悲しみの果てに、死者の群れをお願いします。

演歌・オブ・ザ・デッド 公式サイト(2005-2024©りょんりょん) ※(主に)映画感想dis blogです。かなりdisってるので、不快になられた方にはお詫び致します。ごめんなさい。

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アイアンクロー

ネタバレも何も史実を基にした映画ですから。disってはいません、多分。

 

TOHOシネマズ池袋にて鑑賞

 

 素晴らしい映画でした。1970年代末期から1980年代にかけてのNWA系のアメリカンプロレスが大好きだった方にはかなり突き刺さるし楽しめる映画だと思います。

 危うげな不穏さや怪しさを醸し出しているケビンが兄弟の中では最後まで生き残り、家族に囲まれて過ごすという(映画の中での)結末は、絶望感の中の希望を感じさせてくれて、史実に基づいているとはいえ映画的には綺麗な着地点だったなと思います。なお、ケビンが中心ではありますが、全体的には群像劇の構成となっています。

 なんとなくの質感というか手触り感が映画『フォックスキャッチャー』に似ているように思えました。

 映画的な嘘というかデフォルメもしっかりとしていて、一本の映画として史実を知っている人も知らない人も雰囲気を楽しんでもらえるように作られている点は素晴らしいと感じました。省く箇所や変更している箇所も考えられていて、そこは映画としてどう道筋を立てて表現していくかを考慮した結果だと思います。

 エリック一家が好きな方や、当時からのプロレスファンには省かれ方や時系列の省略・簡略化等が気になるかもしれません。鑑賞にあたり本作はドキュメンタリー映画でも再現映画でもなく、伝記映画としての側面を持ちつつの創作映画であるという点は理解しておいた方がいいでしょう。プロレスを全く知らない人が本作を鑑賞してどのような感想を抱くのか単純に興味があります。

 本作唯一の欠点は、ザック・エフロンが鍛えすぎて、実際のケビン本人よりも体の線がかなり太くなっていることかな(笑)。もっと線が細かった印象があります(キャリア晩年は映画のようにごつい体格になっていたようですが)。ただ、よくここまで鍛え上げたよなぁと感嘆しました。今すぐにでもプロレスラーとしてデビューできそうです。

 あ、もう一つの欠点がありました。試合展開や結果が予め決まっていると思わせる描写を入れながら、そうでもないという描写(アクシデント等ではなく)も入れていたりとブレた表現になっている部分です。そこは劇中内でどちらかに統一しておいた方がよかったと思いますし、本作としては試合展開や結果は予め決まっていないというスタンスで作った方が、一家の悲劇性や呪われた一家という側面をより濃く反映できたと思います。

 実際のプロレスラーを演じられた方も結構似ていて、容姿が似ているというよりも雰囲気が似ている人を選んだのかなという感じです。特にハーリー・レイステリー・ゴディはよくこんなに似ている人を連れてきたなーと思いました。ザック・エフロンはケビン・フォン・エリック役というよりもリック・フレアー役の方が似合っていそうな気がしました。

 仕方がないこととして、兄弟間の身長の差が史実というか実際との比較でなんか違和感があるのですが、そこまでツッコミ入れちゃダメっすよね。

 

<史実と本作との大きな相違点と補足(ウィキペディアほか参照)>

生年月日(没日)/身長・体重(公称値)

フリッツ・フォン・エリック/1929年8月16日~1997年9月10日(没)/193cm・125kg

ケビン・フォン・エリック/1957年5月15日/188cm・107kg

デビッド・フォン・エリック/1958年7月22日~1984年2月10日(没)/201cm・118kg

ケリー・フォン・エリック/1960年2月3日~1993年2月18日(没)/191cm・120kg

マイク・フォン・エリック/1964年3月2日~1987年4月12日(没)/188cm・108kg

クリス・フォン・エリック/1969年9月30日~1991年9月12日(没)/165cm・73kg

※長男のジャック・アドキッソン・ジュニアは幼少期にお亡くなりになられておりプロレスラーとして活動もしていないため、ここでは省略しております。

 兄弟構成で末弟のクリス・フォン・エリックが本作内では描かれておりませんが、キャラクター的にはマイクに統合したんだと思いますし、拳銃自殺したという点でケリーと被り、映画の展開的にはNWA王者にもなったケリーの拳銃自殺をキッカケにケビンが父親から独立するという流れにしたかったと思われるため、構成上仕方がない対応だと思います。エリック一家を知らない人には兄弟が多いことで情報過多になる懸念もありますし。エンドロールにはしっかりとクリス・フォン・エリックにも敬意を示されています。

 ケビンの結婚式でデビッドが吐血(喀血?)した場面で日本に行く件についての会話がありますが、この時期前後(1984年2月)のデビッドはUNヘビー級王者で、日本で天龍源一郎氏を挑戦者に迎えてタイトル戦を行う予定となっていた件にあたります。また、この時期前の1981年にケビンとデビッドの二人は全日本プロレスに参戦しており、アジアタッグ王者にもなっています。

 ケリーがNWA王座を戴冠した日の夜に交通事故にあって右足切断になってしまったような描かれ方になっていますが、実際にはNWA戴冠が1984年5月6日で、事故は1986年6月4日と2年後となります。また、王座戴冠から3週間後に日本で行われたリック・フレアーを挑戦者に迎えた試合で王座を奪還されています(全日本プロレスで開催)。

 ケリーがWWF(現WWE)でWWFインターコンチネンタル・ヘビー級王座を戴冠(1990年8月27日)した年のクリスマス前に実家に帰ってきて、もうWWFとは契約がなくなるみたいなことを言っており劇中ではまだ王者みたいな扱いでしたが、王者だった期間は83日でその年のクリスマス前は既に王者ではなく、実際にWWFとの契約が解除されたのは1992年となり、1年以上の開きがありますし、WWFの契約解除後も米国の複数のインディー団体に参戦していました。

 ケリーが自殺したのは自宅であり実家ではありません。(←このときの自宅は実家なのかな。ここは私が間違ってるかもしれません。)

 兄弟で亡くなった順は、ジャック・アドキッソン・ジュニア(幼少の頃に事故死)、デビッド、マイク、クリス・フォン・エリック、ケリーとなります。

 フリッツはWCCWを経営(プロモーター)していたほか、一時期NWAの会長にもなっています。

 

<余談>

 昔のアメリカンプロレスをご存知ない方に簡単に説明しますと、昔は各地区毎(日本で言えば都道府県別くらいに思ってください)にそれぞれ独立したプロレス団体・組織があり、それらが集まり連携・提携して作っている組織(連合体)がNWAやAWAとなります。WWE(昔のWWWFWWF)は元々はニューヨーク地区の団体でしたが、そのまま全米全体をテリトリー(興行地区・範囲)とし今の隆盛に至ります。

 フリッツが設立したWCCWはテキサス州をテリトリーとしたプロレス団体で、NWAに加盟していました。

 NWA世界ヘビー級王者は、NWAに加盟しているその地区毎のプロレス団体に参戦(巡業)し、その地区のエース級の選手と王座を争うことから、昔は世界で一番権威のある王者と言われていました。

 

<その後>

 ケビンは1995年にプロレス引退後ハワイに移住します。その後、息子二人が日本のプロレス団体ノアに一時期入団することになります。ケリーの娘も一時期プロレスラーとして活動しています。

 

四月になれば彼女は

ネタバレはそんなにしていませんが、かなりdisっているかも。でも、好きな類の映画なんですよ、マジで。

 

新宿ピカデリーにて鑑賞

 

 原作は未読です。

 景色(風景)を綺麗に撮ってさえいればいんじゃねっていう、ふわっとした雰囲気の中で誰もが手探りで進めた結果、よく分かんない映画が産み落とされたという印象です。私は嫌いではありませんが、他人にオススメはできないよなっていう映画ではあります。なんか掴みどころがないんですよね。

 生活感が画面に映し出されていないのもそうですが、登場人物に血肉が通っていないというか、銀幕にそれが反映されていないというか。俳優陣も製作側も登場人物をしっかりと掴めていなかったというか、雰囲気のみの設定を与えられた登場人物が淡々と脚本どおりの日常を歩いているだけというか。

 生活感がないというのが悪いという意味でも否定したいということでもなく、生活感を出さないなら出さないなりの、ないならないなりの描き方があったのではないかなと引っ掛かっているのです。

 アイドル系映画の作り方(組み立て方)なのに、演技力のある俳優を主人公に据えて、風景(景色)にもそれなりに力を入れて撮影したという形が、結果としてはかなり歪な現出になってしまったのかなと鑑賞後に思い至りました。アイドル系映画がいけないという意味でもなく、それならそれに適した作り方があったでしょうよと言いたいわけです。

 それが如実に現れているのが森七菜さんの役柄で、演じられた伊予田春という登場人物は、おそらく18歳前後から32歳前後の年齢を劇中内で推移したはずなのですが、大学生時代はいいとしても、現代のところではどう見ても20歳から22歳くらいの容姿であり、映像と設定年齢とのギャップが激しいんですよね。

 ここが昔からの日本の俳優陣と映画界の限界なのですが、もう少し丁寧に誠実に役柄に息吹を与えてほしいなと思った次第です。所謂やっつけ仕事というか、提供側のやった感のみが放出されているというか。やった感ではなく、出てきた結果が大事なんですよね。やってなくてもいいので。

 しかも、伊予田春は30歳前後で緩和療法の医院?に入院しているくらいの末期症状なのに、それが全く容姿に反映されていないというか。実際にどうかではなく、一般的に想像されるものという意味で。そこがアイドル系映画の描写にしかなっていないというか、アイドル系映画にしか見えない原因でもあるのです。

 長澤まさみさんが演じられた坂本弥生という登場人物も単なるメンヘラでしかないよなとしか思えないですし。行動力があるとかないとかの問題ではないですよね。それに、動物園の獣医の仕事は長期休暇扱いだとしたら、緩和療法の医院?への勤務に際し健康保険とか年金とか税金とかそういったものの処理はどうしたんだろうかとか。アルバイトにしても住み込みでフル勤務でしょうからね。そういった部分の設定管理がおざなりなんですが、こういう部分もアイドル系映画の作り方なんですよね。

 時の流れというか、経過した時間の描き方も下手なのも残念でした。坂本弥生が主人公のもとを突然去ってからおそらく1年程度は経過していると思われますが、家族から捜索願とか出るよねと思いつつ、生活感がない映画なんだから、もっとファンタジーを前面に押し出しつつ利用すればいいのにと思ったりしましたね。あ、でももう大人なんだから警察に言っても事件性がないとかで取り扱ってくれないのかな。

