個別最適な学びをつくる
さて、ここまで考えてきた中で自由進度って難しいなというのが僕の感想。
ルーブリックや単元進行表を渡すことはできるが、
そこに教科の特性を(社会だったら思いや願い・工夫にたどり着けるような)見出せるような問いを
「〇〇さんの思いや工夫を読み取ろう」とかそんな課題ではなく、
探求していったら気付けるようなおもしろさにしたい。
しかし、今の僕の能力ではその問いを単元前に渡すことはできないのが現状である。
だから、自由進度学習をできる人はめっちゃ尊敬する。
僕は子どもの様子を見ながら、次の時間の探究する課題を設定していくことしかできないのだ。
次のミニレッスンを設定するように。
では、どのように個別最適化したらいいのか?
今のところの僕の考え
個別最適化できるものは、おそらく3つ。
①目標、②手段、③そして表現
①目標を個別最適化する
これがおそらく自由進度学習や個別に課題を作って探究する形。②の手段などはしっかり示しておかないとさらに自由度は増していく。
自主学習に型があったほうがやりやすいのと同じようなことだと思う。
②手段の個別最適化
これは授業中に自分の必要だと思う資料を選択できるようにすること。
ICT活用についても同じことが言える。そして、ICTだけでなく図書を選んでもいい。
人材活用についてもそう。誰とやってもいいグループにしてもいいし、一人でやってもいいなんてものもあるかもしれない。
③表現の個別最適化
どのようにまとめてもいいという話。一番やりやすいのはノートだ。ノートを工夫して、そして共有する。
この3つをどのように組み合わせるかにより難易度は変わり、
③のノートなどの工夫は最もやりやすい。
そして、②のICT活用も。
この中でノートの工夫の実践がいくつかあるのも、取り組みやすさがいちばんのぽいんとなのではないか。
これからどのように目標、手段、表現を譲り渡していくか
その組み合わせをさらに広げた実践が増えていくのだろう。
子どもへの譲り渡しの丁寧さがこれからのポイントかなぁと思う。
個別最適な学びと多様性と自己受容
授業をしていて
「今日はできた」
と言われる時、子どもたちは結構うれしそう。
こういうことを伝えてくるのは苦手意識をもっている子が多い。
最近だと水泳学習のときかなー。
みんなと同じことができるというのはやっぱり嬉しいのである。
できている時はみんなと一緒だという安心感があり、
できない時は劣等感が生まれるのだ。
学習だけに限らない。
独身の人に対して「結婚しないんですか?」
不妊治療してる人に対して「子どもはいないんですか?」
障がいのある子どもを持つ保護者の方々の障がい受容
LGBTの話もなんとなく
認知のバイアス「当たり前」の感覚があって、無意識から出る言葉が人を傷つけていくのだろうと思う。
なぜ、自分は人と同じじゃないんだろう?って。
(学習と同列の話ではないかもしれないけど)
ここから抜け出して
自己受容をどこでできるようになるのか?
推し活をしているもしくはオタクと呼ばれる方々はある種そういうのに突き抜けているなぁとも感覚的には思う。
周りは関係なく、「自分はこれ!」というものを持っている。
「好きなものに突き抜けれる」
と同時にもしかしたら
「周りと同じ出なくてもいい」
という気持ちになれている?もしくはあきらめている?のかもしれない。
個別最適な学びを考えるとき
「一人一人の課題」「個人で取り組む」
という時に、それは間違えると永遠に追いつけない差を子どもたちが小学生の時に感じてしまうことがあるのではないだろうか?
ものすごいクラスの苦手な子をサポートする体制が出来上がらないと
知識の面でもう埋まりえない差が生まれる。
もしくはその子が1つのことで突き抜けるか。
ここは多様性で片付けていい問題なのだろうか。
AIが発達してきたから、もう知識はいらないのだろうか。
新しいアイデアは知識を集合して生まれるなら
その量が多い人、そしてうまくつなげられる人がこの先の社会では生き残っていくのだとしたら。
自由進度の個別最適な学びはその子の将来のためになるのか?
最低限の知識ってなんだろう?
それが学習指導要領だとしたらそれは全員学べるのか?
