デマこい!

「デマこいてんじゃねえ!」というブログの移転先です。管理人Rootportのらくがき帳。

AIは敵か?/未来を占うために歴史を学ぶ



 

私たちは歴史の変わり目に立っている?

 ⽣成AIは人類社会を変える発明だと、多くの人が主張しています。

 たとえばMicrosoftドイツ法⼈のCTO アンドレアス・ブラウン⽒は、GPT‐4の登場を「初代iPhone」に匹敵するターニングポイントだと述べました。また、東京大学副学⻑の太⽥邦史⽒は、学⽣に向けた声明⽂の中で「組み替えDNA技術」に匹敵する変⾰だろうと指摘しました(太⽥⽒の専⾨分野は分⼦⽣物学)。さらにビル・ゲイツ⽒は、AIは「GUI」以来の⾰命的なテクノロジーの進歩だと主張しています。要するにAIが社会に与える影響の大きさを、それぞれ⾃分にとって⼀番⾝近な「インパクトがあった過去の発明」に喩えているのです。

 こうした比喩は、どれくらい妥当なのでしょうか?

 

 昨今の生成AIブームは、2022 年7⽉の「Midjourney」のデビューに始まると⾔っていいでしょう。これはtext 2 image、つまり⽂章から画像を⽣成するAIでした。さらに8⽉には、同じくtext 2 imageのAI「Stable Diffusion」が公開され、オープンソース化されました。同年12⽉には「ChatGPT」がデビュー。これはLLM(Large Language Model/⼤規模⾔語モデル)の「GPT-3.5」を⼟台としたサービスであり、過去に例がないほど⾃然な対話ができるAIとして世間を驚かせました。

 さらに2023年3⽉にはChatGPTに「GPT‐4」が加わり、その性能の⾼さで私たちを震撼させました。GPT‐4は⽬を⾒張るほど的確な機械翻訳ができるだけでなく、⼤学⼊学試験や司法試験、医師試験を次々と突破しました。さらにGPT‐4のアドバイスを受ければ、プログラミング経験のないユーザーでも簡単なアプリを作れるようにまでなったのです。

 

 LLMは「⾔葉を他の⾔葉に変換するタスク」を得意とする装置(マシン)だと、私は理解しています。

 たとえば機械翻訳は、典型的な「⾔葉を他の⾔葉に変換するタスク」です。あるいは、「ぼく今⽇ぽんぽんペインでぴえんだから会社休むわ、よろ!」というくだけた⽂章を、「本⽇は体調不良のため⼤変恐縮ですが有給を取得したく存じます」というビジネスメールに書き直すことも得意です。⻑いブログ記事や論⽂も、GPT‐4は上⼿に要約してくれます。さらに⼊学試験や資格試験は、教科書という⾔葉の塊を、テストの解答欄という⼩さな⾔葉へと変換するタスクです。最後に、プログラミングは(広い意味では)要件定義書や仕様書に記された⾔葉を、コードという別の⾔葉へと変換するタスクだと⾔えます。

 GPT‐3・5、およびGPT‐4は、「よもやAGI(Artificial general intelligence/汎⽤⼈⼯知能)まであと⼀歩なのでは?」という衝撃をもって世間に受け止められました。のちにそれは過⼤評価だと理解されるようになるのですが、それでも当時は「万能のAI」に⾒えたのです。その理由は、私たちの⽇常⽣活には「⾔葉を他の⾔葉に変換するタスク」が満ちているからではないか……と私は考えています。

 

 たしかに全知全能ではありませんが、これらLLMは驚くほど多様なタスクに対応できます。また、text 2 imageのAIは、クリエーターやアーティストの間で激しい議論を巻き起こし、いまだに決着の⽬処すらついていません。さらにこの原稿を書いている現在、text 2 musicのサービスが乱⽴し、text 2 videoやtext-to-3DCGのAIの開発も猛スピードで進んでいます。

 こうして⾒ると、⽣成AIは⼈類社会を変えるほどの発明だと⾔いたくなる気持ちも分かります。

 では、どれほど変えるのでしょうか?

 過去の発明に⽐べて、どのくらい変えるのでしょうか?

