新元号の「令和」が発表された時、まずは危惧されたように安倍の「安」の字が入っていないことに安堵しました。
しかし、すぐに暗澹たる気持ちになりました。
「令」の字は命令の令。
「和」の字をいかに解釈するか。
まず「和」字を和むと解釈すれば、和むことを命令するとなる。
国が国民を統制し、従順にさせるという意味となる。
和むことを強要する、これはジョージ・オーウェルの「1984年」の「戦争は平和である」を連想させます。

すなわちファシズムです。


さてしも、「和」の文字を大和、すなわち大和という国家、日本というように解釈します。

「令和」すなわち日本の国家に命ずるという一文には主語がありません。

その主語を安倍と解釈すれば、安倍が国家に命ずる、すなわち「法の支配」ならざる人の支配、ファシズムを意味することとなります。

恐らくはその意図があっての新元号であると推測します。


ところが、そうは行かない、話は単純ではありません。

 主語を「国民」と解釈する。

そうすれば、国民が大和、すなわち日本の国家に命令する、これすなわち憲法が国家権力を縛るという立憲主義を意味するものとなるではないですか。

憲法をする安倍政権に対する大きなしっぺ返しになるではないですか。


どうもこのたびの新元号は、空疎であるなとの印象を受けます。

しかし、新たな元号として制定されれば、その空疎さにも新たな意味が注ぎ込まれていきます。

その元号をファシズムの根拠とするか、それとも立憲主義を取り戻す足がかりとするかは、これからの私たちの行動にかかってきます。

新元号は空疎です。

この中に立憲主義の血を通わせようと考えています。

受け売りと基礎的な憲法学の知識をもって、こんな駄文を書いてみました。

ご一読いただけたら幸いです。

 

以前から、ある権利について、憲法で保障されていないから憲法を改正するべきであるという主張をよく見かける。

ざっと思い出してみると、環境権、高校教育無償化、同性婚があるようだ。。

そして、実際に憲法改正をしてその権利を明文化しようと動いている人もいる。

 

しかし、ここで考えてみる。

その主張をする人は、憲法に「明文の」規定がないから保障されていないと主張している。

しかし、憲法学上の常識として、憲法に明文として記載されていなくても、憲法第13条の「幸福追求権」すなわち「包括的基本権」を根拠として認められる余地があるということがある。

実際に「肖像権」までは行かないとしても、「個人は容貌をみだりに撮影されない自由」が判例として確立している。

国、政府与党が「この権利は憲法で保障されていない」と主張していわゆる「憲法改正」を主張するということは、理由付けとしては失当である。

 

確かに、相対的には明文上の規定があることの方が好ましい。

すなわち明文の規定がないということは、その権利が認められるためには裁判所の判例として確立される必要があり、その点が弱点ではある。

そこで、ある権利について憲法上その権利が存することを確認する訴訟を提起する必要がある。

そこで、あえて幸福追求権のことを横に置いておいて、憲法上に明文化されていない権利について考えてみる。

 

まず、憲法とは権力を縛るもの、すなわち恣意的な権力の行使によって人権を侵害させないためのものだということは、立憲主義、すなわち近代国家としては常識である。

憲法上保障されているということは、言い方を変えれば憲法が国に対して、その権利を侵害することを禁止しているということである。

すなわち国がある施策を実行する場合、憲法上の権利を侵害するということを禁止するということである。

ここで指摘して、前提とするべきことは、憲法上明文の規定がない場合、その権利が憲法上単に「保障されていない」ということなのか、憲法上「禁止されていること」なのかを厳格に区別しなければならないということである。

その帰結として、憲法上禁止されていない施策は、「憲法改正」を待たずに立法によって実現すれば良いことであって、そのことによって憲法違反の問題は生じない。

憲法上禁止されている施策を取る必要がある場合に初めて憲法改正のことが問題となる。

そこで実際問題として、憲法上禁止されていないことの実現を求める場合のことを検討してみる。

もしも憲法改正をする場合には、国会の衆参両議院の「総議員」の三分の二以上の賛成をもって発議をし、国民投票の過半数の賛成を得なければならない。

これに対して、法律の制定には衆参両議院の「出席議員」の三分の一以上の出席でその過半数の議決をすることで足りる。

仮に参議院が衆議院の議決と異なる議決をした場合でも、衆議院の「出席議員」の三分の二以上の再議決で法律は成立する。

憲法改正よりも法律制定の方が明らかににハードルが低い。

憲法改正に必要な数の同意を得られなかったとしても、法律制定のための数の同意を得られる可能性が大である。

もちろん、違憲立法の問題は生じない。

また、その権利について立法が実現すればもはや裁判所にその権利が存することの確認について訴訟を起こす必要はないし、当の権利がすでに確立しているので仮に訴訟を起こしても門前払いである。