 佐藤健さんは安定した演技でした。登場人物を多分出演者の中で一番掴んではいたと思います。主人公の取った行動とかが、人でなしっぽい感じというか、冷徹?っぽい感じで扱われていたりしていて、仲野太賀さんが演じられた登場人物に婚約者が去っていった理由がまだ分かんないのかって言われたりしましたけど、分かんねーよなと同情するしかありませんでした。至って主人公は普通じゃんか、と。悩みとかはあるけど。

 つか、主人公と仲野太賀さんが演じられた登場人物との関係性がよく分からないというか、単に店のマスターと客という間柄だけではないような気もしますが、こういう部分の描き方もおざなりでした。人物相関関係に重みが出ないというか。いえね、仲野太賀さんの演じられた登場人物とペンタックスはいい人だというのは分かりますよ(笑)。

 坂本弥生の妹からも結婚する気なかったでしょとか、いなくなって云々と言われていますが、お前も家族ならもっと心配しろよって思いましたよね。主人公の方が余程心配して行動してるじゃんって。こういう作劇というか、登場人物の設定の甘さ(原作もそうなのかな)がやたらと目立ってしまったのも残念な部分です。

 伊予田春が死んだのをペンタックスが知ったのは、ペンタックスが出身大学に勤務しているからだとして、そういうところの作り込みが気になるんですよ。想像できるだろって言われたらそうなんですが、観客に想像させる部分としっかりと設定で決めている部分の切り分けは必要だと思うのです。

 かなりdisってしまいましたが、私は本作は嫌いではなく、好きな類の映画ではあることを改めて申し添えます。いや、マジで。映画表現の技法、技術的な部分では低品質だと思いますが。あ、いや低品質というより、お好み焼きの具材と製法でお好み焼きを作るのではなくピザを作ろうとして失敗したって感じかな。ただ、それを補って余りある雰囲気重視の作風は嫌いにはなれないです。

※2024年4月8日追記

 主人公と坂本弥生が同居しながらも寝る部屋は別々とか(個人的にはその方がいいので気にしなかったけど)すれ違いの生活を送ってるとか、セッ◯スレスであろうとかの匂わせがあったりと、一応二人の関係性をそれなりに描こうとしていたなというのを思い出しましたが、それでも坂本弥生が出ていくような理由としては弱いなぁとは思っています。

 

落下の解剖学

ネタバレしていますが、結果どうなったのかというのも勿論大事な映画ですが、それだけではないのも魅力的です。久々にdisっていないかもです。

 

新宿ピカデリーにて鑑賞

 

 久し振りに映画表現における技術面、技能面において高品質な映画を観たなと思いました。素晴らしい。演出、構築力も高く、個人的には控えめに言って傑作だと言えます。私がこんなにべた褒めするなんて珍しいことですよ(笑)。

 映画の文法とかは興味はないけど(なら技術とか技能とか言うなよw)、そういう部分において参考になる映画だと思いますし、映画を作りたいと志している学生さんへは特に観ておいて損はないですよって言いたいですね。そういう映画はニコラス・ウィンディング・レフン監督、ライアン・ゴズリング主演の『ドライヴ』以来かも(私の好みではなかったですが……)。

 お話の内容は単純で、作家の女性の男性配偶者が自宅の窓から転落死し、それが作家の女性の犯行だとして裁判となります。弱視障害のある息子の証言が決め手となったのか、作家の女性は無罪となりました、というあらすじです。

 さらっとネタバレしてしまいましたが、裁判で判決が下されるまでに描かれる関係者、特に作家の女性と息子の感情があまりエモーショナルにならずに、でも突き放したような冷たい感じでもない、観客との適度な距離感を念頭においたであろう描写には唸りました。また、テンポがいいのに、それぞれの登場人物もしっかりと人物描写がされている点もよかったです。

 登場人物の誰かに感情移入させるようなタイプの映画ではなく、かといって群像劇というわけでもないので取っ付き難いと感じる方も多いかもしれませんが、そこはミステリー要素を高めるためのポイントに意図的にした部分ではないかと思っていますので、ミステリー映画が好きな方なら楽しめるかもしれません。

 本作で提示したかったテーマはバランスが大事だということだと捉えていますが、それがテーマだと何かの基準軸みたいなものをしっかりと設定しておかないと、どうしても表現をあやふやにせざるを得ない部分が、意図したもの以上にあやふやなものとして出力されてしまって、結果としてグニャグニャした映画になってしまうと思っていますが、本作はそこもしっかりと考えられていて、基準軸(映画内での事実設定)がかなりしっかりとしているなという印象です。

 劇中にて流れるピアノ曲にも不協和音的要素が含まれたものを採用しているのも、ふとしたことでバランスは崩れるということを表していて、そして、望む望まざるに関係なく、バランスを崩してでもどちらかに決めないといけない立場になることの怖さを描いているのではと思いました。裁判はどちらかを決めるところというセリフがありますが、それに集約されているのではないでしょうか。

 検察側も含めて裁判に関係する皆さん結構感情的で(笑)、自身の仮説(=主観)が真実だと思い込むという演出により、ここもまたバランスが崩れることは危険なことだと提示しているように見えました。

 製作にあたり、作家の女性が殺したのか、それとも男性配偶者の自殺なのかという部分について、前述のとおり映画内における事実もしっかりと設定しているなと感じました。映画内の演出、提示としてはそこはボヤかしていますが(裁判の結果は無罪だったけど、実際にどうだったかの描写はないことから)。

 私は作家の女性は男性配偶者を殺していないが、男性配偶者の死には関与していたのではと思いました。どうしてそう思ったのか。自分でも整理するために書いていきます。

 先ずは作家の女性には男性配偶者を殺害する明確な理由がないこと。男性配偶者を殺すことで今回のような面倒なことになりますからね。作家の女性としては離婚を選択した方が生活は楽になるかもですし。そこそこ名が売れているようで(だからこそTVのニュースにもなる)、ドイツ語翻訳の仕事もあり、一人ならどうとでもなりそうですし。

 次に作家の女性は男性配偶者への愛情はなくなっていたかもしれないけど、家族としての情はあったと思うからです。映画内の証拠としては男性配偶者の母国であるフランスにロンドン?から引っ越して生活していることです、文句はありながらも。

 続いて作家の女性は息子のことはしっかりと愛しているし、自分なりに向き合ってきていると思うからです。息子も両親には大きな不満はなかったように思えますし、息子のことを考えても男性配偶者が突然いなくなるような環境にはしたくないでしょう。

 そして息子の障害に係る費用です。作家の女性は一人での生活ならなんとかなると書きましたが、息子と暮らしていくとなると、障害に係る治療費なのかな、その費用が結構家計に負担を与えているのが伺えますが、一人で息子を引き取るとなると、男性配偶者から養育費は貰えるとしても、時間面も含めてかなり大変になってきそうで、作家の女性としては現実的な性格でもあろうと想像することから、自ら望んでその環境にしたくないという気持ちが強いと想像するからです。

 最初の警察の調べで作家の女性が嘘をついていたのは、息子に色々と知られることが嫌なのと、自分が男性配偶者の死に関与しているとは思われたくないからであって、思われたくないのはそれによって息子との関係性が崩壊してしまうからと想像しています。

 以上のことから、私は作家の女性は殺していないけど、男性配偶者の自殺でもないと考えました。不幸な事故だったのではないかと。おそらく、作家の女性と男性配偶者は口論となり、作家の女性が男性配偶者をいつもの調子で手を出して叩いたか押したか何かした拍子に、運悪く男性配偶者が落下して頭をぶつけて死亡してしまったのが真相というか(映画内における)事実ではないでしょうか。

 作家の女性が裁判が終わったあとに何もなくて、単に終わっただけと言ったのが印象的で、その点からも男性配偶者の死亡に何らかの直接的な関与はあったのかなと勘ぐりました。

 息子も半信半疑で、だからこその最後の証言が必要だったのでしょう。父親の死に関与していたとしても母親は殺してはいない、という判断をしたのかどうか。何気に臨時の保護司の息子への言葉が結末を決定付けるほど重要でしたね。

 と考えていたけど、どうも書いていて自分でそれは違うかなと思ってきた(笑)。真相は分からず終いでいいのかも。あの作家の女性のことなので、これも小説の題材になるとも考えてそうではあります。

 裁判の場面では意図的なのか、作家の女性の性格とかこれまでの行いが悪いみたいな印象を与えようとしていたと思われますが、それでも男性配偶者もたいがいだよなって思ってしまいましたね(笑)。ということはかなりなダメ男ってことですよね。

 息子役の方がアダム・ドライバーに似てるなぁと思ったのと、弁護士の人がちょっと色気があって昔のフランスの俳優さんってこういう感じだったよなぁと思いました。

 

ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス

一部ネタバレしていますし、映画単体としての出来映えではなく、なんというか映画製作の思想的な部分をdisったりしています。

 

 

ディズニー・チャンネルにて鑑賞

 

 映画単体としては面白かったけど、もうマルチバースを扱うのは止めた方がいいかなと。製作陣もうまく扱えてないよね。マルチバースの世界は元々存在するのか、何かの基本があってそこから分裂なのか、どこまでが共通項で、どこからが分岐点なのか、先ずはこういう所から整理して、設定をかなり煮詰めていかないとあかんのんとちゃうかな。特にMCU世界で他の映画も絡んでいるのなら尚更。

 もしやりたいのなら、今のレベルではどっかのおっさんの妄想レベルなので、科学的根拠っぽいものをしっかりと土台にして、本作の1000倍くらいは徹底してやらないといけないでしょう。

 ワンダというかスカーレット・ウィッチが悪役だけど、これが別の会社で別の俳優を起用した映画なら全く問題はないけど、同じ会社で同じ俳優を起用した映画なので、これまでのキャラクターを愛したファンに対しての酷い仕打ちじゃないかなと思いますね。

 ホークアイがワンダに「今日から君もアベンジャーズだ」っていうセリフに感動した身としては、それが製作陣から裏切りの言葉に変えられるなんて、ほんとにもうね……。製作陣が絶対にやってはいけない禁忌だと思う。

 エリザベス・オルセンは足が長いし、立ち姿がカッコいいですね。

 ホラー風味があるなーと思っていたら、監督はサム・ライミですか。どうりでブルース・キャンベルが出てるはずだ(笑)。

 映画単体としての着地点や決着の付け方はいいと思う。自分の手で、一人で何もかもやりたがるドクター・ストレンジが、最後は今回のヒロイン?のマルチバースのポータルを開く能力を持った少女を励まし後を託すという展開も王道だけど熱いし(序盤にマルチバースドクター・ストレンジがその選択をしなかったのを見せ付けているので余計に)、ドクター・ストレンジが様々なマルチバースの自分自身を見ることで、自分自身を振り返り見つめ直すことができたというのも王道で熱いし。

