愛してるって言わなきゃ殺す
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さよならエリカちゃん

突然ですが、このブログはこの記事で終了します。

それは後ろ向きでなくとても前向きなことです。

そもそも私、本当は黒崎エリカじやないんです。えっ、知ってた??(笑)

2008年 その頃普通に就職活動をしていた私はおこがましくも、『ファッション雑誌を作ることに関係したい』と心から思ってました。


しかしながら、それは思っていた以上に茨の道で、特に収入面に関して言えば『学ばせてやっているのに金まで取るのか』という体育会系の姿勢が根強く、それに輪をかけたネット普及からの出版不況で、相当な覚悟を持たなければ続けられる世界ではないことは、明白でした。

私はその戦いから就活の時点で降りました。



なぜなら、普通が好きなのだ。ということにおそばせながら気づいたからです。


スタイリスト、フォトグラファー、エディター 知り合いにも居るのですが皆さん本当に尊敬してます。


仕事に命がかけれるからです。
もしくは、仕事とプライベートが同じ場所にある感覚をお持ちです。

とにかくバイタリティーにあふれ、寝る時間をギリギリまで削って創作してギラギラして。

私にはそれはできない。と就活(アシスタント)の時点で思ったのです。

週二日は、休みが欲しいし好きなお洋服は着たいし、インテリアも凝りたいし、新作映画も見たい(どこのNANAだよ。笑)

そんな私が何しろ貧乏で、化粧っ気もなく、毎日ジーンズ寝れずに、女を捨てて馬車馬のように働く様な事は出来ない。

と確信して、情けないですが降りました。


そして、メイド喫茶幻橙館での店長になりました。


それは、目指していた世界とは真逆で正直お金は身に余るほど頂いてましたし、華やかな衣装に身を包み、仕事の一環としてお化粧をして、アシスタントどころか、ポーズだけでも私が仕事を教えなくてはいけなくて、元々リーダーシップにかけまくってた私はそれはそれでとまどいました。

ちなみにネイルを欠かさずしていたのは、華やかな世界に身を投じてる自分への戒めのようなものでした。ささやかな自分への反抗というか。(アシスタントの方でネイルとかしてる方当時は少なくてもいらっしゃらなかったので。)

が、私は積み重ねてきたものを全て捨てたので戻れないから…とずっとそれを満足してるように、女性であることを幸せであるように強く打ち出すようにあえて生きてきました。


それまでプライベートでしていた、mixiや、写真サイト(自分が撮影していた)なんかもほどなくして全部辞めました。メイドでいることを中途半端にしたくなかったんです。


この『愛してるって言わなきゃ殺す』のブログは、その努力の証です。(といえるほど、ボリュームもないのですが。笑)


そんなメイドの仕事を離れることは割と唐突に決めました。うっすら『いつかは』と思ってましたが、その時が、ある日自然と巡ってきたと思いました。(正確に言うと去年の卒業ラッシュがひと段落したからなのですが。)


なので、事実上契約途中で残してしまうことになりそうな仕事もあり(Androidの会や文化服装学院さんとのお仕事)卒業後もあいまいに残して、数度上げたここのブログ記事だったのですが、それももはや終わって


『もう必要なくないか?』


と単純に感じました。

冒頭に戻りますが、もう黒崎エリカじゃないんです。

メイドの頃は意識して昔の友達以外にはずっとエリカって呼んでもらってました。
よく、仲のいいメイドさんは、プライベートは本名で呼び合ったりしてることもありますが、私はしなかったし、させませんでした。
だって、私はその頃は本気でで黒崎エリカを生きていたから。(後に見て黒歴史と呼びそうな見事なセリフだ。笑)


なので、私の本名なんて、特に後期の子は全く知らずに何かの際に見られたりして驚かれたりしてました。


ですが、辞めてから出会う人たちは私をエリカさんなんて呼びません。
しかし、これが現実であり、これが今の私なんです。

メイドをある店舗でしていて、辞めても移って他の店舗へ行く方(これは過去に私もしましたが)、アイドル業に本腰を入れる方、普段は普通のOLでも週末だけレイヤーさんの方。
色々あって、ブログを残すのももちろんアリな選択であって、きっとその方がファンの方も嬉しいのでしょう。


私といえば、何ももうその手の仕事はしないだろうな…と思ってましたがもしかして…恋しくなってまたなんかするのか…?

