2021年10月21日木曜日

10月19日に思うこと、

 総裁選が大騒ぎの果てに、終わったかと思ったら、今度は、衆議院解散で、選挙だ。31日投開票だから、あまり日もない。

議員たちが、国会から引き上げる様子を見ていると、次の選挙に向けて密かに闘志を燃やしているのか、あきらめているのか、うつむき加減で、深刻な表情を浮かべている。

TBSの金平氏が、「いまはもう彼らは国会議員ではなく、ただの人です」と言っていた。

「ああ、そうなんだな。彼らはただの人なんだ」と頷いてみる。選挙で勝てば、また偉そうな顔ができるが、負ければ、肩をすくめて冷や飯ぐいとなる。

しかし、冷や飯だろうと何だろうと、飯が食えないことはないんだろう。今まで、月に百万を超える給料を貰っていたのだから、向こう何年かは、食っていくことぐらいはできるんだろう。そう思うと、嫌になる。彼らは、いつも吠えるが、自分の身が飢餓に晒されることはない。

テレビのチャンネルを変えてみる。

各局のキャスターが、高そうなスーツを着て、喋ってる。スーツだけじゃない。身に着けているもの何もかも、高級なものだ。

それでいて、口から出てくるのは、貧困の二文字。コロナ禍で、仕事を失った人たち。非正規でのシフト減に食べていくことが出来なくなり、職を変えてもうまくいかず、ついには、家賃も払えずに、路上へと出る。所持金は数百円。NPOの人たちが手を差し伸べいくらかの生活費を渡すが、それも数日のうちになくなるのは火を見るより明らかだ。

数年前まで、河川敷にはたくさんのホームレスがいたが、今は、いない。ホームレスがいなくなったのではなく、ただそこから排除されただけなのだ。それを証拠に、炊き出しなどがあるとたくさんの行列ができる。ボクらの見えないところで、彼らは、息をひそめて暮らしている。

貧富の差がどんどん開いていく。

貧しい人たちに寄り添った政治をと、当たり前のことをことさら深刻ぶって、テレビのキャスターは言う。自然と仕立てのいい服のほうに、目がいってしまうが。

振興富豪とかいう連中は、六本木辺りのタワーマンションで、毎日何度もウーバーイーツで、ジャンクフードを食らいついている。彼らに、何か、後ろめたさのようなものはないのだろうか? 自分より年上の配達員に出前をさせて、ご苦労さんの一言もない。もちろん、顔を合わせることもないから、あいさつのしようもないのだけれども。

昔、ボクのうちも、出前を取っていたが、家が商売をやっていたので、仕方のないことだった。できれば店に行って食事するのが当たり前で、出前を取るには、抵抗があった。コロナ禍のなか、外出自粛仕方なく宅配を利用しているのはわかるが、何か、感覚が鈍化していることは確かではないか。

昔と今は違う。出前の人は出前の人で、それが仕事なのだ。食べていくよりどころなのだ。金を貰って食いしのいでいる。仕事なのだから、より多く稼げればいいわけで、頼むほうも、配達するほうも、仕事だからと割り切って、変な妬みも、罪悪感もなくなってしまっているのだろう。

昔の出前は、修行の一つで、それが仕事といえば仕事だが、配達すれば金がもらえるわけではなかった。

社会の仕組みが変わっている。ここ東京では、それが顕著だ。

エコだか何だか知らないが、ものを買っても、袋一つ入れてはくれない。

袋がいるなら、何円かの金を払わなくてはならない。でなければ、エコバッグなるものを持ち歩き、そこに入れる。

最近では、洒落たエコバックもあるようだが、使ったその日に、洗濯するわけでもなく、何日も持ち歩いているのだろう。その中には、泥だらけの野菜が入ってる時もあれば、弁当が入ってる時もある。日常品は何でも入れる。不潔と言えば不潔だが、あまり気にしている人はいない。

昔のような過剰包装がいいというわけではないが、何を買っても、袋代を払わなければ、袋に入れてくれないのは、違和感しか抱かない。「×円ですが、袋に入れますか?