 

さて、環境権、高校の教育無償化、同性婚について個別に考えてみる。

まずは環境権。

環境権が明文上規定されていないという問題は、かなり前から指摘されていた。

憲法学上、環境権は憲法第13条の「幸福追求権」と憲法第25条2項の「公衆衛生の向上及び推進」の両条文を根拠として認められるということが通説である。

ただし裁判所の判例としては「環境権」に言及している判決はまだ出ていない。

そのため、環境活動家などにも「憲法改正」を主張する者が多い。

しかし、憲法上環境に配慮した政策及び立法は「禁止」されてはいないので、あえて「憲法改正」などという高いハードルを目指すのではなく国に政策及び立法の面で環境への配慮を求めるべきである。

余談ながら、自民党の「憲法改正案」には環境権が歌われている。

一見環境権に配慮した条文に見える。

しかし、自民党案ではすべての権利に「公益及び公の秩序」の制約が科せらており、現行憲法の「公共の福祉」とは異質のものである。

「公共の福祉」とは、権利を制限する理由は他の利益以外には無い。

その利益と利益の衝突を調整する基準が「公共の福祉」というものである。

それに対して「公益及び公の秩序」とは国の利益を前面に押し出した規定である。

従って環境権も「公益及び公の秩序」の制限を受ける。

そのため、「公益及び公の秩序」を根拠に環境権を制限すること、すなわち侵害することも可能であり、一見環境権の規定に見える条文が「公益及び公の秩序」を口実とした環境権の侵害を認める根拠となりかねないものとなっている。

自民党改憲案のアドバルーンに騙されてはいけない。

 

次は「高校の教育無償化」。

憲法第第26条には、義務教育を無償とする規定がある。

確かに義務教育以外を無償とするという保障はない。

しかし、義務教育以外の教育を無償とすることを禁止してはいない。

また、どこまでの教育を義務教育とするかということは憲法では規定されていなくて法律で規定される条項である。

すなわち高等学校を義務教育とすることは法律を改定すれば憲法を変えるまでもなく法改正で足りる。

従って自民党の主張するように高等学校の教育を無償化するには憲法の改正が必要として改憲を迫るということは本末転倒である。

騙されてはいけない。

余談ではあるが、聞くところによると憲法改正の国民投票のためには莫大な費用がかかり、その予算があれば高校教育の無償化は優に実現できるそうである。

 

最期に同性婚。

憲法第24条の「両性の合意のみに基いて成立」の「両性」の文言を根拠に同性婚は憲法を改正しなければ実現しないと主張されることが多い。

同性婚を認めさせようと活動している人にもこの見解に基づいて憲法を改正しなければならないと主張している人も多い。

しかし、同条文の文言及び成立の経緯を考えるとそうではないということがわかる。

この憲法第24条は男女両性の平等及び婚姻の自由の両者が一つの文章によって規定されている。

そのため、混乱されやすくもある。

同条文の成立の経緯を考えてみる。

同条文の規定が憲法草案のGHQ草案に盛り込まれたのは、ベアテ・シロタの強い意志による。

ベアテ・シロタは、幼少期、思春期を日本で過ごし、日本における女性の地位の低さ、そのことが婚姻の場面に最も強く発現することを痛感し、この男女平等及び婚姻の自由を憲法草案に盛り込もうと力を尽くし、実現した。

その時代において、同性愛者の権利についてはまだ顕在化していなかった。

従って、この条文は同性愛者の権利については全く想定していない。

そのため、同性愛者の婚姻については、保障もされていない。

しかし禁止もされていない。

従って、同性婚について立法することについては憲法違反の問題は生じない。

同性婚について活動される人も、あえて高いハードルを越えようとする必要はない。

私見としては、裁判所がそこまで踏み込むかどうかは別として、憲法上は「幸福追求権」の一環とするべきではないかと考える。。

 

以上が、私としての「憲法改正」を誘惑する論調を論破してみる一つの試みである。

ご考慮のほどを。

 