と思ったりもしてセコイですが保険としてここを残してましたが、もちろん恋しくもありますけど、

どうやらそれに勝るほど私は思った以上に普通を愛し、Twitter、Facebookなんかが流行り普通の女の子ですら、ブログで発信しているこの現代で、特に発信したいことがないのです。普通以下か?(笑)

時代乗れてないですね…でもこれが本当の私なんです。


今、言えることはメイド時代に出来なかった『勉強』を少しづつしてまして、お花もですが、特に食については奥が深いと感じてます。


正直ゆくゆくこの手のことで何か外に出れるようになることがあれば
『元メイド喫茶店長』とついたなら、少しばかり面白いのかもしれませんが、私はそうゆう肩書きがなくても生きていける人になりたいです。

…し、私がメイドだったことは、アドバンテージにならないとも思ってるんです。
だって、一度も歌っても踊ってもないですし。出来ないし。(笑)

私はただただ店長業をしてたんです。それは誇りでもあるのですが。


そんなわけで、私は黒崎エリカを辞めます。

新しいハンドル(?)ネームがある訳ではなく元の私に戻ります。


ちょっぴり自分に酔ってるんだと思いますが、いずれ言わなきゃなあ…と更新もしてないのに謎のそれなりのアクセス数を片目に少し前から思っていて

『29歳と共にきちんと』

とおもい今日けじめをつけました。



ここは、黒崎エリカを生きた証なのでいまのところは残しておきます。

このブログが消えた時は、本当の自分だけで生きていける覚悟が120%出来た時か、仕事柄バレてやばくなった時とおもってください^o^

まぁ、最も高い可能性は、パスワード忘れて放置とかすごいしそうな自分が怖いんですけど…



長くなりましたが、黒崎エリカとして私と出会ってくださった皆様、本当にありがとうございました。


バタンキュー^ - ^


2014/06/12
黒崎エリカ(享年28)







まだ三年もう三年

今日は、地震のニュース一色。

NHKも民放も。

でも岩手に行くと、毎日岩手めんこいテレビで震災のことを放送している。


これが現実だと思う。

被災地以外の人間には過去になりつつある震災。

だけど、実際の被災地感情としては、
まだまだ現在進行形なんですね。



ゆとりはそこまで責められるものではないと思うんです。
わたしはゆとり世代じゃないけど、ゆとりと変わりませんし。そんなのは、性格と環境だと思うんです。


でも、人の痛みを分からない人間が怖いです。

だから、子供には、きちんと8.15も3.11も語らなければいけないと思ってます。特に3.11は東京でとは言え経験した一人として。



精一杯生きなきゃですね。




iPhoneからの投稿

忘れたくない

生まれて初めてファッションショーというものを見た日を鮮烈に覚えてる。

文化服装学院の文化祭の2005年のファッションショーだった。

予備知識なくよくわからないまま『なんでこんなに並ぶんだ?』と半ば不満ながらに座った。

しかし、そのショーは、いま思うとその後の私の人生を変えてしまったのだ。今思えば、あれは人生の一つのターニングポイントだった。


オープニングのSEの凄さ、一つ一つの美しく信じられないほど繊細かつ豪華な服たち。

シーンという5分、10分に別れた美しい時間の集合体は宝石箱のような一つの世界になること。

最後のシーンで自然に涙が出てしまった。


ファッションに興味がない、ファッションショーを生で見たことがない人にはわからないかもしれない。


けれど、ファッションには、ファッションショーには、人の心を動かす力があるのだと確信した人生の一日目だった。


文化祭から帰った私は一緒にいってもいない家族や友人にひたすらそのショーのすばらしさを語った。


みんなポカンとしていた。そりゃそうだ。見てないものはわからないのだ。


悔しい、本当に悔しい。あの素晴らしさが伝わらないなんて。

とは言え、私が作ったものではないし、私と文化服装学院には何の接点もいまのところないのが事実だ。


それに気付いて考え始めてから少し。私は文化服装学院のスタイリスト科に入りたいという事をはっきり心に決めた。


実はこの頃スタイリストになりたかったのだ。

だから、スタイリスト科に。その程度だった。


あのファッションショーが本当は作りたかった。でも、ファッションショー科という科はなかった。厳密に言えば、ファッションディレクター専攻がそれに最も近かったのだろうけれど、バカな私はそんなこと知らなかった。