 スカーレット・ウィットも別世界のワンダの愛に救われるという展開も、これまた王道ですがいいですね。ただ、それまでの悪行というか、沢山の人の命を自分のエゴから奪った事実は消えないし、反省すれば罰を与えられて罪を償えばいいという話でもないだろうし。そこのあたり、本作のメインの世界のワンダがスカーレット・ウィッチ(という存在)から解放されたとしても背負わないといけない十字架だけど、そこまでは本作内で贖罪されていないよねというのも引っ掛かります。MCUお得意の別映画に繋がるのかもしれませんが。

 

コット、はじまりの夏

ネタバレしていますが、ネタバレ云々っていう映画でもないので問題ないと思います。

 

公式サイト:https://www.flag-pictures.co.jp/caitmovie/

 

ヒューマントラストシネマ有楽町にて鑑賞

 

 抽象的描写が多く、個人的には一つくらいはしっかりと核心に迫った具体的なエピソードがあった方がよかったなとは思うものの、だからこそ、ラストシーンが胸に響いたのだろうし、その後を色々と思い巡らせてしまう結果にも繋がったのではないでしょうか。

 コットという少女を通じて、母方のいとこのアイリンとその夫のショーンの、過去の出来事に向き合えずにどことなくぎこちなかった関係性を解消し、コット自身も親や家族との関わり合い方に意識の変化をもたらすことになったというひと夏のお話を、淡々と描く映画です。

 苦しさ、辛さといった感情の表面部分を美しさという曖昧さでコーティングした映画で、そこに歪さは見え隠れしながらも、コーティングされた美しさにより、(映画の中の出来事)全てをいい思い出にしてもいいと思えてしまうような魔力を持った映画という印象です。

 ただ、一般受けはしないかなとも思いました。エンタメ要素はありませんし、観客側にも(こういう言い方は嫌ですし、適切な言葉かどうか分かりかねますが)少し高めのリテラシーが要求される類の映画ではありますから。

 ショーンとアイリンの夫妻はアイルランドで酪農を営む夫婦で、過去に(おそらく)井戸の中で幼い息子が溺死した出来事から、夫婦仲は悪いわけではなく、信頼関係はあるものの、少しギクシャクした、お互いに壁みたいなものを作ってしまっていました。

 コットは兄弟姉妹が多く(何人いたんだろう、5人くらいはいましたね)、父親はだらしなく、母親は妊娠中ということもあってか、家族からの愛情に飢えており、学校でも変な子扱いされ孤独なこともあってか、誰ともあまり話したがらず、自分の殻の中に閉じこもっていました。また、そういう事情からか、通常の同じ歳の子よりも学習能力が劣っていたり、夜尿症が治りきらない一面が残っていました。

 あるひと夏の間だけ(80年代初頭が舞台のようです)、コットは母親が妊娠中ということや家計が大変ということもあってか、母方の親戚であるアイリンのもとに預けられます。

 アイリンは愛情を持って接しますが、夫であるショーンはコットに亡き息子の面影を見出すのが辛いからか、ついつい厳しい対応をとってしまいます。

 アイリンが近所で病気の方の世話のために日中いなくなると、ショーンは仕方なくコットを連れて、日々の仕事である牛の世話等を一緒に行います。そこで、徐々にコットはショーンの表立っては見せることのない優しさに触れていきます。

 近所で病気だった方が亡くなり、通夜において、アイリンは近所のオバハンにコットの世話を頼みます。このオバハンが余計なことを言い散らかして、ショーンとアイリンの間に息子がいたが事故死したことを知ってしまいます。なんでこんなオバハンに預けてんねん(笑)。しかも、心配してか超特急でショーンとアイリンは迎えに来るし(コットとオバハンは徒歩でオバハン宅に帰宅するも、ショーンとアイリンは車でという違い)。原作でもそうなのか知りませんが、ここは作劇の悪い意味での都合を唯一感じました。

 アイリンはコットに最初に家に秘密があるのはいけないと言いながらも、秘密にしていたことがあり、それをコットが知ってしまったこと、それによって息子が亡くなっているという事実に改めて向き合うことになってしまいましたが、ショーンはそんなアイリンを一人にすべく、コットを連れて夜の海を眺めにいきます。このね、何も言わない優しさ、これですよ、これ。言わないと分からないのも理解できますが、言わなくても分かるよねっていうのも理解していきたいですよね。

 夏が終わり、いよいよコットが帰る日、(おそらく)ショーンとアイリンの息子が亡くなった井戸みたいなところでコットも溺れかけますが、自力生還。ここは、ショーンとアイリンが過去の呪縛から少しは解放されたという象徴的な場面だと捉えています。

 ショーンが運転する車で実家に送り届けられるコット。でも、実家なのに、それまでずっと住んでいた家なのに居心地悪く感じます。ショーンとアイリンも名残惜しいまでも、いつまでもいるわけにはいかないので、コットの母にお土産を渡して車で帰って行こうとしますが、たまらずコットが追い掛けます。家(というか敷地)の門を閉めるタイミングで駆け寄ってくるコットにショーンが気付き、コットを抱きしめます。

 ええ、ここで私は泣いてましたよ。自然に涙が出てましたよ。ショーンに抱きつくんですよ、コットが。ツンデレおっさんのショーンに、ですよ。今日は甘やかすためだとか言って街に連れていくショーンに、ですよ。アイスでも食えって沢山の小遣いをくれるショーンに、ですよ。

 そして、父親がコットのもとにやってきます。コットはそれを見て「パパ」と呟きます。というところで映画は終了です。その後はどうなるのかは不明です。原作ではどのように書かれているのでしょうか。

 ラストについて、映画を観ただけでの邪推だと、コットはひと夏をショーンとアリインのもとで過ごしたことで、人との接し方を学んだと言えば大袈裟ですが、コットなりに意識の変化があったと思います。父親もそんなコットを見て、自分の父親としてのこれまでの接し方に思う部分があったのかなと。ということで、コットは実家に戻って頑張るんだという選択をしたのではないかと思っています。

 コットは誰にも関心を寄せられていないと感じていたし、実際にそういう側面も多かったと思います。それを理由に自分も親や家族に関心を示していなかったのではないかと感じることができたのではないでしょうか。それを描いた映画だったと思っています。

 冒頭の場面ですが、母親はなんだかんだ言いながらもコットが普段はどう過ごしているのかとか分かってる感じでしたもんね。そういうこともあって、いとこのアイリンのもとで過ごさせようとしたんじゃないかなとも思えてきました。

 ショーンもアイリンもコットも父親も、何かを変える、一歩進むのにキッカケが必要だったけど、コットを預けたことによるコット自身の変化がそのキッカケになったのでしょう。コットに注目がいきますが、映画の作りとしては、コットだけではなく、ショーンとアイリンの物語でもあったと思います。

 

ザ・クリエイター/創造者

若干ネタバレしていますし、若干disっています。

 

 

ディズニー・チャンネルにて鑑賞

 

 現代の『ブレードランナー』の立ち位置且つ役割を担う映画が登場したなと思いました。設定の甘さや、人が想像するロボット社会というものの限界は見えてしまうけれども、ガジェットやロボットの描写はSF映画好きにはたまらないものではないでしょうか。数年後にはカルト映画として人気が出そうな予感です。

 描きたいことは理解しつつも(多分w)、演出や展開も含めた諸々がそれに追いついていないというか、煮詰めきれていなかったという受け止めなんですが、だからこそ面白い側面や、完成されていないからこその美しさや儚さもあって、これまた嫌いになれないというか、好きではあるけど……っていう映画でした。

 従来の人間と、模造人間(A.I.人間)であるシミュラントとの異種間同士の生存を賭けた戦いではあるけど、従来の人間側がシミュラントに対する憎しみと妬みだけで一方的に暴力を振るうという構図は、かつての西部劇やその時代への現代からの返答なのでしょうか。

 個体の程度の差こそあれ、本質的には人は争いを求める生き物でしかなく、それを取っ払った、従来の人間が理想とする形の現れであるシミュラントへの嫉妬が、この物語の悲劇を生んだのかなと妄想します。

 主人公は一応身勝手な特殊部隊のアメリカ軍人(冒頭の任務後に退役なんかな)で、ニルマータ(現代のA.I.の生みの親の系譜みたいなもんかな)である配偶者との関係性が物語の軸にはなるものの、この描写が薄いので、ニューアジアという国をはじめ、A.I.と人類の共存側の最終兵器と言われる自分の子供を模したシミュラントとの交流や最後の主人公の選択(自分の命よりも子供のシミュラントを助ける)のほか、シミュラントとなった配偶者との再会も、エモーショナルな展開だとは頭で理解しつつも、ノレなかったんですよね。物語としていうよりも、そういうプロットを見せられたっていう感じでした。

 ニューアジアという国は、アメリカが国家として国内を武力で攻撃しているのに、国家として対応、対抗せずに自警団みたいな組織が応戦しているだけっていうのは、作劇の都合上だというのは理解はできるけど、現実感(約50年後の世界が舞台のSF映画に現実感なんて求めるなよって言われればそうですが)がかなり薄まって、なんか居心地を悪く感じてしまったのは残念なところでした。

 『ブレードランナー』はその先が絶望であっても二人の行く末には希望を感じたいラストで、当事者同士がこれから先どうなるのかという締め括りでしたが(エディションにより印象は異なるでしょうけど)、本作は当事者同士の子供(を模したシミュラントだけど)に希望を託すという、次世代へ希望を託す、次世代への橋渡しを意識したラストなのはよかったかな。私はここにも『ブレードランナー』と同じようなヴァイブを感じました。

 シミュラントの人達が人間が理想とする人間っぽさをまとって描かれ、アメリカ人(アメリカ兵)が現実の人間っぽさをまとって描かれるという対比もよかったかな。

 渡辺謙の英語の発音が怪しかったからなのか、劇中でやたら彼が日本語を使ったりしているのですが、それがなんというかA.I.世界というか、A.I.で翻訳すればいいんだから、その人達が話したい言語、得意な言語でそれぞれ話せよっていう感じが出ていて、そこは意図していなかった演出だとは思うけど、世界観を壊さずにいい感じで世界観を補完していたと思います。監督のギャレス・エドワーズの趣味なんかもしんないけど。キャプチャータイトルとか、看板とかも日本語が使われていたりしますし。日本公開ローカルのみではないですよね、あれって。

 

仮面ライダー555 20th パラダイス・リゲインド

ネタバレしていますし、超disっていますが、私は本作は大好きですよ。Blu-rayの購入予約も鑑賞前から既にしていますし、真骨彫のネクストファイザもネクストカイザも予約決済済ですからね。

 

 

新宿バルト9(一回目)/丸の内TOEI(二回目)にて鑑賞

 

 夢の続き、というよりも、夢の途中、というか、夢から現実への乗り換え、だったかな。

 思い出補正が効かない私には20年前の555の幻想というか柱に縛られて、それ故に展開や、俳優陣の演技や容姿、役柄への解釈といった部分のチグハグさというか噛み合わなさが目に付きましたが、ラストバトルはその20年前の555の幻想があってこその胸熱展開で、一度目の鑑賞時は私にとってはどうにも感情の持って行き場が行方不明になりましたが、二度目の鑑賞時に、もうこのラストバトルで全て許せるよなという気持ちになりました。