こう聞いてくるのは、まだ良いほうで、最近では当たり前なのか、「袋に入れますか?」とだけだ。

ちょっとした人間関係だが、スムーズにはいかない。カチンと来ることもある。

これからは、プラのスプーンなんかにも、いちいち金を取られるのかも知れない。国の対策の真っ先の実行者は、常に国民だ。企業ではない。

これからは、何でもかんでも、エコや脱酸素を理由に、持ち歩かなければならない。

マイハシやマイスプーンなど。プラ製品なら何でも、持ち歩かなければならないとしたら、これもまた面倒であり、不潔でもある。

もっとも、毎日、洗い物をすればいいということなのだろう。

エコを国民に押し付けるのはいいが、企業は、そのような努力をしているのだろうか。カーボンニュートラルをいいことに、あらゆる場面で、エコロジーが推奨されているが、原発は、次々に、再起動していくようだ。

原発と、エコロジーを一緒にするなよと言われるかもしれない。しかし、地球環境を壊すという点では、同じだ。原発は、膨大なエネルギーを産出するのかもしれないが、東日本大震災以来、多大なリスクを絶えずしょっている。廃棄物の処理の目途もたっていない。なのに、再起動だ。これを論外と言わずして、何と言おう。

原発推進を唱える人々の人間性というものがどういうものなのか、ボクには理解できない。理解したくもない。

コロナが下火になったとは言え、毎日、何人もの人たちが亡くなっている。自宅待機者はどうなっているのか? 最近では、その話題にも触れない。その日の亡くなった人の人数をぽつりと呟くだけだ。そして、いっぱくおいて、ニュース番組となる。キャスターたちの笑顔。不気味だ。

政治の世界では、賄賂が横行し、公文書は、改ざん。のり弁の報告書が、公然とまかり通る。

ありえないことが、毎日のようにテレビや新聞、週刊誌に出てくる。明日があるようには見えない。

明日なき世界。

変えられるのか? そんな世の中を。すべてを変えなければならない。できるのか、奴らに。

託すのは、紙切れ一枚。

さあ、始まった。


2021年9月25日土曜日

ルーロー飯と、ザンギと、オリパラと、

 

ずいぶん前から、ルーロー飯のことは知っていたが、なかなか食べに行く機会がない。香港料理なのか台湾料理なのかもわからないので、ネットで調べたが、はたして、どちらにでもあるようでないようで。台湾料理店に行けばありつけるのではと水道橋あたりにあたりをつけて、何度か行ってみたのだが、結局、王将のテイクアウトにしたり、家族の好物の、唐揚げにしたりで、ひと月ふた月があっという間に過ぎてしまう。

唐揚げ屋は近頃、至る所にできていて、近所にも何軒かあるのだが、元タピオカ屋だった店が唐揚げ屋にいつの間にかなっていたりして、同じ経営だったりすると唐揚げもたいしたことはないんじゃないかと思い、どうせ食べるなら、他とは違う少しは手の込んだ唐揚げが食べたいと思い、こちらも、簡単には、手を付けられなくなっていて、またの日にしようということになる。

食べ物にそんなにこだわりがあるわけではないのだが、どうせ食べるならうまいものをと、あれこれネットで検索するが、何軒か検索した店も、コロナ禍で、休んでる店もあるみたいだし、時間短縮で、思った時間に行くことができない。

そんな時に、息子が何となくみつけてきた店があったので、「今日はここにしよう」と、珍しく迷いを断ち切って、行ってみた。

九段下にある「五坪」という店で、マップ頼りに行ってみたら、以前中華料理店があった店で、以前、飯田橋に事務所があったときに、一度入ったことがある。飯田橋駅の近くにもある店で、もう何十年も前に入ったことのある店。「ああ、ここも潰れたのか」と、感慨ひとしおだったが、きめたことはきめたことだし、息子ももう唐揚げモードに入っていたので、仕方ない、ボクの感慨は、脇に置いておいて、新しくできた店に、唐揚げを買いに行ってもらった。