そこらへんも考えていきたいなぁと思う。
もし可能にするとしたら、その自由進度をする際の課題の作り方
そして、それをサポートする多様性に対しておおらかである学級
困りごとを全力でサポートする学級
なのかな。
これが日本ではなく、多様な民族がいる海外であれば
「ちょっと留年してくるわ」みたいな感覚の文化があれば
違うのかもしれない。
個別最適な学びについての雑感
この前、前に勤務してた学校の先生方と飲んでいて
個別最適な学びの話が出た。
『「個別最適な学び」と「協働的な学び」っていろいろな資料やICTを自由に使って調べて、最後に共有する授業みたいな感じだよね。』
この話からずっとなんかあってるようで、なんか違う気もする。
その場では、「そうですね」とは素直に言えず。
続けて、「できる人はいいけど一握りなのではないか」というような話も。
この話が出る時、いやもといもっと前から
それはアクティブラーニング、主体的で対話的で深い学び、自由進度学習、「学び合い」の時からなんかずっと違和感がある。
こういう授業の型の話(そういうまとめ方もどうかと思うけど)が出る時に
教科の特性というかおもしろさみたいなものを失ってはいないのか?ということだ。
去年の場づくりの研究主任をしてた時も
「場づくりではありだけど、教科としてはなし」みたいな話があって、子どもが安心して活動してるけど、国語としての深みはないというような。
ずっとついて回る
「2つを追い求めることはできないのか」という疑問。
そこでずっと個人的に思っているのは
何を個別化して、何を最適化していくのか。
目的と手段のようなものを、どこまで解放していくのかに。
例えば算数での「教科書の〇ページの考え方を説明できる」
というような課題は
算数が持つ既習事項からパズルのように組み立てて、答えを出す
そのおもしろさを失っている気がするのである。
それならば、みんなで問いを立てて、既習事項となる項目を整理し、やってみる一斉授業のようなものの方がよりおもしろさがあるような気がしてならない。
社会でも僕は個人的に必要だと思う資料はタブレットの中に入れてあるので、(それ以外に検索してもいいけど)個人が調べを進めて共有する流れはある。そして、共有して、新しい問いをみんなで作る。
でも、入れる資料を間違えるとその人の思いや工夫に迫れないのでめっちゃ吟味する。
僕の「ごみはどこへ」の学習はほぼこれ。めっちゃふつうなのだ。笑
じゃあ、次に取り組むのは問い作り。
個人的に問いを持ち、探求していけばいいのではないか。
こういう時間ももちろん確保している。個人で探究することもありだと思う。
でも、よく総合的な学習の時間で言われることは
「それぞれの課題になると『自分ごと』ではなくなるので、話し合いが深まりにくい」
という。
クラスのそれぞれのグループの課題が全体の課題につながっていないと自分ごととして話せない。これも言っている意味はわかる。
話し合いが「ふーん」で終わる。協働性が少なる気がする。だから、話し合いの論点・立ち戻るところをはっきりさせて、いくことが大切なのだろう。
グループで探究で終わるのもいいけど、クラスでいる意味とはというのも考える必要がある。
そして、そうバラバラな課題に対する振り返りの視点。他人から学ぶ時にはこれって結構大切だと思う。
まだ、考えることはある。
子どもたちの様子を見ていると
それは
「みんなと同じことができる」というのはけっこう子どもたちの感覚からしてうれしいことなんだと思う。
これは同じ学年の人が集まっているからなのかもしれないけど、
大人でも「あいつにできて俺にできない」は結構しんどい。
もともと年齢が違う集まりだったら、素直に受け入れられるだろうけど。
この違いを取っ払える自由進度学習を進められる学級経営というのは、簡単にはできない。
だから、違いがあってもいい問いを作る必要があるんじゃないか。
それは知識の自由進度ではなく。
でも、同じ非認知能力があったらやっぱり知識の多い人が社会では採用されるのだろうか?