 映画自体は低品質(失礼)でしたが、あれから20年後の今の時代に本作が作られた意味を噛み締めたいのと、嫌いにはなれないというか、好きになりたい、そんな映画でもありました。予算内で出来る限りのことはしたよねという印象はありますので、低品質だったと書きながら不思議と不満はありません。低品質にならざるを得ないのは、日本映画界全体としての問題(構造的問題かな)というか課題でしょうし。

 本作の時間軸がTVシリーズから20年経過しているのか、数年程度なのか分かりませんが、なんとなく3年から4年程度っていう感じなんですよね。それでも俳優陣はどうしても20年経過しているのが分かるので(そのことを否定したり、駄目だという意味ではありません。あくまでもキャラクターを演じる部分での提示された容姿や演技についての受け止めです)、自分の中にあるキャラクターイメージとの差を埋めるのに苦労したというか。TVシリーズの面影が強いと更に受け入れるのに時間が掛かるのかなと思います。

 脚本の井上敏樹大先生が実質的な原作者なので、種としてではなく個として、オルフェノクが人間社会の中で生活するという生き様にシフト変更したのは受け入れるしかないのですが、なんというかモゾモゾ感というか、居心地の悪さはあります。555という舞台でやる意味があったのかっていう観点で、ですが。

 555って(TVシリーズは)群像劇だったということからも、個を描くよりも種を描こうとしていた側面が強いと思っています。20年経過したが故の提供するものと求めるもののズレがモゾモゾ感みたいなものを引き起こしているのかな。

 パラロスの最後は、巧と真理の人間(個人)同士というか(それもあるだろうけど)、オルフェノクという種と、人間という種の共存への希望を示唆していたと思うのだけど、それを壊してきたのはどういう意味があるのかなと考えたのですが、ずっと答えを問い続けることになるのかなと。

 巧と真理が一線を超えて一発やってしまうのはどうなんだろう。二人の関係を恋愛関係というか、単純に肉体関係に持っていってしまったのは悪手だったと思う。そういう関係ではないからこその555だったと捉えているからっていうのもあるけど。

 着ぐるみS◯Xの場面は、映像表現(描写)として気持ち悪かったので金輪際やめてほしい。意図は分かるけど。子供がやるフィギュアを使ったごっこ遊びじゃないんだから。表現面や展開部分での嫌悪感もあったので、この場面を受け入れられない自分がいるのかなとも思います。

 また、真理に母性を求めた結果、恋愛感情はない行きずりの行為だったとしても、映画での表現の限度もあるだろうけど、そうだと仮定しても提示された展開や表現自体が幼すぎて、踏み込んでいくのなら、その先を見せるのが555だったんじゃないかという不満と不安が出るんですよ。

 ここはパラロスのように二人でダンスが正解(敢えて正解と言い切ります)だったと私は思います。劇中でのオルフェノクの代表が巧で、人間の代表が真理であるという形で。主人公と恋愛関係にないヒロインって受け入れられ難いとは思うけど、だからこそ安直に走ったなという印象を抱いてしまったんですよね。他の映画と比較してはいけないんだろうけど、『パシフック・リム』はその要素を排除して支持されているよねっていう事実もありますし。

 草加雅人は真理とは何度かやっちゃってるよねとは思うんだけど、真理的には草加雅人とやるのも巧とやるのも同じ理由なのかなと考えたら、まぁ納得はできないまでも、井上敏樹大先生のアクの強さが悪い方向に出てしまったのかなとは思えるかな。

 ミューズと、巧&真理が対峙する場面、ミューズが月(多分ウルフムーン)を見て「月が綺麗ですね」って巧に対して言うのですが、夏目漱石流の「I love you.」という告白なんですよね、多分。うん、この場面はグッときたかな。ミューズというキャラを短い時間内で立たせるには効果的な場面だったと思います。

 真理がオルフェノク化するのって、まんま『仮面ライダー BLACK SUN』じゃねーかよ。これも悪手だったと思います。というか、これは巧との一発場面が先にできて、その理由付けとして真理をオルフェノク化したという気がしてなりません。

 それか、真理に木場さんの要素を入れたってことなんかな。でもね、真理の要素が薄くなったという結果はどう受け止めればいいんだろう。木場さんの要素を受け継ぐんであれば、それは草加雅人でよかったんじゃないのかな。ザリガニオルフェノクとなって復活ということで。

 草加雅人は本当に劇薬だったんだなというのも再認識しました。TVシリーズ本編において、木場さんや真理の存在意義、立ち位置、役割を薄めるというか奪ってしまい、乾巧という主人公のアンチテーゼ(対立軸)として成り立ってしまったからと考えるからです。そうなると、TVシリーズ本編で散華させてしまったのはあかんかったんかな。でも、あれで草加雅人というキャラクターが一層際立ったことでもあるし。

 草加雅人と北崎さんは政府が作ったアンドロイドで、草加雅人はスパイというか、真理がオルフェノクに覚醒したときの対応策として派遣され、菊池クリーニング店にいるという設定です。草加雅人が巧のことを「乾君」と君付けで呼んでるのは違和感があったんですが、これはわざとですよね。というか、真理ってそこまでオルフェノク化したらヤバイぞって思われてたのかな。

 主人公である乾巧というキャラクターがあやふやというのもどうなんだろう。迷いや悩みはしても、オルフェノクを絶滅させるなんていう思考になるんだろうか。そこが深く掘り下げられてもいないので、薄い巧像が出来上がってしまったように見えたのかな。妄想するには材料が足りないし、この部分って観客に想像させる部分ではなく、しっかりと提示しておかないといけない部分だと思うのですね。

 あ、そうか、TVシリーズで描くような濃さを、映画というか、通常よりも短い尺の本作で描こうとしたから、濃淡のバランスが悪く仕上がってしまっているのか。TVシリーズ同様にライブ感というか雑なところも多く、TVシリーズより時間が短い分、TVシリーズのときは雑さをライブ感で上書きして誤魔化していたけど、短い尺の映画ではどうにも誤魔化せなかったのかな。

 菊池クリーニング店のオルフェノクが普通に殺されて死ぬという展開はよかった。あれで全員生き残っていたら緊迫感に欠けますしね。全滅でもよかったくらい。

 啓太郎の甥の存在感のなさ(俳優さんがどうこうではなくて)もそのキャラクターいらんかったやんって思ったので(旧式555のベルト配達人として必要だったのかな)、真理よりも啓太郎の甥のオルフェノク化でもよかったような。ラストの団欒場面でもオルフェノク化すれば戦力になるのにって言われていますが。

 まさか、仮面ライダーネクスファイズも、仮面ライダーネクストカイザも、旧式のガラケーファイズの噛ませ犬的ポジになるとは思わなんだ。そこが胸熱なんですけどね。ドルチェスターのラスボス二人をまとめてクリムゾンスマッシュで撃ち抜く場面には大満足です(オルフェノク化した真理との共同作業)。本作で最もいい場面だとも思います。ラストバトルが胸熱のは、劇中の真理のセリフじゃないけど、理屈じゃないんよね。

 (三代目?)草加雅人はとうとうスマートブレインの社長(まぁ雇われというかアンドロイドだけどw)に就任したし、なんか過去の上の上のオルフェノクであろう皆さんが冷凍保存みたいな感じで残っているので、そちらと戦うかもね、な続編には期待したいです。

 続編があるとすれば、スマートブレイン社長になった草加雅人がスーパーネクストカイザに変身して盛大にやられて、一人で大爆死してほしい。いやいや、アンドロイドから自我に目覚めて、真理のためにもう一度爆死してほしい。

 北崎さんの下の名前は「望」だったのか。演じられた藤田玲さんも初めて知ったとか言われてましたね。北崎さんが冒頭でミューズに指令を出すとき、歯をカチカチみたいなことして連絡しているのですが、そうか、アンドロイドってあの時点でネタバレしていたのか。新しい通信システム(それはそれで正解かw)かと思いましたよ。

 長々と書いてきましたが、一番言いたい(書きたい)のは、真理の誕生日が1987年11月27日っていう設定になっていたことなのです。あれ?、あれれ?、9月13日が真理の誕生日じゃなかったでしたっけ。913、カイザの日が真理の誕生日という因縁があったのに、それがなくなってしまっているじゃないですか。草加雅人が、いや、村上幸平さんが嘆くぞ(笑)。誕生日は演じられた芳賀優里亜さんのものでした。

 本作が作られたのは、冗談抜きで村上幸平さんの活動の賜物だと思います。村上幸平さんが草加雅人という役を愛し、大事にし、ファンとの交流を続けてきた(途中、俳優業を辞められていた時期もありますが)結果ではないかと思います。そういう意味でも、草加雅人というキャラクターをいい意味でも悪い意味でも『仮面ライダー555』という世界や物語に刻みつけてしまったというか、呪いをかけてしまったのかなと(笑)。幾ら死のうとも、絶対に出演させなければいけないキャラクターになりましたよね。

 

仮面ライダーBLACK SUN

少しネタバレしています。disっています。

 

 

 

アマゾンプライムビデオにて鑑賞

 

 X-MENと555と内ゲバとかを混ぜ合わせ、主役二人がハニトラに引っ掛かり、それをずっと引きずりますという内容を、雑にガバガバに展開させてしまったというお話でした。創世王の造形って、もろにオルフェノクの王に見えましたよ。

 世界観とか雰囲気は好みですが、怪人と人間の設定をもう少し整理してほしかったかな。現実世界の人間が書く物語の限界というか、現実世界では怪物はいないわけで、そういった部分での想像、想定が甘く、そこのところがしっかりと線引されて描かれていなかったように感じました。怪人の思考は人間ベースなのか怪人ベースなのかっていう部分とかね。

 本作の南光太郎って、70歳前後くらいの設定になりますよね。1972年当時が二十歳前後でしょうし、そこから50年後ですから。設定上、怪人はヘブンというエキスを定期的に接種していれば見た目の若さは保てるようですが(能力は不明、経年による能力劣化がそもそもあるのかどうかも)、南光太郎は二十歳前後の頃に一度接種した程度なのに、そこから50年後でも70歳前後の見た目ではなくて50歳前後の見た目になっているのは、西島秀俊さんに合わせたということでよろしいでしょうかね。

 物語のラスト、ヒロインがテロ組織みたいなものを作って、(おそらく)若い難民や怪人を集めて訓練しており、なんか暴力に訴えた行動を取ろうとしているところなのですが、こういう終わり方(纏め方)に賛否両論はあるとして、劇中における南光太郎から受け継いだ意志ってそういうことだっけ?という疑問は生じました。戦え的なことは言っていたと思いますが、それはあくまでも自分の身が脅かされたときに守るためにってことだったかと。広義的には自分の身を守るために先制攻撃するってこととも捉えることはできますが、信念を守るってすると、そりゃ気に食わないヤツは攻撃していいってことになりますけどね。

 

<疑問に思ったところと自分なりの解釈>

Q.疑問

A.解釈(妄想)

 

Q.創世王って何?