この店では、唐揚げのことを「ザンギ」と呼んでいて、ああ、北海道式の唐揚げかと好感をもてたのだが、それは、北海道で食べた唐揚げが、ザンギと名を変えて出ていて、肉に味が染みていて、おいしかった記憶があるためだ。

ボクは、「ザンギ」を探していたのだと思い出し、それなら、今日は、腹いっぱい食べてみようと、20個ばかりを息子に買いに行かせて、今日は腹一杯食べようとルーロー飯のことも忘れて、持ち帰った。

家に帰って早速食べたのだが、なるほど「ザンギ」は、唐揚げとは違っていて、味が染みていて、うまい。しかも一個一個が、やたらと大きく、これであの値段では、安いなとか言いながら、二個をたてつづけに食べたら、もういけない。腹がもたれてきたのだ。胃か?

最近、油物を食べると、すぐに腹がもたれて、一日中、こなれてないような、いやな気分になる。

みんなは、むしゃぶり食べているのだが、ボクは早々に離脱してみんなの食べるのを眺めるだけにした。

唐揚げは、せいぜい二個までが今のボクの限界と知り少し寂しくなった。

それでも、何日かした後、またルーロー飯のことが頭をもたげてきた。

飯田橋に前から行きたかった香港料理の店があるので、またもや家族で、そこへ行ってみたのだが、果たして、メニューにはない。しかたがないので、あきらめて、ほかの料理をいくつか注文して食べた。何を食べてもおいしいのだが、当てが外れてしまい、気持ちの整理がつかない。なんで、いまやどこでも食べられるはずのルーロー飯が食べられないのか?

一晩悩んだ。

でも、翌朝になると、ルーロー飯のことはすっかり忘れていて、別の料理や、ラジオ番組や、映画とかに頭が向かっいて、何日目かの夜に、ふと見たYouTubeで、ルーロー飯に再会した!

そうだ! これを棚上げにしていては何もなしえない!

で、豊洲の「アオキ」に向かい、とにかく食材を買い込んだ。なかなか店に行けないなら、自分で作るしかない、そう決めたのだ。

ルーロー飯に欠かせないのは、五香紛というスパイスらしい。(別になくてもいいのだが)それを加えてみると、なるほど、台湾だか香港だか中国だかの料理の香りがしてくる。

オイスターソースが家にあったで、入れてみると、まさにこれがルーロー飯か! という味になった。

小ぶりの丼に、ルーローをかけて、奥さんに買ってきてもらった青梗菜の茹でたのを添えて、おしんこがなかったので紅ショウガも添えた。

がぶりと一口食べて感動した。

これだよ、ボクの求めていたルーロー飯は! これなんだ!

と、ひとり唸った。

しかし小丼一杯がやっとだった。

唐揚げと同様か、それ以上に腹にもたれてきたのだ。

500グラムほどのばら肉のかたまりで作ったので、何食分かはある。はたしてこれをどうしたものか。

今もびっしりとラードの白い層の浮いたルーローは、冷蔵庫にあるが、息子が沖縄に帰った今は、息子に食わせるわけにもいかず、仕方ない、いつか食べることになるのだろうが、やはり、一度は店で食べてから、作るべきだったと思う。

果たして、これがルーロー飯というしろものなのかもわからないが、うまいことはうまい。

だから、これはルーロー飯でいいのだが、確実に、腹にもたれる。小丼がせいぜいなのだ。バラ肉500グラムは、多すぎる。

×  ×  ×

「なぜ君は総理大臣になれないのか」を観た、

17年間撮り続けたドキュメンタリー。当たり前が当たり前でなくなった時代に、小川淳也の生き方は、清々しい。腹にもたれない映画を久しぶりに観た。

オリパラの記録映画はどうなるのか?

沢木耕太郎は、東京五輪を果たして書くのか?