そんなことを、だらだらと書いてしまいました。

長文になったな、長文になったなと自覚はしていたのですが、書きながら居直ってしまいました。

読了された方のご苦労に感謝します。

先日、Facebook友達二人の、恋愛相手は女性がいいか男性がいいかという微笑ましい「論争」に割り込んでしまって、ついついこんなことを書き込んでしまいました
そして、なんだか世の中にも白状してしまいたくなりました。
こんなことを書き込みすると後で後悔するかもしれませんけれど、ここに白状させていただきます。

などと前置きをして、Facebook以下のような趣旨のことを告白してしまいました。
少々加筆訂正をしてお話します。

 

恋愛相手が自分の好みであるかどうかということと性別とは別問題ということに、ふと気が付いてしまいました。
もしも能年玲奈似で(ファンです)、中性的で男性を全く感じさせない男の子(未成年ではありません)から告白されたら、ルンルン気分で恋人同士になってしまうだろうなと。
これまで、私は自分のことを異性愛者だと思っていたし、異性としか恋愛とかの関係を持ったことがないけれど、本当はもう少し柔軟ではないのかと。
女性でも割とボーイッシュで中性的なタイプが好みなので、性別を越境しやすいのかなとも思いました
思い出してみれば、これまで何度か同性にふと惹かれたこともあったし。
もっと思い出してみると、あれはやっぱり同性に恋していたんだと思い当たる節もある。
こう考えると、なんだかすとんと悟ってしまった気になりました。

どうやら、これまでずっと私は性別お構いなしに恋愛感情を持っていたんだなと、はっきりと認めてしまいました。

そして、自分で自分を見て見ぬふりをしていたんだなと。

もちろん、同性も異性同様、見境なしに性的対象には見ていませんけど。


悟りを開いた今では雑誌のグラビアなんかを見て、この子タイプだなと性別関係なしに思ったりして、なんだか人生少しだけ楽しくなったような気がしています。
まあ、もっと若い頃にこの境地に達していればもっと人生楽しめたかななどと、少々残念でもあったりするのですが。

なんて、こんな趣旨のことを書き込んでしまいました。

 

ところで、最近の私の「魂の遍歴」(そんな大げさな)のことを検証してみます。

成り行きで私のプロフィール写真にレインボーをつけたことを機会に、セクシュアリティーについて少々考えてみました

そしてこの機会によくよく自分のこれまでのことを考えてみると、ごくごく「普通の異性愛者」だと思っていた自分の性的嗜好にクエスチョンがついてしまいました。

先述の通りです。

色々と考え込んでしまいました。
そんなこんなでいろいろと調べているうちに、自分の性的志向をカテゴライズすると、いわゆる「ヘテロ・フレキシブル」なんだなと自覚してしまいました。
要するに、基本的には異性愛者なんだけど、同性と付き合うことにも抵抗感がありません、ということです。
まあ、言葉で定義づけをすることは必ずしも適切なことではないとはわかっています。
でも、定義づけをすることは、自分が納得して安心するための一つの手段だと考えています。
理屈はさておいて、さっきの書き込みのように、人生少しだけ楽しくなったというわけです。

 

まとめで宣言します。

私にだって、こんな人がタイプ、こんな人はタイプではありません、てのがあります。

でも、それは性別がどうとかということとは関係ありません。

ああ、とうとう言っちゃった。

世間の荒波が押し寄せて、後で後悔するかも。

まあ、いいか。

それに、ゲイやレズビアンがカムアウトすることに比べたら、私のことなんて些細なことです。

 

でも、大きな悩みが一つ。
いくら男女かかわらずいいなと思うがいても、こんな何のとりえもないおじさん(自分ではお兄さんと思っている)を相手にしてはくれないだろうなと。
とても悲しい

これはもてない男の永遠の悩みです。

なぜ男というのは、自分の実子、すなわち自分の遺伝子を受け継いだ子供に執着するのだろうか?
私だって、人のことは言えない。
数年前まで自分も実子、すなわち自分の遺伝子を残すことに執着していた。
そのため伴侶を得る機会を逃してしまったことがあるから。
それは痛恨の過ち。

 

今、私はこの記事(五十代の男性が実子にこだわって婚活をしているという記事です)と同じ五十代。
今となってようやく、私は実子、すなわち自分の遺伝子を残すことに執着することから解放された。
相方とは、子供を産む機械ではなくて、生涯を共にする伴侶である。
子供が生まれなくても、伴侶と過ごせればそれでいい。
伴侶の考えは尊重するものの、私としては子供は欲しい。
でも、実子には執着しない。
伴侶に連れ子がいれば、万々歳。
もしも伴侶が子宮がんで子宮を摘出したとか性別移行者だとかの理由で子供を産めない体であって、伴侶も子供が欲しいというのならば、子供を貰ってくることを考える。
親のない子、親が育てられない子なんて大勢いるから、一人や二人貰ってきても罰は当たらないはず。
もしも子供を産める可能性があるのに子供ができないとしても、不妊治療は願い下げ。
伴侶の身体には大きな負担をかける上、毎月月のものが起きるたびに落胆、時として絶望する、そんな苦しみを味合わせたくないし、私も同じ。

子供を持つことについての考えは人それぞれ。
でも、それで苦しんでいる人には傍から何も言うべきではないのか?