 

 

⼈類を変えた発明を4つに分類する

 歴史を振り返ると「⼈類社会を変えた発明」と呼べるものがたくさん⾒つかります。ここでは便宜上、⼤きく4つのジャンルに分類してみましょう。

 

①⼈類の⽣理学に影響を与えて、⽣物学的に進化させた発明

②情報を⺠主化した発明

③⼈類にはできなかったことをできるようにした発明

④⼈類にできることをより効率よくできるようにした発明

 

 たとえば、⽕の管理・利⽤は①に相当します。

 ⽯器や⽊の棒などの簡単な道具であれば、他の動物も利⽤します(現代のラッコは〝旧⽯器時代〟を⽣きているといえます)。⼭⽕事などの⾃然発⽕を利⽤する生物も決して珍しくありません。しかし⽕を管理し、⾃発的に熾(おこ)せるようになった動物は、私の知るかぎりでは⼈類だけです。

 霊⻑類の脳のサイズと消化管の⻑さには、負の相関があることが知られています。脳と消化器官はどちらも燃費の悪い器官なので、⼀種のトレードオフが成⽴してしまうのです。果物のようなエネルギー効率のいいエサを探せるほど賢い脳を持つか、それとも、脳を⼩さくする代わりに何でも⾷べられるほど強靭な消化器官を持つか……という綱引きが、哺乳類の進化の過程では⽣じたようです。

 ⽕を通した⾷品は、⽣のままよりも消化しやすくなります。⽣では固すぎる⾁や苦すぎる野菜も、⽕を通せば柔らかくなりアクが抜けます。つまり⽕の利⽤は、脳と消化器官とのトレードオフを打ち破り、⼈類の脳が⼤きく進化することを可能にした――少なくとも、その下地を作ったのです。

 このように「⼈類の⽣理学に影響を与えて、⽣物学的に進化させた発明」では、他には酪農が代表的なものとして思い当たります。⼤抵の哺乳類では、⼤⼈になると乳汁を飲めなくなります。いわゆる「乳糖不耐症」が哺乳類のデフォルト設定であり、⽜乳を飲むとお腹を壊してしまうのです。乳離れをうながすことに便利な形質だと考えられています。

 ところが酪農の発明は、これを変えました。⼤⼈になってからも畜乳を飲める突然変異の持ち主の⽅が、⽣存・繁殖の⾯で有利だったために、その突然変異が世界中に広まったのです。

 同じジャンルの発明には、ペニシリンや、先述の組み替えDNA技術、体外受精技術も当てはまるかもしれません。かつて膝を擦りむいた程度の怪我でも死に⾄り、梅毒が不治の病だった時代がありました。しかし抗⽣物質の実⽤化により、それは過去のものになりました。百年後〜千年後の⼈類は、現代ほど強靭な免疫⼒を持たなくても⽣きていけるかもしれません。また、組み換えDNA技術や体外受精技術が⼀般化してから百世代後に⼈類がどのような進化を遂げているか、想像もつきません。

 

 

情報を民主化(大衆化)した発明

 続いて、②情報を⺠主化した技術には、⽂字・活版印刷・インターネットなどが当てはまります。

 現代の私たちは⽣まれたときから⽂字に囲まれているため、それが⽔や空気と同様に「ごく⾃然にそこにあるもの」だと誤認しがちです。しかし⼈類の歴史のうち、⽂字のない時代のほうが圧倒的に⻑かったことを忘れてはなりません。その時代には、重要な知識や、⼀族の掟のような規範は、物語や詩歌の形にして⼝承していくほかありませんでした。知識の担い⼿であるストーリーテラーたちは、社会的に⾼い地位を得ていたようです。

 ⽂字のない時代には、情報が極めて⾼価 だったと⾔ってもいいでしょう。

 知識を得たければ、その都度、それを知っている⼈を訪問し、その⼈から直接聞かなければなりませんでした。遠隔地と通信するためには伝令を送らなければならず、さらに、その伝令には⾔葉を間違えずに伝えるという責任が伴いました。知識の複製も簡単ではなく、誰かが話を聞くことでしかコピーできませんでした。さらにコピーの正確性は、聞く側の記憶⼒に依存していました。

 ⽂字の発明により、情報は⼀気に安価になりました。知識や規範を碑⽂に刻んでおけば、いつでもそれを読める――。つまり「時間差での情報伝達」が可能になったのです。さらに⼿紙を送ることで、伝令の記憶⼒に頼らなくても正確な情報を送れるようになりました。加えて、その⼿紙を書き写せば、いくらでも知識を複製できるようになったのです。国家が領⼟全体に同じ法律を(ほぼ)同時に布告することも、⽂字の発明により可能になりました。

 6000〜5700年前に⽂字体系が完成すると、メソポタミア都市国家は巨⼤な帝国へと発展していきました。またエジプトでも、ヒエログリフが成⽴して間もなく統⼀王朝が⽣まれました。もちろん「⽂字が国家を⽣んだ」といったら⾔い過ぎでしょう。インカ帝国のように、⽂字を持たない巨⼤国家も存在する(した)からです。とはいえ、⽂字の発明により、巨⼤な国家が⽣まれやすくなる⼟台が整ったことは間違いないでしょう。