どちらかというと、後者のほうに、ボクは、興味がある。

長年、オリンピックと対峙してきた沢木さんが、コロナ禍のしかも緊急事態宣言中、毎日たくさんの死者が出ている中で強行した、オリパラ。国民の70パーセントが反対する中、開催した、オリパラ。それにたいして、どのような文章を書くのか、ボクは想像ができない。

2021年9月11日土曜日

武田砂鉄と大竹まことから派生するもの

 

きっかけはなんだったかよくわからないのだが、武田砂鉄という人の名前を知った。

そのひとのラジオを聞いていて、次々と、新しい人たちの名前や、仕事、主張を知るようになった。若い人が多いが、大竹まことさんのように、古からの芸人(なのか、役者なのか)もいる。

かれがやってる文化放送の番組は、僕の愛聴番組。毎日というわけではないが、番組が、昼から居酒屋状態で、大竹さんがマスターで、アシスタントの女性や、ゲストの人たちが、居酒屋の客のようで、わいわい言いたいことを言っている。武田さんのほかに、青木理さんや、金子勝さん、宮台真治さん、森永卓郎さんなんも日替わりのゲストで出ていて、このコーナーは、政治ネタが多く、大竹さんの意見もちらちらと出てくる。

とにかく雑談がメインの番組で、音楽も、かつて聴いた曲が出てきて、新宿三丁目の店にいるような気になる。僕は、止まり木の隅で、一杯やりながら、常連さんの会話に耳を澄ませてる。これが心地いい。

今時、居酒屋の片隅で酒を飲みながら、人の話に耳を澄ますことなんてないが、このラジオを聴いていると、そんな気分にさせられる。

なるほど、ラジオは、今や、居酒屋状態で、テレビのように固くるっしくなく、言いたいことを言って番組が成り立っているのかと、ほかの番組もいろいろと聴いてみたのだが、大竹さんの番組以外は、堅苦しいものか、バラエティーものかで、いかにこの番組が特殊かが、理解できる。

先日は、桐野夏生さんが出ていて、新作の小説の紹介がてら、ペンクラブの会長になったことなどを話していたが、桐野さんの話を聴くなんて、初めてのことで、なんだかワクワクしてしまった。

目がどうも見えにくくなって、心してかからないと本一冊が読めなくなっている。なので、もっぱらユーチューブやネットフリックスかAmazonになるのだが、そこにラジオが加わって、たまに見るテレビとで、情報収集は、一杯。これ以上はいらない。週刊文春と文芸春秋は、買ってはいるが、ほとんど見出しだけで、本文は読まない。カンパの積りでかっているに過ぎない。

 

武田砂鉄さんは、今は売れっ子のようで、あちこちのラジオ番組に出ている。本もたくさん書いていて、これからもっと発言力を持つ人。それでいて、昼のラジオ番組のパーソナリティーの代打にでても、うまくこなしている。偏屈さが売り物のようだが、なかなかどうして、粘り強い調査力としつこさが、この人の持ち味で、いったいどこにこれだけの情報収集力が隠れているのだろうと思うと空恐ろしくなる。

 

もうひとり、「職業政治家 小沢一郎」を書いた、佐藤章さんが、注目される。

前記の著作、小沢一郎のことを書かけた本だと思ったら、とんでもない。日本の政治についての、多角的で鋭利な論評になっていて、読みごたえは抜群だ。確かにね小沢一郎とのインタビューは載っているが、小沢ひとりにとどまらず、日本の政治家についての深い洞察があり、まだ、小沢の政治対する真摯な姿勢が、書かれている。

 

この本がきっかけなのかどうかはわからないが、ユーチューブの「一月万冊」という番組に今年から出演している。「一月万冊」は、読書家の清水有高という人がやっている番組で、最近は政治ネタが多いようだが、清水のプロデューサー的な能力が、固く、暗く、かなり粘着質な佐藤の話を観る者に、わかりやすく、また、娯楽性を加味したものにして、送り出している。清水は、この佐藤との番組の他に、「一月万冊」を毎日4本ほどを発信している。もの凄いエネルギーだ。しかも一本一本は、60分弱という長尺だ。

佐藤の他には、本間龍や、安富歩がいる。

 

テレビとは、別の世界で活躍する人たちが、コロナ禍のなかで、活躍している。

彼らの歯に衣着せぬ喋りには、ときに、精神の潤滑剤になる。怒りや憤りが支配かる現在、まずは、大竹まことのゴールデンラジオや、武田砂鉄のアシタノカレッジ金曜は、日々の清涼剤になることは確かだ。

