に囲まれながら賃労働に勤しんでいる。そう、確実に時代は変わりつつある!そんなことを考えながら、冒頭に引用した詩を思い出した。ヤリタミサコさんも石垣りんのように賃労働と創作を両立させて定年まで勤め上げ、「職場の魔女」として生きた無数の女性の中の一人なのだ。
生産労働の現場で魔女が少数派の時代は終わりを告げた。理不尽な差別に苦しみながらも働く権利をしっかりと握りしめて、果敢にも道を切り開いてくれた先人たちのおかげで、もはや魔女狩りは風前の灯となっている。全国の職場の魔女の皆さん、これからは女性労働者という階級意識に目覚めた私たちが、さらなる道を切り開く番ですよ。