 ⽂字というイノベーションにより、情報のコストが極端に安くなった――。

 これは、活版印刷やインターネットの発明前後によく似ています。

 ⻄洋で15世紀半ばに活版印刷が発明されると、教会は知識の独占を守れなくなりました。古代ギリシャ古代ローマの知識へのアクセスが容易になり、ルネサンスの⽂化が花開きました。さらに、誰もが(ラテン語ではなく)⺟国語で聖書を読めるようになり、聖職者の発⾔の正誤を確認できるようになったのです。そして16世紀以降の宗教改⾰・宗教戦争の時代へと突⼊していきます。

 おそらく活版印刷がなければ宗教改⾰は起こらず、宗教改⾰がなければイギリスの清教徒⾰命は起きず、啓蒙思想も発展せず、それらがなければアメリカ合衆国の独⽴もフランス⾰命も起きず、さらに「独⽴宣⾔」や「⼈権宣⾔」がなければ、現代の私たちが⽣きる⺠主主義の⽇本も存在していなかったかもしれない――。活版印刷は、世界を変える発明だったのです。

 インターネットがどれほど世界を変えたのかは、ここで改めて紹介するまでもないでしょう。読者の皆さんの多くが、それを実際に⽬撃しているはずだからです。1985年⽣まれの私は、10歳のときにWindows95が発売され、20歳になるまでの10年間でインターネットが急速に普及する過程を体験しました。

 1995年には、⽇本におけるポケベルの契約者数がピークを迎えました。

 2005年にはYouTubeが誕⽣しました。

 これ以上の説明が必要でしょうか?

 

 たとえばレコードや映画の発明も、②情報を⺠主化した技術の⼀種と呼べるかもしれません。かつて⾳楽や演劇はその場限りのものであり、上演されている場に⾜を運ばなければ楽しめませんでした。ところが記録技術が誕⽣したことで、同じ演奏・演技を、どこでも繰り返し楽しめるようになったのです。

 

 

人類にはできなかったことをできるようにした発明

 船や⾶⾏機は、③⼈類にはできなかったことをできるようにした発明だと⾔えます。
⼈類はもともと⼤洋を横断するほどの遊泳能⼒はありません。空を⾶ぶこともできません。私たちはイルカでも⿃でもないのです。ところが船や⾶⾏機の発明は、それを可能にしました。

 たとえばモアイ像で有名なイースター島は、もっとも近い陸地まで415  キロメートル離れた絶海の孤島です。ところがポリネシア⼈たちは、(おそらく)⾼度に発達した⼤型カヌーによって、この島への⼊植に成功しました。メラネシア⼈やミクロネシア⼈、ポリネシア⼈の居住地域を地図で⾒ると、その広さにため息を禁じえません。コロンブスが⼤⻄洋を横断する何世紀も前に、彼らはこれだけの偉業を成し遂げたのです。

 同様に、北欧のヴァイキングも優れた船を発明することで活動範囲を広げた⺠族です。彼らは⻄側はアイスランドグリーンランドまで⼊植し、さらには北⽶⼤陸にまで到達していた可能性があります。彼らの「ロングシップ」は担いで⼭を越えられるほど軽く、かなりの浅瀬でも座礁しない喫⽔の浅い船でした。この船は、彼らが東側にも広がることも可能にしました。ユーラシア⼤陸の⼤河をさかのぼることで、内陸部を冒険できたのです。

 ヴァイキングのうち、⾸領リューリクの率いる「ルーシ」と呼ばれる⼀派 は、9世紀には現在のウクライナ・ドエニプル川まで到達しました。彼らはやがて、その地でキエフ公国を建国。10世紀末には最盛期を迎えます。モンゴル(元)の侵⼊によりキエフ公国は崩壊・分裂しますが、その後、交易の要衝であったモスクワ公国が勢⼒を拡⼤。これが現代のロシアの礎(いしずえ)となります。ロシアという国名は、遠い祖先の「ルーシ」が由来です。

 

 空を⾶ぶことに思いを馳せると、なぜ⼈類はもっと早く⾶ばなかったのだろうという疑問が浮かびます。

 モンゴルフィエ兄弟が熱気球の公開実験で有⼈⾶⾏に成功したのは1783年です。ところが凧は、紀元前には発明されていました。また、ディズニー映画『塔の上のラプンツェル』にも登場した〝天灯〟も、モンゴルフィエ兄弟よりもずっと以前に発明されていた可能性があります。それらを⼤型化するだけで、⼈間を乗せることができます。⼈権意識の存在しない時代なら、奴隷や捕虜を乗せて⾶ばせたはずなのに――。