 

2020年3月4日水曜日

追憶の街 エンパイアフォールズ

HBO製作のこのドラマ。以前にも、一度観たことがあるが、体調が優れず、ほとんどを眠って過ごした。とにかく、体力がないとドラマや映画を観ることは出来ない。体力をつけるには、とにかく食べること。それに尽きるようだ。
食欲が出てきたときには、いままで敬遠していた映画を観ることが出来る様になったし、読書にも、精を出すことが出来る様になった。

「追憶の街 エンパイアフォールズ」は、そんな中で、たまたま目に留まった作品。
「愛しのロクサーヌ」(87)や「ミスターベースボール」(05)を監督したフレッドスケピシの2005年の作品で、二部からなるミニシリーズ。
アメリカメイン州のエンパイアフォールズと言う架空の街での出来事を様々な人間模様を描きながら、物語っていく。
このドラマには、原作がある。リチャードルッソと言う人が書いていて、脚本も担当している。
だからという訳ではないが、非常に文学的な作りになっていて、娯楽性から言うと、極めて低い。
しかし、この作品には、見事なキャスティングがなされていて、どのシーンを観ていても、生き生きとした役者の演技が楽しめる。
特に、素晴らしいのが主役のエドハリスだ。
微妙な仕草がどれも、主人公の人間性を深めていて、それに共鳴するように、他の役者たちが次々と素晴らしい演技を披露して行く。
調べてみると、エグゼクティブプロデュサーの中に、このドラマに出演している、ポールニューマンの名がある。またこのドラマには、ポールの奥さんのジョアン・ウッドワードーが出演しいる。
ポールは、このドラマの後、3年後、2008年に、俳優引退を宣言する。そして、2018年、83歳で、死去する。

ポールは、この作品以降、声の出演で、「カーズ」などに出演したが、顔を出すことはない。
いわば、この作品が、ポールにとって、最後の作品と言っても過言ではないのではないか? そして、ポール最後の作品として観た時、その味わいは、それを知らない時とは比べ物にならないぐらい、深いものになっていく。
ポールは、このドラマの出演で、俳優業を終わりにしたかったのではないか?
だから、エグゼクティブプロデューサーとなり、主導的立場で、このドラマに関わったのだと思う。

俳優にとって、老いとは、深刻なものだ。
年々台詞の覚えが悪くなっていく。
年相応の役が舞い込んでくるわけでもないので、無理をしなければ、やりこなせない仕事もあるだろう。
しかし、無理は出来ない。
また、現場での、スタッフの対応も、真摯に、敬意をもって、しかも大胆に行わなければならないが、そんなチームばかりではない。
現に、ボクは、とある俳優から、過去に随分と失礼な対応をされたと聞いたことがある。その日の撮影が終わって、宿への送りの車を待っていたら、待てどくらせど、車が来ない。しかたなく、その俳優は、付き人とともに、自力で、宿まで戻ったのだと言う。
そんなことは許されるもんじゃないと憤ったが、その俳優は一度や二度ではなく、頻繁に起こることだと言っていた。
ああ、これも、老いだなと、ボクは思う。ひがみっぽい言い方になるが、他人から乱雑な扱いを受けると、老いがその原因だと思ってしまうところがある。オレも歳をとったのだと。

このドラマの中のポールは、とにかく、生き生きしている。息子役のエド・ハリスとの丁々発止は、おかしいし、何とも言えない暖かさに溢れている。何よりも、少年のような、その稚気。

小さな町の小さな事件は、何ら、ドラマのけん引力にはなっていないが、フィリップ・シーモア・ホフマンを含めた芸達者たちが、のびのびと芝居をしている。
こんな仕事、滅多にないことだと言わんばかりに!
そうなのだ。みんな仕事に飢えている。
しかし、舞い込んでくる仕事は、お仕着せのものばかりで、血が騒いだり、胸が躍ったりするものではない。
ポール・ニューマンであっても、それは同じなのだ。だから、自らエグゼクティブフロデューサーとなり、このドラマを成立させたのだ。これが最後の作品だ。と、言わんばかりに。