A.日蝕と怪人化手術のタイミングが偶然にマッチしてできた産物。あ、一番最初の怪人ということでもあるのかな。怪人を作る石とかも創世王産でしかダメってことでしたっけ。やっぱ、オルフェノクの王じゃんかよ。

Q.キングストーンってどこからでてきたのだろうか。

A.創世王のゲロ(エキス)とかでしょうか。で、全ての怪人は石を持っているようなのですが、どうしてキングストーンだけ特別なのか、どうやって生成されたんだろうか、入手方法は何かとか考えると、やっぱりゲロに落ち着く(笑)。

Q.どうしてキングストーンは特別なのか。

A.TVシリーズの『仮面ライダーBLACK』での扱いがそうだったから。なのですが妄想しますと、創世王を作る、継がせるために必要だからなのでしょうけど、生成方法が分かっているのなら量産とは言わずとも、好きなときに生成すればいいだけのように思えます。わざわざ奪い合いをしなくても。

Q.どうしてブラック・サンとシャドームーンは特別なのか。

A.主役キャラとしてそんなに強くはないけど、キングストーンを埋め込まれているからでしょう。冒頭の場面では、秘密裏に行った手術っぽい描写に見えたんですが、全くそんなことはなかったぜって感じで、周りの皆さん全員が二人にはキングストーンが内蔵されている(されていた)って知っていたようですし。

Q.ブラック・サンとシャドームーンは何故二段階変身できるのか。

A.主役特権です。えっと、キングストーンを埋め込まれて怪人化したから、でしょうね。

Q.どうして創世王を殺そうとしたのか。

A.ブラック・サンとシャドームーンがハニトラに引っ掛かったため。どうしてハニトラしたかというと、初代創世王が寿命間近だと思っていたため(50年後も生きてますけどね、生産性はかなり下がっていますが)、新しい創世王を誕生させるためにはキングストーンが必要だったから。それを持っていたのがブラック・サンとシャドームーンで、まんまとキングストーンを二人から取り出してゲットできたのに、三浦貴大さんじゃなくてビルゲニアがそんなこと知らずに暴れた結果、キングストーンが行方知れずになったのは誤算。

Q.ビルゲニアって何がしたかったんだろう。

A.分かりません。総理にずっと従えているのかと思っていましたが、精々数年間程度で、総理の思想とかに共鳴しているのでもなく、何をやりたいキャラなのかさっぱり分かりませんでしが、演じられた三浦貴大さんはよかったですね。

Q.創世王を倒すにはサタンサーベルが必要ってどうして分かったのですか。

A.TVシリーズの『仮面ライダーBLACK』での扱いがそうだったから。無理に妄想しますと、創世王になれば人(怪人)の頃の意思はなくなる又は薄れることから、誰かにトドメを刺させたいという作劇の都合で、それが何故かシャドームーンが創世王になってブラック・サンがトドメを刺すという展開ではなく、ヒロインにトドメを刺すという流れにしようとしたためと好意的に捉えましょう。次世代にバトンを渡すという視点から、ブラック・サンもシャドームーンも生き残っていては駄目だったからという理由もあるかもですね。

Q.怪人は匂いで分かるそうですが、ダロムやビシュムが内閣官僚になったとき、周りの人は気付かないのでしょうか。それとも、怪人でもOKなのでしょうか。

A.一応選挙権とかはあるようですし怪人でもOKなのでしょうけど、香水とかで匂いを誤魔化していたという設定なのでしょう。正解は、そこまで考えていなかった、でしょうけど。

Q.怪人は人間社会の中で生活していますが、どうやって(表向きには)容認されていったのでしょうか。

A.ゴルゴム党という政党の基盤にしたいため、時の権力者(総理の祖父)が強引に広めていったと推測します。1972年当時でも一応人間社会の中で生活はできていたようで、一般的にも認知されている存在でした。これまた正解は、そこまで考えていなかった、でしょうね。

Q.怪人から人の形態に戻った(と表現すべきなのかどうか)とき、どうして服もほぼ元通りになるのでしょうか。つか、人の形態から怪人に変身したとき、人の形態時に着ていた服はどうなってんねん。

A.TVアニメの『デビルマン』と同じ理屈です。あ、TVシリーズの『仮面ライダー555』のオルフェノクと同じ理屈ですね。予算と展開上の都合です。怪人態になるときは、服は怪人態の内側に引き込まれるのでしょう。皮膚の下にある状態と言いますか。

Q.南光太郎ってどうやって生活してきたんだろう。

A.必殺仕事人みたいな裏稼業をやってたっぽいですね。人◯しも請け負ってたようですね。ただ、製作陣がそういう設定を初回以降忘れたっぽい気はしますね。

 うん、やっぱ雑でガバガバだよなー。

 怪人態が着ぐるみ感全開で、今の時代では悪い意味でおもちゃっぽく見えてしまうという問題はあったと思います。ただ、創世王の造形はごっつ好き。

 それと、昔からいる怪人(始まりの村出身者)は石を埋め込まれてたんだろうけど、養殖怪人とか(エキスを注入されて怪人にされた人間)や、怪人と人間のハーフって石は体内にあるんやろうか。

 

シャクラ

ネタバレしています。面白かったですが、少しdisってしまっている箇所もあります。すみません。

 

 

TOHOシネマズ新宿にて鑑賞

 

 ドニーさんがかっちょええ。だけではなく、なんか銀幕の中にいるドニーさんがイキイキとしているように見えたというか。製作と監督も兼任しているからかもしれないけど、そんなドニーさんを目に焼き付けることができて満足。なはずだったんですけどね……。

 準拠した原作(超有名らしいし、私もTVドラマとか他の映画化で観たことがあるよなと思う程度の有名度)があるから仕方がないとはいえ、最後の締め方は本作内で決着してほしかったですね。ダイジェストで続編ありますみたいな感じでやられてしまったので、残尿感を残したまま劇場を後にすることになってしまいました。最近、こういうのが多いのは悲しいです。

 日本で生まれ育った一般人の私にはよく分からない仁義的な感覚もありましたが、それらを差し引いても、ドニーさんがイキイキと最強を演じているだけで嬉しくなるものです。はい、本作内でもドニーさんは最強です。タイマンでドニーさんと戦えるのは、本作のラスボスくらいです。

 ドラゴンボールの戦いを武侠世界に落とし込んだら、こういう映像表現になるよっていう見本の映画という気もします。なので、生身の現実的なカンフーアクションが見たい(ドニーさんのイップマンとかに寄った感じ)という人には、ワイヤーアクションが目障りと思うかもしれません。

 あるグループの長になったドニーさんですが、競合するグループの長であるラスボスに唆されたグループのメンバーらにより、義兄(契りを交わした兄弟)の殺害容疑のためグループを脱退する(おわれる)ことになります。

 真相を追求したいドニーさんは養父母の元へと帰りますが、何者かに殺されていました。お世話になった少林寺の師匠に会いに行くも、タイミング悪く師匠もお亡くなりに。あろうことか、それらの殺人の濡れ衣まで着せられることに。

 少林寺で出会ったラスボスの女性密使(本作のヒロインですね)を、自分のせいで死なせかけたという経緯と思いからか(だよね)、その女性を助けるために凄腕の医師のいる場所へ赴きます。

 その場所はこれまで一緒に戦っていた皆さんが集う場所で、凄腕医師もドニーさんの命と引き換えなら女性を救うと、これまた医師の風上にもおけないセリフをはきます。

 何故かそれでドニーさんも納得したのか、契りを無効にする杯を皆さんと酌み交わし、ドニーさん対その他大勢の戦いが始まります。いや、一人の女性の命を助けるために、相手はドニーさんを殺したい気持ち満々とはいえ、元は仲間の人を殺めてもいいものなんでしょうか。いや、いいものというか、そういう心情になるものでしょうか。

 そうは言っても最強のドニーさん、その他大勢をやっつけますが、ヒロインを介抱する不意を突かれて背後から凄腕医師に刺されてしまいます。しかも刺されたところが武功を発揮するツボみたいな場所だったらしく、力が出なくなったドニーさんはタコ殴りにされます。元々死ぬ気だったドニーさんはやられるがままでしたが、何者かに窮地を救われ連れ去られます。

 なんだかんだあって、ヒロインは変装の達人だったので、治療完了したヒロインは凄腕医師に化けて脱出。凄腕医師を刺して、そのついでに館を燃やし、そのせいで凄腕医師もアボンした模様。やることは過激ですね。

 ドニーさんの実の母親が殺された場所でヒロインと再会したドニーさんは、真相を探るべくヒロインに依頼し、かつての仲間を罠にかけて黒幕の名前を聞き出しますが、実は罠にかかっていたのはドニーさん達の方でした。っていうことはあとになって分かるのですが、この部分の一連の演出では分かり難いように思います。

 黒幕だと思っていた人物はヒロインの実の父親という事実も判明し、殺る気満々のドニーさんに実は無実な父親を殺してほしくないため(とドニーさんにも復讐とかやめてほしかったためですね。ヒロインの実の父親は女性にはだらしないけど悪い人ではないようですし)、父親に化けてドニーさんと相対しますが、殺る気満々のドニーさんは変装なんて分からず(夜なのでよく見えなかったのと、ドニーさんとヒロインの間に薄い布のカーテンがあったため)、思いっきり必殺技をかまして、折角助けたヒロインを自らの手で殺めてしまいます。

 そんなこんなでなんとなく真相が分かったドニーさんは、かつての仲間の元へ出向いたところへラスボス登場。本作内において唯一タイマンで戦える相手との対決となりました。まぁ、ドニーさんは余裕ぶっこいてたんですが、それによって結構がっつりやられてしまいます。しかーし、これまでのことを走馬灯のように回想していたら気持ちが晴れたのか復活。あっさりとラスボスを撃破しちゃいます。

 で、武侠の世界(昔の中国国内ですね)から抜け出て、外の世界の放牧者となって過ごしていくドニーさんが映し出されて終了。かと思いきや、死にかけのラスボスを助ける人が。正体は30年前に亡くなったはずのラスボスの父親で、息子が家を復興してくれるだろうと期待して隠遁してたらしいですが、息子が不甲斐ないために自ら出陣してきたようです。そうする必要性が分からん。

 ドニーさんの実の母親が亡くなった場所にも一人の男が。この人はドニーさんの実父で、この人も30年間隠遁していたようです。で、ドニーさんの養父母と少林寺の師匠も実父が殺したような描写が。え、なんで。で、ドニーさんを助けたのもおそらくこの人だとは思うのですが、余計になんで?ですよ。