 おそらく、単純には⼤型化できない何かしらの技術的制約があったのでしょう。

 ⼈類の⾶⾏が可能になったことで、真っ先に変わったのは戦争です。熱気球が発明されて間もなく、それは砲弾の着弾地点の観測に⽤いられるようになりました。さらに⾶⾏船が発明されると、敵国の偵察や⻑距離爆撃も可能になりました。しかし⾶⾏船が空を⽀配する時代は⻑くは続かず、固定翼機の登場により駆逐されていきました。

 私たち⼀般庶⺠の⽣活という観点では、⼤型旅客機――とくにボーイング747の登場を無視できません。1970年に就航したボーイング747は、あまりの巨体のために座席が埋まらず、これが「エコノミークラス」の誕⽣に繫がりました。第⼆次⼤戦後の経済成⻑と格差縮⼩、中産階級の台頭と相まって、海外旅⾏・海外留学は富裕層だけに許された贅沢な⾏為ではなく、⼀般庶⺠でも⼿の届くものになったのです。

 このジャンルの発明品には、⽝や猫も含めることができるでしょう。

 ⼈類は⽝の家畜化に成功したことで、⾃分では感じ取れないほどわずかな匂いをたどって獲物を追いかけることができるようになりました。現代でも、猫を飼育するだけで屋根裏のネズミがいなくなったという話を⽿にします。猫の発する⾁⾷獣の匂いだけでも、⼩動物を遠ざける効果があるようです。これは⼈類の体臭では不可能なことです。猫の飼育が、まだ⽣産⼒の脆弱だったかつての農耕⺠族にとってどれほど素晴らしいイノベーションだったか、想像に難くありません。

 

 

人類にできることを、より効率よくできるようにした発明

 最後に④⼈類にできることをより効率よくできるようにした発明ですが、⾺や蒸気機関、さらにコンピューターが当てはまります。

 ⼈類は歩くことができます。⾛ることも、重い荷物を運ぶことも、畑を耕すこともできます。戦場で敵を殺すこともできます。しかし⾺を使えば、より効率よくそれらの⾏為が可能になります。

 ⼤抵の家畜には、⼈類には⾷べられないエサ(⾷べかすや牧草)を⾷⽤可能な⾁に変換するという利点があります。もちろん⾺も例外ではなく、〝桜⾁〟は私の⼤好物の⼀つです。が、その点で⾺は、他の家畜に⽐べて少々異質です。じつは、与えたエサの量に対する⾷⾁の⽣産効率が悪いのです。つまり⼈類が⾺の飼育を続けてきた第⼀の理由は「動⼒として魅⼒的だったから」であり、⾷⾁や⽪⾰・⾻を得られることは、いわば「副産物」だったといえるでしょう。

 1712年にトマス・ニューコメンが蒸気機関を実⽤化するまで、⼈類が利⽤可能な動⼒源は、基本的には⼈間や家畜の「筋⾁」だけでした。もちろん⽔⾞や⾵⾞はもっと古い時代から存在しますが、それらは⽴地が限定されます。18世紀に普及した蒸気機関は、⼈類が初めて⼿に⼊れた筋⾁以外の汎⽤動⼒だったのです。

 ニューコメンの蒸気機関は、それまで⼈間や家畜の筋⼒を使うしかなかった炭鉱の排⽔作業を代替する装置でした。ゴミとして捨てられていた⽯炭くずを燃料として利⽤できたので、⼈間や家畜を使うよりも経済的だったのです。

 その後、18世紀末にジェームズ・ワットが改良に成功したことで、蒸気機関はあらゆる分野に進出しました。蒸気機関⾞は⼈間や⾺よりも早く、確実に、⼤量の荷物を輸送することができました。蒸気船の登場により、航海は帆船時代のように「⾵任せ」ではなくなりました。蒸気稼働のドリルは、⼈間の振るうハンマーよりも効率よく岩を砕くことができました。

 かつて「計算⼿」と呼ばれる職業がありました。電子計算機が実⽤化される以前の時代に、企業や研究機関で計算作業に従事していた⼈々のことです。統計調査やロケットの弾道計算のような複雑で巨⼤な計算を、⼩さく分解して、⼤⼈数のチームで並⾏して計算していたのです。第⼆次世界⼤戦で男性が減ったことで、計算⼿は「⼥性の仕事」になりました。

 英語では「計算⼿」のことを、そのものずばり「computer」と呼びます。私たちが⽇常的に使っている「コンピューター」の語源です。

 現代のコンピューター――電子計算機は、⼈間にもできる計算作業を、より効率的に⾏える装置でした。20世紀後半の電子計算機の普及に伴い、「計算⼿」はその役割を終えて、現在では消滅しました。

 

 

⽣成AIは、人類社会をどのように変えるのか?