なんだか、あちこちで機会があるたびに同じことを書き込んでしまうことが多いです。

自慢ではないけれど、自分としては読み返してみて、なかなか出来が良い論法であると自負しています。

そんなわけで、ここに記録しておこうと思います。

まずは、押し付け憲法論に対する反論です。

受け売りを、自分なりの憲法についての知識・見解をもとにまとめたものです。

 

そもそも憲法とは、国民が国に押し付けるものである。

政府が憲法を、押し付けられたと主張するということは、憲法が正しく機能しているということである。

 

日本国憲法が、日本国民が国に押し付けたものであるのか?

GHQが関与しているということが問題となる。

まず、当時のGHQが後の「逆コース」以前の、日本に民主主義を根付かせようという理想のもとに動いていたということが前提である。

 

確かに日本国憲法のGHQ草案は、GHQが短期間に作成したものである。

では、なぜGHQは短期間に憲法草案を作成できたのか?

それは、GHQは日本にどのような憲法がふさわしいかを研究していたことによる。

当時GHQには、民間からいくつもの憲法草案が寄せられていた。

その中の一つに、鈴木安蔵たちの憲法研究会の憲法草案要項があった。

この憲法草案は、日本に脈打っていた自由民権運動の流れをくむものである。

 

GHQの要求に対する、日本政府が提出する新憲法の草案は、大日本国憲法に少し手を加えてお茶を濁しただけのもので、GHQにとっては到底受け入れられるものではなかった。

何度かの日本政府の提出する新憲法草案に業を煮やして、GHQは自ら新憲法の草案を作成することとした。

 

GHQの新憲法草案は、先述の鈴木安蔵らによる憲法草案を、大幅に採用して作成したものである。

その中の現憲法の憲法第24条の男女平等の条項は、草案作成者のベアテ・シロタによるものである。

ベアテ・シロタは、幼年期、思春期を日本で過ごし、日本における女性の地位の低さを目の当たりにし、その地位の低さが婚姻の時に最も発現するとの実感を持っていたことによって、この条項の制定を成立させるために力を注いだ。
また、後世問題となる憲法第9条の戦力の不保持の条項は、内閣総理大臣であった幣原喜重郎がマッカーサーに提案したことに基づいている。

 

日本国憲法のGHQ草案は、初めての男女平等の普通選挙によって選出された衆議院、および貴族院によって構成される帝国議会によって審議された。

そこで一部修正を加えられた。

GHQ草案には無い現行憲法第25条の生存権が追加された。

草案では単一の議院で会ったが、衆議院、参議院の二議院制に改められた。

この修正案は、帝国議会の衆議院、貴族院の両議院の圧倒的多数で議決され、大日本国憲法第75条の憲法改正手続きを踏んで成立した。

後世問題となる憲法第9条は、この憲法制定の議会の審議では、全く問題とされなかった。

 

以上をもって、現行の日本国憲法は、間にGHQを挟んで間接的ながらも、日本国民の意思を反映した民定憲法として評価されるべきである。

ざっとこんなものでしょうか。
皆様方の、ご意見、ご指導をよろしくお願いします。

女友達が死んでしまいました。
自殺です。
フェイスブックで友達になり、電話で話したりラインをやり取りしたりしていました。
自殺の二三日前にも、電話で話したのですが、そんなそぶりはありませんでした。
いいえ、私が気づかなかっただけでしょう。
気づいたからといって、どうにも出来なかったでしょうけど。

彼女は諫早の人です。
中学高校は長崎です。
面白いことに、高校時代に、長崎の中央橋や鍛冶屋町で、私のことを何度も目撃したそうです。
そして、声をかけようかと思っていたとのこと。
あの時声をかければよかったなんて言っていました。
当時私は、長崎に就職したてのことで、当時の私の行動パターンを考えると、つじつまが合います。
不思議な縁を感じました。