 本作の本当のラストの場面は、ドニーさんの実父と、ラスボスの実父が相対する場面で終了です。あ、ドニーさんの実父役はドニーさんが演じています。30年前の因縁が二人にはあるみたいです。おそらく、ラスボスの実父が30年前に赤子の頃のドニーさんの実父と実母を襲撃したようですね。

 こんな終わらせ方でいいんかよ。原作がそうだからって言われればしゃーないけどさ。それまでというか、本当にドニーさんが羊とか放牧している場面までかなりよかっただけに、もっとスッキリと終わらせてほしかったし、終わらせられたでしょうにと思うとね……。

 ドニーさんが演じた主人公は約30歳の設定ですが、それを還暦を迎えた(撮影時は迎える前でしょうけど)ドニーさんが演じているのも凄いのですが、演じたもう一人のキャラである実父はドニーさんの実年齢に近いのに若々しいというのも凄いというか。貫禄は主人公キャラに比べてありましたけどね。

 もし続編を作るとなっても、メインで動くキャラって主人公とラスボスの実父同士ですよね。どうなるんやろう。

 

無理しない ケガしない 明日も仕事! 新根室プロレス物語

ドキュメンタリーなのでネタバレとかないですし、disってもいない、と思います。

 

公式サイト:http://new-nemuro-pro-wrestling-movie.com/

北海道文化放送のサイト:https://www.uhb.jp/new-nemuro-movie/

 

 

ポレポレ東中野にて鑑賞

 

 アンドレザ・ジャイアントパンダ選手見たさに見に行ったのは内緒だ(笑)。ただ、あんましアンドレザ・ジャイアントパンダ選手は出ていません。

 元々、北海道文化放送のTV用ドキュメンタリーとして製作されていて、代表であった故サムソン宮本選手が亡くなられたあとの2021年12月に放送したところ、高い評価を得られたこともあって、追加撮影等をして劇場映画として構築し直したそうです。

 新根室プロレスは先述のアンドレザ・ジャイアントパンダ選手の知名度から名前だけは知っており、また代表だったサムソン宮本選手がお亡くなりになられたことも知っていましたが、どういった経緯やコンセプトで立ち上げた団体なのかは全く知らなかったので興味深く拝見させていただきました。

 なんだろう、上映時間自体は1時間半程度なのですが、3時間くらいあるかのようなボリュームを感じました。冗長的で時間を長く感じたというのではなく、映画の中にどっぷりと浸かってしまったからなのかなと思います。映画の世界に長居をしてしまったような感覚がありつつ、でも実際にはそんなに時間は経っていなかったという感じといいましょうか。

 描き方自体は結構サラっとしているなという印象でした。ウェットな展開に舵を切ることもできたとは思いますし、実際にウルっとくる場面はあったりしますが、全体的にお涙頂戴的な作劇になっていなかったのはよかったのかなと思います。この団体をこれからも紡いでいくことが主眼だったというのが(「いつか分かってくれる」という部分で、ですね)、サラっとした雰囲気にした、というか、なった理由なのかなと感じました。

 ガチな新根室プロレスファンには物足りない内容や展開かもしれませんが、私のような全く知らない人間には、情報量が多い割にはスルスルっと入ってきて、分かりやすい映画でした。

 故サムソン宮本選手は、話し方や声(トーン)が大泉洋さんに似ているなーというのが一番の印象かも(笑)。同じ北海道出身だからなのか。弟のオッサンタイガー選手も声が似ていましたね。

 私が鑑賞した回の上映後、監督の舞台挨拶がありました。知らなかったのでびっくりしました。興味深い裏話が聞けました。実は舞台挨拶に興味がないのも内緒だ(笑)。ステッカーもいただきました。ありがとうございます。

 

M3GAN/ミーガン

一部ネタバレしてるかもしれません。disってることになるのかな。

 

 

 

アマゾンプライムビデオにて鑑賞

 

 ホラー映画として観ると全く怖くはないのですが、人との関係性やこれからの技術革新(AI等)も考えると怖くなってきましたし、サスペンス映画として観たときも盛り上がりに欠けたのは残念ですが、ミーガンの動きを見ているだけでいいのかなとも思える映画でした。あまり人が死なない(殺されない)のがホラー映画としてもサスペンス映画としても物足りない原因でしょう。あ、物騒なことを書いてるな(笑)。

 設定とか展開は昔からありがちなものですが、それを現代風に落とし込み、少女型にしたところが目新しい部分でしょうか。ミーガンの相手(対になる存在)にも、多感で、しかも両親が事故死した直後で精神不安定な状態の少女を充てたのも効果的だったと思いました。

 これは昔からあるのですが、登場人物全員が間抜けにしか見えないという弱点がこの映画にもあります。リアリティを求めたが故の人物像を描こうとしているのでしょうけど、現実のままを描いてしまうと、観客は俯瞰し客観的な立場で観ることになるので(所謂神様視点)、間抜けさが誇張されて見えてしまうんですよね。結果、現実味がなくなるんですが、これにどうして気付かないんだろうと不思議なんですよ。

 最後の対決はなかなかよかったと思います。こじんまりとしてしまっているけど、これって伏線だったのかっていうのもあって、本作の中で一番楽しめました。あの展開は燃えるでしょ(笑)。ただ、少女にああいうことをさせて(ミーガンにとどめを刺すこと)トラウマが増えないのかなと、映画の出来事ながら余計な心配をしてしまいました。

 続編が作られるのが決定しているそうです。最後の場面は、アレクサみたいな装置におそらくミーガンの意思(というかプログラムかな)が入っているという匂わせで終わりましたしね。個人的には、ミーガンが一般品として市販されるような状況で沢山出てきて、ミーガン同士のバトルロイヤルが見たいなーと思いました。いい具合に育ったミーガンVS悪い環境で育ったミーガンの戦いとか。「今度は戦争だ!」スタイルですね。

 映画『チャイルド・プレイ』のチャッキーのAI搭載型ロボット版という感じでしょうか、ミーガンは。チャッキーは憑依型で、ミーガンは学習型とタイプは異なりますが、この二体(二人?)の戦いも今後作られるかもしれない、ですよね。

 

PERFECT DAYS

disってますね。ネタバレもしていますが、ネタバレ云々の映画ではないと思うので大丈夫でしょう。

 

 

MOVIX亀有にて鑑賞

 

 ヴィム・ヴェンダース監督の映画ってほとんど観たことはないのですが、舞台が東京ということと、登場人物のほぼ全員に日本の俳優(つか、主演の役所広司さんが出ずっぱりな映画なんだけど)が起用されており、戦後の小津安二郎監督の映画を思い起こさせるようなものという紹介も目にし、予告編も観て興味が湧いたので、公開初日に突撃してきました。公開初日に鑑賞っていうのは、コロナ禍以降初めてかも。

 観てよかったなとは思いましたが、面白かったのか、面白くなかったのかよく分かんないというか、掴めなかったというのが正直な気持ちです。

 一言で言えば、よくも悪くも俳優・役所広司のプロモーションムービーの粋を出ず、その域内の海の中を優雅に泳いでいたいだけだったという印象です。

 嫌味ったらしく書けば、シネフィル御用達の映画が爆誕といったとろこですね。シネフィルを名乗りたければ、この映画がよかったですとか高評価しておけば安全、安心です。

 また、頭の固い映画学校の生徒が作った映画って言われれば信用してしまいそうです。私の学生時代にもこういうタイプの映画をよく観た記憶があります(完成度や品質の差はかなり異なりますが)。

 先日鑑賞した『市子』もそうでしたが、映画における表現技能という部分ではかなり雑だったとは思うのですが、だからこそ語り合いたい映画ではあったと思います。

 日常感を繊細に描くんかと思っていたら、妙に生活感がなくて、ファンタジーにしか見えなかったんですよね。おそらく、こういった生活を実際にしたことがなくて、妄想、いえいえ、想像だけでやってしまったというのが原因なのでしょう。

 ファンタジーと感じた主な理由としては、主人公が映画の世界の中で生きていない、呼吸していないように思えたからです。あ、主人公だけじゃなくて、登場人物全員がそうかな。そういう映画というのを期待していただけに残念でした。

 薄給で蓄えも少ないんだろうけど金遣いが荒い部分とかがね、かなりな貧乏生活を経験してきた私からの視点では異様に見えたのです。ただ、その部分は後述する主人公の生い立ちに係る匂わせとも思えるので、この辺りをもう少し整理して丁寧に描いてほしかったかな。

 主人公の設定を詳細まで詰めずに、撮影しながら色々と調整して作り上げていったように思えました。その方法を否定したいとか悪いとか言いたいわけではなく、狭間に生きる人間の微妙な心のゆれや動き(それを木漏れ日や影の重なりと称しているのかな)を描きたかったのに、描写のゆれ(表記のゆれみたいなもの)があり過ぎて、どう捉えていいのか分からなかったんですよね。それが人間だろって言われればそうでしょうけど。

 こういう場合、ある程度設定や軸をしっかりとさせていないと、それが映画として表現したかった心情のゆれなのか、単に雑に描いた(または技能不足による)が故のゆれ(偶発的な表現)だったのか分からないんですよね。整合性も取れていなかったようにも思えます。

 不穏な空気感を醸し出したいかのような描写が幾度もありますが、必要でしたでしょうか。ドキュメンタリー映画で、関係ない場面を少し挿入するといった手法をよく見かけるのですが、それに似ているのではないでしょうか。あれって、閑話休題や箸休め的な意味があるんだろうけど、特に意味がないことが多いように思えます。

 主人公は街中の公共トイレの清掃を行う仕事に就いていて、スカイツリーが見える下町の風呂なしアパート(二階建て長屋、角部屋)に住み、自転車を浅草の繁華街で違法駐輪して地下街で呑んでたり(いろんな場所で自転車を駐めるという迷惑行為も実施、つか自転車も飲酒運転はあかんよね)、小料理屋の女将に少しホの字になっているのに元旦那が尋ねてきたところを偶然見てショックを受けてやけ酒したりしつつ、古本屋の100円で買える文庫分を愛読しており、60年代、70年代の音楽をカセットテープで聴いたり、毎日の昼食でお邪魔する神社の木々の境目から見える空をフィルムカメラで撮影するといった日常を過ごしていました。

 おそらくですが、主人公の父親は資産家で、主人公は跡取り息子だったと思うのですが、父とは折り合いが悪く確執もあったようで、10年位前に今の生活に辿り着いたという経緯ではないでしょうか。妹と姪がいますが、金持ちです。運転手付きの高級車で移動ですよ。父親は今は老人ホームにいるそうです。主人公の年齢ってもうすぐ還暦ってところでいいのかな。

