本の覚書

本と語学のはなし

【セネカ】若者のように未来への希望を次々に抱懐し【生の短さ】

quorundam ultima senectus, dum in novas spes ut iuventa disponitur, inter conatus magnos et improbos invalida defecit. (p.352)

また、最晩年になっても、若者のように未来への希望を次々に抱懐し、分を越えた無謀な企ての半ばにして、病や老衰で力尽きる者もいる。(p.63)

 セネカ『生の短さについて』を読了する。
 セネカ箴言のような鋭い言葉の宝庫なので、どのページを開いても引用に適する文章が見つかるのだが、最近読んだところを書き抜いてみた。
 私の人生はまだ最晩年とは言えないだろうけれど、あちこちに散乱していた興味を少しずつ一つの方向へ収斂し、衰えたエネルギーと混濁した脳から過剰な負担を取り除いてやらなくてはならない時期には来ている。
 モンテーニュセネカプルタルコスしか読まない日々が、今始まっている。


 続いては『心の平静について』を読む。翻訳は岩波文庫に収録されている。

エセー4/モンテーニュ

 第2巻第12章「レーモン・スボンの弁護」のみを収録。
 モンテーニュはレーモン・スボンの『自然神学』という本を翻訳したことがある(1569年刊行)。私は持っていないが、入手は可能のようである。
 モンテーニュは長い論考向きの人ではないし、哲学の話題が多く、すんなりと理解できるというものではない。懐疑派に入れ込んでいた時期でもあって、人間の理性も感性も不確実なものであり、あてにはできないということが、あれこれ語られる。それは、まったくスボンの弁護などにはなっていないらしい。


 有名なクセジュという言葉が出てくるのは、この章である。

彼らが「わたしは疑う」というと、人々は彼らののど元をつかまえて、彼らが少なくとも、自分が疑っていることを認識し、これを確信していることを、なんとか白状させようとする。(p.160)

 デカルトはこの懐疑を方法として用い、疑う主体の存在だけは絶対に疑うことはできないとして、ここに哲学の基礎を築いたのであった。

このような懐疑主義という考え方は、わたしが天秤といっしょに銘とした「わたしはなにを知っているのか?ク・セ・ジュ」のように、疑問形で示せば、より確実にわかるのである。(p.160)

 モンテーニュは懐疑の定式を疑問形によって徹底しようとした。反語であり、強い否定であって、畢竟無知の知を言い表わしたものだというような解釈は、少なくともモンテーニュがここで言おうとしたことではない。
 我々にはそもそも、何らかの恩寵でもない限り、真理を認識する能力がないのである。

【モンテーニュ】笑う能力がある(リジブル)だけにおかしなもの(リディキュル)【エセー1.50】

 モンテーニュ『エセー』第1巻第50章「デモクリトスヘラクレイトスについて」を読了する。
 「心が事物にまとわせたものについて、われわれが、みずからに説明しなくてはいけないのだ」という。これもまた、モンテーニュがエセーを書く理由の一つであっただろう。
 デモクリトスは笑い、ヘラクレイトスは泣く。前者は人間存在を空しく、滑稽なものと考えていたのであり、後者は憐れむべきものと考えていたのだ。モンテーニュデモクリトスの方を好む。彼もまた、「われわれの価値からして、われわれは、どれほど軽蔑されても足りないくらいだ」と思うのである。

Nostre propre et peculiere condition est autant ridicule que risible. (p.304)

われわれ人間に特有の、存在のありようとは、笑う能力があるリジブルだけに、おかしなものリディキュルなのである。(p.302)

 この章を締めくくる言葉である。
 関根秀雄訳では「この我々人間に特有な本性は嘲笑リディキュルすべくまた憫笑ジーブルすべきものである」、原二郎訳では「われわれ人間に特有な性状はおかしくも笑うべきものである」となっている。普通に訳せばそうなるだろう。
 だが、スクリーチの英訳では「Our own specific property is to be equally laughable and able to laugh.」、フレイムの英訳では「Our own peculiar condition is that we are as fit to be laughed at as able to laugh.」となっている。いずれもリジブルは笑う能力のことと考えるのである。
 ランリの現代フランス語訳も同じく「Notre condition propre et peculière est aussi ridicule qu’elle est capable de rire.」となっている。注釈ではリシブルを説明して、「opposé à ridicule (digne de risée) ; il ne peut guère avoir ici que son sens premier (cf. l’homme qui est un animal risible, c’est à dire : qui a la faculté de rire).」という。リディキュルとリジブルとは、類語を併置したのではなく、反対の意味ををもつ語を対置したのだということである。
 現代語ではもうその意味では使われないけれど、リジブルの第一義は笑う能力のことなのである。