また、このドラマは、ロバート・ベントン監督の「ノーバディーズフール」(94)の続編とも言える。「ノーバディー~」では、まだ若いポールが、ブルース・ウィルスらと丁々発止やり合うが、ポールは、このドラマで、全く同じキャラクターのその後を演じているとも言える。

ポール・ニューマンが愛してやまぬ、小さな町の小さな出来事。そこで、飄々と生きる、アナーキーなスモーカー。
映画の王道を生きたポール・ニューマンは、それでもささやかな人間たちの営みに、こよなく愛着を示していたのだろう。



以下のリンクで、「追憶の街/エンパイアフォール」は、見られます。ぜひ!

https://www.amazon.co.jp/dp/B07BYFZT6B





2019年11月4日月曜日

映画とテレビとYOU TUBEと

長い間、映画から離れていて、YOU TUBEばかり観ていた。
それには、理由があり、ネット配信業者の作る{オリジナル作品と銘打った)映画に飽き飽きしてきた(なかには、優れたものもあるのだが)のと、「ブレイキングバッド」の全シリーズを観て以来、本当に山ほど海外ドラマを観て来たが、前者に勝るものはないと確信したからなのだが、ここにきて、また、映画に戻りつつある。

YOU TUBEでは、何人か、チャンネル登録して、見続けている人もいるが、毎日配信が、登録者を増やす条件らしく、とにかくひっきりなしに、新作が登場する。
が、さすがに、ネタが尽きたのか、同じパターンのものが多くて、配信者のキャラクターに好感を抱いたものの、飽きがきてしまった。

人気のYOU TUBERは、信じられないぐらいの金を稼いでいるらしく、六本木の方で、豪遊しているらしいが、それがYOU TUBEに出すための、仮の姿であるらしいことも、配信者自らが、言い訳めいて、言っている。
どんな私生活を送っていようと、配信者の本当の姿がどんなものであろうと、映像を糧とする人間に、私生活は関係なく、その配信者の心根は、そのまま映像に出て来ると思っている。
だから要らぬ推測はなしに、配信された映像だけを見ていればいい。
しかし、それにも、多少、飽きが来てしまった。
巧みな話術を武器にする人たちのものは、まだ見ていられるが、そうでない人たちのものを見ていても、ボクには何も感じない。

だからというわけではないが、パソコンから離れて、映画館で、映画を観ようと思い、もう随分前だが、『MI』のシリーズ最新作を観た。
久しぶりに大画面で、観たせいもあるのか、以前のシリーズより、感銘は薄かった。
躰を張って、演技するトムクルーズを称賛する人たちがいる。映画自体も、褒める人はいても、貶す人は、見当たらない。
何だか、自分の映画の観方がずれてきているのか?
批判せずに、映画をそのまま受け入れることが出来なくなっているのか?
などと、結構思い悩んでしまった。
数か月して、配信されたこの作品を見直したのだが、やはり、最初に観た時とあまり変わらない印象で、アクションシーンの出来は、悪くはないが、以前のような畳みかけるような演出がなされていないように感じた。
残念だった。
勿論ボクは、このシリーズが大好きなので、これからも旧作を含めて、何度も見直すだろうし、新作が出れば、見て行くつもりだ。

しかし、この映画を観て、また、映画館から足が遠のいてしまったことは事実だ。
とはいえ、棚に並んでいるDVDを見直す気持ちにはならない。
配信に戻り、『ブレイキングバッド』を見直したりした。

HBO製作のテレビシリーズが良さそうだと思ったのは、随分前だが、いつの間にか、AMAZON PRIME に、HBOシリーズがあることを知った。
シーズンの長いものは、以前に観ていて、いつも楽しませてもらっていたが、ミニシリーズに関しては、それが地味な作品がゆえに、あまり観ることもなかった。
では、そのミニシリーズを見てみようと思い、何本かを立て続けに観た。