きっと特別支援教育ってそういう社会との接続まで考えないといけないんだろう。
個別最適な学びと協働的な学びってめっちゃ難しいな。と。
めっちゃとりとめがないけど。そんな簡単じゃない気がする。
ばーっと書いたので言葉が荒いのはちょっとご愛嬌ということで笑
雑談の魔力
「休み時間に遊ぶということは若いうちにしかできないから、おじさんになってもできることをする」
なんてとがってた時期もありましたが、今はそういうのもありだなと思います。
それでも、遊ぶことをしなくても上手に学級経営をしている人はいるので特に女性の先生なんかはすごいなと思います。
うちの隣のクラスの先生には圧倒的な女子トーク力があり、他の学年の先生には天然な話のうまさがあったり。
つまりは「子どもと学習や指導以外のコミュケーションをどうやってとるのか」がポイントで
雑談をできる関係をつくるのかということが大切なんだと。
若い先生が子どもゲームの話をしたり、マンガの話をしたりするのもよいです。
僕もそれはよくします(笑)
ポケモンだったり
マンガやアニメの話もしました。
それ以外に僕の子どもたちとの雑談ツールは
この毎日の時間割の下にちょこっと描くイラストです。
最初はコロナで登校しぶりの子が出ないように楽しんでほしいってことで始めました。
「毎日、何が書いてあるのかなぁ」
って楽しみにしてほしいと。
でも、だんだんとそのうちに
「これを書いてほしい」というリクエストが来るようになります。
そうすると子どもたちの好きなキャラクターがわかってくるんですよね。
特に東方プロジェクトはこの時に初めて知りました。
書いていくと次に起こるのは
「これは誰のリクエストなのか?」
ということです。
「これは〇〇さんがリクエストしたやつだから、今度話してみたら?」
知っている子どもたち同士をつなげるきっかけになりました。
こうやって、子どもたちとつながっていくことで、学級経営で大きな声を出すことなく指導することにつながるのかなと思います。
「先生とはアニメの趣味が合うから、好き」って他の先生づてに伝えられましたが
好きなキャラについて話すだけでも関係がつくれるのです。
外で遊ぶことも面白い話をすることもそうですが、その人なりに「先生と真面目なこと以外のつながりをつくる」
ことがベースなんだと今は思います。
でも、その人が強烈なインパクトがあると次の学年で反感を買うことはあるかもしれませんが(笑)
その人なりの好きなことを使って「学習以外のつながり」をつくることが学級経営で意識するといいんだろうなぁと思います。
休み時間にドリルの丸つけをしてると早く帰れるから、効率を考えたら遊ばないを選んでしまう人が多いのかなと思いますが笑
働き方改革しちゃいけないところですね。
ライティングワークショップをしてみると、リーディングへの影響
ライティングの質を上げていこうとする時に
やはり気になってしまうのは文章の拙さです。
もう少しレベルアップしてほしいと思った時に
文章の構造を知っておくことが大切になっていくんだなと最近改めて思います。
はじめと終わりで物語の変化したことはどこなのか?
その間に何があったのか?
例えば、「三年とうげ」では
病気になってしまったおじいさん→トルトリの助言→元気になったおじいさん
「ちいちゃんのかげおくり」では、
のような変化が起きます。
物語ってこういう構造なんだということを理解していくことにより
子どもたちが文章を考えることができるようになっていくのだと思うのです。
かといってこういう話だけでは、文章を楽しむということが足りていない気もします。
「ちいちゃんのかげおくり」では
やっぱり戦争とは平和について考えていってほしい。そのためにたくさんの本を読んでいくことも大切なのかなと思います。
読みと書くがつながっていることがとてもよくわかるようになってきたからこそ
どうやって教材を使っていくかなんだか
悩ましい疑問が出てきます。
今の自分を残しておくことで、考え方が深まっていけばいいなと思います。
はれときどきぶたでおもしろ日記を書こう
久しぶりになってしまいました(笑)
この間、ぼくが国語をすることなく
他の先生が研究授業のためにぼくのクラスで授業してくれました。
その時にピラミッドチャートを教えてくれたりして
子どもたちも新しいツールを手に入れていますが、
今回は本格的に作家の時間をスタートしました。
やってよかったなと思うことは、国語の読むと書くは両輪であると再確認できたこと
また、説明文の構成は子どもたちの話し言葉にすごく影響を与えるということ
これによって対話の深みが出るので、読みがまた深めることができるという循環を見つけることができました。
いろいろなテーマで書いていってほしいので、
面白く書くことができるテーマをいくつか出しています。
「はれときどきぶた」を使って
日記帳に書くこともできるように今回はミニレッスンしてみました。
こんな簡単な板書ですが、子どもたちは自分でテーマを選択して書くことができています。
話の流れを考えることは、これから書いていく中で必要になったら
思考ツールを導入する予定です。
気持ちを込めてきてください【ストーリーマップ】
書くときにはストーリーを作るために
簡単なワークシートを使います。
それによりはじめ・中・おわりを意識して取り組むことができるのです。
手紙を書くときには簡単バージョンで指導していきます。
書くことへの抵抗を少しでも減らせるように。ちょっとだけ楽しんでステップを踏めるようにワークシートや思考ツールは使っていきます。