もう一つ面白いことに、彼女はブルックナーに感心を持っていました。
シューリヒト指揮の交響曲第7番を繰り返し聴いていたようです。
もちろん、私もブルックナーのマニアです。
ベートーヴェンやブラームスと違って(と言うか、女性はショパンやモーツァルトが好きな人が多いですね)、なぜかブルックナーに関心を持つ女性がいません。
私の知っている限り、世界に二人だけ、指揮者のシモーネ・ヤング(ブルックナーの交響曲を0番とヘ短調も含めて11曲全部録音しました)、そして彼女です。
彼女がいなくなって、私の知っているブルックナーに関心を持つ女性は、世界でただ一人になっていしまいました。
せっかく話が合う女性と知り合ったのに。

彼女は諫早、私は広島。
彼女は私と直に会って音楽の話をしたいなんて言っていました。
でも、彼女は子供に手がかかる(だんなは叩き出して独身)、私は仕事が不規則で、今極端に人手が足りないので休めない。
そんなこんなで、会うことが出来ない。
せめて福岡で落ち合おうかなんてことも、言っていました。

私の方としては、今のところは恋愛感情までは行きませんでしたが、先ではどうなっていたかはわかりませんし、考えることは無意味です。
正直言って、悲しいという気持ちよりも、ぽっかり穴が開いた宙ぶらりんの状態です。

フェイスブック友達ですので、彼女の家族とは面識がありませんし、彼女の住所もわかりません。
わかったとしても、何もすることはありません。
せめて出来ることといえば。
明日は給料日です。
どこかの居酒屋で、生ビールでも飲んで、冥福を祈ることにしましょうか。
もちろん、影膳を用意して。
最近、朝比奈隆のブルックナー交響曲全集にはまって、そればかり聴いています。
弟に根こそぎ持っていかれたCDから、戻してもらいました。
朝比奈隆最初の録音、ジアンジアンの全集です。
当時朝比奈は60歳でした。
朝比奈は若かっただけに、覇気に満ちた演奏です。

オーケストラは大阪フィル、聴く前は日本のオーケストラだということで、音色などにはあまり期待していませんでした。
ところが、良い意味で期待を裏切られました。
確かに、ドイツのオーケストラみたいに、芳醇な響きはしていません。
宇野功芳式に言えば「まるで楽器の出している音とは思えない」とは言えず、生の楽器の音です。
しかし、誤解をされそうな表現ですが、血走ったぎらぎらとした覇気に満ちています。
こんな音色はブルックナーには向かなさそうにも思えるのですが、不思議と違和感を感じません。
それどころか、朝比奈の表現主義的ともいえそうな解釈に合致しています。

その朝比奈の指揮は、すべてのパートを目いっぱい鳴らして、ここぞというときの金管の強奏とティンパニの鋭い打ち込み、ブルックナーには不似合いな言い方かもしれないけれど、表現主義的とも感じられました。
しかし、表現主義的とは言っても、造形はずっしりとして揺らぎもしていません。
神経質なところが少しもなく、息苦しさを感じさせません。
かといって大雑把というわけでもありません。
すべてのパートが生きています。

朝比奈は、ヴァントについて、ヴァントの神経質的ともいえる細部へのこだわりを、そのことが彼のスケールを小さくしているという意味のことをどこかで言っていたことを思い出しました。
両者とも、金管、ティンパニの強奏という特徴が共通しているのですけど、両者の演奏様式の違いは大きいです。
どうやら、朝比奈は、クレンペラーに私淑しながら、ヴァントにライヴァル意識を燃やしていたのではないかと想像します。
ないものねだりですけど、ぜひとも朝比奈にハンブルク北ドイツ放送交響楽団(朝比奈が客演したときの録音が残っています)、ベルリンフィル(指揮台に上がったことはあるらしい)でブルックナーを指揮して、ヴァントと勝負して欲しかったです。

この全集で、一番よかったと思ったのは、第5番と第8番。
どちらも金管の強奏とティンパニの鋭い打ち込みが大迫力です。
また、朝比奈は、他の指揮者と比べて、いわゆる「ブルックナー休止」の休符の部分で、他の誰よりもしっかりと休みを取ります。
沈黙の何よりも雄弁なこと。
ブルックナー休止がこれほど意味深く感じられたのは初めてです。