 

 私⾒では、現在の⽣成AIは「④⼈類にできることをより効率よくできるようにした発明」だと⾒做せます。

 先述の通り、LLMは「⾔葉を別の⾔葉に変換するタスク」を効率よく⾏える装置(マシン)だと私は考えています。また、画像⽣成AIは(品質の⾯では⼈間のクリエーターにまだ及びませんが)⽣成の速さと量では⼈間を凌駕しています。翻訳も資格試験もコーディングも、あるいは絵画や⾳楽などの創作活動も、⼈間が元々できる作業です。現在の⽣成AIは、それらをより効率よく実⾏できる発明品だといえるでしょう。

 最初は人類にできることを代替するだけだった発明でも、とことんまで進歩すると、不可能を可能にする発明へと姿を変えます。

 ヒトは霊長類の中で、最も「投擲(とうてき)」の得意な動物です。可動域の広い柔軟な肩と、大きくひねることのできる腰を持ち、おそらく投石によって獲物を仕留めていた時代があったのだろうと推測されています。しかし、かつて筋肉によって行っていた遠距離攻撃は、やがて弓矢により代替され、大砲や鉄砲が使われるようになり、ミサイルが登場し、最終的には人類の月面着陸へと繋がりました。

 生成AIも進歩の果てには、月面着陸並みの不可能を可能にするかもしれません。早くも化学分野では、新しい有機分子の設計をAIに行わせる試みが進んでいます。医薬品の開発が高速化すれば、遠い未来ではあらゆる疫病を根絶できるかもしれません。材料科学が発達すれば、ゴミ問題は終結するかもしれません。あるいは大規模な経済・社会統計データをAIで処理すれば、飢餓や貧困を無くせるかもしれません。戦争すら止められるかもしれません。

ヘロンの「アイオロスの球」の図(public domain)

 

 一方、悲観的な考え方もできます。

 どれほど素晴らしい発明でも、経済的利益がなければ普及しないからです。

 たとえば蒸気機関が実用化されたのは18世紀ですが、蒸気機関そのものの歴史はもっと古いのです。紀元1世紀ごろ、古代ローマ属州時代のエジプト・アレクサンドリアのヘロンが「アイオロスの球」と呼ばれる装置を⽂献に記しています。これは蒸気を吹き出すことで中央の球を回転させる、⼀種の蒸気タービンでした。

 この装置が実際に制作されたかどうかは定かではありません。しかし⼈類はこの時代から、蒸気を動⼒源にできることを知っていたのです。

 古代ローマ蒸気機関が普及することはなく、産業⾰命が始まるまでにざっくり2000年も待たなければなりませんでした。なぜなら、当時のローマでは貴重な薪を燃やして蒸気機関を動かすよりも、⼈間の奴隷を使ったほうが安上がりだったからです。
現在の⽣成AIが、素晴らしい技術⾰新であることは間違いありません。が、「ありとあらゆる職業がAIに代替される」と断⾔することは早計でしょう。⼈間を使ったほうが安上がりな分野では、AIで代替することに経済的利点がありません。そういう分野では、⽣成AIは、「アイオロスの球」や平賀源内の「エレキテル」のような〝興味深いおもちゃ〟にしかならないでしょう。

 

 たしかに生成AIは驚異的な発明品です。

 しかし、人類社会が「驚異的な発明」と出会うのは、今回が初めてではないのです。むしろ人類の歴史は、驚くべき技術革新の連続でした。そうした発明に出会ったとき、人々はどのように反応し、社会はどのように変わったのか――。それを調べれば「生成AIはこの世界をどう変えていくのか?」という疑問にヒントを得られるはずです。

 反面、「今回だけは別」という主張もありえます。生成AIは過去のどのような発明品にも似ていないという仮説です。この仮説の是非を検証するためにも、やはり歴史を振り返らざるをえません。

 この連載では、未来を占うために過去への旅に出かけましょう。

 

 

(次回、「直立二足歩行」編に続く。)
(※本記事は、シリーズ『AIは敵か?』の1つ目の記事です)