第一、ファッションショーはお祭りだ。お祭りは、仕事に、お金になるとは思えなかった。


そんなこんなでバカ高い入学金に年間150万近く親に出してもらい私は文化服装学院のスタイリスト科に2006年入学した。


文化の新入生歓迎会は、少し変わってる。ファッションショーで歓迎してくれるのだ。新歓ショーという。その他にも小さな発表会に、装苑賞。一年中何かしらあるのだ。


痺れた。


ショーをこんなに身近に見れるとは。


そして、毎年11月にあるファッションショーの実行委員は、すでに初夏には決めて行くのだ。


私はどうしてもそれがやりたかった。


応募に必要なデザイン画を意気揚々と描いて担任に渡すと困惑する担任。


当時はわからなかったけれど、今ならわかる。


ファッションといえど、やはり基本は信用なのだ。一発勝負のショーとなれば、尚更。

要するにどんなにやる気があろうと、遅刻欠席がなく、成績優秀てわなければ、実行委員にはなれないのだ。


華やかなことが好きで地道な努力や、規則が苦手という根っからのキリギリス体質の私にそんなことは、無理だった。


だから、担任はその生活態度と、反比例した私のやる気のギャップに参っていたのだ。


程なくして実行委員になれなかったことを伝えられた。


残念だったけれど、実行委員じゃないにせよ、どのみち何かしら係りになれると聞いて安心し、私は結局卒業まで三年間、いつもショーで流す映像なんかを作った。


それは、純粋に楽しくてたったショーの中でのたった一部でしかないけれどいつも放課後がくるのが、楽しみだった。

が、逆に言うと、ファッションショーというのは、皆で壮大に手分けして協力しあって作るものだと思い始めていたので、自分は映像さえ作れば、ファッションショーを『作った側』になれていると思っていた。


そして、私が多分最後に文化でやったショーは、スタイリスト科の卒業ショー。


皆泣いてた。


私も泣いた。


ショーは、青春だった。





そして時は経ち2014なぜか私はまたファッションショーを今日やった。

まさか28歳で出来るとは…


しかし、このショーは今まで私が知っていたショーとは違かった。


少人数制。異文化。


日本Androidの会アクセサリ部と文化服装学院のコラボレーションなのだから。



これは、感情を綴ってるだけの日記なので内容の詳細はまた後日綴りますが、とにかく、文化の若い若い学生さんと、Androidの会のおじさんたちが繰り広げるショーだった。


私はちょうどその繋ぎ。


どちらの気持ちもわかるだけに気を揉むことも多かった。

何よりやることが多い。映像だけ作ったってショーにはならない。

わかってるようでわかってなかった。
メイクもモデル手配も照明指示も全部自分がやるショーなんて初めてだ。

ショーを学生時代何度もやったのに、こんなに全てをやるのは実は初めてだったのだ。

そしてなんとかショー本番。


さっきまでのリハーサルははっきり言ってやばかった。
どうにかはたしてなるのか自信はない。


オープニングSE。始まってしまう。始まって欲しくない。けど、終わって欲しい。


初めて青い顔でファッションショーを見つめた。


まばゆい光、そして美しく歩くモデル。シーンに合わせた音楽。
それは、きちんとしたファッションショーになっていた。


この上ない達成感。


あぁ、これがファッションショーだ。


ふいに思い出したのだ。
ステージはたった15分程度。しかしそれに費やした労力は、約半年。

なんで、こんな地味で辛いこともあるのに、私達ファッション星人はファッションショーを何度もやりたがるのだろうか。

そして、どんなに製作過程で苦しいことがあっても作ったステージをみるといつも感動してしまうのだ。


やってよかった。って。


最後に学生リーダーだった淡路くんが少し泣いていた。これこそが青春でありファッションショーなのだ。


満足感と疲労感の中向かう二次会への道の中ふいに思った。


初めて見たあの2005年のファッションショーが私の人生をかえてしまったのだ。

あれは魔法だった。


呪文もないし、変身もない魔法。


だって私はあの日文化に入ることを決めて、増田先生はじめ色々な出会いがあり今に至る。


私は人生は、タイミングが9割と思っているのだが、私が文化でちんたら就職活動をしていた中でリーマンショックがおきて、途方にくれた中でみどりちゃんが私をメイド喫茶に拾ってくれて。



そこでの出会いがあったから、今日のショーができた。


私が文化を出てアッシュペーとか、エーネットとかにアパレル的エリート就職がもしできてたら、こんなことは出来なかったのだ。


私の人生は、決して誰もに褒められうやまれるものではないだろう。


でも、実のところ私はこの人生をとても気に入っているのだ。


そんな人生に導いてくれたあのファッションショーに感謝するし、今日曲がりなりにもファッションショーをまた出来たことをとても嬉しく思います。

photo:01





ショー中に写真を撮る余裕がなくて、打ち上げの写真しかありません。


みんなすごく打ち上げ嬉しそうだった。私も嬉しかった。




人間に生まれて28年。辛いことがあると猫や魚になりたいと思うこともありますが、私はどんなに辛くても唯一自分の意思で洋服を選んで着れる人類であることを心より嬉しく思いマス。


この日を一生忘れません。




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