何はともあれ、この朝比奈の全集、非常にお勧めなんですが、残念なことに値段が高い。
リハーサルや第8の別録音も含めて、4万円のところをタワーレコードで1万円。
ヴァントの全集が3千円、ヨッフムの全集が新録音も旧録音もそれぞれベートーヴェンとブラームスの全集とセットで5千円。
まあ、入手して後悔はしないとは思うのですが。
今年もまた、アンが家出をしてしまいました。
先月のはじめごろ、アンが一回に付きに三日ぐらいのプチ家でを繰り返しているかと思っていたら、やっぱり家出をしてしまいました。
どうやら、夏になったら避暑に出かけるようです。
家から少し離れた団地の二三段上の方で、目撃情報があります。
まあ、秋になって涼しくなったら戻ってくるでしょう。
そんなわけで、あんまり心配していません。
本当にアンと着たら、不良娘で困ります。
誕生日に、女友達に買ってもらったベートーヴェンの弦楽四重奏全集を、一通り聴き終わりました。

ざっと聴いただけなので、突っ込んだことには言及できないのですが、今の時点での感想を少し。

前期の弦楽四重奏曲、第1番から第6番まで。
音楽解説的には、ベートーヴェンがハイドンやモーツァルトの影響下にあり、その独自性を発揮するまでには、後の作品まで待たねばならないという。
しかし、それだけではない何かがあります。
ハイドンともモーツァルトとも違う、そして中期、後期のベートーヴェンの作風とはまた違った趣が。
なんといったらいいでしょうか?
後のベートーヴェンとはまた違った質のユーモアというものでしょうか。
同じような印象を、交響曲第1番からも感じます。

中期。
やはり、充実しています
特に、第7番、ラズモフスキー第1番の伸びやかな主題が印象に残ります。
このような旋律は、他には交響曲第3番、チェロソナタ第3番などとも通じると感じました。

後期。
私は、作曲家については、晩年好みなので、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲については、もっぱらこの時期の作品群を聴いてきました。
特に第14番をよく聴きます。
この曲は、弦楽合奏に編曲されていて、私はバーンスタインとウィーンフィルの演奏をよく聴いていました。
弦楽合奏ということで、親しみやすかったので、私もこの曲になじんできました。
今回オリジナルの弦楽四重奏版を改めてじっくりと聴いてみて、やはりオリジナルの方が、響きも表現も凝縮していると感じました。
弦楽合奏版は、たとえて言えば、濃くて苦い飲み物も薄めれば口当たりがよくなるといったことでしょうか。
やはり、オリジナルの方が数等良いのは当然でしょう。
でも、弦楽合奏版の冒頭、雲の間から陽光がさして、といった雰囲気は、オリジナルとはまた違った良さがあります。

なんにせよ、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲は奥が深いと感じました。
今の心境では、たとえば無人島に一組のCDを持って行くならば、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲全集だなと思いました。

これから、じっくりとこの曲集と付き合って行きたいと思います。
今日は、司法書士試験を受験してきました。

択一式問題の午前の部、憲法、民法、刑法、商法の実体法はそれなりにできたと思います。
これまで身につけた法感覚で何とか行けたと思います。
だてに何年も勉強したわけではありません。

午後の部、不動産登記法、商業登記法などの手続法が、微妙なところです。
知識の量が不十分でした。
それを、択一式試験の解答のテクニックで補ったのですが、正解に到達したのか今ひとつわかりません。
解答速報を待つことにします。

問題は、記述式。
実のところ、記述式についてはほとんど勉強していませんでした。
そこまで手が回らなかったので、受ける前から、半分棄権したような気分になっていました。

しかし、実際に受験してみて、意外に思いました。
けっこう書けるではないかと。
手も足も出ない達磨さん状態ではなくて、何とか立ち向かえるという判断をしました。
結果として、実体法の問題、どのような事実があったのかということについては、かなり的確な事実認定ができたと思います。
問題は、それを記述するための手続法の知識が大きく不足していることです。
わかってはいても、それをどう書けばいいかがわからないということです。

ということは、手続法の知識を補えば、正解にたどり着くということだという見通しが立ちました。
今回は、無理でしょうが。

それと、もう一つの問題。
試験には、答案を検討するためのメモ用紙のようなものが一枚配布されていたのですが、それを利用していなかった。
具体的には、思いついたことを、答案用紙にそのまま書いて、違うと思ったら二本線で消して訂正してということをしまくったということ。
答案が非常に汚くなって、ほとんど判別不能になったのではないかと。
もしかしたら、答案が汚いということで、採点してもらえないのではないかと反省しています。
やはり、気が動転していたんでしょうね。
平常心が大事。

まあ、今回はともかく、次回こそは期待して言いという感触を受けたということで良しとしましょうか。