大原における極めて信じがたい「不思議な」体験の一つが、研修医教育のために行われていたCPC (clinico-pathological conference 臨床病理カンファランス)だった。
世界中どこに行っても、CPC は、「討議者が臨床と病理担当の二手に分かれ、臨床側が『死後の解剖等により明かされた病理側の情報』にアクセスすることなしに、『生前の経過・データ等の臨床側の情報』のみから論理的に『正解』を推測した後、病理側が種明かしをする」というフォーマットで行われるのが普通である。臨床における論理的思考を学ぶことが目的であるからこそ、昔からCPCでは、臨床担当者は病理所見にアクセスすることなく議論を進めるというフォーマットが採用されてきたのである。
ところが、大原のCPCにおいて臨床担当研修医の指導役をさせられた際、研修医が「病理医と密接に連絡をとりながらプレゼンテーションの準備をしていた」ので、私は心底驚くこととなった。CPCの「掟」ともいうべき昔ながらのフォーマットがまったく無視されて、いわば、正解を教師から教えてもらいながら試験の答案を書く様なことをしていたのである。大原においてなぜこのような不思議なCPCが行われるようになったのかは知る由もないが、単なる「症例紹介」でしかなかっただけに、その教育的意義には大きな疑問を抱かざるを得なかった。
臨床研修が「不思議」の範囲にとどまっていればまだ罪は軽いのだが、大原における研修医教育は、指導責任者の立場にある医師が「医療安全とは真逆のカルチュア」を奨励していただけに、「危うさ」を覚えずにはいられなかった。
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私が医療安全に関わる文書を書くようになったきっかけは、母をある薬剤の過剰投与で亡くしたことにあった。母の死の直後、ダナ・ファーバー癌研究所での抗癌剤過剰投与事件(「医学界新聞」初出、後に医学書院刊『市場原理に揺れるアメリカの医療』に収載)について書いたのだが、その理由は、自分の気持ちを整理したかっかことと、母を看取った病院・医師に再発防止の役に立てて欲しいと願ったことの二つだった。その後も、折に触れて「医療安全」に関する文書を書いているが、私にとっては、いわば、「母の仇討ち」としての意義を有するテーマなのである。
横浜市大における患者取り違え事件が起こったのは母の死から二年後だったが、医療過誤事件が相次いで起こったこともあって、にわかに日本でも医療安全に対する意識が高まるようになった。当時日本で医療安全についての活動をする人がいなかったこともあって、ダナ・ファーバー事件についての著作があった私が、まるで「権威」のように扱われるという「珍事」が出来した。
その後、講演・著作(例えば医学書院刊『アメリカ医療の光と影』)を通じて何度も強調してきたことであるが、医療安全を推進するに当たっての最重要事項の一つが現場の「カルチュア」の検証と検証に基づく改善である。ここでカルチュアとは、「集団の構成員が互いに期待する思考・行動のパターン」と定義されるが、換言すると、ある集団において、「みんな自分と同じように考え行動するはずだ」と期待する「暗黙の了解」と言ってもいいだろう。
たとえば、「看護師が医師の指示に疑義をさしはさむことがためらわれる」とか「目下の医師が上司の医療に疑義をさしはさむことがはばかられる」とかの「権威主義のカルチュア」がはびこる職場においては、医師がひとたび間違った指示を出した後、誤った医療が何のチェックも経ずに「素通り」で患者に行われてしまう危険が高いのでこれほど危ないことはない。医療安全を重視する立場からは、「『上下関係』に妨げられることなく自由に物が言えるカルチュア」を作り上げることが何よりも最優先される所以である。
ところが、大原においては、研修指導の責任者が、カンファランスにおいて自分の診療行為に医療安全上の疑義が呈された際に、「医の和を乱すな、口を慎め」と言って、議論を打ち切ってしまったことがあった。どうやら、「自分の面子が潰された」とお怒りになられたことが議論を打ち切った理由のようだったが、結果として、「上司のすることに疑義をはさむな」と、「医療安全とは真逆の、権威主義のカルチュア」を、研修医を含む医師達に強制したのである。しかも、議論を打ち切ることでカンファランスの参加者(特に研修医)から「学ぶ機会」を奪ってしまったのだから、その罪は二重に重い。
さらに言うと、日本の法制度の下にあって、研修医は指導医の(誤った)指示に従ってした医療行為の責任から保護されない立場に置かれている。たとえ指導医に逆らえず、その指示に従わざるを得ずにした医療行為であっても、法を厳密に適用する限り、「医師免許を持つ以上研修医も責任を免れない」からである。こういった「理不尽な」制度の下で研修医が身を守る術は「指導医の指示に疑問を抱いたら、積極的に質問する」以外にない。「医の和を乱すな」という珍妙な根拠で「目下の医師」が疑義を呈することを許さない姿勢は、患者だけでなく、研修医をも危険にさらすだけに、これほど「危ない」話もないのである。
特に我が夫婦の場合、私だけでなく、妻も、著作(医学書院刊『研修医のためのリスクマネージメントの鉄則』)を通じて、「研修医が自分の身を守る術は、疑問に思ったことを積極的に指導医に質問する以外にない」という原則を強調してきただけに、「医の和を乱すな、発言を慎め」と権柄ずくに医療安全についての議論を打ち切ってしまう「危ない」研修指導責任者が世の中に存在したという体験は、驚きを通り越して非常にショッキングな物でった。何よりかにより、「自分の面子のために医療安全をないがしろにする医師」は、私にとって、「母の仇」と変わらないだけに許せないのである。
(付記:11月18日に行われた医療安全全国フォーラム2016の基調講演において、大原で目撃した「危ないカルチュア」について紹介した)。
(この項続く)
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