 聴いている音楽とかのステレオタイプな偏見から、学生時代はサブカルに傾倒し、理想と現実のギャップ、もしくは自分の生き方と他者から期待される生き方にうまく対応できなくて、精神的な引きこもりと言いましょうか、自分の世界を作ってそこから出ることができなくなった人ではないかなと。

 最後の運転の場面で、主人公が少し泣き顔になっているのは、今の生活とは異なる生活だったらどうなっていたのかっていう想像をしているのか、これまでの人生を振り返ってやり直したいと思っているからなのか。はたまた、今はやっぱり幸せだよという感情なのか。どうなんだろう。

 私は、他者からは同じことの繰り返しのように見えるけど、主人公にとっては毎日が異なり、日々新鮮であるかのように受け取ろうとしていたけど、実際はどうだったんだろうかっていう疑問を心の奥底に仕舞っていたのに、それがここ数日の出来事に連動して湧き出てきてしまったんじゃないのかなと。そうすると、後悔、なのかな。否定的な後悔ではなく、前向きな後悔なんだろうけど。

 観客はかなり年齢層が高く(還暦オーバーだろう人がゴロゴロ)、かつての映画少年・少女だった人なのか、役所広司さんのファンなのか分からなかったのですが、平日なのに結構入っていてびっくりでした。まぁ、公開初日というのもあるのでしょうけど。

 

市子

しれっとネタバレしていますし、disっちゃってるかもですね。ただ、悪い映画ではないです。

 

 

 

TOHOシネマズシャンテ スクリーン1にて鑑賞

 

 長距離走にて、ゴール間近で脱水症状でリタイアしたという印象の映画でした。匂わせる部分とそうでない部分の取捨選択を間違えていたなと感じました。所謂、投げっぱなしジャーマンみたいになっていたよねと。

 終盤手前まではいい映画だなと感じてはいました。全体的に悪い映画ではないのですが、商業映画として、ある程度の説明と説得力は必要だと私は考えており、それをしっかりと提示されなかった、またはできていなかったのは残念でした。

 観客に考えてほしい、想像してほしいという要求、希望を否定はしておりません。その線引や取捨選択は観客によって様々でしょうし合わせるのは大変なのは分かりますが、商業映画である以上、ある程度の説明と説得力は必要ではないでしょうか。この映画はそれを伝えようというメッセージ性といいましょうか、それを放棄してしまっているように思えました。

 原作があり(舞台劇)、原作がそうなっているのなら仕方はないのですが、原作者が本作の監督でもありますので、商業映画用に調整していただきたかったところです。

 市子が高校生の頃、彼氏の田中とセックスをしなくなったのは、母親のヒモ(になってるんですよね、あの時期には)である小泉と肉体関係を持ってしまったからでしょうという部分は、直接表現ではなく、匂わせでいいと思います。

 ラストの、崖から車が転落して、車中には20代と思われる男女が乗っていたという部分においては、おそらくこれは高校の同級生だった男性の北と、市子が自分がすり替わるためにネットの掲示板で募集した自殺志願者の女性だったと思うのですが、どうやって事故に見せかけることができたのかとかの詳細や過程の描写はいいとしても、そうですよという答え合わせや、市子はまた他人のすり替わりとして生きていくのです、といった提示、または本作における答えはほしいのです。

 全てが匂わせな表現になってしまっているのは、市子の存在自体が、現代社会において曖昧であるという隠喩というのは分かるのですが、結果として本作の映画としての存在意義自体が曖昧になってませんかと思いました。そういう映画を否定はしませんが、商業映画である以上、ある程度の実体さは確保していてほしいというのが私の気持ちです。映画として、正解というか見解みたいなものは明確に提示してほしいと思いますし、それは製作者の義務みたいなものではないかと捉えています。厳しい言い方をすれば自己満足でしかなく、それで終わってしまっていては商業映画とは言えないというのが私の主張です。

 市子の生い立ちみたいなものについては以下のとおりだったと思います。あくまで、今回の映画のみでのものとなります。原作である舞台版は未見です。

 母親は市子が生まれる前に離婚したことから、市子は生まれてから無戸籍状態が続いていた。父親はDV野郎だったために関係を絶ちたかったのが理由なのでしょう。

 3年後に妹の月子が生まれるが(市子とは異父姉妹)、筋ジストロフィーの病気と知的障害を抱えていました。おそらく、月子の存在は隠していたと思われます。月子の父親とも離婚しています。離婚理由はバーの場面でバーのママが言ってましたが、失念しました(すみません)。

 事情は定かではありませんが(おそらく月子関係なんだろうけど、何故このタイミングなのかが分からないです)、市子が小学3年生くらいの頃に一旦地元の東大阪から家族揃って去り、3年後に舞い戻ってきます。市子はそのときに3歳サバ読み(市子は再び小学3年生って、サザエさん方式かよw)で月子と名のり、小中高と通います。

 この辺りの描写は、知っている人が知らない人に対して提示するときによく嵌まる罠に陥っていると思いました。自分達は内容を知ってるから、それを前提として端折って伝えたところ(匂わせな伝え方ですね)、相手にはその前提が共有されていないから情報が正確に伝わらない、というものです。

 小学生時の市子は大人に見せる顔をしっかりと弁えていて、ただ善悪の判断は一般的でないという感じです。盗みを悪いこととは思っていなくて、捕まる危険がある行為という捉え方をしていたと思います。捕まらなければOKという感じですね。

 高校生の夏の日、月子の呼吸器を外して殺害。介護疲れと、自分は市子なのか月子なのかという境界線が曖昧になってしまったが故の突発的な行為だったのでしょう。そして、おそらくその後に母親のヒモとなっていた小泉を誤って殺害。殺す気のなかった事故だと思われます。その現場を高校の同級生であった北に見られ、二人で小泉を線路の上に放置し、最終的に警察は自殺と判断。その事件をキッカケに(というか直後みたい)、市子と母親は雲隠れします。

 次に(多分)大阪のどこかのケーキ屋と、新聞配達のバイト兼住み込みで生計を立てるようになった市子。この時点で母親とはもう一緒に暮らしていません。ここらの経緯や事情も説明とかないので分かりません。この頃から、表向きにも周囲には月子ではなく市子と名乗っていた模様。

 その後、長谷川と祭りの焼きそばの夜店で知り合い、同棲にまで発展、3年が経過し映画本編の現在時点である2015年8月になったという流れです。

 市子のこれまでの要素や行動全てを含めての人間としての市子なのか、同棲していた恋人に見せた一面が市子が本当の自分自身だと思っている姿なのか。曖昧な提示になっていますが、ここは観客の想像に委ねますということなのでしょう。ならば、やはり私は委ねる部分と委ねない部分の取捨選択はしっかりとすべきだったと考えます。

 私としては最後の場面の市子の様子から、劇中でも言われるとおり(母娘揃って)悪魔で、同棲していた恋人に見せていたのはあくまでも一面に過ぎず、それに執着する気持ちはサラサラないですよというものだったのかなと捉えています。いえ、執着したかったとしてももう後戻りできない市子にとっては、事実が露呈した段階でもう全て過去の精算すべき出来事になってしまっていたのではないでしょうか。

 ただ、この私の考えで引っ掛かるのは、市子が同棲していた恋人に結婚を申し込まれて、戸籍の問題があるにも関わらず、その時点では逃げずに、直後に月子の遺体が発見されたニュースに動揺し急に荷物を纏めて逃げ出すという冒頭の場面です。

 あ、戸籍は月子になっているから問題はないのか、表面上は。国民健康保険料も支払っていたようだし。

 名前に関しては、実は本名は月子なんだけど、昔からあだ名で市子と呼ばれていて、自分も気に入ったからとか嘘をつけばいいのか。であるなら、長谷川と同棲していた時期に見せた一面でずっと暮らし続ける覚悟があったということなんかな。うーん、よく分かんなくなってきたな(笑)。

 市子って、他人の生死には無頓着というか、興味がないのかもしれませんね。だから、結果的に殺してしまうことになっても、バレなければOKという感じで。ただ、捕まる危険があるので逃げるだけで。捕まれば自分の自由はなくなるでしょうし、それは市子にとっては一番避けたいことなのかもですね。

 長谷川も市子のこれまでを知って、なお、全てを受け止める、劇中のセリフで言うところの抱きしめる覚悟ができた、あったということなのでしょうか。この辺りの覚悟もどうとでも捉えられるような提示になっているので、どうなんだよっていうモヤモヤ感は正直ありました。

 東大阪を魔境扱いで描いているけど、平成初期の時代とはいえ、雰囲気は昭和というか、昭和40年代っぽくなってるような感じだけど、大丈夫なんだろうか。余計な心配ですけどね(笑)。

 大阪弁は自然な感じでよかったです。原作者でもあり、監督の方が大阪出身のようで、だからセリフというか、発せられた言葉がすんなりと大阪弁として入ってきたんかなー。

 もう一つよかったところは、登場人物をメインに映す場面で、手持ちカメラで若干の手ブレを入れている部分と、固定して映している部分を分けていたところですね。登場人物の心理が揺れているであろう場面とか、感情的に何かを伝えたいときは手ブレで、場面をしっかりと描写したいときは固定という使い分けがされていたように記憶しています。

 市子の母親は、現在も、若い頃(市子が小学生の頃)も容姿がほぼ変わらないのは雑だったと思います(演じた俳優さんがどうこうではありません)。同じ俳優さんを使っているからというのもあるけど、ちょっと画面を見ててバグるというか。現在の時点で若く見積もっても40代後半というか50歳前後でしょうし。そこはもう少し見た目とかなんとかでけへんかったんやろか。

 あ、市子って3歳サバ読みさせられているから、劇中の現在時点では31歳ですよね、多分。そんなことはどうでもいいか(笑)。

 

エッジ・オブ・トゥモロー

ネタバレしています。おそらく、disってはいません。

 

 

 

アマゾンプライムビデオにて鑑賞

 

 アイアンマンというよりメタルマンにインスパイアされたようなパワードスーツが登場する冒頭は、アサイラム映画にお金と時間を掛けましたという感じですが、実際には硬派なドラマとアクションが目白押しですし、ルイス・ファンさんが主人公の映画って初めて観たかもしんない。

 研究所とかSFっぽい部分は前述のとおり、アサイラム映画にお金を掛けた感じというか、一昔前のC級(Z級?)映画っぽくチープなのですが、なんかそこがいいというか、いい具合に映画の雰囲気を象っていたと思います。

 アクションはカンフー等を軸に、現代的な風味を取り入れた凄いアクションで、これだけでもアクション映画好きな人にはオススメできます。重さと痛みを感じるアクションといいますか。

 ストーリーはありきたりながらも硬派な展開で、アクションを彩るという役割に徹していますし、無駄な長い人物描写もほぼなく、凡庸ながらも邪魔にはなっていないと思いました。

