本の覚書

本と語学のはなし

【モンテーニュ】わたし自身がその姿勢の不安定さによって【エセー2.1】

 モンテーニュ『エセー』第2巻第1章「われわれの行為のうつろいやすさについて」を読了する。
 宮下志朗の翻訳も3冊目に入った。全部で7冊あるから、まだ先は長いのだけど。

Non seulement le vent des accidens me remue selon son inclination, mais en outre je me remue et trouble moy mesme par l'instabilité de ma posture; (p.335)

さまざまなできごとという風が、その風向きにしたがってわたしを動かすのだけれど、それだけではなく、このわたし自身が、その姿勢の不安定さによって、みずからを動かしたり、揺らしたりしている。(p.18)

 多様性とか差異とかに敏感で、かつ鷹揚なモンテーニュにとって、一人の人間においても、一貫して筋の通った何かがあって、常に不変であるとは信じることができず、そしてそのことを、ストア派が何と言おうとも、乗り越えるべき人間の欠陥であるとは考えない。
 「わたしは区別する (distinguo)」こそは、モンテーニュ論理学のもっとも普遍的な項目なのである。


 新生活が始まって1か月経ち、だんだんとリズムが固まってきた。
 私の勤務の始まりは少し遅い。7時に起床して、出かけるまでに、モンテーニュセネカプルタルコスの原典講読を済ませる。
 休憩時間にニューヨークタイムズの記事を1本読む。
 帰宅後、昔買った Fire で英語とフランス語のニュースを聞く。時間がもったいないので、パソコンは開かない。モンテーニュセネカプルタルコスの翻訳を10ページずつ読んで、日付が変わらない内に床に就く。
 早寝早起きというほどではないが、病的なまでに夜型であった私にとっては、奇跡のような生活である。


 だが、すべて解決済みではない。
 フレンズは休日に見ているけど、今後も続けるのかどうか。ニュートンも休日にまとめて読むつもりでいるけど、うまくいくかどうか。
 というのも、休日には菜園の作業があるし、筋トレも負荷を少なくして再開するつもりでもいるし、パソコンも開くし(更新の嵐が済んで、多少は使えるようになった)、必要があればブログの記事を書くだろうし、冬には雪の処理に追われるかもしれない。仕事のある日に時間を捻出できないからといって、全部休日に回すことはできないのだ。

【モンテーニュ】誕生と暇な時間と修行に人生のあれほどの部分をさくべきではない【エセー1.57】

 モンテーニュ『エセー』第1巻第57章「年齢について」を読了する。これで第1巻を終了する。

Il me semble que, considerant la foiblesse de nostre vie, et à combien d'escueils ordinaires et naturels elle est exposée, on n'en devroit pas faire si grande part à la naissance, à l'oisiveté, et à l'apprentissage. (p.328)

われわれの生命がはかないものであって、日常的に、ごく自然に、多くの危険にさらされていることを考えると、誕生と、暇な時間と、修行に、人生のあれほどの部分をさくべきではないようにも思われるのだが。(p.351)

 第1巻最後の文。
 「誕生」とは何だろう。子作りのことだろうか。「暇な時間」は無為のこととも考えられるが、ラテン語のotiumのごとく、「勉学」のニュアンスが含まれるのではないかと、宮下は考える。
 すると、ネサンス、オワジヴテ、アプレンティサジュというのは、誕生から、勉強、見習いへと、一人前になるまでの時間の経過を表しているのかもしれない。
 われわれはもっと早く社会的に認められてよいというのが、この章の主張の一つであった。


 パソコンが満足に動いてくれないので、仕事のある日は開かなくなった。
 今後、このブログを更新していくかどうか、わからない。

【モンテーニュ】最近のあの企てに伴って危険や困難を引き受けよう【エセー1.56】

 モンテーニュ『エセー』第1巻第56章「祈りについて」を読了する。

Ils m'en peuvent croire. Si rien eust deu tenter ma jeunesse, l'ambition du hazard et difficulté qui suivoient cette recente entreprinse y eust eu bonne part. (p.320)

わたしのいうことを信じてくれないだろうか。もしも、わが青春をそそのかすものがなにかあったとしたら、それは、最近のあの企て〔宗教改革のこと〕に伴って、危険や困難を引き受けようという気持ちが、大きな役割をはたしていたかもしれなかったのだ。(p.333)

 イタリア旅行の際に、カトリック教会から『エセー』を検閲され、訂正の指示を受けた。そうしたことも、この章への後の書き込みは反映しているようである。
 引用した部分は、若かりし頃、モンテーニュプロテスタント側に心が揺れていたことを語ったものだろうか。