どの作品も、それなりの水準に達していて、いかにHBOが懐の深いテレビ局なのかを知らされた。
これは、驚きでもあった。
もちろん大ヒットした作品があるからこういった作品も生まれて来るのだろううが、それにしてもだ。
日本では、考えられない奥の深さだ。

中でも、『TRUE DETECTIVE』の第一シーズンには、魅了された。
キャリージョージフクナガと言う監督の名も、このドラマで初めて知った。
彼の作品を追い、『ビーストオブノーネイション』を観た。
アフリカの架空の国を舞台にした、少年の話だが、久しぶりに、心に響く映画だった。

このドラマがきっかけで、また映画を観る様になった。
一本観ては、映画への希望を募らせ、また一本観ては、それがまた失望に変わりを繰り返した。
とにかく、毛嫌いしていたものも含めて、何でも観た。
今でも、見続けている。
今月から、『ターミネーター』のシリーズ最新作が公開されると知って、十数年ぶりに『T2』も観た。
まさに、血が騒いだ。
『T2』を再見したことから、ソダーバーグの『ザ・サランドマット』を、グリーングラスの『キャプテン・フィリップ』をといった具合に、映画を見続けている。

優れた映画は、媒体を選ばない。
そして、探し、掘り起こしていくものだと再確認した。
テレビドラマも同様だ。
今放送しているドラマに飽き足らないのならば、過去のドラマを観ればいい。新作ばかり追いかけても、失望を繰り返すだけだ。(勿論、そうでないドラマもあるが)

以前は、フイルムセンターやアンダーグラウンドな映画館に行かなければ、掘り起こす作業は出来なかった。
しかし、今は、違う。
配信がある。
まだまだアーカイブスとまでは言えないが、そのうち、配信が全て映像と名のつくもののアーカイブスとなっていくことを希望する。

映像が氾濫し、次々と消費されては消えて行く中で、年代やジャンルを超えて、映画、テレビ、そしてあえて加えるが、YOU TUBEと、数々の名作は、いつまでも観る側に提供していて欲しい。
配信が、ボクらに与えた影響は大きい。
配信が、消費されるだけのものであって欲しくない。
映画館やテレビが消費されつくして、消えて行こうとしている中で、ネット配信だけは、そうあってほしくない。

つらつらこんなことを書いていて、ふと窓の外を見たら、秋の日の風に揺れる木々の葉が、まるで、ジャンルノワールの映画のようだと思った。
そうだ! ジャンルノワールを観よう! そう思ったが、今では観るすべがない。



2019年11月1日金曜日

返信待ち

同じクリニックに通っていて、数か月前に転院した人がいる。
職場が定年となり、別の職場に移り、近くのクリニックに行くことにしたからだ。
今のクリニックは、通うのに一苦労する。
「いいクリニックを見つけられて、良かったですよ」
と、メッセージが届いていた。
詳細はわからないが、それは良かったなと思った。

彼が転院して、二か月ほど経ったころか、「会いませんか」と、連絡が来た。
ボクは二つ返事で、会う約束をして、日程を、そして、場所を決めた。
そこは水道橋のもつ焼き屋で、たまにボクが行くところで、当日は、彼の方が先に来ていて、ボクが来るのを待ってから、飲み物を注文した。
きちんとした人なのだ。
先に呑んでたりはしない。

二時間ほど、新しいクリニックのことや、映画のことなどを話して、お互い程よく酔っ払ったところで、別れた。
彼は、水道橋駅の西口改札を抜けて、消えて行った。
家は、国立の方なのに、一旦東京駅まで行き、坐っていくのだと言っていた。
足の指を何本か切断していて、立っているのが苦痛だからだ。

およそ、一時間半はかかる家までの道のりを頭に浮かべて、もし次に会うことがあれば、新宿か、東京駅にしようと考えていた。

それから半年後、今度は、ボクからご機嫌伺いの連絡をした。
しばらくたって、返信が来た。
「久しぶりにやりましょうかね」
と、人懐こいメッセージだった。

ボクは東京駅の中にある店を予約した。
帰りが少しでも負担にならないよう考えた。
この時は、ボクが先に到着した。
初めての店なので、様子をみたかったこともあるし、彼のことだから、待ち合わせの時間より、少し早めに来てるんじゃないかと思ったからだ。
今度は、待たせるわけにはいかない。