 要人警護(だよね)の隊長である主人公は、エネルギー開発に関係している会社の社長(隊長の娘さんにプレゼントを用意するくらいの人なので、多分いい人、人相はそんな感じじゃなかったけどw)が、既存のエネルギーが脅かされるということから、既得権益に絡む関係者から命を狙われているらしく、とある会合に無事に出席するためにチームを組んで警護にあたっていました。しかし、ホテルから会場へと移動しようとしたところを襲撃されてしまいます。

 部下をほとんど殺されてしまった主人公は、なんとかテロリストも撃退し社長も助けることができて生き延びますが、この仕事を最後に退職します。家では配偶者と娘がそんな主人公の心の拠り所でしたが、襲撃を阻止されたテロリストから逆恨みされ、配偶者を爆弾により目の前で死なせてしまいます。娘も爆発に巻き込まれ、なんとか命は取り留めましたが、脳と足に障害を抱えることになり、脳の障害は一刻も早い手術が必要という状況でした。そのことが大きなキッカケとなってPTSDとなり、薬を常用するようになります。

 主人公は電気工事士としての仕事でなんとか生活しながら、娘の手術費用も捻出していかなければいけなくなりましたが、そのとき、仕事終わりにパワードスーツ開発の博士の助手の女性がレイプ魔に襲われそうなところを助けます。

 助手はその御礼に主人公の娘にプレゼントしたり、突然倒れた娘を的確な指示で蘇生させたり、娘の手術費用を代わりに出したりします。そして、主人公の経歴を知った助手は、自分達の会社の警備員にならないかと誘います。

 手術費用を出してもらったことに恩義を感じた主人公は、最初は断ったその誘いを受けることにします。実はそれは警備員ではなく、パワードスーツの装着者に適合するかどうかのテストでした。

 冒頭で装着者がどうとかこうとか、なんか操る系のことを言ってたので、会社の都合のいいように操れる人物を探しているようだったので、この場面では不穏な空気感を勝手に感じ取っていました。

 主人公はVRで行われる人質解放テストを受けますが、その人質が亡くなった配偶者だったので(ここは悪趣味ですなw)、もうこんなテストは受けないって装置を取り外します。そのときに、テロリストの襲撃が発生しました。主人公はなんとかその場から逃げることができましたが、研究員や職員の皆さんは結構殺されてしまいます。

 テロリストは博士や助手達を人質にし、博士に研究成果のデータを要求します。ただ、博士は意地を見せてデータを抹消します。博士、凄いよ(まぁ、この英雄的行動には秘密がありますがw)。静かに切れたテロリストのリーダーは博士を射殺し、人質も皆殺しにしようとしますが、助手がデータの抹消を止められるので人質は解放してほしいと交換条件を提示します。

 テロリストのリーダーはその条件を飲み、助手は折角博士が命を賭して守ろうとしたデータの抹消を止める作業を開始します。

 一方、主人公はPTSDに苦しみながらも、テロリストを倒していきます。PTSDからか、テロリストを屠ることまではせず、テロリストが行動不可に陥ったところでトドメはさしてはいません。これがあとに響くことになるのかと思ったらそうじゃなかったぜ(笑)。あ、パワードスーツ装着者としての適正検査には影響したんだろうか。

 助手はデータ抹消を止め、結果、テロリストのリーダーはデータを入手します。そして、約束なんてテロリストが守るわけないだろって感じで人質達を皆殺しにしようとしますが、主人公からテロリストの仲間(このテロリストチームのNo.2ポジの人です)の命を引き換えに人質を解放しろと要求されます。テロリストなのに卑怯だ何だと言いながら、No.2ポジの人との交換要求に応じます。

 が、流石テロリストのリーダー。そこは作戦で主人公を自分の元におびき寄せたいために、No.2との交換要求を飲んでいたのでした。あっさりとNo.2ポジの人を射殺し、主人公を殺そうとしますが、主人公の方が上手で、人質を逃されてしまいます。

 その際の爆発とかでゴチャゴチャありましたが、主人公は助手の助けてという声を聞き探します。ここから、なんか状況というか、展開が怪しく(映画的な品質の低さ的なものではなく)なってきます。

 地下道でテロリストのリーダーに捕まっている助手と対面します。助手を人質に取られていたため、テロリストのリーダーに対し後手に回ってしまい、PTSDの発症も絡み、助手はテロリストのリーダーに鉄棒でボコボコに殴られ、あれ、死んだのかなという感じになりました。

 そこでやっと主人公は覚醒し、テロリストのリーダーと一進一退の攻防を続けながら、最後はテロリストのリーダーが持っていた手榴弾の栓を抜き、自分がリーダーに覆いかぶさるようにして、助手に娘のことを託し、一緒に爆発するのでした。いやいや、死にそうになっている助手に娘を託すっていうのもどうなのよとは思いました。

 主人公が目を覚ますと、周りはにこやかな(気持ち悪い笑顔ですわ)職員達に囲まれています。爆発からなんとか一命を取り留めた主人公は、パワードスーツの技術により強化されましたっていう、もろメタルマン的というかロボコップ的な感じで生き残ったのかという演出ですが、主人公は五体満足で、実はずっとVRでのテストが続いていたのでしたというオチです。そりゃ、博士も自分の命に代えてもデータを守ろうとできるわけですわ(笑)。

 普通はよくも騙したな的な感じになりますが、主人公は嬉しかったのか、助手を抱きしめて、それを見ている周りの職員達も苦笑いしながら、娘の手術も無事成功した場面となり、よかったよかったという空気感が醸成されます。

 主人公はパワードスーツの着用者になり、テロの鎮圧とか、災害救助とかに活躍するのかなっぽい場面で終了です。主人公はお人好しっぽかったので、助手とかにいいようにこき使われそうな感じです。結局、いいように騙されて唆されて使われてるだけですよね。

 なんか、TVシリーズの第一話を映画で作りました的な終わり方でした。パワードスーツは冒頭と、最後の場面しか出てきませんし、活躍なんて勿論しません。それはそれで残念ではありましたが、肉弾アクションとかがよかったので、それで帳消しですかね。

 冒頭のパワードスーツのプロモ場面のところで、博士とかと話している人物が怪しくて、今回の黒幕とかかなと思ったら、これもそうじゃなかったぜ(笑)。以後、登場しませんし。単純に開発の成功を喜んで(まぁ、儲かるという算段もあるんだろうなという雰囲気ですが)いただけでしたね。

 一箇所だけある主観視点でのアクション(FPSゲームの一人称視点的な)は、チラッと挟む的な使い方なら効果的かと思いますが、一つのアクション全てをそれでやられると私は面白く感じませんでした。

 主人公がPTSDの薬を戦闘中に落とすという場面は、これは何かあとで伏線があるのかなと思っていたのですが、実はPTSDを薬に頼らずに克服しようとしている演出だったと思われます。視聴者に対してはVRの中の出来事ですよっていう示唆だったんでしょうね。VRテストの前にも克服していくことが大事とか言っていたので、主人公に合わせたテスト兼治療方法だったのでしょう。

 時間もそんなに長くないですし、アクションもいいですし、テンポも早いので、サクっと観て楽しめる映画ではないでしょうか。アクション好きな人にはオススメの映画です。

 

シャドウ・イン・クラウド

ネタバレしています。disってはいないでしょう。

 

 

 

アマゾンプライムビデオにて鑑賞

 

クロエ・グレース・モレッツの不安げな雰囲気や仕草が、映画に不穏さと緊迫感を与えていたと思います。終盤以外は画面上にはほぼクロエ・グレース・モレッツ一人だけが映り、彼女の演技と他の俳優の音声だけで、こういうモンスター・パニックものの映画を作るという試みは成功したと言えるのではないでしょうか。

 テレビの深夜に放送されているのを偶然に観て、「ああ、面白かった映画だったよな」と記憶の片隅に残る、そんな映画だと思いました。

 時間もそれほど長くなく(1時間半もないくらい)、テンポもよく、中盤まではクロエ・グレース・モレッツ演じる主人公の素性と、チラチラっと出てくるモンスターと、正体不明(つっても劇中では日本軍ってハッキリ言ってるけどw)の戦闘機の要素を、軍の貨物輸送機の銃座という密閉空間という舞台装置の中での絵面だけで引っ張り、中盤以降、主人公の素性と行動が判明して以降は、モンスター&零戦との戦いという二面をうまく融合させていたと思います。

 クロエ・グレース・モレッツ演じる主人公は、結婚相手がDV野郎で、そのまま第二次大戦に突入したので後方支援兵(なのかな?)として従事しますが、そこで今回の舞台となる軍の貨物輸送機にも搭乗していた兵士と不倫関係になります。

 その兵士は主人公が人妻だったことを知り去っていきますが、主人公はご懐妊しており、そのまま生みます。ところが、それがDV野郎の配偶者にバレたか何かで勤務先の駐屯地までやってきて、かなり激しい暴力を受けて、このままじゃ駄目だと、生まれたばかり(だよね)の赤ん坊をカバンに入れて、軍の命令書とかをパクって貨物輸送機に乗って国外(南方の国だったような)に逃げようとします。

 貨物輸送機の面々は主人公を怪しいと思いつつも、時間もないことから乗せて離陸。途中、モンスターがいるという主人公の報告を訝しがりながら、日本軍の戦闘機を撃破した主人公を受け入れるムードになりますが、機長が軍本部に問い合わせたところ、主人公の素性が判明。カバンも強引に開けられ、中身が赤ん坊だったことがバレ、その父親が搭乗している兵士の一人ということも判明します。

 そんなタイミングで、モンスターが貨物輸送機のエンジンとかを破壊し、更に零戦が攻撃を仕掛けてきます。搭乗員が次々と死んでいくなか(ほとんど零戦の攻撃です)、赤ん坊を守りたい一心で主人公が八面六臂の大活躍。モンスターを地上に落とし、零戦も撃破します。

 エンジンがぶっ壊れ、ボロボロになった貨物輸送機はなんとか不時着し、一件落着かと思いきや、モンスターは生きていて赤ん坊が入ったバッグを奪いますが、すかさず主人公が取り戻し、モンスターとタイマン勝負の末、ボコ殴りでぶっ殺します。

 最後は主人公の授乳場面と、主人公の顔アップで終了です。

 モンスターとのラストバトルで、クロエ・グレース・モレッツがヒットガールっぽくなってタコ殴りにしてぶっ殺す場面は面白かったです。いや、ここまで戦えるんなら、DV野郎の配偶者ともやりあえるだろうというツッコミは誰でもしてしまうと思いますよ(笑)。映画的には、主人公がこれで独り立ちした、自立した、子供(赤ん坊)を守るための覚悟ができたという描写なんでしょうけどね。

 モンスターがそれほど大きくなくて、細くてしょぼくて、顔も怖いよりも愛嬌があるような感じなので、そこはどうなんだろうとは思いましたが、全体的には思った以上に楽しめた映画でした。