店について、5分ほどしたとき、メッセージが来た。
今、東京駅にいるとのことだ。
ボクは、既に店にいると返信した。
彼は、八重洲ブックセンターの袋を手に現れた。
時間つぶしに、本屋に寄っていたことが想像された。
やはり、約束の時間より早く、店の近くに来ていたのだ。

この日も二時間ほど呑んで、食べて、別れた。
別れ際に、手土産を渡れた。
高級タバコだった。
「また、近々、会いましょう。今度は、クリニックのスタッフにも声を掛けてください」
そう言って、彼は去って行った。

昨日、クリニックに行ったとき、あるスタッフの人に、彼の話をして、今度、三人で呑もうと話した。
早速、スタッフの人は、空いてる日を何日か出してくれた。
ボクは、透析を受けながら、片手でスマホを操作して、彼に、日程についてのメッセージを送った。
しかし、ベッドにいる間、返信はなかった。

着替えて、クリニックを出ようとした時、受付の人に呼び止められた。
「Nさんが、亡くなったそうです」
の受付の女性は、涙目で言った。
ボクは、耳を疑った。
なぜ、転院したクリニックに、そんな連絡が入るのか?
「警察からの電話でした」
受付の人のその言葉に、なんとなく、納得した。
自宅で亡くなっているのを警察が発見したのだ。
それで、目についた電話番号に電話した。
クリニックがどういう対応をしたのかはわからないが、奥さんを亡くし、子供たちは、みんな独立し、ローンの払い終わった家に、一人暮らししていることは、知っていた。
出社しないNさんを心配して、会社の誰かが、警察に通報したのだろう。

家に着いても、まだ信じられない気持ちだった。
人の死が、突然やって来ることは、知っている。
何度も経験しているはずの、訃報。
それがまたやってきたのだ。
ボクにとって、Nさんは、唯一の同じ病気を持つ仲間だった。
また、この先、かけがえのない友人になるはずの人だった。
その人が、一瞬で、消えてしまった。

ひょっとして冗談じゃないのかと思った。
あの人なら、やりかねないぞ。
そんな気がした。それで、スマホを手にし、メッセージを見たが、返信はなかった。
一夜、明けた今日もまだ返信はない。









2019年2月18日月曜日

2019/02/18

何とも、素っ気ない手紙が来て、全てが白紙に。
まあ、それは、予測してたことでもあるが、こうまで、あっさり、白紙になるとは、思ってもいなかった。

でも、現実化しなくて済むことなら、あれは現実化しないほうがいいんじゃないかと思っていた。
人の書いた脚本だ。思いは、その人が引き受けるしかない。
ボクが引き受けたからといって不満が残るばかりだ。

あえて、返事は書かなかった。
相手に、未練が生まれても、もう遅い。

今は、丸写しした原稿も棚の上に置いてあるが、その内、屑籠に放り込まれるだろう。
実現しなかった他人の夢。
夢かな?
ほんとうに、夢なんだろうか?
疑わしいぞ。


文芸春秋で、小説を二本、読んだ。「ニムロッド」と「1R1分34秒」。
どちらも、面白かった。
現代的だ。
今が、文章に現れている。
後者は、随分と読むのに苦労したけど、幕切れもいいし、なにより、熱がある。

熱は、嫌いじゃない。
昭和の人間だからな。
熱は、嫌いじゃない。

いまのボクに、熱はある?
いや、
いや、
少しはあると、
それぐらいしか、言えない。

これから、ちょっとしたドライブに、行く。
高橋弘希を持って。
重くなるだろう、気分を背負って。






10月19日に思うこと、

  総裁選が大騒ぎの果てに、終わったかと思ったら、今度は、衆議院解散で、選挙だ。31日投開票だから、あまり日もない。 議員たちが、国会から引き上げる様子を見ていると、次の選挙に向けて密かに闘志を燃やしているのか、あきらめているのか、うつむき加減で、深刻な表情を浮かべている。 ...